Season 3「志願兵」 #035
第35話 「名もなき新兵の卒業」
最終総合訓練から帰還した翌朝、レイブンは起床ラッパが鳴る前に目を覚ました。
二週間に及ぶ訓練が終わったからといって、身体に染みついた習慣まで一晩で消えてくれるわけではなかった。まだ薄暗い営舎の天井を見つめながら、レイブンは無意識に次の行動を考え、いつものように装備を確認しようとしてから、今日は背嚢を背負って演習区域へ向かう必要がないことを思い出した。
隣の寝台ではガイルが眠っている。
その向こうではディートリヒも目を閉じていた。
二週間の疲労が残っているのは皆同じらしく、普段なら起床時間が近づくにつれて誰かしら寝返りを打つ音が聞こえてくるのに、今日は営舎全体が妙に静かだった。
レイブンは身体を起こした。
筋肉が痛む。
「……痛っ」
昨日までは気にならなかった場所まで痛かった。
演習中は次に進むことばかり考えていたから、身体が訴えていたものを意識していなかったのだろう。
「十八歳の身体じゃないな、これ……」
「十八歳なら十分若いだろ……」
毛布の中から声が返ってきた。
ガイルだった。
「起きてたのか」
「今起きた。お前の独り言で」
「前にも同じこと言ってなかった?」
「お前が朝から独り言を言うからだろ」
ガイルは毛布から顔を出すと、しばらく天井を見た。
「なあ」
「何?」
「本当に終わったんだよな」
「最終訓練はな」
「今日、何するんだ?」
「知らない」
「また訓練だったら俺は泣くぞ」
「俺も少し嫌だ」
「《NoX》でも嫌なんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「疲れない奴」
「昨日ミレイアに何回休めって怒られたと思ってる」
「じゃあ人間だったんだな」
「黒猫だよ」
そんな会話をしているうちに起床ラッパが鳴った。
レイブンは寝台から立ち上がった。
いつもと同じように寝具を整え、軍服へ着替え、身だしなみを確認する。身体が痛もうと、そこだけはもう考えなくても動けるようになっていた。
そして最後にSG-44を見た。
銃床には筆記体で Crow Raven と刻まれている。
昨日、あれほど撃ったにもかかわらず、帰還後すぐに整備してある。
父から託された時には、まだ自分が何のためにこの銃を持つのかを完全には理解していなかった。
今なら。
少しだけ分かる。
誰かを倒すためではなく。
誰かを帰すため。
そして、自分も帰るため。
昨日ようやく言葉にできたものが、今朝になっても胸の中に残っていた。
「《NoX》」
後ろからミレイアの声がした。
レイブンが振り返る。
「何?」
「集合命令」
「何時?」
「八時。第一講堂」
「何するって?」
「そこまでは言われてない」
ミレイアは少しだけ笑った。
「でも、たぶん最後だよ」
その言葉で。
レイブンはSG-44から手を離した。
「……そっか」
訓練兵として迎える朝も。
これが最後になるのかもしれない。
◇
午前八時。
第一講堂には、最終総合訓練を終えた新兵たちが正装で整列していた。
第二小隊だけではない。
第一小隊もいる。
アーヴィン・レクト《Hound》。
エマ・リーヴェルト《Moth》。
テオ・グランツ《Jackal》。
バルド・ケイン《Ox》。
二週間、演習区域で互いを追い続けた相手だった。
ところが訓練が終わってしまえば、不思議なほど敵という感じがしない。
列の向こうにいるテオと目が合った。
テオはレイブンを見ると、自分の目を二本の指で示し、それからレイブンを指した。
見ているぞ。
そんな意味だろう。
レイブンも同じ仕草を返す。
その横で《Hound》が呆れた顔をしていた。
やがて講堂の扉が開いた。
空気が変わった。
入ってきたのは、これまで日常的な訓練を担当していた教官ではなかった。
訓練基地そのものを統括する司令官だった。
制服には長年の軍歴を示す略綬が並び、その後ろには各課程を担当した教官たちが続いている。
ヴァルターもいた。
ただし今は父ではない。
帝国軍の教官として。
他の教官と同じ列に立っている。
訓練司令官が壇上へ上がった。
講堂が静まり返る。
「諸君」
低い声が響いた。
「昨日をもって、最終総合訓練の全行程が終了した」
誰も動かない。
「山岳地帯、砂漠地帯、旧市街地地区における十四日間の行動記録、個人評価、セル単位の連携、情報収集能力、交戦判断、負傷者発生後の対応、帰還状況について、昨夜から教官団による最終評価を実施した」
レイブンは前を見たまま聞いていた。
昨日。
自分たちは全員で帰った。
だが。
帰っただけで合格とは限らない。
それは最初から言われていた。
ガイルも。
ミレイアも。
第一小隊も。
同じように結果を待っている。
司令官は手元の書類を閉じた。
「結果を伝える」
一瞬。
講堂の空気が張り詰めた。
「本日ここに整列している訓練兵全員について、所定の課程を修了したものと認定する」
誰も声を出さなかった。
軍人として。
まだ勝手に喜ぶ場面ではない。
それでも。
レイブンの隣でガイルの犬耳が勢いよく立ち上がった。
ミレイアは小さく息を吐いた。
第一小隊ではテオが笑いそうになり、《Hound》に肘で止められている。
レイブン自身も。
胸の奥に張っていたものが。
ようやくほどけていくのを感じていた。
「よって」
司令官は新兵たちを見渡した。
「諸君全員の卒業を認める」
その瞬間だった。
訓練兵として。
最後の命令が下された。
「胸を張れ。諸君はもう訓練兵ではない」
レイブンの耳が僅かに動いた。
「これより諸君は、帝国軍人として、それぞれの任地へ向かうことになる。ここで学んだものの中には、任地へ行けば役に立たないものもあるだろう。逆に、ここでは教えられなかったものを現地で初めて知ることもある」
司令官はそこで一度言葉を切った。
「だから、自分が完成したなどと思うな。訓練を終えたということは、ようやく学ぶ資格を得たというだけだ」
レイブンは昨日の父の言葉を思い出した。
まだ甘い。
あれは。
こういう意味でもあったのかもしれない。
「そして最後に一つだけ言っておく」
司令官の声が少しだけ穏やかになった。
「帰ってこい」
レイブンの目が。
ほんの僅かに大きくなった。
「任務を果たせ。仲間を守れ。命令に従え。ただし、帰還できる状況で帰還を捨てることを勇敢だと思うな」
レイブンは。
壇上の後ろにいるヴァルターを見た。
父も。
同じことを言っていた。
「諸君の家族は、英雄の報せより、本人が玄関を開けて帰ってくることを望んでいる」
講堂は静かだった。
「以上をもって、本年度訓練課程を終了する」
司令官が姿勢を正した。
「卒業、おめでとう」
号令が飛ぶ。
全員が敬礼した。
レイブンも。
最後の訓練兵としての敬礼を。
そして。
最初の軍人としての敬礼を。
同じ動作の中で行った。
◇
基地の正門を出た瞬間。
レイブンは足を止めた。
「兄様!」
聞き覚えのある声だった。
ただ。
記憶にあるものより。
少し大きくなっている。
声の方向を見る。
白い影が走ってくる。
「兄様!」
「ルナ?」
九歳になったルナ・クロウだった。
レイブンと同じ猫系亜人でありながら、毛色は母と同じ白。幼かった頃の丸みは少しずつ抜け始め、耳も尾も以前より長くなっている。
それでも。
兄を見つけた時の顔だけは。
幼い頃から変わっていなかった。
「兄様ぁ!」
「お、おい、待て――」
勢いよく飛び込んできた。
レイブンは反射的に受け止めたが、二週間の総合訓練を終えたばかりの身体が悲鳴を上げた。
「痛っ!」
「え!?」
「いや、大丈夫!」
「怪我!?」
「筋肉痛!」
「きんにくつう?」
「あとで説明する!」
それでもルナは離れなかった。
レイブンの腰へ腕を回し。
ぎゅっと抱きついている。
「兄様、帰ってきた!」
「ああ」
レイブンは。
妹の白い頭へ手を置いた。
「帰ってきたよ」
その言葉を口にした時。
昨日までとは違う意味を感じた。
訓練から帰ってきた。
基地から出てきた。
でも。
それだけではない。
家族のところへ。
帰ってきた。
「お帰りなさい、レイブン」
顔を上げる。
セレナがいた。
母だった。
「母さん」
少し離れた場所に。
もう一人いる。
ヴァルター。
つい先ほどまで。
講堂では教官として立っていた男。
しかし。
今は帽子を脱ぎ。
軍人としてではなく。
一家の父親として。
妻の隣に立っていた。
「……父さん」
「何だ」
「さっきまで基地の中にいたよな?」
「いたな」
「いつ追い越したの?」
「教官用の別門から出た」
「ずるくない?」
「何がだ」
「俺たちは行進して出てきたのに」
「教官の特権だ」
「そういう使い方する?」
セレナが笑った。
「あなたたち、基地を出た瞬間にいつもの親子へ戻るのね」
「こいつが先に父親扱いしたんだ」
「父さんだろ」
「昨日までは教官だった」
「今は?」
「父親だ」
「じゃあ父さんで合ってるじゃん」
ヴァルターは何も言えなくなった。
ルナが兄へ抱きついたまま笑っている。
レイブンも笑った。
その時。
セレナが。
一冊の分厚い冊子を抱えていることに気づいた。
「母さん、それ何?」
「覚えてない?」
「何を?」
ヴァルターが横から口を挟んだ。
「訓練兵になって少しした頃、お前に言ったはずだ」
レイブンは。
記憶を探った。
ある日の訓練後。
同期たちの前で。
教官ではなく父親として。
ヴァルターから聞かれた。
入隊してからのルナの成長記録を、母と父で毎日つけている。
立派な新兵になったら渡そうと思っているが、要るか。
「……あ」
思い出した。
「まさか」
セレナが微笑む。
「そのまさか」
差し出された。
レイブンは。
両手で受け取った。
想像していたより。
ずっと厚い。
「こんなに?」
「毎日って言っただろ」
ヴァルターが答えた。
「本当に毎日書いたの?」
「父さんが訓練場にいる日は、帰ってきてから必ず書いてたわ」
セレナが笑う。
「私もね」
レイブンは表紙を開いた。
最初の日付。
まだルナが幼かった頃。
母の文字がある。
その下には。
父の文字。
少し進める。
ルナが初めて兄の名前を自分から口にした日。
訓練場から帰ったヴァルターへ、何度も「兄様は?」と尋ねた日。
レイブンが訓練で失敗した話を聞いて笑った日。
反対に。
射撃成績が良かったと聞いて。
自分のことのように喜んだ日。
「父さん」
「何だ」
「俺のダメなところ、結構書いてない?」
「事実だからな」
「ルナにまで話してたよな?」
「教育だ」
「何の?」
「兄も完璧ではないという教育」
「余計な教育するなよ」
「でも兄様、かっこいいよ!」
ルナがすぐに割って入った。
「ほら」
レイブンは父を見る。
「俺の勝ち」
「何の勝負だ」
セレナが笑いながら、もう一冊を取り出した。
「それから、こっちは私から」
「まだあるの?」
「あなた自身の記録」
レイブンは受け取った。
こちらには。
入隊した日。
初めて営舎へ入った日。
休暇で帰ってきた時の様子。
ヴァルターが家で話した。
訓練中のレイブンの失敗。
成長。
同期の話。
そして。
昨日。
最終総合訓練から。
全員で帰ってきたこと。
最後の頁には。
セレナの文字で。
短く書かれていた。
『お帰りなさい。』
レイブンは。
しばらく。
そこから目を動かせなかった。
「……ずるいな」
セレナが首を傾げる。
「何が?」
「最後にこれ書くの」
「嫌だった?」
「逆」
レイブンは。
少しだけ鼻をすすった。
「嬉しい」
ルナが兄の顔を覗き込む。
「兄様、泣いてる?」
「泣いてない」
「目、赤いよ?」
「砂」
「ここ基地の前だよ?」
「昨日の砂漠の砂が残ってる」
「四日前でしょ?」
「九歳になって変なところ賢くなったな、お前」
「学校行ってるもん!」
「そうだった」
レイブンは笑った。
そして。
日記を。
大切に抱えた。
◇
その日の午後。
卒業生たちは。
もう一度。
営舎前へ集められた。
ただし。
今度は訓練ではない。
訓練基地側から。
卒業生へ。
最後の許可が出た。
訓練で使用していた武器へ空砲を装填し。
卒業を祝う。
三発だけの発砲。
実弾ではない。
訓練弾でもない。
弾頭を持たず。
発射音と作動だけを発生させる空砲だった。
レイブンはSG-44を持っていた。
「三発か」
隣でガイルが言う。
「三発だな」
「もっと撃ちたい」
「昨日散々撃っただろ」
「昨日は訓練だ。今日は祝い」
「だから三発なんだろ」
ミレイアが隣から口を挟む。
「ガイルに自由に撃たせたら弾薬庫が空になるから」
「俺を何だと思ってるんだよ!」
「撃ちたがり」
「否定しづらい!」
笑いが起きた。
第一小隊もいる。
《Hound》。
《Moth》。
《Jackal》。
《Ox》。
もう敵役ではない。
同じ日に卒業した。
同期だった。
教官が安全確認を行う。
営舎の壁面側に設けられた発砲許可区画へ銃口を向け、全員が指定位置へ並んだ。
もちろん。
壁そのものを壊すためではない。
あくまで安全方向へ。
銃口を揃える。
レイブンはSG-44を構えた。
銃床が肩へ当たる。
頬を添える。
何度も繰り返した動作。
でも。
今日は。
標的がない。
倒す相手もいない。
教官の号令が響いた。
「第一射、用意!」
全員が構える。
「撃て!」
レイブンは引き金を引いた。
轟音が営舎前へ響き渡った。
空砲。
それでも。
SG-44は大きく鳴いた。
続いて。
「第二射!」
再び構える。
「撃て!」
二発目。
音が重なる。
ガイルも。
ミレイアも。
第一小隊も。
それぞれの銃を鳴らす。
そして。
最後。
「第三射!」
レイブンは。
SG-44の銃床へ刻まれた名前を。
一瞬だけ見た。
Crow Raven。
《NoX》ではない。
自分の名前。
「撃て!」
三発目。
発砲音が。
基地全体へ響いた。
その余韻が消えていく。
レイブンは。
ゆっくり。
SG-44を下ろした。
終わった。
今度こそ。
本当に。
訓練兵としての日々が。
終わった。
「《NoX》」
ミレイアが呼んだ。
レイブンが振り返る。
「何?」
「それ、もう終わりなんだよね」
彼女が。
少し寂しそうに笑う。
レイブンも。
その意味を理解した。
<No=Name>。
新兵時代だけのコールサイン。
名もなき者。
まだ何者でもない。
だからこそ。
与えられた名前。
「そうだな」
「寂しい?」
「少し」
「私も」
レイブンはSG-44を見る。
そこには。
最初から。
本当の名前が刻まれている。
Crow Raven。
「でも」
レイブンは言った。
「ちょうどいいかもしれない」
「何が?」
「《NoX》って、何者でもないって意味だっただろ」
「うん」
「昨日、ようやく何になりたいか分かったから」
ミレイアは。
少し考えたあと。
笑った。
「じゃあ卒業だね」
「ああ」
「さよなら、《NoX》」
レイブンは。
一度だけ。
その名を胸の中で繰り返した。
入隊したばかりの頃。
無線の使い方すら。
よく分からなかった。
同期とどう動けばいいのかも。
SG-44を。
自分が正式に持つことになるとも。
知らなかった。
それから。
山を歩き。
砂漠を越え。
旧市街地を抜け。
仲間を助け。
仲間に助けられ。
全員で帰った。
その間。
ずっと呼ばれていた名前。
《NoX》。
「ありがとう」
レイブンは。
誰に聞かせるでもなく。
小さく言った。
そして。
SG-44を肩へ掛けた。
基地の正門の向こうでは。
セレナと。
ヴァルターと。
九歳になったルナが。
待っている。
腕の中には。
父と母が書き続けた日記。
肩には。
父から託されたSG-44。
胸の中には。
昨日ようやく見つけた。
自分が軍人になる理由。
レイブン・クロウ。
十八歳。
もう。
訓練兵ではない。
けれど。
まだ。
何者になれるのかは。
分からない。
ただ。
目指すものだけは。
決まっていた。
助けを求める声が届いたなら。
行ける場所である限り。
そこへ駆けつける。
誰かを帰すために。
そして。
自分自身も。
待っている家族のもとへ帰るために。
レイブンは。
家族が待つ正門へ向かって。
歩き出した。




