Season 3「志願兵」 #033
第33話 「二人で帰る」
集合時刻の午前五時が近づくにつれ、帝国軍訓練基地の正門前には、まだ夜の冷たさが残る空気の中を新兵たちが次々と集まってきた。東の空はようやく淡い色を帯び始めていたものの、太陽が地平線から姿を現すにはまだ時間があり、吐く息は薄く白んでいた。
レイブンは背嚢の肩紐を引き締めると、身体の前へ回していたSG-44の位置を確認した。昨日ヴァルターから正式に託されたばかりの一挺であり、銃床の側面には筆記体で Crow Raven と刻まれている。適性試験で何度もSG-44を扱ってきたとはいえ、自分の名前が入った銃を携行して基地の正門に立っていると、これまでの訓練とは違う重みを感じずにはいられなかった。
「何回確認するの?」
隣にいたミレイアが笑いながら尋ねた。
「別にいいだろ。昨日もらったばっかりなんだから」
「朝から三回は見てるよ」
「数えてたのか?」
「目の前でやってれば嫌でも気づくって」
そう言いながらも、ミレイア自身もSG-44へ興味があるらしく、視線が一度だけ銃床の刻印へ向いた。
「でも、本当に専用になったんだね」
「父さんはそう言ってた」
「嬉しい?」
「そりゃ嬉しいけど……」
レイブンはSG-44を見下ろした。
「嬉しいだけじゃないかな。持った瞬間から、前より重く感じる」
「昨日より重くなったの?」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
ミレイアは小さく笑った。
少し離れた場所では、ガイルが背嚢を地面へ置いて靴紐を結び直していた。昨日の夜にも確認していたはずなのに、本人は「昨日の靴紐と今日の靴紐は気持ちが違う」と意味の分からない理屈を口にしている。その様子を見たフィーナが呆れ、ディートリヒが無言で時計を確認していた。
いつもと変わらない同期たちだった。
しかし、誰もが今日から始まるものを意識していた。
午前四時五十九分になると、正門の向こうからヴァルターと数名の教官が歩いてきた。新兵たちの会話は指示されるまでもなく止まり、全員がそれぞれの背嚢を背負い直して整列する。
ヴァルターは人数を確認した。
「遅刻者なし。少しは成長したらしいな」
「一秒でも遅れたら置いていくって言われたら来ますよ……」
ガイルが小さく呟く。
「ベッカー新兵」
「はい!」
「聞こえているぞ」
「申し訳ありません!」
朝から小さな笑いが起こったものの、それもヴァルターが地図を広げると自然に収まった。
「昨日告げた最終総合訓練について、これより詳細を説明する。訓練期間は十四日間だ」
レイブンの隣でガイルが小さく息を呑んだ。
二週間。
決して短くはない。
「演習区域は大きく三つに分かれている。前半は山岳地帯、その後は砂漠地帯へ入り、最終段階では旧市街地地区へ移動する。どの区域でも教官は原則として介入しない。食事、休息、進路、警戒、撤退の判断まで、自分たちで決めろ」
ヴァルターは地図上の三つの区域を指でなぞりながら説明を続けた。
「今回の主目的は単なる踏破ではない。第二小隊には、演習区域内を別経路で移動する第一小隊の情報を収集してもらう」
その言葉を聞いた瞬間、何人かの新兵が互いに顔を見合わせた。
第一小隊なら知っている。
同じ基地で訓練を受け、食堂ですれ違い、射撃場を共用することもある。訓練内容こそ別であるものの、彼らもまたレイブンたちと同じ時期に入隊し、ここまで生き残ってきた新兵たちだった。
「第一小隊にも同様の任務が与えられている。つまり向こうから見れば、お前たち第二小隊が敵役だ」
ヴァルターはそこで新兵たちを見渡した。
「確認するべき情報は人数、装備、移動経路、役割分担、休止地点、可能であれば個人のコールサインだ。得た情報は記録し、十四日目の最終地点まで持ち帰れ」
レイブンは手を上げた。
「《NoX》」
「交戦は許可されていますか?」
「許可する。ただし、必要がなければ避けろ」
「情報収集が優先?」
「そうだ。相手を全員倒しても、情報を持ち帰れなければ任務失敗だ」
その答えを聞いた時、レイブンの頭に昨日の父の言葉が蘇った。
命そのものを目的にするのではなく、帰還するために必要な敵だけを倒す。
昨日までは父親から渡された言葉だった。それが今日からは、自分自身の判断として試されることになる。
「それから今回は、原則として二人一組で行動する。ツーマンセルだ」
補助教官が名簿を開き、組み合わせを読み上げていった。
やがてレイブンの名前が呼ばれた。
「レイブン・クロウ、コールサイン《NoX》。ミレイア・フェルン、コールサイン《Lynx》」
「はい」
二人の声がほぼ同時に重なった。
レイブンは隣を見た。
「よろしく、《Lynx》」
「こちらこそ、《NoX》」
ミレイアは少し笑った。
その瞬間、レイブンの中で一つだけ意識が変わった。
昨日までは自分が無事に課程を終えることを考えていた。
今日からは違う。
二人一組ならば、自分だけが最終地点へ到着しても意味がない。
ミレイアと一緒に帰る。
まだそれを強い決意として口にすることはなかったが、その考えは自然と胸の内に残った。
午前五時三分、ヴァルターが腕時計を確認した。
「最終総合訓練を開始する。十四日後、ここに戻ってこい」
それ以上の激励はなかった。
それでも、レイブンには十分だった。
SG-44の負い紐を整え、ミレイアとともに歩き出した。
新兵《NoX》として過ごす最後の二週間が始まった。
◇
同じ頃、広大な演習区域の反対側からは第一小隊が行動を開始していた。
彼らにも第二小隊と同じように、新兵課程の間だけ使用するコールサインが与えられていた。
第一小隊の先頭を歩くアーヴィン・レクトは、犬系亜人の青年だった。コールサインは《Hound》。訓練初期には慎重すぎる性格から臆病者とからかわれたこともあったが、危険を感じれば立ち止まり、必要なら遠回りを選び、仲間を不用意な危険へ近づけない判断を重ねるうちに、今では小隊の中でも特に信頼される存在になっていた。
「ここから足跡に気をつけろ。昨日の雨で地面が柔らかい」
アーヴィンが後ろを振り返らずに告げると、続いて歩いていた狐系亜人のエマ・リーヴェルトが地面へ視線を落とした。
彼女のコールサインは《Moth》。普段は口数が少なく、人の輪の中心へ出ることもほとんどない。しかし索敵へ入れば話は別で、折れた枝や僅かに乱れた土、草の倒れ方といった小さな変化を見つけることに長けていた。
「第二小隊には《NoX》がいるんだよね」
エマが静かに尋ねた。
「ああ。ただし、あいつだけ警戒すればいいわけじゃない」
アーヴィンは立ち止まり、振り返った。
「向こうも俺たちと同じ訓練を通ってきた。ここまで残っている以上、全員が相応に厄介だと思っておいた方がいい」
「おお、《Hound》が敵を褒めた」
後ろから軽い調子の声が飛んできた。
テオ・グランツ。コールサイン《Jackal》。
人間種の青年で、教官から叱られている回数だけなら第一小隊でも上位に入るほど軽口が多い。しかし本当に空気を読むべき時には口を閉ざし、仲間の緊張が高まりすぎれば意図的に冗談を挟むため、長期訓練になるほど彼の性格に救われる者も少なくなかった。
「別に褒めていない。事実を言っただけだ」
「そういうのを世間では褒めるって言うんだよ」
「歩け、《Jackal》」
「はいはい」
さらに後方では、大柄な熊系亜人のバルド・ケインが二人の会話を聞きながら穏やかに笑っていた。
コールサインは《Ox》。
その体格から重装備を担当することが多いが、力を誇示する性格ではない。誰かの歩調が落ちれば黙って速度を合わせ、仲間の荷物が重すぎると判断すれば、本人が頼む前に一部を引き受けるような男だった。
「二週間もあるんだ。最初から喧嘩するな」
「してないって」
「《Hound》の顔を見てから言え」
「いつもの顔じゃん」
「だから腹が立つんだ」
そんな会話を交わしながら、第一小隊も演習区域へ入っていった。
彼らは悪役ではない。
第二小隊を憎んでいるわけでもない。
ただ、この十四日間だけは互いに敵役となり、相手を見つけ、観察し、自分たちは発見されないように行動しなければならない。
そして十四日後には、おそらく同じ食堂で顔を合わせる。
それが訓練だった。
◇
最初の四日間、レイブンとミレイアを待っていたのは山岳地帯だった。
演習区域へ入った当初こそ細い山道が残っていたものの、高度が上がるにつれて道らしい道は失われ、木々の根が地表へ張り出した斜面や、雨水で削られた岩場が行く手を塞ぐようになった。背嚢の重さは登るほど肩へ食い込み、SG-44も平地で携行している時とはまるで違う重さに感じられた。
レイブンが先行し、ミレイアは数メートル後方を維持した。
距離を空けるのは、単に歩きやすくするためではない。先頭が足場を崩しても後続まで巻き込まれず、それでいて異常が起きればすぐに助けられる距離を、訓練の中で二人なりに探した結果だった。
三日目の午後、レイブンは前方の地面に違和感を覚えて手を上げた。
それだけでミレイアは足を止めた。
「どうしたの?」
「少し待って」
レイブンはしゃがみ込み、湿った土を観察した。
軍靴の跡がある。
一人ではない。
さらに周囲を見ると、斜面の草が何かに擦られたように倒れている場所も見つかった。
ミレイアも隣へしゃがんだ。
「第一小隊かな」
「可能性は高いと思う」
「人数は?」
「少なくとも三人……いや、四人かもしれない」
「私も四人だと思う」
足跡は比較的新しい。
追えば、追いつける可能性があった。
「追う?」
ミレイアの問いに、レイブンはすぐ答えなかった。
地面を見て、周囲の木々を見て、風向きを確かめる。
以前なら、第一小隊を見つけられる可能性があるというだけで追ったかもしれない。
今は、その先を考えた。
「追わない」
「どうして?」
「跡が分かりやすすぎる」
レイブンは指を伸ばさず、視線だけで進行方向を示した。
「第一小隊もここまで訓練を受けてる。四人で歩いて、こんなにはっきり足跡を残すかな」
ミレイアの表情が変わった。
「わざと?」
「可能性はある。追わせるためかもしれない」
「じゃあ、進行方向だけ記録する?」
「それでいいと思う。今必要なのは捕まえることじゃない」
「情報を持ち帰ること」
「うん」
二人は第一小隊と思われる足跡の位置と進行方向だけを記録し、そこから離れた。
その日の夕方になって、レイブンの判断が正しかったことが分かった。
第一小隊では《Hound》が意図的に一部の足跡を残し、その先に《Moth》を観測役として配置していたのである。
もしレイブンとミレイアが素直に追跡していれば、情報を得る側ではなく、先に観察される側になっていた。
もっとも、レイブンたちはその事実をまだ知らない。
ただ、自分たちの判断で一つの危険を避けたという経験だけが残った。
◇
五日目から景色が変わった。
山岳地帯を抜けた先に広がっていたのは、乾いた砂と岩が支配する砂漠演習区域だった。昼間は強い日差しが容赦なく体力を奪い、乾いた風が吹くたびに細かな砂が軍服や装具の隙間へ入り込む。それにもかかわらず日没後は気温が急激に下がり、昼間の暑さだけを想定した装備では眠ることすら難しくなる。
山では足場を見て歩けばよかった。
砂漠では、それだけでは足りなかった。
水の残量。
移動速度。
休息時間。
体温。
そして、日差し。
二人で互いの状態を確認しなければ、本人が気づかないうちに判断力が落ちていく。
七日目の昼過ぎ、ミレイアが水筒を確認しながら尋ねた。
「水、あとどれくらい?」
「予定より少し多く残ってる」
「本当?」
「本当だよ」
「自分の分を私に回してない?」
レイブンは答えるまでに一瞬だけ間を空けてしまった。
ミレイアの目が細くなる。
「今、考えたでしょ」
「何を?」
「必要になったら自分の水を私に渡そうって」
「……必要なら考えるだろ」
「駄目」
「まだ何もしてない」
「先に言っておくの。レイブンが倒れたら、私がその分の水を使ってレイブンを運ばなきゃいけなくなるんだから」
言われてみればその通りだった。
誰かを守ろうとして自分が倒れれば、結局は相手の負担になる。
「分かった」
「本当に?」
「最近それよく聞かれるな」
「レイブンが一人で何とかしようとするから」
「気をつけます」
「よろしい」
ミレイアは満足そうに水筒へ口をつけた。
その日の夕方、二人は初めて第一小隊そのものを遠距離から確認した。
レイブンが双眼鏡を覗くと、陽炎の向こうを四つの人影が移動している。
「見えた」
ミレイアが伏せたまま近づく。
「第一小隊?」
「たぶん。先頭が犬系で、その後ろに狐系がいる」
「《Hound》と《Moth》かな」
「可能性は高い」
さらに観察すると、大柄な熊系亜人も確認できた。
装備。
人数。
隊列。
進行方向。
休止する頻度。
二人は可能な限り記録した。
「追跡する?」
ミレイアが尋ねた。
レイブンは太陽の位置を確認した。
日没が近い。
砂漠の夜間移動には昼間とは別の危険がある。
「やめよう」
「もっと情報を取れそうだけど」
「取れると思う。でも、ここで欲張って夜間に追跡する必要はない」
レイブンは双眼鏡を下ろした。
「今日はこれで十分。俺たちの目的は第一小隊を捕まえることじゃないから」
ミレイアは少しだけ笑った。
「本当に慎重になったね」
「父さんに聞かれたら喜ぶかな」
「たぶん『ようやく普通になったか』って言う」
「言いそうだから嫌だ」
二人は笑いながら、その場から静かに離れた。
◇
九日目の午後、砂漠の向こうに灰色の建物が見え始めた。
旧市街地地区だった。
かつて市街戦訓練のために造られた人工都市であり、集合住宅、商店街、行政施設、細い路地、地下通路まで備えている。長く使われてきたことで壁には無数の訓練痕が残り、一部の窓は割れ、錆びた看板が風に揺れていた。
当然、住民はいない。
それでも、人が生活することを前提に造られた町から人間だけが消えている光景は、レイブンに山や砂漠とは違う不気味さを感じさせた。
「ここ、嫌いかも」
ミレイアが旧市街地を眺めながら言った。
「まだ入ってないぞ」
「だから嫌なの。どの窓にも誰かいそうに見える」
「それは俺も思った」
レイブンはSG-44の負い紐を調整した。
ここから先は、山岳や砂漠よりも視線が通らない。
曲がり角。
窓。
屋上。
階段。
地下通路。
どこに第一小隊が潜んでいても不思議ではない。
「《ゴースト》を使う」
レイブンが言った。
「ずっと?」
「旧市街地を移動している間は、可能な限り維持する」
「身体は大丈夫?」
「疲労は出る。でも、山と砂漠でなるべく温存した。ここで使わないなら何のために訓練したのか分からない」
ミレイアは少し考えたあと、頷いた。
「分かった。でも問題があるよね」
「お前が消えない」
「そう」
〔透明〕はレイブン本人と、身につけている装備から発生する音や臭気、視覚的な姿を遮断できる。しかし、それはあくまでレイブン自身の個人スキルであり、ミレイアまで透明にすることはできない。
「俺が前へ出る」
「どのくらい?」
「すぐ戻れる距離。角を二つ以上離れない」
「無線は?」
「緊急時だけ。第一小隊に傍受される可能性がある」
「位置確認はどうする?」
「一定距離ごとに戻ってくる。その時だけ《ゴースト》を解除する」
「面倒だね」
「安全なら面倒なくらいでいい」
その答えを聞いたミレイアが少し笑った。
「今の、ヴァルター教官みたい」
「やめてくれ」
「親子だね」
「本当にやめて」
レイブンは苦笑しながら呼吸を整えた。
〔透明〕を発動すると、軍服の輪郭が徐々に周囲へ溶け込み、身体だけでなくSG-44も視界から消えていった。軍靴が路面へ触れても足音は発生せず、銃器油や汗、軍服に染みついた砂埃の臭気さえ周囲から消えていく。
完全に見えなくなる直前、レイブンはミレイアを見た。
「何かあったら無線を使え」
「レイブンもね」
「了解」
「それから、《NoX》」
「何?」
「情報より帰還を優先すること」
父と似た言葉だった。
レイブンは思わず少し笑った。
「了解、《Lynx》」
そう答えると、姿を消したまま旧市街地へ入っていった。
◇
旧市街地では、《ゴースト》の強さがこれまで以上にはっきり現れた。
開けた草原では、姿を消しても踏んだ草が動く。
砂漠なら足跡が残る。
しかし舗装された道路や硬い建物の床では、そうした痕跡が少ない。
レイブンは建物の壁沿いを進み、交差点へ近づくたびに速度を落とした。
姿が見えないからといって、無敵になったわけではない。
誰かとぶつかれば存在は分かる。
埃の積もった場所を踏めば跡が残る。
水たまりへ入れば波紋が生まれる。
扉を動かせば、誰もいないのに扉だけが開いて見える。
だからこそ、能力へ頼り切らない。
それは父から何度も教えられたことだった。
十日目の午前。
レイブンは一つの交差点へ差しかかったところで、人の話し声を聞いた。
建物の陰から確認すると、第一小隊の二人がいた。
《Jackal》ことテオ・グランツと、《Ox》ことバルド・ケイン。
二人は周囲を警戒しながら歩いている。
「第二小隊、全然見ないな」
テオが言った。
「向こうからも同じことを言われているかもしれん」
バルドが答える。
「《NoX》がいるんだろ?」
「ああ」
「姿消えるって噂、本当なのか?」
「索敵部隊との演習で視認できなくなったという話は聞いた」
「それ反則じゃない?」
「個人スキルに文句を言ってどうする」
「俺も何か欲しいな。寝てても警戒できる能力とか」
「それは能力ではなく願望だ」
レイブンは危うく笑いそうになった。
しかし、すぐに意識を切り替えた。
第一小隊は《NoX》の能力をある程度把握している。
重要な情報だった。
さらに装備と移動方向を確認し、レイブンは静かに後退した。
その時だった。
後方から、かすかな金属音が聞こえた。
ミレイアを待機させている方向だった。
ほんの小さな音だった。
それでもレイブンの猫耳は捉えた。
身体が先に動いた。
《ゴースト》を解除せず、そのまま来た道を戻る。
足音は出ない。
姿も見えない。
しかし走れば周囲へ影響を残す可能性があるため、完全な全力疾走にはしなかった。
路地を一つ抜け、建物の角を曲がったところでミレイアを見つけた。
彼女は壁際に身体を寄せ、落としてしまった金具を拾っている。
そして、その先。
別の通りから二人の第一小隊員が近づいていた。
《Hound》。
アーヴィン・レクト。
そして《Moth》。
エマ・リーヴェルト。
まだ双方とも相手を完全には捕捉していない。
しかし、このまま進めば接触する。
レイブンの頭の中で、任務の優先順位が組み替わった。
第一小隊の情報は必要だ。
《Hound》と《Moth》を近距離で観察できる機会でもある。
だが、それより先に考えたことがあった。
ミレイアをここから無事に離脱させる。
演習であることは分かっている。
本物の戦場ではない。
それでも、この二週間は実戦と同じ判断を身につけるための訓練だ。
ならば自分が本当の戦場で何を優先するのか、今ここで決めなければならない。
レイブンはミレイアのところまで音もなく近づいた。
何も見えない場所から突然肩へ手を置かれたため、ミレイアの身体が大きく跳ねた。
声を上げる直前、耳元でレイブンが囁いた。
「俺だ」
ミレイアは驚いた顔のまま、すぐに口を閉じた。
「前方に二人。《Hound》と《Moth》」
ミレイアの表情が変わる。
「距離は?」
「近い。まだ向こうは気づいてない」
「どうする?」
「後退する」
ミレイアが頷いた。
レイブンは先に彼女を下がらせ、自分は第一小隊との間へ残ろうとした。
ところが数歩進んだミレイアが振り返った。
当然、レイブンの姿は見えない。
それでも。
そこにいると分かっている。
「《NoX》」
ごく小さな声だった。
「一緒に来て」
レイブンは一瞬だけ動きを止めた。
「俺が残れば時間を稼げる」
「必要ない。まだ見つかってないんだから」
「でも――」
「レイブン」
コールサインではなく名前で呼ばれた。
「私を守るために、自分だけ残るのは違う」
レイブンは答えられなかった。
「ツーマンセルでしょ」
ミレイアは続ける。
「二人で情報を取って、二人で帰るために組まされたんじゃないの?」
その言葉が。
胸の中へ静かに入った。
レイブンはこれまで、守るという言葉を一方向のものとして考えていた。
母を守る。
ルナを守る。
仲間を守る。
そして今は、ミレイアを守る。
自分が前に出ればいい。
自分が危険を引き受ければいい。
どこかでそう考えていた。
しかし、それでは二人一組ではない。
ただ、自分が誰かを庇っているだけだ。
「……分かった」
何もない空間から声が返る。
「本当に?」
「今度は本当に分かった」
「じゃあ行こう」
「ああ」
レイブンはミレイアの隣へ戻った。
二人は交互に後方を確認しながら、その場を離脱した。
第一小隊との距離が十分に開いたところで、レイブンは《ゴースト》を解除した。
姿が戻る。
SG-44も現れる。
ミレイアはその顔を見た途端、少しだけ眉を寄せた。
「さっき、絶対に一人で残るつもりだったでしょ」
「……はい」
「私を守るために?」
「そう」
「気持ちは嬉しいけど、それでレイブンが捕まったら私が困る」
「ごもっともです」
「それに」
ミレイアはレイブンの胸を指先で軽く押した。
「私だってレイブンを守るんだから」
レイブンは瞬きをした。
「お前が?」
「何、その顔」
「いや……」
「私じゃ頼りない?」
「違う」
レイブンは少し考えてから首を振った。
「そうじゃなくて、考えてなかった」
「何を?」
「俺も守られる側だってこと」
ミレイアは呆れたような顔をした。
「遅いよ」
「悪かった」
「これから覚えて」
「ああ」
レイブンは少しだけ笑った。
「じゃあ次からは、お互いに守る」
「そうして」
「それなら」
レイブンは旧市街地の奥へ視線を向けた。
「二人で帰れる」
ミレイアも同じ方向を見た。
「最初からそのつもりだよ」
◇
十日目の夜、二人は旧市街地の外れにある集合住宅の一室を休息場所として選んだ。
窓から光が漏れないように遮蔽物を作り、出入口には簡単な警戒措置を施す。二人同時に眠ることはせず、一定時間ごとに交代して休むことにした。
レイブンは壁へ背中を預けると、ようやく《ゴースト》を完全に解除した。
長時間の維持による疲労は、本人が思っていた以上だった。
能力を使っている間は集中しているため気づきにくい。しかし解除した途端、身体の内側から重さが押し寄せてくる。
「寝て」
ミレイアが言った。
「まだ大丈夫」
「今日、何時間使ったと思ってるの?」
「途中で解除してた」
「何分?」
「……三分くらい」
「それを休憩とは言わない」
「じゃあ五分」
「増やしても駄目」
ミレイアはレイブンの前へ座った。
「私が先に見張る。レイブンは寝る」
「でも――」
「ツーマンセル」
その一言で。
レイブンは反論をやめた。
「……了解」
「よろしい」
SG-44を手の届く位置へ置き、壁にもたれたまま目を閉じる。
「ミレイア」
「何?」
「何かあったら起こして」
「もちろん」
「一人でどうにかしようとするなよ」
数秒の沈黙の後、ミレイアが笑った。
「それ、今日のレイブンにそのまま返す」
「……確かに」
「寝て」
「はい」
疲労のため、眠りはすぐに訪れた。
ミレイアは警戒を続けながら、時折眠っているレイブンへ視線を向けた。
そのすぐ隣にはSG-44が置かれている。
銃床には筆記体で Crow Raven。
昨日までなら、その銃を持つレイブンは自分が誰かを守ることばかり考えていたのかもしれない。
しかし、この二週間で求められているのは、一人の英雄になることではない。
仲間と情報を集め、必要なら戦い、必要なら逃げ、最後に戻ってくることだ。
山岳地帯では、追跡しない判断を覚えた。
砂漠では、情報を欲張らず休む判断を覚えた。
そして旧市街地では、誰かを守るということが、自分一人で危険を背負うことではないと知り始めた。
最終総合訓練は、まだ四日残っている。
第一小隊の情報も完全には揃っていない。
《Hound》《Moth》《Jackal》《Ox》の四人がどのような経路で最終地点を目指しているのかも分からず、彼らの側がレイブンたちについてどこまで把握しているのかも不明だった。
明日になれば、再び探り合いが始まる。
今度は今日のように、互いが気づかないまますれ違えるとは限らない。
それでもレイブンは眠っていた。
見張りを仲間へ任せて。
それは入隊したばかりの彼には、できなかったことかもしれない。
誰かを信頼すること。
誰かに背中を預けること。
そして、自分も守られることを受け入れること。
二週間の最終総合訓練で問われているものは、射撃技術や体力だけではなかった。
〔透明〕で姿を消せることでも、SG-44を誰より上手く扱えることでもない。
仲間と一緒に目的を果たし、その仲間と一緒に帰ってくる。
その当たり前に聞こえることこそ、戦場では最も難しいのかもしれなかった。
そして十日目の夜が静かに過ぎていく中、眠るレイブンの傍らでは、銃床に彼の名を刻まれたSG-44が、次の朝を待つように置かれていた。
新兵《NoX》として過ごせる時間は、残りわずか。
けれど、その名が消える前に覚えなければならないことは、まだ残されていた。
今度こそ、自分一人ではなく。
二人で帰るために。




