Season 3「志願兵」 #032
第32話 「最後の訓練」
SG-44を受け取った翌朝、レイブンは起床ラッパが鳴るより少し早く目を覚ました。
宿舎はまだ薄暗く、窓の向こうにも夜の名残が残っている。隣の寝台ではガイルが毛布を半分ほど蹴り落としたまま眠り、その向こうではディートリヒが昨日とほとんど同じ姿勢で静かな寝息を立てていた。
いつもなら、あと数分だけでも眠っていようと考えるところだった。
ところが今日は、目を閉じ直す気になれなかった。
寝台から身体を起こしたレイブンは、まず枕元の時計を確認し、それから視線を横へ向けた。
昨日、父から渡されたSG-44が所定の場所に保管されている。
もちろん、寝る前にも確認した。
それでも目が覚めると、そこにあるかどうかを確かめたくなった。
銃床には筆記体で名前が刻まれている。
Crow Raven。
薄暗い宿舎では文字までははっきり読めなかったが、どこに刻まれているのかはもう覚えていた。
「……本当に俺のなんだな」
小さく呟いた。
「朝から銃に話しかけてる……」
背後から声がした。
レイブンは振り返った。
毛布の中から、ガイルの片目だけがこちらを見ている。
「起きてたのか」
「今起きた。お前の独り言で」
「そんな大きな声出してないだろ」
「犬系を舐めるな。耳いいんだぞ」
「都合のいい時だけ犬系を強調するよな」
「それより」
ガイルは毛布から顔を出すと、SG-44の方へ目を向けた。
「やっぱり気になる?」
「まあ」
「昨日から何回見てるんだよ」
「知らない」
「十回以上は見てる」
「数えてたの?」
「俺も気になってるからな」
「触らせないぞ」
「まだ何も言ってないだろ!」
ガイルが抗議したところで、起床ラッパが鳴った。
宿舎の空気が一変する。
寝台から身体を起こす音が重なり、眠気の残った声が飛び交い、軍服へ袖を通す者、靴を履く者、寝具を整える者が一斉に動き始めた。
レイブンもすぐに立ち上がった。
いつも通りの朝だった。
けれど、装備を整えながら、どこか違うと感じていた。
昨日までと同じ制服を着ている。
同じ宿舎にいる。
今日も訓練がある。
それなのに、昨日父からSG-44を受け取ったことで、自分の足が訓練兵の生活からほんの少しだけ外へ踏み出したような気がしていた。
父の言葉も残っている。
命そのものを目的にするな。
帰還するのに邪魔な敵を倒せ。
そして、帰ってこい。
軍服の襟を直したところで、レイブンは鏡の中にいる自分を見た。
「……まだ新兵だ」
自分へ言い聞かせる。
SG-44を受け取ったからといって、一人前になったわけではない。
むしろ。
これからなのだろう。
そう思った。
◇
朝食後、第二小隊はいつもの訓練場へ集合した。
しかし、そこで最初の違和感に気づいたのはミレイアだった。
「ねえ」
隣にいたレイブンへ小声で話しかける。
「教官、少なくない?」
「……本当だ」
普段なら訓練開始前から複数の教官が配置されている。
ところが今日は、訓練場の中央に立っているヴァルターと数名の補助教官しか見当たらない。
それだけではなかった。
いつもなら教官側が準備するはずの装備が、何も並べられていない。
地図もない。
弾薬箱もない。
模擬標的もない。
訓練用障害物さえ設置されていなかった。
ガイルが眉を寄せた。
「……休み?」
「軍がそんな親切だと思う?」
フィーナが答える。
「思わない」
「じゃあ違うね」
「即答しなくてもいいだろ」
新兵たちの間に小さな笑いが起こった。
その笑いも、ヴァルターが前へ出たことで自然に消えていった。
「整列」
全員が並ぶ。
「気をつけ!」
軍靴が地面を踏む音が重なった。
ヴァルターは新兵たちを端から順番に見た。
レイブンは父の表情を読み取ろうとしたが、いつもの教官の顔だった。
「今日は、通常訓練を行わない」
わずかなざわめきが生まれた。
誰も口には出さなかったが、朝から感じていた違和感が確信へ変わりつつある。
「これまでお前たちは、帝国軍兵士として最低限必要になるものを一通り学んできた。射撃、行軍、地図判読、通信、負傷者搬送、警戒、索敵、夜間行動、野営、分隊行動。そして、想定外の事態へ対処するための判断だ」
ヴァルターはそこで少し間を置いた。
「だが、訓練場で一つずつできたからといって、それだけで兵士になれるわけではない」
誰も動かなかった。
「戦場では、射撃だけをする時間などない。地図だけを読む時間もなければ、負傷者だけを運べばいい状況もない。疲れていても歩き、歩きながら周囲を警戒し、必要なら撃ち、仲間が倒れれば助け、それでも目的地へ進まなければならない」
レイブンは黙って聞いていた。
嫌な予感ではない。
むしろ。
ようやく来た。
そんな感覚があった。
「そこで」
ヴァルターの声が少し強くなった。
「明朝より、最終総合訓練を実施する」
空気が変わった。
ガイルが息を呑んだ音が、隣にいたレイブンにまで聞こえた。
最終。
その二文字だけで十分だった。
訓練兵としての日々が終わりに近づいている。
全員が薄々感じていたものを、初めて教官の口から突きつけられた。
ヴァルターは続けた。
「開始から終了まで、教官は原則として指示を出さない。目的と制限事項だけを伝える。移動経路、休止地点、役割分担、食事、睡眠、警戒方法、交戦判断はすべてお前たち自身で決めろ」
ガイルの犬耳が少し下がった。
ミレイアは反対に真剣な表情になっている。
「訓練期間中には複数の状況を発生させる。何が起こるかは教えない。想定敵との接触もある。負傷者も出る。通信が使えなくなることもあるかもしれない」
そこでヴァルターは、ほんの少しだけ口元を動かした。
「もちろん全部、訓練上の話だ。今から本当に誰かの脚を折るつもりはない。安心しろ」
何人かが小さく笑った。
ガイルは胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「ただし」
ヴァルターの一言で、ガイルの手が止まる。
「訓練だからと甘くするつもりもない」
「ですよね……」
今度はもう少し大きな笑いが起きた。
しかし、その空気も長くは続かなかった。
「この訓練を通過した者は、訓練兵課程を修了する」
誰も笑わなくなった。
レイブンは無意識に拳を握った。
ついに。
本当に。
ここまで来た。
「逆に、基準へ達しないと判断した者は追加訓練だ。仲間が修了したからといって自動的に通過できると思うな。個人の能力と集団行動、その両方を見る」
ヴァルターの視線が新兵たちを通過する。
そして、一瞬だけレイブンと合った。
父と息子。
ではない。
教官と新兵。
その目だった。
「質問は」
ガイルが手を上げた。
「ベッカー新兵」
「期間は何日ですか」
「教えない」
「え?」
「終了条件も現地で判断する」
「つまり、何日続くか分からない?」
「そうだ」
ガイルの耳が完全に伏せた。
「聞かなきゃよかった……」
今度はミレイアが手を上げた。
「携行装備は自分たちで決めていいんですか」
「制限重量内なら自由だ」
「個人装備も?」
「ああ」
そこでミレイアの視線が、自然とレイブンへ向いた。
正確には。
レイブンが携行することになるSG-44へ。
ヴァルターもそれに気づいた。
「《NoX》」
「はい」
「お前はSG-44を携行しろ」
「……実銃を?」
「昨日渡したのは飾るためじゃない」
「ですよね」
「訓練用弾薬を支給する。装填、排莢、再装填、故障対処まで、これまで教わった通りに扱え」
「了解」
「それから」
ヴァルターは少し間を置いた。
「〔透明〕の使用を許可する」
レイブンは目を見開いた。
「いいんですか?」
「ただし、自分で必要だと判断した時だけだ」
「指示は?」
「出さない」
父の目が少しだけ鋭くなった。
「自分の力だ。いつ使うべきかまで俺に決めてもらうな」
レイブンは数秒黙り、それから頷いた。
「了解」
その返事を聞くと、ヴァルターは全員へ向き直った。
「本日は準備日とする。必要な装備を自分たちで選べ。教官へ相談しても構わんが、答えを求めるな。聞かれたことに対して必要な情報だけは渡す」
そして。
「明朝五時。正門前集合」
新兵たちの背筋が自然に伸びる。
「遅刻した者は置いていく」
「えっ」
ガイルが思わず声を漏らした。
「ベッカー」
「はい!」
「四時五十九分五十九秒なら待つ」
「一秒後は?」
「置いていく」
「絶対起きます!」
「そうしろ」
ヴァルターは記録板を閉じた。
「以上。準備開始」
◇
その日の装備庫は、これまでにないほど騒がしかった。
もっとも、騒がしいといっても誰かがふざけているわけではない。
全員が本気で迷っていた。
「これ持っていくべきかな」
「重くない?」
「でも雨降ったら必要だろ」
「食料どれくらい持つ?」
「期間分からないんだぞ」
「だからって全部持ったら歩けないよ」
レイブンはそんな会話を聞きながら、自分の装備を床へ並べていた。
最初に入隊した頃なら、持てるだけ持っていこうと考えただろう。
今は違った。
必要かもしれない物と、本当に必要な物は違う。
予備の衣類を一つ減らす。
代わりに靴下を残す。
水。
携行食。
応急処置用品。
地図。
方位磁針。
簡易雨具。
整備用品。
そしてSG-44用の訓練弾薬。
弾薬にも重量がある。
多ければ安心とは限らない。
背負って歩くのは自分だ。
「レイブン」
ミレイアが隣へしゃがんだ。
「何発持つ?」
「迷ってる」
「珍しい」
「SGって弾が重いんだよ」
レイブンは支給された訓練用の12番径散弾実包を一本手に取った。
新兵課程へ入る前から父が開発へ関わっていた帝国新式弾薬であり、SG-44はこの弾薬を前提に設計されている。
「ドラムは?」
「一つは装着する」
「二つ目は?」
「持っていかない」
「二十五発入りなのに?」
「二十五発入るから重いんだよ」
ミレイアは納得したように頷いた。
「じゃあ予備は?」
「ばらで持つ」
「一発ずつ装填するため?」
「うん」
SG-44はドラムマガジンによる一括装填だけでなく、状況に応じて一発ずつ弾薬を補充することもできる。
何度も訓練した。
最初は指が引っかかった。
焦って弾を落とした。
装填口を見なければ弾を入れられなかった。
今では銃口を安全な方向へ向けたまま、視線を周囲へ残して補充できる。
それでも。
実際の行動中にできるかは別問題だ。
「これが最後か……」
ミレイアが突然呟いた。
レイブンは顔を上げた。
「何が?」
「こうやって皆で訓練の準備するの」
「まだ修了したわけじゃない」
「分かってる。でも」
彼女は装備庫を見渡した。
ガイルが荷物を詰めすぎてディートリヒに減らされている。
フィーナは救急用品を一つずつ確認している。
ノアは地図を広げ、何かを書き込んでいる。
何度も見た光景だった。
最初の頃は、誰も自分のことで精一杯だった。
今では互いの装備を見る。
忘れ物がないか確認する。
重すぎれば減らすよう言う。
誰か一人だけではなく。
皆で帰るために。
「終わったら、別々になるのかな」
ミレイアが言った。
レイブンの手が止まった。
「配属?」
「うん」
「……なるかもしれない」
「《NoX》も終わるのかな」
その言葉は。
思っていた以上に。
胸へ残った。
新兵時代だけのコールサイン。
<No=Name>。
名もなき新兵。
まだ何者でもない者。
最初は変な名前だと思った。
それが今では。
呼ばれることに慣れてしまった。
「終わるだろ」
レイブンは答えた。
「新兵じゃなくなるなら」
「寂しい?」
「少し」
ミレイアが笑った。
「素直」
「お前は?」
「少し」
「同じじゃん」
「だから聞いたの」
二人とも少し笑った。
その時、ガイルの声が飛んできた。
「なあ! 誰か俺の荷物見てくれ!」
レイブンが振り返る。
「何キロあるんだよ、それ」
「分からん!」
「絶対入れすぎだろ!」
「全部必要に見えるんだよ!」
「見せろ!」
レイブンとミレイアは立ち上がった。
結局、その日の午後は。
ほとんど全員で。
全員の装備を確認することになった。
◇
夜。
消灯前。
レイブンはSG-44の整備をしていた。
部品を確認し、作動部を点検し、異物がないかを見る。
父から渡されたばかりの銃だ。
当然、状態は良い。
それでも確認する。
自分の命を預ける道具だから。
いや。
昨日、父に言われた。
命ではない。
帰還するための道具。
レイブンは銃床へ目を向けた。
Crow Raven。
筆記体の文字を指先で軽くなぞる。
「明日からか」
隣で荷物を確認していたガイルが言った。
「そうだな」
「緊張してる?」
「してる」
「お前でも?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「透明になる奴」
「それ種族みたいに言うな」
ガイルが笑った。
少しして。
笑いが消える。
「なあ、レイブン」
「何?」
「もし俺が明日の訓練でやらかしたら」
「助ける」
「まだ何も言ってないぞ」
「どうせそんな話だろ」
「……まあ」
「俺がやらかしたら、お前も助けてくれ」
「当然だろ」
「即答か」
「一人だけ修了しても面白くない」
ガイルは少し笑った。
「全員で?」
「全員で」
その会話を聞いていたミレイアが、離れた寝台から口を挟んだ。
「勝手に私たちまで巻き込まないでよ」
「嫌?」
「誰も嫌って言ってない」
フィーナも笑った。
「じゃあ全員で帰ってこよう」
ディートリヒが静かに頷く。
「それが最も合理的だ」
「お前は最後までそれかよ」
ガイルの言葉で。
宿舎に笑い声が広がった。
いつもと同じ。
くだらない会話。
それでも。
誰もが分かっていた。
明日から始まる訓練を終えれば。
この宿舎で。
この顔ぶれで。
同じように笑える日々は。
少しずつ変わっていく。
レイブンは整備を終えたSG-44を所定の位置へ戻した。
消灯時間が来る。
照明が落ちた。
暗闇の中で、誰かが寝返りを打つ音が聞こえる。
眠れない者もいるのだろう。
レイブンも。
しばらく目を閉じられなかった。
父の言葉が浮かぶ。
帰還するのに邪魔な敵を倒せ。
そして。
今日。
同期たちと交わした言葉。
全員で帰る。
訓練だ。
実戦ではない。
それでも。
その考え方だけは。
きっと実戦でも変えてはいけない。
レイブンはゆっくり目を閉じた。
明朝五時。
正門前。
最終総合訓練。
そこで何が待っているのかは知らない。
どこへ向かうのかも。
何日続くのかも。
教えられていない。
ただ。
一つだけ。
自分の中では。
もう決めていた。
《NoX》として最後の訓練になるのなら。
自分一人だけ先へ進むつもりはない。
誰かが遅れれば手を貸す。
誰かが倒れれば背負う。
迷えば考える。
怖ければ、それでも周囲を見る。
そして。
最後には。
全員で帰る。
翌朝。
まだ帝国の空に夜の色が残る頃。
第二小隊の新兵たちは、自分たちの手で選んだ装備を背負い、正門前へ集まることになる。
その中には。
銃床に筆記体で Crow Raven と刻まれたSG-44を携える、一人の黒猫の新兵もいる。
新兵時代だけの名。
<No=Name>。
その名で呼ばれる時間が。
終わりへ向かっていることを。
レイブン自身も。
もう薄々ではなく。
はっきりと理解し始めていた。




