Season 3「志願兵」 #031
第31話 「主人を待つ銃」
朝の起床ラッパは、いつもと同じ時刻に鳴った。
宿舎の窓から差し込む光も、慌ただしく軍服へ着替える同期たちの姿も、眠そうな顔で靴紐を結ぶガイルも昨日までと変わらない。
それでも、レイブンは最近、訓練場の空気が少しずつ変わっていることに気づいていた。
何か一つ、大きな出来事があったわけではない。
教官たちから訓練終了の日を告げられたわけでもなかった。
ただ、教えられる内容が変わってきていた。
以前なら姿勢一つ、銃の持ち方一つを間違えただけでも怒鳴られた。それが今では、教官たちは遠くから見ていることの方が多い。
地図を渡されれば、自分たちで経路を決める。
負傷者役が出れば、誰かに指示される前に搬送役と警戒役を決める。
無線で何を報告するのかも、以前のように決まった文章を復唱するのではなく、その場で必要な情報を選ばなければならなくなった。
失敗すれば指摘される。
しかし、答えまでは教えてくれない。
最近はそんな訓練ばかりだった。
「なあ」
朝食を終えたガイルが、食器を片づけながら小声で言った。
「何?」
「俺たち、そろそろ終わりなんじゃないか?」
レイブンは歩きながら横を見る。
「何が?」
「訓練兵」
その言葉で、レイブンの足がほんの少し遅くなった。
「……俺も最近思ってた」
「やっぱり?」
「教官たち、前ほど教えてこなくなっただろ」
「それ俺たちに興味なくなっただけじゃないよな?」
「だったら悲しすぎるだろ」
後ろを歩いていたミレイアが会話に入ってきた。
「私は先週くらいから思ってたよ」
「何で?」
「装備点検」
「装備点検?」
「前までは教官が最後に全部確認してた。でも最近は班長が確認して、それで終わりでしょ」
言われてみればそうだった。
レイブンたちはいつの間にか、自分の装備だけでなく同期の装備まで互いに確認するようになっていた。
教官が命じたからではない。
自然とそうなった。
「あと射撃訓練も」
ミレイアは続ける。
「前みたいに一発ごとに直されなくなった」
「俺は昨日怒鳴られたぞ」
ガイルが言った。
「それは安全装置を確認し忘れたから」
「あれは忘れたんじゃなくて――」
「忘れたんでしょ?」
「……はい」
レイブンが笑う。
けれど、その笑いの奥には、言葉にしにくい感覚が残った。
訓練が終わる。
ずっと望んでいたはずだった。
毎朝走らされる生活も、泥まみれになる訓練も、ヴァルターから容赦なく指摘される日々も、いつか終わるものだと分かっていた。
ところが、本当にその日が近づいていると思うと、不思議と嬉しいだけではなかった。
訓練兵でなくなるということは、軍人として扱われるということでもある。
失敗しても教官が止めてくれる場所から、少しずつ遠ざかっていく。
そして帝国の外では、今も戦争が続いている。
さらに世界各地へ出現した異界門の向こうからは、こちら側へ侵入してくる異界軍の存在まで確認されていた。
自分たちが訓練を受けている理由は、最初からそこにある。
「レイブン?」
「ん?」
「ぼーっとしてる」
「考え事」
「卒業?」
「……まあ、そんなところ」
ミレイアは少しだけ笑った。
「まだ決まったわけじゃないよ」
「分かってる」
レイブンも笑い返した。
「今日も訓練だ」
そう言って訓練場へ向かった。
いつもと同じ一日になると思っていた。
少なくとも、その時までは。
◇
午前の訓練は、これまで何度も繰り返してきた小隊単位での移動訓練だった。
ただし、今回は教官から細かな指示がなかった。
渡されたのは地図と目的地、そして想定される敵情だけだった。
誰を先行させるのか。
どこで休止するのか。
無線を誰が担当するのか。
負傷者が発生した場合、どう対応するのか。
全部、自分たちで決めなければならない。
レイブンも《NoX》として先行偵察を担当したが、前回発現した〔透明〕の使用は禁止されていた。
「何で?」
開始前に尋ねたところ、ヴァルターは当然のように答えた。
「能力がなければ偵察できない兵士にするつもりはない」
反論できなかった。
結果として、レイブンは久しぶりに自分の姿も足音も完全には隠せない状態で草地を進むことになった。
最初は不自由に感じた。
しかし、風向きを読み、地形を使い、物陰を選びながら進んでいるうちに、以前より自分の身体が自然に動いていることに気づいた。
《ゴースト》がなくても、以前の自分より静かに歩ける。
伏せる場所も判断できる。
何より、危険だと思えば無理に進まず、別の経路を探せるようになっていた。
昼前には目的地へ到達した。
全員無傷。
想定上の戦死者もなし。
ヴァルターは記録板を確認すると、それだけ言った。
「合格だ」
ガイルが目を丸くした。
「それだけですか?」
「何がだ」
「いや、もっとこう……あるじゃないですか」
「例えば?」
「褒めるとか」
「調子に乗るから嫌だ」
「ひどい!」
同期たちが笑った。
レイブンも笑っていたが、ヴァルターの表情を見ているうちに、その言葉の意味が少し違って聞こえてきた。
合格。
以前なら、それは次の訓練へ進むための言葉だった。
今は。
もっと別の意味を持ち始めている気がした。
◇
午後。
レイブンたちは射撃場へ集合するよう命じられた。
ところが、到着しても標的は設置されていなかった。
弾薬箱もない。
「射撃じゃないのか?」
ガイルが周囲を見る。
「だったら何するんだろ」
フィーナも首を傾げた。
レイブンも分からなかった。
やがて教官たちが姿を現した。
その最後尾を歩いていたヴァルターを見て、レイブンの目が止まった。
父は一挺の銃を持っていた。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
まだレイブンが十二歳だった頃、完成した試作銃を父から見せられ、子供ながらに遠慮なく問題点を指摘した。
重い。
重心が悪い。
装填しにくい。
操作部が分かりづらい。
父が「辛口でいい」と言ったから、本当に辛口で答えた。
その後もヴァルターは改良を続け、生産許可を簡単には出さなかった。
そして新兵課程へ入ってから、レイブン自身も適性試験で触れた。
SG-44。
帝国が長い時間をかけて開発してきた、新式のショットガン。
しかし。
父が今日持っている個体は、適性試験で使ったものとは少し違った。
レイブンは無意識に目で追っていた。
ヴァルターは新兵たちの前へ立つと、しばらく全員を見渡した。
「今日の訓練はここまでだ」
ざわめきが起こった。
まだ午後も早い。
こんな時間に終わることは珍しい。
「ただし、《NoX》は残れ」
「……はい」
同期たちの視線が一斉にレイブンへ集まった。
「何やったんだ?」
ガイルが小声で聞いてくる。
「何もしてない」
「本当に?」
「たぶん」
「その『たぶん』が怖いんだよ」
「ベッカー新兵」
ヴァルターの声が飛んだ。
「はい!」
「解散と言ったはずだ」
「了解!」
ガイルたちは去っていった。
ミレイアだけが一度振り返ったが、レイブンが大丈夫だというように手を上げると、そのまま皆についていった。
射撃場に静けさが戻った。
レイブンとヴァルターだけが残る。
「こっちへ来い」
「はい」
近づく。
レイブンの視線は、どうしても父の持つSG-44へ向かった。
「気になるか」
「そりゃ気になるよ」
同期がいなくなったからか、レイブンの言葉遣いも少しだけ息子のものへ戻っていた。
「前に使ったやつとは違うよね」
「ああ」
「また改良した?」
「少しな」
「父さんの『少し』は信用できないんだけど」
「お前に言われたくない」
「俺?」
「十二歳の子供に試作品を渡したら、開発班が数か月かけて作った物を散々に言った奴がいただろ」
「あれは父さんが辛口で言えって言ったから!」
「限度というものがある」
「でも直したんだろ?」
「直した」
「じゃあ役に立ったじゃん」
「腹が立つくらいにはな」
ヴァルターが笑った。
レイブンも笑う。
その時。
父がSG-44の向きを変えた。
レイブンの表情から笑みが消えた。
銃床。
そこに。
文字があった。
機械で均一に刻まれた制式番号とは違う。
流れるような筆記体。
銃床の側面へ、小さく。
それでも確かに。
Crow Raven
と刻まれていた。
「……父さん」
「読めるだろ」
「いや、それは読めるけど」
レイブンは一歩近づいた。
「何で俺の名前が?」
「お前のだからだ」
「……え?」
反射的に父の顔を見る。
ヴァルターは何でもないことのように言った。
「この個体はお前へ渡す」
「待って」
レイブンは思わず声を上げた。
「これ、制式採用されたばっかりだろ?」
「ああ」
「新兵が個人で持つような物じゃないんじゃないの?」
「だから適性試験をした」
その言葉で。
レイブンは理解した。
SG-44の適性試験。
何日にもわたって続いた操作訓練。
反動。
装填。
照準。
姿勢。
故障を想定した対処。
その全てを最後まで通過したのは。
レイブン一人だった。
「合格者、一人だったよね」
「そうだ」
「俺だけ」
「ああ」
「だから?」
「それだけじゃない」
ヴァルターはSG-44へ視線を落とした。
「こいつが今の形になる前から、お前は関わっている」
「十二歳の時?」
「お前が『重い』『持ちにくい』『装填しづらい』『操作部が分かりにくい』と好き放題言った時からだ」
「まだ覚えてるの?」
「開発班も覚えてるぞ」
「……謝った方がいい?」
「今さら遅い」
レイブンは苦笑した。
だが、ヴァルターはすぐには銃を渡さなかった。
両手でSG-44を保持したまま、息子を見つめる。
その表情が変わった。
教官として新兵を見る目ではない。
「レイブン」
《NoX》ではなかった。
クロウ新兵でもない。
名前だった。
「……何?」
「渡す前に、一つだけ覚えておけ」
ヴァルターの声は静かだった。
だからこそ。
レイブンは背筋を伸ばした。
「いいか、レイブン」
父は一度、SG-44を見た。
「銃を持つと、どうしても相手を倒すことばかり考えるようになる奴がいる」
レイブンは黙って聞いていた。
「何人倒した。誰を倒した。自分の方が強かった。そういうものに意味を見つけ始める奴もいる」
ヴァルターの再構築された右手が、SG-44を静かに支えている。
「だが、お前はそうなるな」
父の視線が戻ってきた。
「どんな時でも、命そのものを目的にするな」
レイブンの耳が僅かに動いた。
「帰還するのに邪魔な敵を倒せ」
言葉が、ゆっくり胸へ入ってくる。
「自分が帰るために必要なら撃て。仲間を帰すために必要なら撃て。護るべき相手を連れて帰るために必要なら撃て」
ヴァルターは一瞬だけ言葉を切った。
「だが、倒す必要のない相手まで追うな。逃げられるなら逃げろ。戦わずに帰れるなら、それが一番いい」
「……」
「生き残るために銃を持つんじゃない」
レイブンは父を見つめた。
「帰るために持て」
その言葉だけは。
教官が新兵へ教えているものではなかった。
異界へ送られ。
三か月もの間、帰還できず。
右腕を失い。
それでも家族のもとへ帰ってきた男の言葉だった。
レイブンには、それが分かった。
ヴァルターはSG-44を少し持ち上げた。
「そのための散弾銃――もとい、ショットガンだ」
レイブンは思わず少し笑った。
「今、言い直した?」
「細かいことは気にするな」
「父さんが言ったんだろ」
「今はいい」
ヴァルターも僅かに笑った。
しかし、すぐに真剣な顔へ戻った。
「受け取れ」
レイブンは両手を差し出した。
SG-44が。
父の手から。
息子の手へ移る。
重かった。
もちろん、重量は知っている。
適性試験でも何度も持った。
構えた。
撃った。
装填した。
分解して整備もした。
それなのに。
今日のSG-44は、これまで持ったどの個体よりも重く感じた。
銃そのものが重くなったわけではない。
意味が変わったのだ。
訓練用ではない。
試験用でもない。
借り物でもない。
自分へ託された銃。
レイブンは銃床へ視線を落とした。
そこには。
Crow Raven
と刻まれている。
指先で文字をなぞる。
「これ、父さんが頼んだの?」
「刻印か?」
「うん」
「そうだ」
「何で筆記体?」
「その方が少し格好いいと思った」
レイブンは顔を上げた。
「父さんが?」
「悪いか」
「いや……意外だった」
「返せ」
「嫌だ」
レイブンは反射的にSG-44を抱え込んだ。
「もう俺のだろ」
「そういうところだけ判断が早いな」
「父さん譲り」
「それは認めん」
親子の間に、小さな笑いが生まれた。
やがてレイブンはSG-44を正しく保持し直した。
銃床を肩へ当てる。
頬を添える。
前を見る。
何度もやった動作だった。
けれど。
今までとは違った。
「どうだ」
父が尋ねる。
「……まだ少し重い」
「お前、最初から最後までそれを言うな」
「でも」
レイブンは構えたまま、ほんの少し笑った。
「前よりずっといい」
「そうか」
「うん」
構えを解く。
「ありがとう、父さん」
ヴァルターは返事をしなかった。
代わりに。
息子の肩へ手を置いた。
ほんの数秒だけだった。
「レイブン」
「何?」
「帰ってこい」
レイブンは、その言葉をすぐには理解できなかった。
「まだ訓練終わってないだろ」
「分かっている」
「じゃあ何で」
「今のうちに言っておく」
父は肩から手を離した。
「軍人になれば、俺が毎回隣にいるわけじゃない」
その言葉で。
朝から感じていたものが。
ようやく形になった。
訓練兵としての日々が。
本当に。
終わろうとしている。
レイブンはSG-44を見た。
自分の名前が刻まれている。
そして父を見る。
「帰るよ」
ヴァルターは何も言わない。
だから。
レイブンはもう一度言った。
「ちゃんと帰る」
「どこへだ」
レイブンは少し考えた。
母。
セレナ。
妹。
ルナ。
毎日、訓練場から帰ってきた父へ兄の話を聞いているという。
そして。
今、目の前にいる父。
「家に」
答えは短かった。
「母さんとルナと父さんのところに」
ヴァルターは静かに頷いた。
「それでいい」
◇
その夜。
宿舎へ戻ったレイブンは、寝台の横にSG-44を置いた。
もちろん、適当に立てかけたわけではない。安全を確認し、定められた方法で保管してある。
それでも気になった。
何度も見る。
ガイルが隣から覗き込んできた。
「なあ」
「何?」
「それ、本当にお前の?」
「らしい」
「名前入ってる」
「入ってるな」
「格好いいな……」
「触るなよ」
「まだ触ってないだろ!」
「顔が触りたそう」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「けち!」
ミレイアも少し離れた場所から銃床を見た。
「Crow Raven……」
「何?」
「本当に専用なんだね」
その言葉に。
レイブンは少しだけ考えた。
「専用っていうより」
SG-44を見る。
「預かったって感じがする」
「誰から?」
「父さんから」
少し間を置く。
「たぶん、帝国からも」
ガイルが珍しく真面目な顔をした。
「重いな」
「銃が?」
「意味が」
レイブンは笑った。
「俺も今日そう思った」
やがて消灯時間になった。
宿舎の照明が消える。
暗闇の中。
レイブンは寝台へ横になった。
眠ろうとして。
父の言葉を思い出した。
敵の命を目的にするな。
帰還するのに邪魔な敵を倒せ。
自分が帰るため。
仲間を帰すため。
護るべき者を連れて帰るため。
そのための銃。
レイブンは暗闇の中で目を開いた。
隣には。
自分の名が刻まれたSG-44がある。
まだ一発も実戦では撃っていない。
できることなら。
実戦で撃つ日など来ない方がいい。
しかし。
今の世界が。
そんな願いを簡単に叶えてくれないことも。
もう知っていた。
「……帰るために、か」
小さく呟く。
返事はない。
当然だった。
銃は何も話さない。
命令もしない。
撃つ相手を決めることもない。
それを決めるのは。
いつだって。
持っている人間だ。
レイブンは目を閉じた。
明日も訓練はある。
明後日も、おそらくある。
けれど。
その日々が永遠に続くものではないことを。
今日。
初めてはっきりと感じた。
新兵《NoX》として過ごす時間は。
終わりへ向かっている。
そして、その先で自分が何と呼ばれるのか。
どこへ配属されるのか。
誰と戦うことになるのか。
まだ何も知らない。
ただ一つだけ。
今日から。
自分と共に行くものがある。
銃床に筆記体で刻まれた、小さな名前。
Crow Raven
かつて十二歳の少年が試作品へ遠慮なく文句をつけ、父が何度も改良を重ね、新兵たちの適性試験を経て、最後にはただ一人だけ残った使い手へ渡された一挺。
SG-44。
それは敵を倒した数を誇るための銃ではない。
少なくとも。
レイブンは。
そう使うつもりだった。
戦場へ出る日が来たとしても。
撃たなければならない日が来たとしても。
最後に目指す場所だけは。
今日、父から教えられた。
敵の向こうではない。
勝利の先でもない。
帰る場所。
そこへ辿り着くために。
レイブン・クロウのSG-44は。
ようやく。
主人の手へ渡った。




