Season 3「志願兵」 #030
さらに改善させました!
見づらくなったかもしれませんが、許してください
第30話 「幽霊」
新兵課程が始まったばかりの頃、レイブンにとって訓練とは、昨日できなかったことを今日できるようにするためのものだった。
正しい姿勢で銃を構えること。教官の号令に即座に反応すること。地図と方位磁針だけを頼りに目的地へ辿り着くこと。初めて渡されたインカムを正しく操作し、必要な情報だけを短く無線へ流すこと。
一つ覚えれば、次の一つを覚える。それを繰り返していけばいいのだと、最初の頃は考えていた。
しかし、訓練の日数を重ねるにつれて、その認識は変わっていった。
一度できただけでは、軍人にとって「できる」とは呼べない。
雨の中でも、泥まみれでも、眠くても、空腹でも、身体中が痛くても同じことができなければならない。数十キロを歩いた直後に銃を構えさせられ、息が整わないうちに標的を狙わされることもあれば、負傷者役の同期を背負ったまま無線で現在位置を報告させられることもあった。
疲れたからできなかった、では通用しない。
それをレイブンへ誰よりもしつこく教え込んだのは、皮肉にも父であるヴァルターだった。
「もう一度だ」
朝露の残る訓練場で、その言葉を聞いたレイブンは露骨に顔をしかめた。
「……今ので何回目?」
「十一回目だ」
「十回できたなら、もう十分じゃない?」
「十回やったから十一回目ができる保証はどこにある」
「そういう問題?」
「軍ではそういう問題だ」
ヴァルターは左手に持った記録板へ視線を落とした。右腕を失ってから長い年月が過ぎ、現在は魔力によって再構築された右腕を使っているものの、細かな記録を取る時には昔からの癖なのか左手を使うことが多かった。
レイブンは深く息を吐いた。
「父さんって、俺が入隊してから性格悪くなってない?」
「クロウ新兵」
呼び方が変わった瞬間、レイブンは背筋を伸ばした。
「はい、教官」
「十二回目も追加してほしいらしいな」
「十一回目を開始します!」
「よろしい」
離れた場所で待機していた同期たちから笑い声が聞こえた。
「《NoX》、頑張れよ!」
ガイルの声だった。
「あとで覚えてろ!」
「教官、クロウ新兵が私怨を口にしました!」
「ガイル!」
「ベッカー新兵も一周追加だ」
「なんで俺まで!?」
今度はレイブンが笑う番だった。
こうしたやり取りも、今では新兵たちの日常の一部になりつつあった。
しかし、その日の訓練内容そのものは決して軽いものではなかった。
レイブンは開始線へ戻ると呼吸を整え、腰の装具が正しく固定されていることを確かめた。訓練用小銃を胸の前へ保持し、背中には通常より少し重くされた背嚢を背負っている。
今日の目的は、第二個人スキルの持続試験だった。
〔気配完全遮断歩行〕。
発現したばかりの頃、この力は文字通り「静かに歩く」程度のものだった。意識を集中させれば足音が消え、身体へ固定された装具が擦れたり揺れたりして生じる音まで抑えられる。
それだけでも異常な能力だったが、決して万能ではなかった。
集中が乱れれば解除され、走ればすぐに効果が途切れた。身体そのものは普通に見えているため、開けた場所を歩けば簡単に発見される。さらに犬系や狐系など嗅覚に優れた亜人を相手にすれば、足音を消したところで汗や装具、銃器油の匂いから位置を探られてしまう。
それでもレイブンは毎日使った。
砂利道を歩き、木板の上を歩き、泥の中を進み、浅い水場を渡った。装備重量を増やした状態でも使い、別のことを考えながら維持できるか試し、最終的には無線で報告を行いながら移動するところまで訓練した。
その積み重ねによって、《ステルス・ウォーク》は少しずつ変化していた。
今では歩行中ならほとんど無意識に維持できる。小走り程度なら解除されなくなり、以前なら集中が切れていた状況でも効果が続くようになっていた。
ヴァルターはそれを「熟練」と記録していた。
レイブンも同じように考えていた。
ただ上手くなっているだけなのだ、と。
この日までは。
◇
数日後の早朝、第二小隊の新兵たちはいつもの訓練場ではなく、基地の車両集積所へ集合するよう命じられた。
軍用輸送車へ乗り込んでから一時間ほどが経過した頃、幌の隙間から外を眺めていたガイルが妙な顔をした。
「なあ、これどこまで行くんだ?」
「知らない」
向かいに座っていたレイブンは、膝の上に置いた小銃を確認しながら答えた。
「聞いてないの?」
「父さん――じゃなくて、教官に聞いた」
「それで?」
「『着けば分かる』」
「あの人、それ好きだな」
「最近そればっかりだよ」
隣に座っていたミレイアが苦笑した。
「でも、今日は帝国軍の別部隊も来るらしいよ」
レイブンが顔を上げる。
「どこの?」
「偵察と索敵を専門にしてる部隊だって聞いた」
「誰から?」
「教官補佐」
「直接?」
「話してるのが聞こえた」
「それを世間では盗み聞きって言うんじゃない?」
「聞こえただけ」
ミレイアは平然としている。
ガイルが不安そうに犬耳を伏せた。
「偵察専門の部隊と新兵を戦わせる気じゃないよな?」
「戦わせたら一瞬で終わるだろ」
「お前、もう少し希望のある言い方できない?」
「じゃあ……二瞬?」
「変わってない!」
車内に笑い声が広がった。
やがて輸送車が速度を落とし、完全に停止した。
後部の幌が開かれ、新兵たちが次々に外へ降りていく。
最後の方に降りたレイブンは、地面へ軍靴をつけた直後、その場で立ち止まった。
「……広いな」
思わず出た言葉だった。
目の前には、帝国軍が保有する広大な軍用演習地が広がっていた。
遠くには地平線が見え、背丈の低い草が風に吹かれて絶え間なく揺れている。雲の少ない空から差し込む陽光が草原を明るく照らし、場所によっては風によって草の色合いまで変化して見えた。
問題は、その美しさではなかった。
何もないのである。
身を隠せるほどの木は一本もなく、岩場も建物も存在しない。多少の起伏こそあるものの、伏せた人間一人を完全に隠せるほど深い場所は見当たらなかった。
ミレイアが草原を眺めながら呟いた。
「ここで偵察するの?」
「たぶん」
「見つからない?」
「見つかるだろ」
「即答なんだ」
「俺のスキルだって姿まで消えるわけじゃないし」
レイブンはそう答えながら、自分でも少し嫌な予感を覚えていた。
やがて集合の号令がかかり、新兵たちは横一列に整列した。
その正面には、見慣れない帝国軍兵士たちが待っていた。
軍服自体は同じ帝国軍のものだったが、新兵たちとは立ち姿からして違っていた。誰も無駄に動かず、隣同士で私語を交わす者もいない。それでいて身体を硬直させているわけでもなく、自然体のまま周囲へ注意を向けている。
犬系亜人の兵士は時折鼻を動かし、猫系亜人は耳を別々の方向へ向けている。狐系亜人の兵士も混じっており、風が吹くたびに耳を僅かに動かしていた。
見るからに索敵を得意とする兵士たちだった。
「今日の訓練はエキシビション形式で行う」
新兵たちの前に立ったヴァルターが、地図を広げながら説明を始めた。
「相手は帝国軍の偵察・索敵任務を専門とする精鋭大隊から選抜された兵士だ。お前たちの目的は交戦ではない。この演習地内に設けられた複数の監視地点を発見し、位置、人数、可能であれば装備を確認した後、無線で報告して帰還する」
ガイルが恐る恐る手を上げた。
「教官」
「何だ」
「勝てます?」
「何と戦うつもりだ」
「いや、なんとなく……」
「今日は戦闘訓練ではない。もっとも、見つかった場合は捕捉されたものとして判定する」
「つまり見つかったら負け?」
「分かりやすく言えばそうだ」
「隠れる場所ないんですけど」
「それをどうにかするのも訓練だ」
ガイルは露骨に肩を落とした。
ヴァルターは地図を畳むと、今度はレイブンへ視線を向けた。
「《NoX》」
「はい」
「先行偵察を命じる」
「……俺ですか」
「お前だ」
レイブンはもう一度草原を見た。
「教官。念のため確認しますけど、俺の《ステルス・ウォーク》って透明になる能力じゃないですよ」
「知っている」
「向こうに犬系と狐系がいますよね」
「見えている」
「匂いで見つかりますよ」
「だろうな」
あまりにも平然と答えられたため、レイブンは思わず父の顔を見つめた。
「じゃあ何で俺なんですか」
「だからだ」
「……はい?」
「今のお前が、訓練された索敵兵を相手にどこまで接近できるのか。それを確認するには都合がいい」
ヴァルターはそこで僅かに声を落とした。
「怖いか」
その問いだけは、教官ではなく父親から投げかけられたように感じられた。
レイブンは少し考えた末、正直に答えた。
「怖いですよ。普通に」
「なら、その感覚を忘れるな」
「え?」
「怖いと分かっていて、それでも必要なことを考えられる奴の方が長く生きる」
ヴァルターは再び教官の顔へ戻った。
「行ってこい、《NoX》」
「了解」
レイブンはインカムの位置を直すと、草原へ向き直った。
「《NoX》、先行偵察を開始します」
『許可する』
返ってきた声を聞きながら、レイブンは草原へ足を踏み出した。
◇
最初の数百メートルでは何も起こらなかった。
風が黒髪を揺らし、猫耳の間を抜けていく。低い草が擦れ合う音に混じって、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
遮蔽物がない以上、立ったまま歩くわけにはいかない。レイブンは地面の僅かな起伏を利用しながら徐々に姿勢を低くし、時折足を止めて周囲を観察した。
風向き、太陽の位置、自分の影、草の揺れ方。
これまで教え込まれてきた知識を一つずつ思い出しながら、身体の奥へ意識を向ける。
〔気配完全遮断歩行〕。
発動した瞬間、自分だけが周囲の音から切り離されたような感覚が訪れた。
軍靴が土を踏んでも足音がしない。装具が身体へ当たっても音がせず、肩から下げている小銃の金具さえ不自然なほど静かだった。
ここまではいつも通りだった。
レイブンはその状態を維持したまま進み、しばらくして遠方の草むらに人影を見つけた。
監視地点だった。
低い姿勢で待機している兵士が二人おり、その少し離れた位置には犬系亜人の兵士がいる。
レイブンはその場で動きを止めた。
まずい。
風が自分の背後から監視地点へ向かって吹いている。
足音を消しても意味がない。汗を含んだ軍服の匂いも、革製装具の匂いも、手入れされた銃器に残る油の匂いも、風に乗れば相手へ届く。
犬系亜人が鼻を上げた。
レイブンは呼吸を浅くする。
見つかる。
そう思った。
ところが、何秒待っても相手はこちらを向かなかった。
犬系兵士は不思議そうに鼻を動かし、周囲を確認している。それでもレイブンのいる方向へ視線を向けようとはしない。
「……?」
何かがおかしい。
レイブンは慎重に自分の袖へ鼻を近づけた。
何も感じなかった。
朝から訓練装備を身につけている。輸送車にも乗った。ここまで草原を歩き、汗もかいている。それなのに汗の匂いがしない。
装具へ顔を近づけても革の匂いがなく、小銃へ近づけても銃器油の匂いさえ感じられなかった。
「どういうことだ……」
小さく呟きながら、試しに《ステルス・ウォーク》を解除した。
その瞬間、草と土の匂いに混じって、自分の汗や装具の匂いが一気に戻ってきた。
レイブンは目を見開いた。
もう一度、発動する。
足音が消えた。
装具音も消えた。
そして匂いも、再び消えた。
「変わってる……?」
胸の奥で鼓動が少し速くなる。
その時だった。
自分の右手に違和感を覚えた。
何かがおかしい。
視線を下げたレイブンは、一瞬、自分が何を見ているのか理解できなかった。
右手がなかった。
正確には、見えなかった。
「……え?」
右手を動かす。
指を握る感覚はある。
左手で触れてみれば、ちゃんとそこに腕が存在している。
しかし目には映らない。
慌てて身体を見る。
軍服も見えない。
腰の装具も、胸元のインカムも、手に持っているはずの小銃も見えなかった。
足元へ視線を落としても軍靴さえ存在しないように見える。
「待て……待てよ」
恐怖が遅れて押し寄せた。
自分の身体が自分に見えない。
それは足音が消えた時とは比べものにならないほど不気味だった。
レイブンは反射的に胸へ手を当てた。
鼓動がある。
息もできる。
地面を踏んでいる感触もある。
身体は存在している。
「俺は……いる」
自分へ確認するように呟いた。
それだけで少し呼吸が落ち着いた。
恐る恐る一歩を踏み出す。
足は見えない。
音も聞こえない。
しかし、軍靴が踏んだ場所の草が確かに沈んだ。
もう一歩進めば、今度は別の草が僅かに揺れた。
レイブンはそこで初めて理解した。
身体そのものが消滅したわけではない。
世界に触れることもできるし、世界から触れられることもある。
ただ、自分自身と身につけている装備から発せられる音、匂い、そして姿が認識できなくなっている。
ならば足跡は残る。
草を踏めば揺れる。
水へ入れば波紋が立つ。
扉を開ければ、扉だけが勝手に動いて見えるはずだ。
「……幽霊みたいだな」
自分で口にした言葉が、妙にしっくりきた。
◇
一方、精鋭大隊側では別の混乱が起きていた。
「対象を確認。距離約四百。北東方向から接近中」
双眼鏡を覗いていた観測兵が報告した直後、隣にいた犬系亜人の索敵兵が首を傾げた。
「おかしい」
「何がだ」
「臭いがありません」
「距離があるからじゃないのか」
「風向きはこちらです。さっきまでは微かに装具油の臭気がありました」
犬系兵士はもう一度鼻を動かした。
「消えました」
指揮官が眉を寄せる。
「音は?」
「音響班、反応なし」
「それは事前情報通りだ。対象は足音を遮断する個人スキルを持っている」
「ですが、臭気遮断までは聞いていません」
その時、観測兵が急に黙った。
「どうした」
「……対象を見失いました」
「伏せたか?」
「違います」
「草へ潜った?」
「この草丈では完全には隠れられません」
「なら、どこにいる」
「分かりません」
指揮官自身が双眼鏡を手に取った。
確かにいない。
先ほどまで黒い猫耳を持つ新兵がいた場所には、風に揺れる草しか見えなかった。
遮蔽物は一つもない。
それでも姿がない。
「索敵を続けろ。目だけに頼るな。足跡と草の動きを見ろ」
その指示は正しかった。
しかし、相手が悪かった。
レイブンもまた、自分が周囲へ残す痕跡に気づき始めていた。
風が強く吹く瞬間だけ歩き、草原全体が揺れている間に距離を稼ぐ。風が弱まれば立ち止まり、自分が踏んだ草の動きが目立たないようにする。
これまで何度も教え込まれてきた偵察の基本が、突然手に入った異常な能力と結びついていく。
犬系兵士が鼻を動かしても反応しない。
狐系兵士が耳を澄ませても足音を拾えない。
観測兵が双眼鏡を向けても姿を確認できない。
それでもレイブンは慎重だった。
能力が強いからといって、自分まで強くなったわけではない。
草を踏めば動く。
地面が柔らかければ足跡が残る。
何より、どれほど姿を消せても、目の前の相手へぶつかれば終わりである。
だからこそ、いつも以上に周囲を観察した。
やがて第一監視地点を通過し、二つ目、三つ目の監視地点まで発見した。
人数を記憶し、装備を確認し、巡回経路も可能な限り頭へ入れる。
ここでレイブンは無線へ手を伸ばしかけ、止めた。
インカムまで見えなくなっている。
だが、電波そのものまで消える保証はない。
むしろ送信すれば、方向探知を受ける可能性がある。
十分に距離を取ってから小さな窪みへ身体を伏せ、レイブンは一度能力を解除した。
自分の手が視界へ戻る。
軍服が見える。
呼吸音が聞こえる。
汗や土の匂いまで戻ってきた。
その瞬間、レイブンは自分でも意外なほど安心した。
「……戻った」
それから無線を開く。
『こちら《NoX》』
『こちら指揮。送れ』
ヴァルターの声だった。
『監視地点を三か所確認しました。第一地点二名、第二地点三名、第三地点四名。位置を報告します』
覚えた情報を簡潔に伝える。
『了解。《NoX》、帰還しろ』
「了解」
そこで少し迷い、レイブンは続けた。
「教官」
『何だ』
「帰ったら報告したいことがあります」
『負傷か』
「違います」
『装備異常か』
「それも違います」
レイブンは自分の右手を見つめた。
「俺のスキルが……変わったかもしれません」
無線の向こうで僅かな沈黙が生まれた。
『行動に支障は』
「ありません」
『なら帰還を優先しろ。詳細は戻ってから聞く』
「了解」
通信を切ったレイブンは再び集中した。
足音が消え、匂いが消え、自分の手が視界から消えていく。
二度目は、最初ほど怖くなかった。
「帰ろう」
自分自身へ言い聞かせるように呟き、来た道を引き返した。
◇
開始地点では、同期たちが草原を見つめていた。
「遅くない?」
ガイルが落ち着かない様子で言った。
「まだ予定時刻前だよ」
フィーナが答える。
「でも全然見えない」
ミレイアは目を細め、遠くまで視線を走らせた。
「《ステルス・ウォーク》を使ってても、姿は見えるはずなんだけど……」
その言葉を聞いていたヴァルターは何も答えなかった。
無線で聞いた「スキルが変わった」という報告が気になっていた。
やがて、誰もいないはずの場所から声がした。
「戻りました」
「うわっ!」
ガイルが本気で飛び退いた。
ミレイアの猫耳が一瞬で逆立ち、ノアまで反射的に身構えた。
「誰!?」
「俺だよ」
「俺って誰だよ!」
「レイブン!」
「どこにいる!?」
「ここ!」
何もない空間から返事だけが聞こえる。
次の瞬間、レイブンが能力を解除した。
まるで最初からそこに立っていたかのように、黒い軍服と装具、黒髪、猫耳、そして二色の瞳が突然視界へ戻ってきた。
その場にいた全員が黙った。
レイブン自身も、何と言えばいいのか分からなかった。
「……ただいま」
「『ただいま』じゃない!」
ガイルが真っ先に叫んだ。
「お前、今消えてたぞ!」
「俺も分かってる!」
「何でそんなことできるんだよ!」
「それが分からないから困ってるんだよ!」
ミレイアが恐る恐る近づき、レイブンの腕へ触れた。
「ちゃんといる……」
「だから消滅してたわけじゃないって」
「でも見えなかった」
「それは俺も同じだった」
「自分にも見えなかったの?」
「見えなかった。最初は本当に怖かったよ」
そこへヴァルターが歩いてきた。
「レイブン」
教官としてではなく名前を呼ばれたことで、レイブンも表情を引き締めた。
「はい」
「最初から説明しろ」
レイブンは草原で起きたことを順番に話した。
《ステルス・ウォーク》を発動したこと。犬系兵士に匂いで発見されると覚悟したにもかかわらず、自分自身の臭気が消えていたこと。その直後、自分の手や身体、装備まで視界から消えたこと。
ただし身体そのものは存在しており、草を踏めば動き、地面にも痕跡が残ることも説明した。
ヴァルターは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「もう一度できるか」
「できると思う」
「疲労は」
「あります。でもまだ大丈夫」
「なら一度だけ確認する。異常を感じたら即座に解除しろ」
「了解」
レイブンが集中すると、数秒もしないうちに姿が消えた。
今度は同期たちだけでなく、精鋭大隊の兵士たちまで黙り込んだ。
犬系の索敵兵がレイブンのいた場所へ近づき、鼻を動かした。
「……ありません」
ヴァルターが尋ねる。
「何がだ」
「臭気です。汗も、軍服も、革も、銃器油も検知できません。目の前にいると分かっているのに、草と土の匂いしかない」
「レイブン、歩け」
「了解」
返事がした後、地面の草だけがゆっくり沈んでいった。
足音はない。
姿もない。
匂いもない。
それでも草が踏まれている以上、確かにそこにいる。
ヴァルターはしばらくその様子を観察してから、解除を命じた。
再びレイブンが姿を現す。
「……幽霊みたいですね」
精鋭大隊の兵士の一人が思わず漏らした。
レイブンはその言葉を聞いて、草原で自分が呟いた言葉を思い出した。
「俺も同じことを思いました」
「スキル名を変える必要があるな」
ヴァルターが記録板を開く。
レイブンは少し考えた。
今までの〔気配完全遮断歩行〕という名前では、もはや説明できない。
ただ透明になるだけでもない。
音が消える。
臭いも消える。
視覚からも消える。
それでも身体はそこに存在している。
触れることもできる。
足跡も残る。
まるで幽霊だ。
「〔透明〕」
レイブンが言った。
ヴァルターはペンを止めた。
「《ゴースト》か」
「はい。透明っていうだけなら違う名前でもいいと思う。でも、これは姿だけじゃない。音も匂いも消える。それでも、そこにはいる」
自分の胸へ手を置く。
「だから《ゴースト》がいい」
ヴァルターはしばらく息子を見つめ、それから記録板へ視線を戻した。
これまで記録されていた〔気配完全遮断歩行〕の横へ変質の日時を書き込み、その下へ新たな名称を記した。
〔透明〕。
「暫定的にこの名称で記録する」
「暫定?」
「まだ今日発現したばかりだ。どこまでできて、何ができないのか分からん」
「これ以上変なことができるようになったら俺も困るよ」
「俺もだ」
ヴァルターはそこで僅かに笑った。
教官ではなく、父親としての表情だった。
「だが、よく帰ってきた」
レイブンは一瞬だけ言葉に詰まった。
訓練を成功させたことでも、新しい能力を得たことでもなく、「帰ってきた」と褒められた。
その意味が、以前より少しだけ分かるようになっていた。
「……ただいま、父さん」
「ああ」
そのやり取りを聞いていたガイルが小声でミレイアへ言った。
「今だけ親子に戻ったな」
「聞こえてるぞ」
ヴァルターが即座に返した。
「すみません!」
今度は精鋭大隊の兵士たちまで笑った。
◇
夕暮れの中、軍用輸送車は基地へ向かって走っていた。
疲れ切った新兵たちは次々に眠り、ガイルは口を開けたまま座席へ身体を預けている。ノアの長い耳も力なく垂れ、ディートリヒでさえ腕を組んだまま目を閉じていた。
レイブンだけは窓の外を眺めていた。
夕日に染まり始めた草原が、車両の速度に合わせて後方へ流れていく。
ふと自分の右手を見る。
ちゃんと見える。
指を握り、もう一度開く。
「怖かった?」
隣から声がした。
ミレイアだった。
「起きてたの?」
「今起きた」
「そう」
「それで?」
「何が?」
「自分が見えなくなった時」
レイブンは少し黙った。
窓には自分の顔が薄く映っている。黒髪も猫耳も、二色の瞳も、今は確かにそこにある。
「怖かったよ」
「どれくらい?」
「最初は、本当に身体がなくなったのかと思った」
「そんなに?」
「自分の手を見たら何もないんだぞ。触ればあるのに」
レイブンは右手を握った。
「変な感じだった。でも、心臓は動いてたし、地面も踏めた。だから、ちゃんと俺はいるって分かった」
ミレイアはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「それでも使うんでしょ?」
「使えるようにはする」
「怖いのに?」
「怖いから使わないって決めたら、必要な時に困るだろ」
「必要な時って?」
レイブンはすぐには答えなかった。
頭に浮かんだのは、避難の日の記憶だった。
連邦軍が町へ迫り、家族が逃げなければならなくなったあの日。父が前線へ立ち、自分はただ家族と一緒に逃げることしかできなかった。
そして今は、家で自分の帰りを待つ母がいる。
父がいる。
まだ幼い妹、ルナもいる。
「誰かを護らなきゃいけない時」
それだけ答えた。
ミレイアは、それ以上は聞かなかった。
◇
その日の夜、クロウ家へ帰宅したヴァルターを最初に迎えたのは、五歳になったルナだった。
「おとうさん、おかえり!」
白い猫耳を揺らしながら廊下を駆けてくる娘を見て、ヴァルターは反射的に声を上げた。
「走るな、ルナ。また転ぶぞ」
「きょうはころばない!」
「昨日もそう言って転んだだろ」
「きのうはきのう!」
「誰に似たんだ、その言い方は」
奥から出てきたセレナが笑った。
「あなたじゃない?」
「俺はもっと素直だった」
「お義母様から聞いた話とはずいぶん違うわね」
「母さんは余計なことしか話さないな……」
そんな両親の会話など気にせず、ルナは父の服を引っ張った。
「おとうさん」
「何だ」
「きょうの兄様は?」
ヴァルターは答えようとして、止まった。
いつもなら「射撃が少し良くなった」「今日は教官に口答えした」「走るのが遅かった」など、訓練中の出来事を簡単に話している。
しかし今日は説明が難しい。
「今日はな……」
「うん!」
「兄様が消えた」
ルナの笑顔が止まった。
「……きえた?」
「ああ」
白い猫耳が、ゆっくり伏せていく。
「兄様……いなくなったの?」
「いや、そうじゃない」
「でも、きえた?」
「姿だけだ」
「……?」
「音も消えた」
「……?」
「匂いも消えた」
ルナの表情がますます不安そうになる。
セレナが額へ手を当てた。
「ヴァルター」
「何だ」
「五歳の娘にする説明じゃないでしょう」
「じゃあどう説明すればいいんだ」
セレナはルナの前へしゃがんだ。
「兄様ね、新しいことができるようになったの」
「新しいこと?」
「そうよ」
「すごい?」
ルナが父を見る。
「兄様、すごい?」
ヴァルターは少し考えてから答えた。
「……少しな」
「また少し!」
「まだ新兵だからな」
「兄様はすごいもん!」
「お前、訓練見たことないだろ」
「すごい!」
どうやらルナの中ではすでに結論が出ているらしい。
セレナが笑い、ヴァルターも最後には諦めたように肩をすくめた。
その夜、食事を終えたヴァルターは、いつもの手帳を開いた。
レイブンが入隊してから、ヴァルターとセレナが毎日のように記録しているルナの成長日記だった。いつかレイブンが一人前の新兵になった時、家を離れていた間の妹の成長をまとめて渡そうと考えている。
今日の日付を書き、ペンを走らせようとしたところで、小さな手が机の端へ伸びてきた。
「ルナもかく」
「もう寝る時間だぞ」
「かく」
「何を書くんだ」
「兄様」
ヴァルターは少し考え、娘を膝へ乗せた。
「何て書きたい」
ルナは一生懸命考えた。
そして、今日父から聞いた話を幼い頭の中でまとめた結果、一つの答えへ辿り着いた。
「兄様、ゆうれい」
ヴァルターは吹き出した。
「あなた?」
セレナが振り返る。
「いや……間違ってない」
「何が?」
「今日のあいつを説明するなら、それが一番近い」
ヴァルターはルナの小さな手へ自分の手を添え、ゆっくりと文字を書かせた。
まだ綺麗な文字ではない。大きさも揃っておらず、一文字ごとに傾きも違う。
それでも直さなかった。
そこには幼い文字で、「兄様、ゆうれい」と記された。
その下へヴァルターは、今日レイブンの第二個人スキルが変質したこと、新たに〔透明〕という名前が与えられたことを書き加えた。
最後の一文を書く時だけ、ペン先が少し止まった。
姿も、音も、匂いも消えた。
それでも、ちゃんと帰ってきた。
そう記してから、ヴァルターは手帳を閉じた。
同じ頃、基地の宿舎では、レイブンが寝台の上で自分の右手を眺めていた。
今は見える。
触れる。
指を動かせば、ちゃんと自分の意思に従って動く。
「〔透明〕……か」
小さく呟いてから、天井を見上げた。
今日、確かに怖かった。
それでも、あの力があれば見つからずに誰かのところへ辿り着けるかもしれない。敵に発見される前に危険を知り、仲間へ伝えることもできるかもしれない。
そして何より、戦わずに誰かを助けられる可能性がある。
レイブンは目を閉じた。
明日になれば、きっと父は《ゴースト》の検証を始めるだろう。
また歩かされる。
走らされる。
どこまで姿を消していられるか、何を持てば一緒に見えなくなるのか、どんな状況なら見破られるのか。おそらく、嫌になるほど試される。
それでも構わないと思った。
自分の力なのだから、自分が一番よく知っていなければならない。
そう考えているうちに、訓練の疲労が眠気へ変わっていった。
この日のレイブンはまだ知らない。
遠く離れた実家で、五歳の妹が自分について何と書いたのかを。
いつか新兵課程を終え、父から約束の日記を受け取った時、その中には少し歪んだ幼い文字で、たった一言が残されている。
――兄様、ゆうれい。
その文字を見つけた時、自分が笑うのか、それとも妹の成長を思って別の感情を抱くのか。
それはまだ、ずっと先の話だった。
今はただ、昨日まで〔気配完全遮断歩行〕と呼ばれていた力に、新しい名前が与えられた日。
〔透明〕。
音を消し、臭気を遮り、姿すら視認できなくする。それでも世界から消えることはなく、足跡を残し、草を揺らし、触れればそこにいる。
幽霊の名を与えられたその力とともに、新兵《NoX》の訓練は、翌朝もまた何事もなかったかのように続いていく。




