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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 3「志願兵」 #029

第29話「名前のない新兵」


 足音を消せるようになったからといって、訓練が楽になるわけではなかった。


 むしろ、逆だった。


「もう一度」


「……はい」


 朝から何度目になるのか。


 レイブンは訓練棟の廊下、その開始線まで戻った。


 前方には長い通路が伸びている。


 床材は途中で変えられていた。


 最初は石。


 次に砂利。


 その先には乾いた木板が敷かれ、最後には金属製の足場まで用意されている。


 歩けば音が出る。


 そういう場所ばかりだった。


「始めろ」


 ヴァルターの声。


「はい」


 レイブンは息を整えた。


 意識を足先へ。


 一歩。


 軍靴の底が石床へ触れる。


 音は――ない。


 二歩。


 三歩。


 衣服の擦れる音まで薄くなる。


 腰の装具も鳴らない。


 レイブン自身の耳にも、自分の移動音がほとんど届かなくなった。


 石床を越える。


 次は砂利。


 普通なら、一歩踏むだけで細かな石同士が擦れ合う。


 レイブンは足を置いた。


 ――無音。


 監視していた技術士官が、記録用紙へ何かを書き込む。


「音響値、ほぼ変化なし」


「次」


 ヴァルターが言った。


 レイブンは進む。


 木板。


 一歩。


 音はない。


 二歩。


 まだない。


 三歩目。


「……っ」


 みしっ。


 わずかに鳴った。


「停止」


 レイブンは止まる。


「今の分かったか」


「はい」


「何が原因だ」


「集中が少し切れました」


「何で」


「足元ばかり見てたから……前の障害物に気づくのが遅れて」


「つまり?」


 レイブンは少し考える。


「歩くだけなら使える。でも周囲を見ながらだと、まだ不安定です」


「そういうことだ」


 ヴァルターは記録員を見る。


「書いておけ。複数作業時に遮断精度低下」


「了解」


 レイブンは小さく息を吐いた。


「父さん」


「今は教官だ」


「クロウ教官」


「何だ」


「これ、いつまで続きます?」


「安定するまで」


「具体的には?」


「知らん」


「……聞かなきゃよかった」


「クロウ新兵」


「はい?」


「最初から」


「やっぱり!?」


 後方から笑い声が聞こえた。


 ガイルだ。


「レイブン、頑張れー!」


「次お前だからな!」


「俺スキルないもん!」


「普通に歩かされるぞ!」


「え」


 ヴァルターが振り返る。


「ベッカー新兵」


「はい!」


「せっかくだ。お前もやれ」


「何で!?」


「今の声で思いついた」


「理不尽だ!」


「返事」


「はい!」


 レイブンは。


 少しだけ満足した。


◇


 〔気配完全遮断歩行(ステルス・ウォーク)〕。


 発現から数日。


 少しずつ分かってきたことがある。


 能力そのものは、単純な「無音歩行」ではなかった。


 レイブンが意識的に発動すると、足音だけではなく、身につけた装具から生じる微細な音まで著しく抑えられる。


 だが万能ではない。


 姿は見える。


 匂いも残る。


 地面へ足跡もつく。


 そして何より、集中を乱されれば簡単に解除される。


「よーし、レイブン!」


 ガイルが訓練区画の反対側から叫ぶ。


「今から笑わせる!」


「やめろ!」


「昨日ミレイアが――」


「ガイル!」


 ミレイアの声。


「それ言ったら本気で蹴る!」


「何の話!?」


 レイブンが振り返る。


 その瞬間。


 じゃり。


 砂利が鳴った。


「解除確認」


 記録員。


「……」


 レイブンはガイルを見る。


「あとで覚えてろ」


「俺まだ何も言ってない!」


「言おうとした!」


「未遂だ!」


「二人とも」


 ヴァルター。


「追加十周」


「何で俺まで!?」


「レイブンが反応した!」


「反応する原因を作ったのはお前だ!」


 また笑いが起きた。


 そんな毎日だった。


 失敗して。


 笑われて。


 もう一度試す。


 そして。


 少しずつ。


 できるようになる。


 レイブン自身も、それを嫌いではなかった。


◇


 数日後。


 朝の集合場所が変更された。


 射撃場でもない。


 障害訓練場でもない。


 基地外縁部に設けられた実地訓練区画。


 第二小隊が到着すると、長机の上に見慣れない装備が並べられていた。


「何これ?」


 ミレイアが覗き込む。


「耳につけるやつ?」


 フィーナ。


 ノアの長い耳が揺れる。


「俺、付けられるかな」


「お前は確かに大変そうだな」


 ガイルが笑う。


「笑い事じゃない。人間用だったら位置合わないぞ」


「猫系も似たようなもんだろ」


 ミレイアが自分の猫耳を触る。


「頭の上だからね」


 レイブンも。


 自分の黒い猫耳を軽く倒してみる。


「普通の人間向け装備、そのまま使えないんだよな」


「だから調整部品がある」


 声が飛んだ。


 全員。


 姿勢を正す。


「整列!」


「はい!」


 ヴァルターの横には通信兵が立っていた。


 机の上にあるのは、小型通信端末。


 耳元へ音声を送る受話部と、小さな送話器。


 いわゆるインカムだった。


「今日から実地訓練へ移る」


 ヴァルターが言った。


 新兵たちの表情が変わる。


「と言っても、戦場へ放り込むわけじゃない。基地周辺の訓練区域を使った模擬任務だ」


 ガイルが。


 目に見えて安堵する。


「ベッカー」


「はい!」


「今、安心したな」


「してません!」


「顔に出てる」


「……少ししました」


「正直でよろしい」


 小さな笑い。


「だが今までと違って、お前たちは離れて行動することになる」


 ヴァルターは机上のインカムを一つ取った。


「だから、これを使う」


 レイブンは興味深そうに見る。


「無線……」


「ああ」


 ヴァルターは通信兵へ渡す。


「説明しろ」


「了解」


 通信兵が前へ出た。


「全員、まず一つずつ取れ。勝手に電源は入れるな」


 順番に受け取る。


 レイブンも手にした。


「軽い……」


 思っていたより小さい。


 だが。


 どこへ付ければいい。


 頭。


 猫耳。


 邪魔になる。


「クロウ新兵」


「はい」


「逆だ」


「え?」


「その向きだと送話器が後頭部へ行く」


「あ」


 ミレイアが吹き出す。


「まだ何も言ってない」


「顔が笑ってる」


「気のせい」


 通信兵が全員へ装着方法を説明する。


 人間種。


 猫系。


 犬系。


 兎系。


 耳の位置が違う。


 そのため帝国軍の装具には、種族ごとに位置を微調整できる固定具が用意されていた。


 レイブンの場合は、受話部を猫耳そのものへ押し当てるのではなく、耳の付け根に近い側頭部へ固定する。


「直接耳を塞ぐな。周囲の音が聞こえなくなる」


 通信兵が言う。


「戦場で無線しか聞こえない奴は長生きしない。周囲の音と無線、両方を拾え」


「はい」


「送話器は口へ近づけすぎるな。呼吸音まで送ることになる」


 ガイル。


 試しに息を吹く。


『ふーっ』


 全員のインカムへ。


 突然。


 大きな呼吸音。


「うわっ!」


「ガイル!」


「耳痛い!」


「ベッカー新兵!」


「はい!」


「遊ぶな!」


「すみません!」


 レイブンは笑いながら、自分の受話部を直した。


「これ……結構便利だな」


 ミレイア。


「まだ使ってないでしょ」


「離れてても話せるんだろ?」


「そうだけど」


 通信兵が二人を見る。


「便利だからこそ、好き勝手に喋るな」


 二人。


 黙る。


「無線には必要な情報だけ流す。誰が、誰へ、何を伝えるのか。短く、明確にだ」


 そして。


 最初の無線訓練が始まった。


◇


「クロウ新兵」


『はい』


「聞こえるか」


『聞こえます』


「それだけか」


『……よく聞こえます』


「違う」


『え?』


「無線で長話をするな。受信できたなら短く返せ」


『了解』


「それでいい」


 レイブンは少し離れた位置から頷く。


 不思議だった。


 ヴァルターは遠くにいる。


 なのに。


 声だけがすぐ耳元にある。


『レイブン』


「ん?」


『私』


 ミレイア。


「分かるよ」


『本当に?』


「声で分かる」


『じゃあ――』


「フェルン新兵」


 突然。


 ヴァルターの声が割り込んだ。


『私用通信をするな』


『……はい』


 レイブン。


 笑う。


『クロウ新兵』


「はい!」


『お前もだ』


「俺ほとんど喋ってない!」


『返事』


「了解!」


 ノアの笑い声まで無線へ入った。


 その直後。


『全員、私語をやめろ』


 静かになった。


「……便利だけど怖いな」


 レイブンは。


 今度は送信せず。


 小声で呟いた。


◇


 基本操作が一通り終わると。


 ヴァルターは全員を再び集合させた。


「次」


 手元。


 紙。


「実地訓練中、本名を無線へ流すことは禁止する」


 レイブンの耳が動く。


「どういうことです?」


「コールサインを使う」


 ガイルの目が輝く。


「格好いいやつですか!」


「お前が決めるんじゃない」


「……はい」


「それに」


 ヴァルターは釘を刺す。


「今回のものは新兵課程限定だ。正式配属後に引き継がれる保証はない」


 紙を見る。


「訓練中に誰を呼んでいるのか判別するための仮称だと思え」


 それでも。


 新兵たちの顔には。


 少しだけ期待があった。


 名前とは違う。


 軍の中で。


 無線越しに呼ばれる名前。


 最初。


「ディートリヒ・ハーゼン」


「はい」


「《Ledger》」


「……了解」


「似合う」


 ガイルが呟く。


「何で?」


「几帳面だから」


「静かにしろ」


 次。


「ノア・ヴェルナー」


「はい!」


「《Hare》」


 沈黙。


「……そのままでは?」


 ノアが自分の長い耳を触る。


「覚えやすい」


「もうちょっと格好いいのが」


「《Hare》」


「……了解」


 笑いを堪える同期。


「ガイル・ベッカー」


「はい!」


「《Barker》」


「えっ」


 レイブン。


 耐えられなかった。


「ぶっ……」


「何で俺だけ犬が吠えてる意味なんですか!?」


「よく喋るからだ」


「そんな!」


「異議は」


「あります!」


「却下」


「聞く意味ないじゃないですか!」


 とうとう。


 全員が笑った。


 ヴァルターも。


 ほんの少しだけ口元を緩めていた。


 フィーナ。


 ヨハン。


 ミレイア。


 一人ずつ。


 仮の名が与えられていく。


 そして。


「レイブン・クロウ」


「はい」


 笑い声が止まる。


 レイブンは前へ出た。


 父。


 いや。


 教官を見る。


 ヴァルターは紙を見た。


 少し。


 妙な間があった。


「お前は――」


 レイブンの黒い耳が立つ。


「《NoX》」


「……ノックス?」


「表記上は違う」


 ヴァルターは紙を見せた。


 そこには。


 <No=Name(NoX)>


 と記されていた。


「No……Name?」


「ああ」


「名前なし?」


 ガイルが首を傾げる。


「何でレイブンだけ?」


 ミレイアも。


 紙を見る。


 レイブン本人も。


 しばらく。


 その文字を見ていた。


「理由は?」


 ヴァルターへ尋ねる。


「今のお前には、まだ決められないからだ」


「何を?」


「お前がどういう兵士になるのか」


 レイブン。


 黙る。


「射撃が突出しているわけじゃない。体力だけの兵士でもない。〔殺気看破(アタック・シールド)〕を持ち、今度は〔気配完全遮断歩行(ステルス・ウォーク)〕まで発現した」


 ヴァルターは息子を見る。


「SG-44の適性試験もまだ途中だ」


「はい」


「だから今は」


 紙。


 指で叩く。


「名前をつけない」


 レイブンは。


 もう一度。


 自分のコールサインを見る。


 <No=Name(NoX)>


 名前がない。


 だから。


 NoX。


「嫌か?」


 父が尋ねた。


 レイブンは少し考え。


「いや」


 笑った。


「結構好きかも」


「そうか」


「変?」


「かなり」


「父さんが付けたんだろ!」


「クロウ新兵」


「はい!」


「今は教官だ」


「ずるい!」


 同期から。


 また笑い声。


 だが。


 レイブンは紙に書かれた文字を。


 もう一度見た。


 《NoX》。


 それが。


 彼が軍人として最初に与えられた。


 名前ではない名前になった。


◇


 その日から。


 実地訓練では。


 本名が減った。


『Barker、右側確認』


『了解!』


『声大きい』


『無線なんだから聞こえるだろ!』


『だから大きくする必要ないんだよ』


『NoX、私語』


『俺!?』


『今の誰だ!』


『私』


『誰だよ!』


『コールサイン使えって言われただろ!』


 混乱した。


 最初は。


 ひどいものだった。


 自分が呼ばれていることに気づかない。


 他人のコールサインを忘れる。


 送信操作を忘れて独り言になる。


 逆に。


 送信を切り忘れ。


 全員へ独り言を聞かれる。


『腹減った……』


 ガイルの声。


 全員。


 沈黙。


『……え?』


 ヴァルター。


『Barker』


『はい』


『送信しっぱなしだ』


『…………』


『聞こえたぞ』


『忘れてください』


『全員聞いている』


 爆笑。


『笑うな!』


 けれど。


 数日もすれば。


 少しずつ。


 変わった。


『NoX、前方確認』


『了解』


 レイブン。


 〔気配完全遮断歩行(ステルス・ウォーク)〕。


 前進。


 偵察。


 停止。


 敵役。


 発見。


 後退。


『こちらNoX。前方、模擬敵二。巡回中』


『了解。位置は』


 地形を見る。


『二番建物北側。こちらには未接触』


『了解』


 短い。


 必要な情報だけ。


 伝える。


 声を出しているのに。


 仲間は遠くにいる。


 不思議な感覚だった。


 やがて。


 《NoX》と呼ばれれば。


 考えるより先に。


 身体が反応するようになった。


◇


 一方。


 クロウ家。


 夕方。


「ただいま」


 玄関が開く。


「おかえりなさーい!」


 小さな足音。


 ぱたぱた。


 白い猫耳。


 白い尻尾。


 五歳になったルナ・クロウが。


 廊下を走ってくる。


「走るな、転ぶぞ」


「だいじょうぶ!」


 言った直後。


 絨毯へ足を引っ掛ける。


「わっ」


 ヴァルター。


 左腕。


 受け止める。


「ほら」


「……ころんでない」


「俺が受け止めた」


「ころんでないもん」


「そういうことにしておくか」


 ルナは。


 父に抱き上げられながら。


 鼻を動かした。


「おとうさん、くさい」


「訓練場から帰ってきたからな」


「どろ?」


「今日は砂埃だ」


「おにいちゃんも?」


 ヴァルターが。


 一瞬。


 止まる。


「……ああ」


「きょうも?」


「今日も」


「おにいちゃん、なにしたの?」


 最近。


 毎日。


 これだった。


 セレナが。


 台所から顔を出す。


「ヴァルター、手を洗ってからね」


「ああ」


「ルナも」


「はーい」


 父の腕から降りたルナは。


 洗面台へ。


 ヴァルターも続く。


「おとうさん」


「何だ」


「おにいちゃん、きょうもだめだった?」


「……」


 ヴァルター。


 娘を見る。


「誰がそんな言い方教えた」


「おとうさん」


「俺?」


「きのう、『レイブンはまだまだだ』って」


「……言ったな」


 食卓。


 夕食。


 ルナは。


 父から話を聞くのが。


 いつの間にか日課になっていた。


「今日はな」


「うん!」


「無線を使った」


「むせん?」


「遠くにいる人と話せる道具だ」


「おにいちゃん、できた?」


「最初は変な付け方をしていた」


「へんなの?」


「ああ」


「へた?」


「まあな」


「おにいちゃん、へた!」


 嬉しそうに笑う。


 セレナ。


「あなた」


「何だ」


「ルナの中でレイブンがすごく不器用な子になってない?」


「事実を話しているだけだ」


「いいところも話してあげて」


「話してる」


「少しだけでしょう?」


「悪いところの方が面白い」


「もう」


 ルナ。


 父を見る。


「でも、おにいちゃん、すごい?」


 ヴァルター。


 少し黙る。


「……少しな」


「どこ?」


「今日は」


 夕食。


 一口。


「ちゃんと仲間へ必要なことを伝えていた」


「すごい?」


「新兵なら普通だ」


「じゃあすごくない?」


「いや」


 ヴァルター。


 困る。


 セレナが笑っている。


「……昨日よりは良かった」


「じゃあ、すごい!」


「何でそうなる」


「きのうよりできたから!」


 ヴァルターの耳が。


 少し動く。


「……そうだな」


 ルナは。


 嬉しそうだった。


「おにいちゃん、すごい!」


「調子に乗るから本人には言うなよ」


「なんで?」


「兄という生き物は妹に褒められると大体馬鹿になる」


「あなたの偏見でしょう」


「俺の経験則だ」


「妹いないでしょう?」


「……」


 セレナ。


 笑う。


 ルナも。


 よく分からないまま笑った。


◇


 食後。


 ヴァルターは。


 いつもの手帳を開いた。


 レイブンへ。


 いつか渡す。


 ルナの成長記録。


 今日の日付。


 ペン。


 書く。


 ――ルナ、五歳。


 ――最近、レイブンについて毎日尋ねる。


 横。


 ルナ。


 覗く。


「なにかいてるの?」


「秘密だ」


「みたい」


「駄目」


「なんで?」


「お前の兄に渡す」


「おにいちゃん?」


「ああ」


「いつ?」


「立派な新兵になったら」


 ルナは。


 考える。


「いつなる?」


「知らん」


「おとうさん、せんせいでしょ?」


「教官だ」


「じゃあ、してあげて」


「そう簡単なものじゃない」


 ルナ。


 手帳を見る。


「……おにいちゃん」


 小さく。


 呟く。


 ヴァルターが娘を見る。


「どうした」


「おにいちゃんじゃない」


「何?」


 ルナは。


 少し考えた。


 母が時々。


 レイブンを呼ぶ時。


 使う言葉。


 絵本の中で。


 妹が兄を呼ぶ時の。


 少し丁寧な呼び方。


「……兄様」


 ヴァルター。


 瞬きをする。


「何だ、それ」


「にいさま」


 ルナは。


 もう一度。


 言った。


「レイブン兄様」


 セレナが。


 台所から振り返る。


「まあ」


「変?」


 ルナ。


「変じゃないわ」


「じゃあ、兄様!」


 嬉しそうに。


 白い尻尾を揺らす。


「兄様、きょうもがんばった?」


 ヴァルターは。


 娘を見る。


 そして。


 手帳へ。


 一行。


 書き足した。


 ――今日から、レイブンを「兄様」と呼び始めた。


 ペン先。


 少し止まる。


 さらに。


 書く。


 ――本人が聞いたら、おそらく泣く。


「おとうさん、なにかいた?」


「秘密だ」


「みせて!」


「駄目だ」


「みせてー!」


「これはレイブンのだ」


「兄様の?」


「ああ」


 ルナは。


 手帳を見る。


「じゃあ」


 小さな手。


 表紙。


 そっと触る。


「兄様に、あげる」


「そうする」


「ルナもかく」


「まだ字、ちゃんと書けないだろ」


「かく!」


「……セレナ」


「書かせてあげたら?」


「お前まで」


 結局。


 手帳の隅。


 ルナが。


 覚えたばかりの文字で。


 一生懸命。


 書いた。


 形は歪んでいた。


 大きさも揃っていない。


 何度か。


 セレナに教えてもらいながら。


 それでも。


 最後まで。


 自分で書いた。


 ――にいさま。


 その四文字を。


 ヴァルターは。


 直さなかった。


◇


 同じ夜。


 基地。


 レイブンは。


 インカムを返却していた。


「NoX」


「はい」


 振り返る。


 ミレイア。


「もう慣れた?」


「何に」


「その名前」


「《NoX》?」


「うん」


 レイブンは。


 少し考える。


「まだ変な感じ」


「私は似合ってると思う」


「名前なしが?」


「違う」


 ミレイアは笑った。


「まだ何になるか決まってないところ」


「それ褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「馬鹿にしてる」


「おい」


 笑う。


 宿舎。


 戻る。


 レイブンは。


 知らない。


 その日。


 遠く離れた実家で。


 五歳になった妹が。


 自分を。


 初めて。


 「兄様」


 と呼んだことを。


 知らない。


 父の日記に。


 歪んだ文字で。


 ――にいさま。


 と書かれたことも。


 知らない。


 レイブンにとって。


 今日。


 一つの名前が増えた。


 基地では。


 <No=Name(NoX)>。


 家では。


 兄様。


 一方は。


 名前を持たない者という意味。


 もう一方は。


 たった一人の妹から与えられた。


 家族としての名前。


 そのどちらも。


 まだ。


 本人だけが。


 知らない意味を持っていた。


 レイブンは宿舎の寝台へ横になり。


 目を閉じる。


 明日も。


 無線訓練。


 SG-44の適性試験。


 〔気配完全遮断歩行(ステルス・ウォーク)〕の検証。


 やることは。


 山ほどある。


「……NoX、か」


 暗闇の中。


 一度だけ。


 自分で呼んでみた。


 少し変だった。


 でも。


 嫌いではなかった。


 やがて。


 黒い猫耳から力が抜け。


 眠りへ落ちていく。


 同じ頃。


 クロウ家では。


 白猫の妹が。


 母の隣で。


「兄様、おやすみ」


 と。


 ここにはいない兄へ向けて。


 小さく呟いていた。

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