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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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26/189

Season 3「志願兵」 #026

第26話「兵士になる前に」


 午前五時十二分。


 帝国軍志願兵訓練基地。


 空は、まだ夜の色を残していた。


「第二小隊――前へ!」


「はい!」


「遅い!」


「はいッ!」


 冬の冷気を。


 何十人もの声が震わせる。


 レイブンは列の中で背筋を伸ばした。


 昨日支給されたばかりの軍服。


 まだ身体に馴染んでいない軍靴。


 腰には空の弾薬嚢。


 背には訓練用の背嚢。


 そして。


 眠い。


 猛烈に眠い。


「……」


 横を見る。


 ミレイアの灰褐色の猫耳が、完全に横へ倒れている。


「見るな」


「何も言ってない」


「顔が言ってる」


「眠そうだなって」


「レイブンも同じ顔してる」


「俺は平気」


「目の下」


「何」


「ちょっと黒い」


「嘘」


「私語!」


 二人。


「はい!」


 ヴァルターが歩いてくる。


 家で見る父ではない。


 クロウ教官。


 左手に記録板。


 右袖は空のまま。


 列の前を歩く。


「昨日」


 軍靴が止まる。


「貴様らはここへ来た」


 一歩。


「軍服を支給された」


 一歩。


「寝床も与えられた」


 もう一歩。


「飯も食った」


 そして。


 振り返る。


「それで兵士になったと思っている馬鹿はいるか」


 誰も答えない。


「いないようだな」


 ヴァルターは淡々と続ける。


「安心しろ」


 少し間。


「今の貴様らは、軍服を着ているだけの民間人だ」


「……」


「走れない」


「……」


「撃てない」


「……」


「命令系統も理解していない」


「……」


「装備の扱いも知らん」


 ガイルの犬耳が徐々に伏せていく。


「そして何より」


 ヴァルターは全員を見る。


「どうすれば生き残れるのかを知らない」


 レイブンの耳が。


 わずかに動いた。


「今日から教える」


 教官の声。


「貴様らに最初に教えるのは、敵を殺す方法ではない」


 左手。


 自分の胸を指す。


「兵士として身体を壊さず」


 次に。


 地面。


「仲間を見失わず」


 そして。


 基地の向こう。


「最後まで自分の脚で帰ってくる方法だ」


 レイブンは。


 黙って父を見ていた。


 家で。


 訓練場で。


 何度も聞いてきた考え方。


 だが。


 今。


 父は息子に言っているのではない。


 全員へ教えている。


「第一課程」


 ヴァルターが言った。


「走れ」


 ガイルが小さく呟いた。


「……やっぱり」


「ベッカー新兵」


「はい!」


「何か言ったか」


「走るのが楽しみだと言いました!」


「そうか」


 ヴァルターが頷いた。


「先頭をやれ」


「…………はい!」


◇


 三十分後。


「ぜぇ……」


 ガイル。


「はぁ……はぁ……」


 ノア。


「……」


 ディートリヒ。


「ちょっと……待って……」


 フィーナ。


 そして。


「まだ?」


 レイブン。


 ミレイアが横を見る。


「何で平気なの」


「父さんの――」


 言い直す。


「クロウ教官の訓練、前から手伝ってたから」


「ずるい」


「俺は志願するつもりで手伝ってたわけじゃない」


「それでもずるい」


「知らないよ」


 レイブンの呼吸も多少は乱れている。


 だが。


 同期ほどではなかった。


 父の訓練場へ出入りしていた頃。


 兵士が走っている横を。


 自分も走った。


 腕立て。


 腹筋。


 懸垂。


 荷物運び。


 誰にも言わず続けていた。


 ――護るために必要な力。


 あの頃の積み重ねが。


 今。


 少しだけ形になっていた。


「クロウ新兵!」


「はい!」


「余裕がありそうだな!」


「……はい!」


「では背嚢に五キロ追加!」


「えっ」


「返事!」


「はい!」


 ミレイアが。


 横で笑った。


「ざまあみろ」


「フェルン新兵!」


「はい!」


「随分楽しそうだ!」


「いえ!」


「クロウ新兵と同じだ!」


「何で!?」


「七キロ追加!」


「増えてる!」


「返事!」


「はいッ!」


 レイブンが笑う。


「ざまあみろ」


「あとで覚えてろ」


◇


 朝食。


 全員。


 無言だった。


「……」


 ガイルがパンを口へ入れる。


「……」


 ヨハンがスープを飲む。


「……」


 ノアは机に突っ伏している。


「食べないと午後もたないよ」


 フィーナが言う。


「腕が上がらない」


「走ったのは脚でしょ」


「全部痛い」


 レイブンも。


 黙ってパンを食べる。


 向かい。


 ミレイア。


「何」


「別に」


「笑ってる」


「笑ってない」


「背嚢五キロ追加」


「そっちは七キロ」


「教官、絶対私だけ増やした」


「口答えしたからじゃない?」


「レイブンもしてた」


「俺は息子だから」


「贔屓?」


「逆だと思う」


 その言葉。


 全員が。


 妙に納得した。


「……確かに」


 ガイル。


「俺だったら嫌だ」


 ノア。


「逃げ場ないもんな」


 ヨハン。


「家でも教官なんだろ?」


「家では普通だよ」


「本当に?」


 ミレイア。


「ルナ抱いて寝落ちするんだって」


「言うなよ!」


「ルナ?」


 フィーナが反応する。


「妹」


「写真の白猫ちゃん?」


「何で知ってるの」


「昨日ミレイアに見せてもらった」


 レイブン。


 ゆっくり。


 ミレイアを見る。


「勝手に見せた?」


「可愛かったから」


「おい」


「いいじゃん」


「俺の家族写真なんだけど」


 ガイルが身を乗り出す。


「俺も見たい」


「駄目」


「何で!」


「お前は嫌」


「差別!」


 食堂。


 昨日まで知らなかった者たち。


 少しずつ。


 会話が増えていた。


◇


 午前八時。


 武器教練場。


 机の上。


 銃が置かれていた。


 レイブンの目が。


 少しだけ鋭くなる。


 まだSG-44ではない。


 帝国軍で広く配備されている標準的な歩兵用小銃。


 教官補佐が声を上げた。


「触るな!」


 伸ばしかけたノアの手が止まる。


「……はい」


「許可されるまで武器には触れるな!」


「はい!」


 ヴァルターが前へ出る。


「昨日まで」


 机。


 銃を見る。


「これを見て格好いいと思っていた奴もいるだろう」


 数人。


 目を逸らす。


「今日からその考えは捨てろ」


 左手で銃を持ち上げる。


「これは道具だ」


 安全確認。


 薬室。


 弾倉。


 銃口。


 一つずつ。


 ゆっくり。


 全員に見せる。


「正しく使えば味方を守る」


 銃を置く。


「雑に扱えば」


 新兵たちを見る。


「敵を見る前に味方を殺す」


 空気が。


 少し変わった。


「最初に覚えることは三つ」


 ヴァルターが指を立てる。


「銃口を不用意に人へ向けない」


「二つ。撃つ意思がない時、指を引き金へ置かない」


「三つ。渡された銃を、勝手に安全だと思い込まない」


 レイブンは。


 黙って聞く。


 父から。


 以前にも教わった。


 だが。


 今は。


 教官の言葉として聞く。


「では」


 ヴァルター。


「一人ずつ確認する」


◇


「ベッカー新兵」


「はい!」


「受け取れ」


「はい!」


 ガイル。


 銃を受け取る。


「重っ」


「それを一日持つ」


「……はい」


「ハーゼン新兵」


 ディートリヒ。


「フェルン新兵」


 ミレイア。


「アルベル新兵」


 フィーナ。


「ヴェルナー新兵」


 ノア。


「リヒター新兵」


 ヨハン。


 そして。


「クロウ新兵」


「はい」


 レイブンが前へ出る。


 ヴァルターが。


 銃を差し出す。


 レイブンは受け取る前に。


 銃口。


 位置。


 教官の指。


 安全装置。


 確認。


 受け取る。


 弾倉。


 確認。


 薬室。


 確認。


 安全。


「確認しました」


「……」


 ヴァルターは。


 少しだけ息子を見る。


「誰に教わった」


「教官です」


「どの教官だ」


「クロウ教官」


 ヴァルターの口元が。


 ほんの少し。


 動いた。


「なら忘れるな」


「はい」


「戻れ」


「はい!」


 列へ。


 ミレイアが。


 小声。


「今ちょっと嬉しそうだった」


「誰が」


「教官」


「気のせい」


「絶対そう」


「前見ろ」


◇


 午前いっぱい。


 撃たなかった。


 ひたすら。


 持つ。


 置く。


 安全確認。


 分解。


 組み立て。


 また分解。


「部品が余った!」


 ガイル。


「何で余るの!?」


 フィーナ。


「知らん!」


「それ絶対駄目なやつ!」


 ディートリヒが。


 無言で部品を見る。


「それ、ここだ」


「神!」


「説明を聞け」


 一方。


 ノア。


「できた!」


 ミレイアが見る。


「逆」


「え」


「そこ逆」


「……本当だ」


「狩猟経験は?」


「忘れてくれ」


 ヨハンは。


 大きな手で小さな部品を摘まむのに苦戦していた。


「これ……難しい」


「貸して」


 フィーナが手伝う。


「ここ」


「ああ」


「力入れすぎない」


「ありがとう」


 少しずつ。


 得意不得意が見えてくる。


 ディートリヒ。


 装備管理。


 フィーナ。


 細かい作業。


 ノア。


 銃そのものへの理解は早い。


 ヨハン。


 体力と筋力。


 ガイル。


「ガイルは?」


 レイブンが聞く。


「俺?」


「得意なこと」


「場を明るくする」


 ミレイア。


「戦場で役立つ?」


「大事だろ!」


「まあ」


 レイブンは笑った。


「多分、大事」


「ほら!」


◇


 午後。


 障害走。


「壁!」


 ヨハンが先に越える。


「次!」


 ガイル。


「うおおお!」


 失敗。


「痛っ!」


「ベッカー!」


「生きてます!」


「聞いてない!」


 フィーナ。


 苦戦。


「届かない!」


 ミレイアが下から押す。


「今!」


「ありがとう!」


 次。


 レイブン。


 走る。


 踏み切る。


 壁。


 手。


 身体を引き上げる。


 越える。


 着地。


「速っ」


 ノアが呟く。


 レイブンは振り返る。


「ミレイア!」


「分かってる!」


 彼女が跳ぶ。


 少し足りない。


 レイブンが。


 手を伸ばす。


「掴め!」


 手。


 重なる。


「上げる!」


「待っ――」


 引く。


「うわっ!」


 ミレイアが壁を越える。


 二人。


 反対側へ。


 着地。


「……もう少し優しくできない?」


「落ちるよりいいだろ」


「肩抜けるかと思った」


「文句多いな」


「誰のせい」


「次来るぞ!」


 後ろ。


 ノア。


 二人は。


 同時に手を伸ばした。


「来い!」


 ノアが掴む。


 引き上げる。


 次。


 ガイル。


 次。


 フィーナ。


 一人ずつ。


 壁を越える。


 ヴァルターは。


 遠くから。


 それを見ていた。


 何も言わない。


 ただ。


 記録板へ。


 一つ。


 印をつけた。


◇


 夕方。


 新兵たちは。


 地面へ座り込んでいた。


「……朝から何時間経った?」


 ガイル。


「聞きたくない」


 ミレイア。


「脚が俺のじゃない」


 ノア。


「返して」


 ヨハン。


「誰に?」


 フィーナ。


 笑い。


 レイブンも。


 疲れていた。


 さすがに。


 身体が重い。


 それでも。


 悪くない。


 そんなことを思った。


「第二小隊」


 ヴァルター。


 全員。


 慌てて立つ。


「そのままでいい」


「……」


「今日一日」


 新兵たちを見る。


「何を覚えた」


 誰も答えない。


「クロウ新兵」


「俺ですか」


「返事」


「はい!」


「答えろ」


 レイブンは考える。


 走った。


 銃を触った。


 障害を越えた。


 でも。


 それだけではない。


「……一人だと」


「続けろ」


「一人だと、できることが少ない」


 ヴァルター。


 黙って聞く。


「壁も」


 ミレイアを見る。


「銃の整備も」


 ディートリヒたち。


「誰かが分かってることを教えれば、全員が先に進める」


「それで?」


 レイブンは。


 少し考える。


「多分」


 同期を見る。


「兵士になるって、一人で強くなることじゃない」


 ヴァルターの目が。


 ほんの少し細くなる。


「今のところは、それでいい」


 レイブンの耳が動く。


「今のところ?」


「明日になれば考えが変わるかもしれん」


「何するんです?」


 ガイルが。


 嫌な顔をする。


 ヴァルターは。


 淡々と答えた。


「射撃」


 ノアの長い耳が。


 勢いよく立った。


「本当ですか!」


「ヴェルナー新兵」


「はい!」


「随分嬉しそうだな」


「射撃には自信があります!」


「ほう」


 嫌な間。


「では期待している」


 ノアの顔が。


 少し引きつった。


「……言わなきゃよかった」


 小さな声。


 ミレイア。


「馬鹿」


「聞こえてるぞ」


「聞かせた」


 レイブンが笑った。


◇


 夜。


 消灯後。


 宿舎は静かだった。


 ガイルはすでに寝ている。


 ヨハンも。


 フィーナも。


 ディートリヒだけが。


 消灯直前まで装具の位置を確認していた。


 レイブンは。


 寝台の上。


 手帳を開く。


 暗いので。


 月明かりだけ。


 今日。


 覚えたこと。


 書く。


 ――装備は位置を決める。


 ――足を守る。


 ――武器は慣れるまで信用しない。


 ――分からないことは聞く。


 そして。


 一行。


 手が止まる。


 今日。


 壁。


 ミレイア。


 ノア。


 ガイル。


 フィーナ。


 ヨハン。


 ディートリヒ。


 互いに。


 引き上げた。


 レイブンは書いた。


 ――一人で強くなる必要はない。


 少し考え。


 その下。


 ――全員で帰る。


「……」


「まだ起きてる?」


 隣。


 小声。


 ミレイアだった。


「起きてる」


「何書いてるの」


「今日のこと」


「真面目」


「悪い?」


「別に」


 少し。


 沈黙。


「レイブン」


「何」


「今日」


「うん」


「壁の時ありがと」


「どういたしまして」


「でも次はもう少し優しく引っ張って」


「注文多いな」


「肩は一個しかないの」


「二個あるだろ」


「そういう意味じゃない」


 レイブンは。


 声を殺して笑った。


「おやすみ」


「おやすみ」


 手帳を閉じる。


 枕元。


 家族写真。


 その横へ置く。


 明日。


 初めて。


 軍用銃で実弾を撃つ。


 楽しみ。


 そんな気持ちが。


 少し。


 あった。


 怖さも。


 少し。


 あった。


 母との二つ目の約束。


 ――怖い時は、怖いと言うこと。


「……ちょっと怖いな」


 誰にも聞こえないくらい。


 小さな声で。


 初めて。


 自分から認めた。


 そのまま。


 目を閉じる。


 明日。


 彼らは。


 初めて。


 的へ向かって。


 実弾を撃つ。


 だが。


 レイブンが後に自分の代名詞とする一挺――


 SG-44。


 その銃を握る日は。


 まだ。


 少し先のことだった。

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