Season 2「父の背中」 #024
Season2の最後の話です。
第24話「帰るという約束」
異界門が世界各地に出現してから、五日が経った。
町から日常が消えたわけではない。
朝になれば店は開く。
人々は仕事へ向かい、子供たちは学校へ行く。
パン屋からは焼きたての匂いが漂い、路面電車は決まった時刻に停留所へ滑り込んでくる。
けれど、以前と同じではなかった。
新聞の一面には、毎日のように異界門の写真が載っている。
広場では軍用車両を見かけることが増えた。
駅のホームには、装備を背負った兵士が並ぶ。
夜になると灯火管制が敷かれ、窓から漏れる明かりさえ注意されるようになった。
そして何より。
帝国と連邦共和国。
互いに銃口を向けていた二つの国は、異界軍の出現によって、自分たちだけを見ているわけにはいかなくなっていた。
世界そのものが、少しずつ形を変え始めていた。
そんな五日間。
レイブンは考え続けていた。
――何のために志願したい。
父から投げかけられた問いだった。
答えは、まだ全部見つかっていない。
それでも。
半分くらいなら。
ようやく。
言葉にできる気がしていた。
◇
「……母さん」
夕食が終わったあとだった。
セレナはルナを抱き、食卓の椅子に座っていた。
「なあに?」
「話がある」
皿を片づけていたヴァルターの黒い猫耳が動いた。
父には分かったらしい。
何の話なのか。
だが、何も言わなかった。
レイブンは母の向かいへ座る。
ルナはセレナの膝の上で、小さな木製玩具を弄っている。
「母さん」
「うん」
「俺……」
一度。
言葉が止まった。
五日間。
何度も頭の中で練習した。
もっと上手い言い方も考えた。
母を安心させられる言葉も。
反対された時の答えも。
それなのに。
母を目の前にすると。
全部、消えた。
「軍に志願したい」
結局。
出てきたのは、それだけだった。
セレナの表情から笑みが消えた。
「……駄目」
即答だった。
レイブンは俯きそうになる顔を、どうにか上げたままにした。
「母さん」
「駄目よ」
「理由を――」
「聞いても駄目」
白い猫耳が伏せられている。
「あなたが軍へ行く必要なんてない」
「でも」
「駄目」
三度目。
声は怒っているというより。
怖がっていた。
レイブンにも。
それくらいは分かった。
「今、世界中で何が起きてるか分かってるでしょう?」
「分かってる」
「分かってない」
セレナの声が強くなる。
「連邦との戦争だけじゃないの。異界門まで開いたのよ。お父さんが腕を失った場所から、軍隊がこちらへ来ているの」
「……うん」
「そんな時に、どうしてあなたまで行かなきゃいけないの」
ルナが。
母の声に驚いたのか。
玩具を動かす手を止めた。
レイブンは膝の上で拳を握った。
「俺にもできることがある」
「だから何?」
「〔殺気看破〕だって――」
「そんなもの!」
セレナが言い切った。
直後。
自分でも声を上げすぎたと思ったらしい。
ルナを抱く腕に力が入る。
「……そんなものがあるからって、あなたが行かなきゃいけない理由にはならないでしょう」
レイブンは何も言えなかった。
正しい。
スキルがある。
戦えるかもしれない。
人より役に立つかもしれない。
それだけなら。
父に言われた通りだった。
それは志願する理由ではない。
「あなたはまだ若いの」
「分かってる」
「分かってないわよ」
また。
同じ言葉。
「お父さんが帰ってこなかった三か月を、私は知ってる」
レイブンの耳が伏せられた。
「毎日、待ったのよ」
セレナの声が震えた。
「今日帰ってくるかもしれない。明日かもしれない。次の連絡かもしれないって」
「母さん……」
「やっと帰ってきたと思ったら」
視線が。
ヴァルターの右側へ向く。
ない腕。
「今度は、あなた?」
胸の奥が。
痛かった。
「夫の次は息子を待てっていうの?」
「……」
「そんなの、嫌よ」
何も。
返せなかった。
母を説得する言葉を探していたはずなのに。
今は。
口を開くことさえ苦しかった。
「俺……」
やっと。
声が出る。
「母さんを悲しませたいわけじゃない」
「なら行かないで」
すぐに返ってきた。
レイブンは黙った。
その沈黙だけで。
セレナには答えが分かったのだろう。
「……どうして」
小さな声だった。
「どうして、そこまでして行きたいの」
その時。
「セレナ」
ヴァルターだった。
「あなたは黙ってて」
「それはできない」
「ヴァルター」
「こいつは俺にも相談した」
セレナの目が夫へ向く。
「知ってたの?」
「ああ」
「どうして言わなかったの」
「レイブンが自分で言うべきだと思った」
「あなたは反対しなかったの?」
「した」
ヴァルターは迷わず答えた。
「今でも、できるなら行かせたくない」
レイブンが父を見る。
「だったら――」
「だが、俺たちがこいつの人生を全部決めるわけにもいかん」
「死ぬかもしれないのよ!」
「知ってる!」
ヴァルターの声が響いた。
今度は。
ルナがびくりと身体を震わせた。
「……悪い」
ヴァルターは声を落とす。
「知ってるんだ」
左手で。
右肩へ触れる。
「嫌というほどな」
セレナは何も言わない。
「だから、俺もこいつに聞いた」
父の視線がレイブンへ向く。
「何のために志願するのか」
レイブンは。
ゆっくり息を吸った。
五日間。
ずっと考えた。
答えは。
まだ半分しかない。
それでも。
今。
言わなければならない。
「俺は……」
両親を見る。
「父さんみたいになりたいと思ってた」
ヴァルターの耳が動く。
「強くて。兵士に頼られて。戦える人になりたいって」
少し。
笑う。
「でも訓練場へ行ったら、父さんの愚痴ばっかり聞かされた」
「おい」
セレナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「新兵は父さんのこと怖いって言うし、古参兵は靴下を余分に持てとか、水を飲めとか、そんな話ばっかりだった」
「大事な話だ」
「分かってる」
レイブンは父を見る。
「それで分かったことがある」
「何だ」
「父さんが教えてるのって」
一度。
言葉を探す。
「敵を倒す方法より、生きて帰る方法の方が多いんだ」
ヴァルターは答えなかった。
「俺も」
レイブンは続ける。
「敵を倒したいから行くんじゃない」
母を見る。
「帝国に名前を残したいわけでもない」
「じゃあ……」
「護りたい」
言葉にすると。
思っていたより。
単純だった。
「母さんを」
セレナの瞳が揺れる。
「ルナを」
妹を見る。
「父さんも」
「俺もか」
「当たり前だろ」
そして。
「訓練場で知った人たちも。学校の友達も。この町の人も」
レイブンは。
窓の外を見る。
「全部なんて無理だと思う」
自分でも分かっている。
「俺一人で戦争を終わらせられるとも思ってない」
そんな力はない。
「でも」
拳を開く。
「何もしないで、誰かが護ってくれるのを待つだけにはなりたくない」
母を見る。
「それが今の答え」
「……」
「全部じゃない」
正直に言った。
「父さんに聞かれた答えの、たぶん半分くらい」
ヴァルターが小さく息を吐く。
「半分か」
「うん」
「残りは?」
「分からない」
「そうか」
「でも」
レイブンは自分の胸へ手を置いた。
「この半分だけは、嘘じゃない」
静かになった。
時計の音。
ルナが玩具を弄る音。
遠く。
軍用車両が道路を走る音。
セレナは。
ずっと息子を見ていた。
「……ずるいわ」
「え?」
「そんな言い方されたら」
白い耳が。
完全に伏せられる。
「反対しづらいじゃない」
「母さん」
「でも」
すぐ。
目が鋭くなる。
「許可するとは言ってない」
「……はい」
ヴァルターが口を開く。
「セレナ」
「何」
「条件を出せ」
「条件?」
「ああ」
「あなた、最初からそのつもりだったの?」
「俺が決めることじゃない」
「本当にずるい人」
「知ってる」
「褒めてない」
しばらく。
セレナは考えていた。
そして。
「三つ」
指を一本立てる。
「一つ目」
レイブンは背筋を伸ばした。
「自分の命を、他人の命より軽く扱わないこと」
レイブンの表情が変わる。
「誰かを助けるためだからって、簡単に自分を捨てないで」
「……うん」
「返事」
「はい」
二本目。
「二つ目。怖い時は怖いと言うこと」
「え?」
「逃げたい時は逃げたいと言っていい。苦しいなら助けを求めなさい」
「軍人なのに?」
「軍人になるからよ」
セレナは迷わなかった。
「お父さんみたいに、何でも一人で背負おうとしない」
「俺?」
「あなたよ」
「俺は――」
「黙って」
「はい」
レイブンは少しだけ笑った。
そして。
三本目。
セレナは。
なかなか言わなかった。
「母さん?」
「……三つ目」
声が。
少し震える。
「帰ってきなさい」
レイブンの笑みが消えた。
「勝ってこいなんて言わない」
「……」
「勲章もいらない」
「母さん」
「英雄にならなくていい」
セレナの目に。
涙が浮かぶ。
「何も残せなくたっていい」
ルナを抱く腕。
少しだけ。
強くなる。
「だから」
母は。
息子を見る。
「帰ってきて」
レイブンの視界が。
滲んだ。
「……はい」
「聞こえない」
「はい」
「ちゃんと」
「……はい!」
声が震えた。
涙が。
一滴。
頬を流れた。
「約束します」
もう一滴。
拭わなかった。
「絶対に」
その時。
「にーちゃ」
小さな声。
全員が。
ルナを見る。
「ルナ?」
「にーちゃ」
白い猫耳。
小さな手。
兄へ伸びる。
「がん……ば」
レイブンが。
瞬きをする。
「今……」
セレナも目を丸くしていた。
「ルナ」
「がんば……れ」
途切れ途切れ。
覚えたばかりの言葉。
それでも。
確かに。
聞こえた。
「にーちゃ……がんばれ」
レイブンの顔が。
崩れた。
「……っ」
堪えようとした。
無理だった。
涙が。
次々と流れる。
「それは……ずるいだろ……」
ルナは意味を全部理解しているわけではない。
ただ。
家族が何度か使っていた言葉を。
覚えて。
兄へ向けただけなのかもしれない。
それでも。
十分だった。
レイブンは立ち上がった。
涙を腕で拭う。
「レイブン?」
セレナが見上げる。
少年は。
一歩下がった。
足を揃える。
背筋を伸ばす。
右手を上げる。
父が。
何度もやっていた姿。
兵士が。
教官へ。
上官へ。
仲間へ。
敬意を示す時の姿。
まだ軍人ではない。
正式な訓練さえ受けていない。
だから。
形は少し不格好だった。
それでも。
ヴァルターは直さなかった。
レイブンは。
父へ。
母へ。
そして。
母の腕の中にいる妹へ。
家族全員へ。
敬礼した。
「レイブン・クロウ」
声が。
少し震える。
息を吸う。
もう一度。
「必ず」
母を見る。
「絶対に」
妹を見る。
「生きて」
最後に。
父を見る。
「戻ります!」
静かになった。
ヴァルターは。
息子を見つめていた。
やがて。
椅子から立つ。
左手。
ゆっくりと。
額へ。
父も。
敬礼を返した。
「……忘れるなよ」
「はい」
「今言ったこと」
「忘れません」
セレナは。
泣きながら笑っていた。
「本当に」
涙を拭う。
「男二人して……」
その腕の中。
ルナだけが。
何が起きているのかよく分からない顔で。
兄を見ていた。
やがて。
小さな右手を。
頭の横へ持っていく。
「……けーれー」
一瞬。
全員が黙った。
ヴァルターが吹き出した。
「違う。こうだ」
「けーれー!」
「ルナまで教えないで!」
セレナの声。
レイブンは。
涙を流したまま。
笑った。
狭いクロウ家に。
久しぶりに。
家族四人の笑い声が響いた。
◇
その夜。
レイブンは眠る前に。
机の上へ。
一枚の紙を置いた。
帝国軍志願申請書。
まだ。
何も書いていない。
椅子へ座る。
ペンを持つ。
最初。
名前。
レイブン・クロウ。
次。
生年月日。
住所。
家族構成。
一つずつ。
書いていく。
そして。
手が止まった。
志望動機。
「……」
五日前なら。
何を書けばいいか分からなかった。
今も。
全部は分からない。
レイブンは。
しばらく空欄を見つめた。
それから。
ゆっくり。
書き始める。
長い文章ではなかった。
書き終える。
ペンを置く。
窓の外。
夜空。
遠く。
軍施設の照明。
さらに遠く。
異界門への警戒に向かう航空機の音が聞こえた。
レイブンは申請書を折らなかった。
机の上へ。
そのまま置く。
明日。
これを持っていく。
寝室へ向かおうとして。
途中。
ルナの眠る部屋を覗いた。
小さな寝台。
白い猫耳。
静かな寝息。
レイブンは扉の前に立ったまま。
少しだけ。
妹を見ていた。
「……おやすみ、ルナ」
返事はない。
当然だった。
扉を。
静かに閉める。
自室へ戻る。
机の上。
志願申請書。
その横には。
訓練場で使い続けてきた、小さな手帳が置かれていた。
最初の頃に書いた言葉。
――仲間を見る。
――残弾を見る。
――退路を見る。
そして。
――生きて帰る。
レイブンは。
最後の一行を指でなぞった。
「……帰る」
今度は。
独り言ではなかった。
約束だった。
窓の向こう。
遠い夜空が。
一瞬だけ。
青白く明滅した。
異界門の魔力光だった。
世界では。
帝国と連邦共和国の戦争が続いている。
そこへ異界軍まで現れた。
訓練場で父の背中を見ていた日々とは。
もう。
同じではない。
それでもレイブンは。
机の上の申請書を片づけなかった。
翌朝。
それを持って。
家を出るために。
次は、Season3になります。
公開は、この後を予定しております。




