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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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22/189

Season 2「父の背中」 #022

第22話「兄になった日」


 季節は一巡した。


 雪が解け、春が来て、夏の暑さが町を包み、木々が色づき、そして再び窓辺へ白いものが降り始めた頃。


 クロウ家には、以前まで聞こえなかった声があった。


「ふぇ……」


 小さな声だった。


「ふぇぇ……」


 少し大きくなる。


 台所で食器を洗っていたレイブンの黒い猫耳が、ぴくりと後ろへ向いた。


「……来る」


 泡のついた皿を置く。


「ふぇぇぇぇ……!」


「来た」


 泣き声。


 レイブンが居間へ顔を出すと、ソファに座ったヴァルターが小さな毛布の塊を左腕だけで抱えていた。


「おいおい。何だ。どうした」


「父さん、抱き方変じゃない?」


「変じゃない」


「首」


「支えてる」


「もっとこうじゃない?」


「お前、詳しくなったな……」


「母さんに教わった」


 毛布の中。


 白い猫耳が二つ。


 まだ小さい。


 髪も白に近い淡色で、眠そうに細められた瞳から涙がこぼれている。


 ルナ・クロウ。


 セレナと同じ白猫系亜人の女の子。


 クロウ家に加わった、新しい家族だった。


「お腹じゃない?」


 レイブンが尋ねる。


「さっき飲んだ」


「おむつ」


「替えた」


「暑い?」


「室温は問題ない」


「じゃあ何で泣いてるの?」


「俺に聞くな」


「父親でしょ」


「お前も兄だろ」


 二人で。


 ルナを見る。


「ふぇぇぇぇぇ!」


「……」


「……」


「母さん呼ぶ?」


「待て」


 ヴァルターの軍人としての意地にでも触れたのか。


 父は立ち上がると、ルナを抱いたまま部屋をゆっくり歩き始めた。


「ルナ。敵情を説明しろ」


「赤ちゃんに何言ってるの」


「泣いている理由が分からん」


「敵じゃないよ」


「状況把握は重要だ」


「父さん」


「何だ」


「多分眠いだけ」


「……本当か?」


 レイブンは妹の耳を見る。


 白い耳が力なく横へ倒れている。


「母さんが言ってた。眠い時こうなるって」


「なるほど」


 ヴァルターは身体を小さく揺らした。


「寝ろ」


「命令しないの」


「じゃあ、寝てください」


「敬語でもない」


「難しいな……」


 そのやり取りを聞いていたのか。


 寝室の扉が開いた。


「あなたたち」


 セレナだった。


 まだ出産から完全に体力が戻ったわけではない。


 それでも表情は穏やかだった。


「赤ちゃん一人相手に何を苦戦してるの?」


「苦戦してない」


「泣いてるじゃない」


「これは戦略的――」


「父さん、それ便利に使いすぎ」


 レイブンが言った。


「最近お前、俺への当たり強くないか?」


「母さんに似たんじゃない?」


「あなたが育てたのよ」


「俺なのか?」


 セレナが笑う。


 ルナの泣き声が少しずつ小さくなっていった。


 やがて。


 白い耳が、ぺたりと伏せられる。


「……寝た」


 ヴァルターが小声で言った。


「寝たね」


「勝った」


「だから戦いじゃないって」


 レイブンは声を殺して笑った。


◇


 ルナが生まれてから。


 レイブンの朝は少し早くなった。


 目覚まし時計より先に。


「ふぇ……」


 隣の部屋。


 猫耳が反応する。


 目を開ける。


「……まだ暗い」


 布団を頭まで被る。


「ふぇぇ……」


「母さん……」


 返事なし。


「父さん……」


 返事なし。


「……俺?」


 三秒。


 布団から出る。


 居間へ行くと、簡易の寝台でルナが身体を動かしている。


「どうした?」


 抱き上げる。


 最初は怖かった。


 腕に力を入れすぎてもいけない。


 首を支える。


 頭。


 背中。


 父から習った銃の持ち方より、ずっと慎重だった。


「お腹?」


 ルナが手を伸ばす。


 小さな指が。


 レイブンの人差し指を握った。


「……」


 思ったより。


 力がある。


「お前、小さいのに強いな」


 ルナは答えない。


 代わりに。


 レイブンの指を離さない。


「兄ちゃん学校あるんだけど」


「うー」


「分かってないだろ」


「あぅ」


「……まあいいか」


 そのまま。


 少しだけ。


 抱いていた。


◇


 そして。


 レイブンにも一つの区切りが訪れた。


 卒業の日。


 校舎には春の風が吹いていた。


「卒業生代表――レイブン・クロウ」


「はい」


 名前を呼ばれる。


 壇上へ。


 金色と黒色の異色眼(オッドアイ)が正面を向く。


 証書を受け取る。


「卒業、おめでとう」


「ありがとうございます」


 最後まで。


 成績首席。


 運動成績も高水準。


 教師から叱られることもあった。


 友人と馬鹿なことをした日もあった。


 試験前。


 勉強を教えるため友人たちに囲まれたことも。


 授業中に居眠りして。


 猫耳を教師に引っ張られたこともある。


 その全部が。


 今日で終わる。


 式が終わると。


 友人が肩を組んできた。


「クロウ!」


「うわっ」


「最後まで首席とか嫌味か!」


「知らないよ!」


「一回くらい二位になれ!」


「お前が一位取ればよかっただろ!」


「それができたら苦労しねえ!」


 別の友人も来る。


「卒業しても忘れんなよ」


「忘れないって」


「軍人になるのか?」


 レイブンは。


 少しだけ黙った。


「……まだ決めてない」


「お父さん軍人だろ?」


「予備役」


「同じようなもんじゃん」


「全然違うって父さんが怒るぞ」


 笑い声。


 最後。


 校門。


 レイブンは一度だけ振り返った。


 毎日。


 当たり前のように通った学校。


「じゃあな」


 誰に言ったわけでもない。


 鞄を肩へ掛け直す。


 そして。


 家へ向かった。


◇


「ただいま」


 玄関を開ける。


「静かに」


 父の声。


「え?」


「寝たばかりだ」


 居間。


 ヴァルターがいた。


 左腕。


 ルナ。


 その横。


 セレナ。


「おかえり」


「ただいま」


「卒業、おめでとう」


「ありがとう」


 レイブンは証書を見せた。


「最後まで首席」


「知ってるわよ」


 セレナが笑う。


 ヴァルターも証書を見る。


「よくやった」


「それだけ?」


「何が欲しい」


「もうちょっと褒めてもよくない?」


「偉い」


「雑!」


「立派だ」


「追加しただけじゃん」


「首席卒業おめでとう」


「棒読み!」


 セレナが声を抑えて笑っている。


 その声で。


 ルナの耳が動いた。


「あ」


 三人。


 止まる。


「ふ……」


「待て」


「ふぇ……」


「起きるな」


「ふぇぇぇぇ!」


「父さんの負け」


「何で俺のせいなんだ」


 ヴァルターが困った顔でルナをあやす。


 レイブンは卒業証書を机へ置いた。


「貸して」


「何を」


「ルナ」


「制服のままだぞ」


「あ」


「着替えて手を洗ってこい」


「はい」


 母が笑う。


「こういうところはお父さんね」


「教育の成果だ」


「都合がいい時だけ言わないの」


◇


 卒業して数日。


 ヴァルターは訓練場へ向かう準備をしていた。


 だが。


「あなた」


 セレナの声。


「何だ?」


「今日だけお願い」


 ルナ。


 朝から機嫌が悪かった。


 セレナも寝不足。


 ヴァルターは時計を見る。


 妻を見る。


 娘を見る。


 玄関を見る。


「……休むか」


「でも訓練は?」


「補助教官はいる」


「父さん」


 レイブンが口を開いた。


「俺、行こうか?」


 ヴァルターが振り返る。


「何しに」


「連絡」


「連絡?」


「父さんが今日行けないって」


「伝令なら通信で済む」


「それだけじゃなくて」


 レイブンは少し考える。


「訓練場の記録、前から手伝ってたでしょ」


「お前が教官をやるのは駄目だぞ」


「やらないよ」


「なら?」


「記録とか、標的とか。できることだけやる」


 ヴァルターが息子を見る。


 もう。


 学校の制服ではない。


「……勝手なことはするな」


「しない」


「銃には担当者の許可なしで触るな」


「分かってる」


「兵士の指導はするな」


「俺が?」


「念のためだ」


「しないって」


「それと――」


「ヴァルター」


 セレナが呆れたように言う。


「行かせるの? 行かせないの?」


「……行ってこい」


 レイブンの耳が立った。


「了解」


「家では軍隊みたいに返事するな」


「はい、教官」


「レイブン」


「行ってきます!」


 逃げた。


「誰に似たのかしら」


「俺を見るな」


◇


 訓練場。


「クロウ教官は?」


 新兵の一人が尋ねた。


「今日は休み」


 レイブンが答える。


 数秒。


 新兵たち。


 顔を見合わせる。


「……本当に?」


「うん」


「来ない?」


「たぶん」


 沈黙。


 そして。


「よっしゃあああ!」


「おい!」


「助かった!」


「今日だけ生きられる!」


「父さん何してるの?」


 レイブンは思わず尋ねた。


「何って」


 一人の新兵が真顔になる。


「地獄を作ってる」


「大袈裟だろ」


「お前、息子だから知らないんだ!」


「俺、訓練見てたけど」


「見るのと受けるのは違う!」


 別の兵士が割り込む。


「聞いてくれよ! 昨日なんか匍匐前進してる最中に『遅い! 敵なら待ってくれないぞ!』って!」


「普通じゃない?」


「その後に装備背負って走らされた!」


「普通じゃない?」


「お前もクロウだ!」


「どういう意味だよ!」


 新兵たちが一斉に喋り始める。


「休憩が短い!」


「声がでかい!」


「こっちが疲れてる時ほど元気!」


「射撃姿勢の崩れを遠くから見つける!」


「何で片腕なのに俺たちより速いんだ!」


「知らないよ!」


 レイブンは笑いながら記録用紙を机へ置いた。


「本人に言えば?」


 一斉に。


 静かになった。


「……それは」


「無理だな」


「死にたくない」


「本人いないと強いな、みんな」


「息子から伝えるなよ!」


「どうしようかな」


「やめろ!」


 訓練場に。


 笑い声が広がった。


◇


「楽しそうだな」


 低い声。


 レイブンが振り返る。


 そこには。


 古参兵が数人。


 壁際で装具を整備していた。


「新兵の愚痴を聞いてた」


「毎年同じだ」


 年嵩の軍曹が笑う。


「ヴァルター教官に鍛えられた連中は、最初は全員ああなる」


「軍曹も?」


「俺は違う」


 隣の古参兵が即座に言う。


「こいつ、昔泣いたぞ」


「泣いてねえ!」


「『もう走れません教官』って」


「脚が攣っただけだ!」


 レイブンが笑う。


 軍曹は気まずそうに咳払いした。


「まあ、それは置いとけ」


「はい」


「お前、よく訓練見てるな」


「父さんの手伝いしてるから」


「じゃあ一個教えてやる」


「何?」


 軍曹が。


 地面に置かれた装具を指した。


「一番大事なものは何だと思う?」


 レイブンは考える。


「武器?」


「違う」


「弾薬?」


「違う」


「水?」


「近い」


「食料?」


「それも大事だ」


「じゃあ何?」


 軍曹が。


 自分の靴を叩いた。


「足だ」


「足?」


「歩けなくなった兵士は、戦場じゃ一気にできることが減る」


 靴紐を締め直す。


「靴擦れ一つ馬鹿にするな。濡れた靴下を放置するな。足に違和感があったら早めに処置しろ」


「そんなことで?」


「そんなことだからだ」


 別の古参兵が笑う。


「映画や英雄譚じゃ誰も靴下の話なんかしないだろ?」


「うん」


「でもな。戦場じゃ銃より先に靴下が必要になる時がある」


 レイブンは手帳を取り出した。


「書くのか?」


「忘れたくない」


「ならこれも書いとけ」


 別の兵士。


「水は一気に飲むな」


 もう一人。


「装備は自分で置いた場所を覚えろ。暗闇でも取れるようにな」


「弾倉の残りを感覚だけで決めつけるな」


「新しい靴でいきなり長距離を歩くな」


「眠れる時に寝ろ」


「腹を壊すものを前線で食うな」


「地図は濡らすな」


「靴下は余分に持て」


「それ二回目」


「大事だから二回言った」


 レイブンの鉛筆が追いつかない。


「待って! 一人ずつ!」


 古参兵たちが笑った。


 そこに。


 派手な話はなかった。


 一発で敵を倒す方法も。


 英雄になる方法も。


 誰より強くなる方法も。


 なかった。


 代わりに。


 足を守れ。


 水を飲め。


 眠れる時に眠れ。


 装備をなくすな。


 仲間の位置を覚えろ。


 帰る道を確認しろ。


 そんな話ばかりだった。


「……父さんと同じだ」


 レイブンが呟いた。


「何が?」


「父さんも、撃つことより帰ることばっかり言う」


 古参兵たちが。


 少しだけ静かになった。


 年嵩の軍曹が笑う。


「そりゃそうだ」


「どうして?」


「お前の親父は」


 軍曹は言いかけて。


 少し考えた。


「帰れなかった奴を、たくさん知ってるからな」


 レイブンの鉛筆が止まった。


 異界。


 右腕。


 三か月。


 満身創痍で帰還した父。


「……そっか」


 それ以上。


 聞かなかった。


 軍曹も話さなかった。


◇


 夕方。


「ただいま」


「おかえり」


 セレナの声。


 居間へ入る。


 ヴァルターはソファで眠っていた。


「父さん寝てる」


「ルナを寝かしつけてたら、自分も寝ちゃったみたい」


 その左腕。


 ルナ。


 父の胸へ頬をつけ。


 同じように眠っている。


 黒猫の父。


 白猫の娘。


 色は違う。


 だが。


 二人の猫耳が。


 ほとんど同じ角度で伏せられていた。


「……似てる」


「親子だもの」


「俺も?」


「寝顔はそっくりよ」


「嘘」


「本当」


 レイブンは小さく笑った。


 音を立てないよう。


 鞄を置く。


 毛布を取る。


 父と妹。


 二人へ掛けた。


 その時。


 ルナが小さく動いた。


「んぅ……」


 レイブンの手が止まる。


 起きるか。


 しばらく待つ。


 眠ったまま。


「……よし」


 そっと離れる。


「訓練場はどうだった?」


 セレナが小声で尋ねた。


「父さんの悪口いっぱい聞いた」


「でしょうね」


「驚かないの?」


「家でも似たようなものだもの」


「母さん」


「冗談よ」


 レイブンは手帳を取り出した。


「あと、いろいろ教えてもらった」


「どんなこと?」


「足を大事にしろとか。水とか。靴下とか」


「地味ね」


「俺も思った」


「でも?」


「覚えとこうと思う」


 セレナは。


 息子の顔を見た。


「そう」


 それだけ言った。


 レイブンは自分の部屋へ向かいかける。


 途中。


 振り返った。


 父。


 妹。


 母。


 狭い家。


 以前は三人だった。


 今は四人。


 新しく買った椅子も。


 もう空席ではない。


「レイブン?」


「何でもない」


 自室へ戻る。


 机。


 手帳を開く。


 今日聞いたことを。


 もう一度。


 整理する。


 最後のページ。


 少しだけ余白があった。


 そこへ。


 一行。


 書き足した。


 ――帰るまでが、戦場。


 鉛筆を置く。


 隣の部屋から。


 ルナの泣き声が聞こえた。


「……起きた」


 直後。


「レイブン!」


 父の声。


「何!」


「手を貸せ!」


「父さんが寝かせたんでしょ!」


「起きたものは仕方ない!」


「今行く!」


 手帳を閉じる。


 レイブンは。


 急いで部屋を出た。

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