Season 2「父の背中」 #021
第21話「増える椅子」
雪の降った翌朝。
レイブンが目を覚ますと、台所から話し声が聞こえていた。
父と母だ。
いつもなら食器の音や湯を沸かす音に混じって聞こえる会話なのに、今日は妙に声が小さい。
布団から抜け出し、寝癖のついた黒い髪を掻く。
廊下へ出ると、猫耳が自然に台所の方へ向いた。
「……まだ確定したわけじゃないでしょう?」
「だから再検査へ行くんだ」
「仕事は?」
「休む」
「ヴァルター」
「休む」
「でも――」
「休む」
三回。
同じ返事だった。
レイブンは扉から顔を覗かせた。
「父さん、頑固」
「お前はいつから聞いてた」
「二回目の『休む』から」
「ほぼ全部じゃないか」
食卓に座っていたセレナが小さく笑う。
顔色は昨日より良かった。
「おはよう、レイブン」
「おはよう。母さん、大丈夫?」
「ええ。昨日よりずっと」
「本当に?」
「親子で同じこと聞かないで」
セレナの白い耳が困ったように横へ倒れる。
レイブンは向かいへ座った。
食卓には三人分の朝食。
いつもと変わらない。
それなのに。
昨日、父から聞いた言葉のせいだろうか。
空いている場所が妙に気になった。
この家は狭い。
四人になったらどうするのだろう。
椅子も足りない。
部屋だって。
「……何見てるの?」
「椅子」
「椅子?」
「一個足りないなって」
セレナが瞬きをする。
ヴァルターも手を止めた。
「まだ早いぞ」
「分かってる」
レイブンはパンへ手を伸ばした。
「でも、本当だったらいるでしょ」
父と母は一度だけ顔を見合わせた。
セレナが微笑む。
「そうね」
レイブンはパンを一口齧った。
それ以上は何も言わなかった。
◇
数日後。
診療所から帰ってきた両親は、玄関先でなかなか靴を脱ごうとしなかった。
レイブンは居間から顔を出した。
「どうだった?」
ヴァルターがセレナを見る。
セレナも夫を見る。
「なんで二人で見合ってるの?」
「いや」
ヴァルターが咳払いした。
「母さんから言うか?」
「あなたが言いなさいよ」
「こういうのは母親から――」
「昨日まであれだけ仕切ってたでしょう」
「医者へ連れていくのと説明するのは別だ」
「父さん」
「何だ」
「早く」
「……はい」
ヴァルターは靴を脱いだ。
レイブンの前まで来ると、左手を息子の肩へ置く。
「確認された」
「何が?」
「妊娠だ」
今度は。
可能性ではなかった。
「……本当?」
「ああ」
レイブンの視線が母へ移る。
セレナは静かに頷いた。
「まだ初期だから、しばらく気をつけないといけないけどね」
「じゃあ」
レイブンの耳が少しずつ立っていく。
「本当に俺、兄になるの?」
「そうなるわ」
レイブンは何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
代わりに。
母へ一歩近づく。
腹部を見る。
「……もういるの?」
「いるわよ」
「聞こえる?」
「まだ無理ね」
「〔殺気看破〕でも?」
「それで赤ちゃんを探さないの」
ヴァルターが吹き出した。
「笑うところじゃない」
「悪い」
レイブンは母の腹部をもう一度見る。
見たところで、何も変わっていない。
昨日までの母と同じだ。
「触っていい?」
セレナの表情が柔らかくなる。
「もちろん」
レイブンはそっと手を添えた。
何も分からない。
動きもしない。
音も聞こえない。
それでも。
「……いるんだ」
小さく呟いた。
セレナの手が、その上へ重なった。
「いるのよ」
ヴァルターは二人を見ていた。
その黒い耳が、静かに前を向いていた。
◇
クロウ家の生活は、少しずつ変わった。
劇的な変化ではない。
朝食を作っていたセレナが椅子へ座っている時間が増えた。
買い物へ行く回数が減った。
重いものはヴァルターが持つようになった。
右腕のない父が持ちづらそうにしていれば、レイブンが反対側を持った。
「これ、どこ?」
「棚の上」
「これ?」
「その隣」
「こっち?」
「それは鍋」
「分かってる」
「分かってないじゃない」
台所に立つ父子を、セレナが椅子から眺めている。
「レイブン、包丁は猫の手よ」
「猫だけど」
「そういう意味じゃないわ」
「これ?」
「指を丸めるの」
「こう?」
「そうそう」
横でヴァルターが玉葱を切っている。
「父さん速い」
「軍でも料理くらいする」
「上手かった?」
「食えるものは作れた」
「美味しかったか聞いてる」
「……食えるものは作れた」
「美味しくなかったんだ」
「栄養があればいい」
「だからあなたの料理、全部茶色いのよ」
セレナの一言に、レイブンが笑った。
「母さん、今度俺が作る」
「あら、期待していい?」
「うん」
「俺より上手くなるなよ」
「どうして?」
「父親の威厳が減る」
「料理で保ってたの?」
「レイブン、お前最近母さんに似てきたな」
そんな日が。
少しずつ増えていった。
◇
休日。
レイブンは再び父と試験場へ来ていた。
SG-44は、もう一挺だけではなかった。
作業台の上。
銃架。
試験用に組み立てられた複数の個体が並んでいる。
「増えた」
「ああ。試験生産分だ」
ヴァルターは一挺を左手で支え、技術兵へ渡した。
「今日から実際の兵士に使わせる」
「僕も触る?」
「今日は触らない」
「え」
「見る」
「見る?」
「そうだ」
ヴァルターは訓練場を顎で示した。
「銃を見るんじゃない。兵士を見ろ」
レイブンは父を見る。
「どういうこと?」
「そのうち分かる」
◇
最初の試験射撃。
五人の兵士がSG-44を受け取った。
体格。
年齢。
軍歴。
それぞれ違う。
一人目。
大柄な古参兵。
構える。
撃つ。
反動を受けても姿勢はほとんど崩れない。
二人目。
若い新兵。
発射。
「うわっ!」
肩が大きく後ろへ押された。
「力むな!」
指導員の声が飛ぶ。
三人目。
小柄な兵士。
銃を構えた時点で、わずかに銃口が下がっている。
レイブンは手帳を開いた。
――前が重そう。
四人目。
手袋を着けた兵士。
射撃機構を切り替えようとして、一度指が滑った。
――ボタン。
五人目。
装備を満載した兵士。
折り畳んだ銃床の一部が、背負った装具へ引っかかった。
「あ」
レイブンが声を漏らした。
「気づいたか」
隣にいたヴァルターが言う。
「前に僕が言ったところ」
「ああ」
「まだ直ってない」
「直した」
「でも引っかかった」
「だから見るんだ」
ヴァルターは訓練中の兵士から目を離さない。
「設計図で直っていても、使う人間が変われば別の問題が出る」
「じゃあ完成っていつ?」
「さあな」
「父さんが許可したんでしょ?」
「試作銃としてはな」
ヴァルターの左耳が、発砲音に合わせて僅かに伏せられる。
「兵器に『完璧』なんて言葉を使う奴は信用するな」
「どうして?」
「人間が使うからだ」
レイブンはもう一度、訓練場を見る。
SG-44は全員同じ。
使う兵士は違う。
腕の長さも。
力も。
癖も。
経験も。
「銃じゃなくて、兵士を見る……」
「そういうことだ」
レイブンは手帳へ書いた。
だが。
一度書いて。
消した。
代わりに。
こう書く。
――誰が使っても困らないか。
ヴァルターが横から覗いた。
「悪くない」
「見ないでよ」
「俺の仕事場で書いてるだろ」
「手帳は俺の」
「生意気になったな」
レイブンの尻尾が機嫌よく揺れた。
◇
午後。
訓練内容が変わった。
兵士たちは走った直後にSG-44を構え、射撃する。
次に伏射。
立射。
膝射。
遮蔽物からの射撃。
装填。
移動。
再装填。
レイブンは見続けた。
そのうち。
一つ気づく。
「父さん」
「何だ」
「あの人」
新兵を指差す。
「さっきから右手を気にしてる」
ヴァルターが見る。
確かに。
射撃を終えるたび、兵士は右手を開閉している。
「止めろ」
ヴァルターの声で試験が止まった。
「お前、手を見せろ」
「問題ありません」
「いいから見せろ」
兵士が渋々手袋を外す。
掌。
赤く擦れていた。
「いつからだ」
「三射目くらいからです」
「なぜ言わない」
「これくらいなら続行できます」
ヴァルターの表情が険しくなる。
「続行できるかどうかを聞いてるんじゃない」
「……」
「道具に身体を合わせるな」
SG-44を受け取る。
銃把を見る。
「身体に道具を合わせろ」
技術士官を呼ぶ。
「握りの形状、再検討」
「またですか?」
「擦れてる」
「個人差では?」
「なら個人差を減らせ」
「簡単に言いますね……」
「簡単なら俺を呼んでないだろ」
「それはそうですが」
そのやり取りを。
レイブンは黙って聞いていた。
兵士の赤くなった手を見る。
次に。
SG-44。
そして。
自分の手。
前に試作銃を持った時。
大きいと思った。
重いと思った。
使いづらいと思った。
子供だから。
そう考えていた。
だが。
大人にも。
合わないことがある。
レイブンは手帳へ書いた。
――銃に人を合わせない。
少し考え。
その下。
――人に銃を合わせる。
◇
夕方。
帰宅すると、セレナがソファで眠っていた。
レイブンは玄関で靴を脱ぎながら、父を見る。
「寝てる」
「静かにな」
「うん」
声を落とす。
台所。
食器。
洗濯物。
レイブンは鞄を置くと、そのまま洗濯物へ手を伸ばした。
「俺がやる」
「宿題は」
「あとで」
「母さんとの約束」
手が止まる。
「……先に宿題」
「そうしろ」
レイブンは不満そうに机へ向かった。
しばらくして。
鉛筆の音。
ヴァルターは台所で夕食の準備をする。
途中。
レイブンが顔を上げた。
「父さん」
「何だ」
「赤ちゃんが生まれたら、ここ狭くない?」
「狭いな」
「引っ越す?」
「考えてる」
「お金は?」
ヴァルターの包丁が止まった。
「……お前、十二歳だよな?」
「十二歳」
「最近聞くことが妙に現実的だぞ」
「だって必要でしょ」
「必要だが、お前が心配することじゃない」
「でも家族だよ」
ヴァルターは答えなかった。
しばらく。
玉葱を切る音だけが続く。
「レイブン」
「何?」
「家族だからって、全部一人で背負おうとするなよ」
「一人じゃないよ」
「……」
「父さんもいるし、母さんもいる」
鉛筆を動かしながら。
「だから俺も少し持つ」
ヴァルターの手が止まった。
視線だけを息子へ向ける。
レイブンはもう宿題へ戻っていた。
「……そうか」
「何?」
「いや」
ヴァルターは再び包丁を動かした。
◇
数週間後。
クロウ家の食卓に。
見慣れない椅子が一脚増えた。
中古品だった。
他の三脚とは色も形も違う。
「早くない?」
レイブンが言う。
「安かったから」
ヴァルターが答えた。
「まだ座れないよ?」
「知ってる」
「生まれてもすぐ椅子には座らないわよ」
セレナが笑う。
「……知ってる」
「本当に?」
「知ってる!」
レイブンは新しい椅子を見る。
「じゃあ何で買ったの?」
ヴァルターが少し困った顔をした。
「必要になるからだ」
それだけだった。
セレナが椅子の背へ手を置く。
「気が早いお父さんね」
「安かったんだ」
「はいはい」
「本当に安かったんだぞ」
「分かったわよ」
レイブンは笑った。
その日の夕食。
三人はいつもの席へ座った。
もう一脚だけ。
誰も座っていない。
以前なら。
ただの空席だった。
今は違う。
レイブンは食事の途中で一度だけ、その椅子を見た。
そして、自分の皿へ視線を戻す。
「母さん」
「なあに?」
「明日、俺が朝ご飯作ってみる」
セレナが目を丸くする。
「一人で?」
「父さんに手伝ってもらう」
「俺?」
「一人じゃなくていいんでしょ?」
ヴァルターは一瞬だけ黙った。
それから。
小さく笑った。
「ああ」
レイブンも笑う。
「じゃあ父さん、明日は早起きね」
「休日だぞ」
「俺も休日」
「……何時だ」
「六時」
「早すぎる」
「軍人でしょ?」
「予備役だ」
「関係ない」
「セレナ」
「私はレイブンの味方」
「二対一か……」
狭い部屋に笑い声が広がった。
窓の外では。
雪が静かに降っていた。
戦争は終わっていない。
SG-44も、まだ改良を続けている。
クロウ家の生活だって、以前の姿には戻っていない。
それでも。
食卓には。
新しい椅子が一脚。
確かに増えていた。




