Season 2「父の背中」 #020
より小説らしく改善させました(笑)
なんだか、ヴァルターみたいな厳しさになってきている自分に戸惑いを感じます笑
第20話「護るための手」
母から返事をもらうまで、三日かかった。
反対されたわけではない。
むしろセレナは、レイブンがヴァルターの仕事に興味を持つこと自体については何も言わなかった。ただし、十二歳の少年が軍の訓練施設へ出入りするとなれば話は別だった。
学校から帰ったレイブンが居間へ入ると、白猫系亜人である母は食卓の向こう側に座っていた。
「レイブン、そこへ座って」
「……怒ってる?」
「まだ怒ってないわ」
「まだ?」
「座って」
「はい」
向かいへ座る。
隣ではヴァルターが新聞を読んでいた。
その黒い猫耳が、紙面とは無関係な方向――こちらへ向いている。
「父さん」
「何だ」
「聞いてる?」
「新聞を読んでいる」
「耳、こっち向いてるけど」
「猫系亜人だから仕方ない」
「ヴァルター」
セレナに名前を呼ばれ、ヴァルターは新聞を畳んだ。
「……はい」
レイブンは思わず笑いそうになったが、母の視線を感じて口元を引き締める。
セレナは二人を交互に見てから、指を一本立てた。
「学校を最優先すること。宿題を放り出さないこと。成績を落とさないこと。軍の施設で見聞きしたことを、学校で面白半分に話さないこと」
「うん」
「返事」
「はい」
「それから、銃と弾薬には、お父さんか担当者の許可なしに絶対に触らない」
「はい」
そこまではレイブンも予想していた。
だが、セレナはそこで言葉を切った。
「最後に一つ」
白い耳が、ほんの少し横へ開く。
「十二歳であることを忘れないで」
レイブンは首を傾げた。
「どういうこと?」
「お父さんの仕事を手伝うからって、急に大人にならなくていいってことよ」
「でも、仕事なんでしょ?」
「そうね。でも、あなたの仕事は学校へ行くこと。それから、友達と遊んだり、失敗したり、ときどき馬鹿なことをしたりすること」
「馬鹿なことも?」
「限度はあるわよ」
横からヴァルターが口を挟んだ。
「母さん。俺が十二歳の頃は――」
「あなたの十二歳を基準にしたら駄目でしょう」
「まだ何も言ってないぞ」
「聞かなくても分かります」
「……理不尽だ」
レイブンはとうとう吹き出した。
セレナも困ったように笑ってから、息子へ視線を戻す。
「休日だけ。それでいい?」
「うん。……じゃなくて、はい」
「よろしい」
「ってことは?」
「許可します」
黒い猫耳が、ぴんと立った。
「やった!」
「レイブン」
「はい!」
勢いよく座り直した息子を見て、ヴァルターが肩を揺らした。
こうして、レイブンの休日に新しい予定が加わった。
父の仕事を手伝う。
ただ、それだけだった。
少なくとも、最初は。
◇
休日の朝。
帝国軍の訓練施設は、学校とはまるで違う匂いがした。
土と汗。機械油。革製装具。射撃場から流れてくる火薬の残り香。
レイブンに任された仕事は、拍子抜けするほど地味だった。
訓練記録を運び、標的の交換を手伝い、使用済みの備品を所定の場所へ戻す。水筒を運ぶこともあれば、射撃訓練後の薬莢を拾うこともあった。
銃には触れない。
弾薬にも触れない。
だが、目と耳まで塞ぐようには言われていなかった。
「第二班、前へ!」
ヴァルターの声が訓練場を走る。
兵士たちが遮蔽物から飛び出した。前方へ走り、一人が膝をつき、もう一人がその脇を抜ける。
「遅い! 前ばかり見るな!」
最後尾の兵士が慌てて振り返った。
「後ろを見るだけでもない! 仲間を見ろ!」
ヴァルターは右腕のない身体で訓練場を歩いていた。銃を握っていなくても、声だけで兵士たちを動かしている。
「前の奴が撃っている間、お前は何をする!」
「索敵!」
「他には!」
「残弾確認!」
「それから!」
「退路を確認します!」
「そうだ。撃つことだけが戦闘じゃない!」
少し離れた場所で、レイブンは木箱を抱えたまま足を止めた。
作業を終えると、ポケットから小さな手帳を取り出す。
――仲間を見る。
――残弾を見る。
――退路を見る。
鉛筆の先が、そこで止まった。
少し考える。
最後に一行だけ書き加えた。
――生きて帰る。
手帳を閉じる。
「レイブン!」
「はい!」
「終わったか!」
「今持っていきます!」
少年は木箱を抱え直し、父のいる訓練場へ駆けていった。
◇
その夜。
クロウ家の明かりが消えてから、しばらく経った。
レイブンは布団の中で目を開けた。
耳を澄ませる。
父と母の寝室から物音はしない。
そっと起きると、寝間着のまま床へ手をついた。
「……一」
腕を曲げる。
「二……」
父が新兵に教えていた姿勢を思い出す。
腰を落としすぎない。
背中を曲げない。
呼吸を止めない。
「十三……十四……」
腕が震え始めた。
「十五……!」
潰れた。
床へ頬がつく。
「痛っ……」
しばらくそのまま寝転がり、息を整える。
十五。
覚えておく。
次は十六。
立ち上がると、部屋の隅に置かれた箒を取った。
肩へ当ててみる。
違う。
父はそんなふうに構えていなかった。
左足を少し前へ。
身体を真正面に晒さない。
もう一度。
それでも違う気がした。
レイブンは箒を下ろした。
ふと、あの日の街道が頭をよぎった。
乾いた銃声。
母を地面へ押し倒した感触。
どこから狙われているのか、見えていないのに分かった奇妙な感覚。
〔殺気看破〕。
あれがなければ。
レイブンは自分の手を見た。
小さい。
父の手とは違う。
まだ、何かを背負えるような手には見えなかった。
「……もう一回」
箒を置く。
床へ両手をつく。
「一」
誰かを倒したいわけではなかった。
「二」
父のような軍人になりたいのかも、まだ分からない。
「三……」
ただ。
次に何かが起きた時、母の手を引いてもらうだけの自分ではいたくなかった。
「四……!」
今度は。
自分が誰かの手を掴めるようになりたかった。
◇
秋も深まった頃。
帝国軍兵器技術試験場の一角で、一挺の銃が作業台へ置かれた。
SG-44。
長い試験を繰り返してきた帝国新式散弾銃である。
ヴァルターは試験記録を最初から最後まで読み、最後の一枚を机へ置いた。
「……よし」
向かいにいた技術士官が身構える。
「何かありました?」
「試作銃としては合格だ」
数秒。
誰も動かなかった。
「……もう一度お願いします」
「合格」
「本当に?」
「俺は同じことを三度言うのが嫌いだ」
「生産許可ですか!?」
「試験生産の許可だ。本格生産はまだ早い」
「それでも前進ですよ!」
技術士官が椅子から立ち上がった。
「長かった……!」
「大袈裟だ」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
ヴァルターは返事をせず、SG-44を眺めた。
初期試作型より銃身は軽くなっている。強度を保てる部分には肉抜きが施され、銃床も折り畳み式へ変更された。
引き金近くには射撃機構を切り替える操作部が収められている。
通常の先台往復式と、機構による単発自動装填。
どちらを使う場合でも、兵士が大きく手を持ち替えずに済むことが重視されていた。
ヴァルターが先台を引く。
ガシャン。
機関部が開く。
戻す。
ガシャン。
何度か繰り返してから、左手だけで扱いづらそうにSG-44を作業台へ戻した。
「俺の意見ばかり聞いても仕方ないな」
「え?」
「レイブン!」
扉の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「何、父さん?」
学校帰りらしく、制服姿のレイブンが顔を覗かせる。
「鞄を置いて、手を洗ってこい」
「仕事?」
「仕事と言えば仕事だ」
「分かった」
数分後。
戻ってきたレイブンへ、ヴァルターは作業用の手袋を渡した。
「つけろ」
「これ?」
「ああ」
レイブンが手袋をはめる。
ヴァルターはSG-44を持ち上げた。
「受け取れ」
「……僕が?」
「弾は入っていない。引き金には指を掛けるな」
「うん」
「返事」
「はい」
父から銃を受け取る。
ずしり、と両腕が沈んだ。
「……重っ」
思わず出た。
技術士官の顔が引きつる。
「待て。これでも相当軽くなったんだぞ」
「でも重いです」
「君は十二歳だろう!」
「だから呼んだ」
ヴァルターが平然と言う。
「レイブン。遠慮するな。持ってみて、使いにくいと思ったところを全部言え」
「全部?」
「全部だ」
「怒られない?」
「俺が許可する」
技術士官が嫌な予感のする顔をした。
「クロウ少尉、その言い方は――」
「まず構えてみろ」
「はい」
レイブンはSG-44の銃床を肩へ当てた。
少し腕を伸ばす。
眉を寄せる。
「長い」
「……何が?」
「ここ」
銃床を指す。
「僕だと長い」
「十二歳用に設計した銃じゃないからな」
「でも」
レイブンは一度銃を下ろし、折り畳んでみた。
「厚い服を着たら、大人でもちょっと構えにくくならない?」
技術士官の顔から反論が消えた。
ヴァルターの耳がわずかに動く。
「冬季装備か」
「冬?」
「いや、続けろ」
もう一度構える。
十秒。
二十秒。
銃口が少しずつ下がってきた。
「前も重い」
「銃身は肉抜きしてあるぞ」
「それでも重い」
「どれくらいなら持てそうだ?」
父に聞かれ、レイブンはしばらく考えた。
「今なら……十分くらい?」
「走ったあとなら?」
「もっと嫌」
技術士官が額を押さえた。
「辛口だな……」
「父さんが全部言えって」
「続けろ」
「父さん、楽しんでない?」
「気のせいだ」
レイブンは先台へ左手を添えた。
引く。
ガシャン。
戻す。
もう一度。
ガシャン。
「ちょっと硬い」
「新品だからだ。使っていけば馴染む」
「じゃあ泥が入ったら?」
技術士官が黙った。
ヴァルターも息子を見る。
「なぜ泥が出てきた?」
「父さんが訓練で言ってた」
「俺?」
「銃は綺麗な場所だけで使うものじゃないって」
レイブンはSG-44を眺めながら続ける。
「雨が降るかもしれないし、泥に落とすかもしれない。寒かったら手が動かしにくいかもしれないし……」
もう一度、先台を動かした。
「兵士の人が怖くて手を震わせてたら、もっと動かしにくいと思う」
ヴァルターの表情が、ほんの少し変わった。
レイブンは気づかない。
「だから、もっと雑に扱っても動く方がいいんじゃない?」
しばらく、作業場には何も聞こえなかった。
やがて技術士官が椅子へ座り、設計図を引き寄せた。
「……記録します」
鉛筆が走り始める。
ヴァルターがSG-44を受け取ろうとしたが、レイブンは「あ」と声を上げた。
「まだある」
「まだ!?」
「切り替えのボタン」
引き金付近を見る。
「押しやすい」
「そこは何度も直したからな」
「でも、急いでたら間違えて押しそう」
「……」
「あと、折り畳むところの角。服に引っかかりそう」
「……」
「それと――」
「クロウ少尉」
技術士官が静かに顔を上げた。
「何だ」
「息子さん、もう連れてこないでもらえます?」
「どうして?」
レイブンが尋ねる。
「クロウ少尉が二人に増えた気分になる」
レイブンは父を見上げた。
「父さん、嫌われてるの?」
「違う。技術者からの信頼が厚いんだ」
「物は言いようですね」
「聞こえてるぞ」
レイブンが吹き出した。
ヴァルターも僅かに口元を緩める。
SG-44が作業台へ戻された。
その横では、技術士官が新しい線を書き加えている。
レイブンはそれを覗き込んだ。
自分が口にしたことが、一本の線になり、数字になり、設計図へ残っていく。
それが妙に嬉しかった。
「父さん」
「何だ」
「また見てもいい?」
「母さんの許可がある日に限る」
「そこ父さんじゃないの?」
「家庭内の最高司令官は母さんだ」
「やっぱり父さん弱い」
「戦略的撤退と言え」
作業場に、また笑い声が落ちた。
◇
冬になると、避難先の町にも雪が積もった。
以前暮らしていた家よりずっと狭い集合住宅だったが、数か月も暮らせば、どこに何があるのかを暗闇でも探せるようになる。
学校から戻ったレイブンは、玄関を開けた。
「ただいま」
返事がない。
靴を見る。
父も母もいるはずだった。
「母さん?」
奥から物音がした。
続いて、椅子を引きずるような音。
「セレナ!」
父の声だった。
レイブンの耳が一気に立つ。
鞄を玄関へ落とし、廊下を走った。
「母さん!」
台所。
床にセレナが横たわっていた。
ヴァルターが左腕で妻の身体を支えている。
「レイブン、そこで止まれ」
「でも!」
「意識はある」
「母さん!」
セレナがゆっくり目を開けた。
「……大丈夫よ」
「大丈夫な奴は床で寝ない」
「少し眩暈がしただけ」
「医者へ行く」
「ちょっと休めば――」
「駄目だ」
「ヴァルター」
「駄目」
「まだ何も言ってないでしょう」
「言うことは分かる」
普段なら笑えたかもしれない。
けれどレイブンは笑えなかった。
母の白い耳が力なく伏せられている。
それを見ているだけで、胸の奥が落ち着かなかった。
◇
診療所の待合室。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
レイブンは椅子に座り、膝の上で両手を握っていた。
足が動く。
止める。
しばらくすると、また動く。
診察室の扉が開いた。
「父さん」
ヴァルターが出てきた。
「母さんは?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
それだけで、身体から力が抜けた。
椅子の背へもたれる。
「よかった……」
「ただな」
父が妙な顔をしている。
「何?」
「医師の話では、まだ検査が必要だが……」
「うん」
「妊娠している可能性が高いらしい」
「……」
レイブンの耳が動いた。
「妊娠?」
「ああ」
「母さんが?」
「他に誰がいる」
「それって……」
学校で聞いたことはある。
意味も、まったく知らないわけではない。
けれど。
自分の母親。
自分の家。
そう考えると、言葉の意味が急に違って聞こえた。
「家族が増えるってこと?」
「可能性が高い、という段階だ」
「弟?」
「まだ分からん」
「妹?」
「それも分からん」
レイブンは少し考えた。
「じゃあ……俺」
「ん?」
「兄になるの?」
ヴァルターは答えるまで少しだけ間を置いた。
「そうなるかもしれないな」
「……兄」
自分で口にしてみる。
妙な感じだった。
嬉しいのか。
驚いているのか。
不安なのか。
自分でもよく分からない。
ただ。
診察室の扉を見る目だけは、先ほどまでとは少し違っていた。
◇
帰り道。
雪は細かく降り続いていた。
セレナはヴァルターから「今日は絶対に荷物を持つな」と言われ、少し不満そうに歩いている。
その横。
レイブンは母の買い物袋へ手を伸ばした。
「あら?」
「持つ」
「軽いわよ」
「いいから」
「でも――」
「母さん」
レイブンは袋を受け取った。
「今日は俺が持つ」
セレナは何か言おうとして、やめた。
「……ありがとう」
「うん」
少し重かった。
持ち手が指へ食い込む。
けれどレイブンは持ち直しただけで、母へ返さなかった。
ヴァルターは何も言わない。
ただ、息子の横顔を一度だけ見た。
三人は雪道を歩いていく。
レイブンは途中で母の歩幅が少し遅くなったことに気づき、自分も足を緩めた。
父も同じだった。
誰も「ゆっくり歩こう」とは言わなかった。
それでも三人の歩幅は、いつの間にか揃っていた。
レイブンは手の中の袋を握り直す。
訓練場で見た兵士。
設計図の上のSG-44。
夜中に震えた腕。
あの日、自分と母を逃がすために残った父。
どれも頭の片隅にはあった。
けれど今は。
母の隣を歩くことだけを考えた。
雪の上には、三人分の足跡が続いていた。
レイブンはそれを一度だけ振り返り、また前を向いた。




