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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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19/189

Season 2「父の背中」 #019≪特別付録2:エリシアside≫

第19話「見えない銃口」


帝政歴339年――撤退開始から三時間後。


 町は、もう見えなくなりつつあった。


 東へ。


 さらに東へ。


 避難民の列は、街道を埋め尽くしていた。


 老人。


 子供。


 負傷者。


 荷車を押す者。


 背負えるだけの荷物を抱えた者。


 泣いている者。


 何も言わず歩き続ける者。


 帝国軍の車両が、その横をゆっくり進んでいる。


 誰もが疲れていた。


 だが。


 止まることは許されなかった。


「レイブン、離れないで」


「うん」


 セレナの手を握りながら、レイブンは歩いていた。


 何度も後ろを振り返る。


 父の姿はない。


 黒煙も。


 もう地平線の向こう。


「父さん……」


「帰ってくるわ」


「でも」


「帰ってくる」


 セレナは、もう一度言った。


 自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


 その時だった。


「――っ」


 レイブンが突然、足を止めた。


「レイブン?」


 胸。


 いや。


 背中。


 違う。


 身体のどこかではない。


 もっと奇妙な感覚だった。


 首筋へ。


 冷たいものを突きつけられたような。


 誰かに見られている。


 そう思った瞬間。


 頭の中に。


 一本の線が走った。


 右後方。


 斜め上。


 遠い。


「……何?」


 レイブンの黒い猫耳が立つ。


 音は聞こえない。


 何も見えない。


 それなのに。


 分かる。


「レイブン?」


「母さん」


「どうしたの?」


「……伏せて」


「え?」


「伏せて!」


 レイブンがセレナへ飛びついた。


 二人が地面へ倒れる。


 直後。


 ――パァン!


 乾いた音。


 街道脇の軍用車。


 側面へ。


 ――キィンッ!


 弾丸が当たった。


「狙撃!」


 帝国兵の声。


「全員伏せろ!」


「右後方!」


「位置は!?」


「分からない!」


 避難民が悲鳴を上げる。


「動くな!」


「遮蔽物へ!」


「子供を先に!」


 兵士たちが周囲を見る。


 双眼鏡。


 照準器(サイト)。


 索敵。


「見えない!」


「発砲炎は!?」


「確認できません!」


「距離も不明!」


 セレナが。


 レイブンを見る。


「どうして……」


 レイブン自身にも。


 分からなかった。


 ただ。


 まだ。


 感じる。


 見られている。


 狙われている。


 今度は。


 左。


「また来る」


「何?」


「左!」


 レイブンが叫ぶ。


「左から来る!」


 近くにいた帝国兵が反応した。


「左側警戒!」


 数秒。


 ――パァン!


 今度は。


 道路左側の標識が弾けた。


「本当に左だ!」


「どうやって分かった!?」


 レイブンは答えない。


 答えられない。


 頭の中。


 また。


 何かが走る。


 敵意。


 殺意。


 攻撃。


 その向き。


 強さ。


 距離。


 まだ曖昧だった。


 だが。


 分かる。


「……あそこ」


 レイブンが指差した。


「丘?」


 帝国兵が見る。


「もっと右」


「右?」


「木が三本並んでるところ」


 索敵兵が双眼鏡を向ける。


「……」


 数秒。


「いた!」


 声が変わった。


「敵兵確認! 一名! いや二名!」


「距離!」


「約六百!」


「狙撃班!」


 兵士が動く。


 レイブンは。


 その様子を見ていた。


 自分が。


 何をしたのか。


 分からない。


「坊主」


 一人の索敵兵が振り返った。


「お前……何者だ?」


「……レイブン」


「名前じゃなくて」


 だが。


 その先を。


 兵士は言えなかった。


 レイブンの視線が。


 また別方向へ動いた。


「三人」


「何?」


「前」


 レイブンが指差す。


「道路の先に三人いる」


「見えるのか?」


「見えない」


「じゃあどうして――」


「いる」


 断言した。


「こっちを狙ってる」


 索敵兵。


 支援兵。


 二人が顔を見合わせる。


「偵察班、確認!」


 数分後。


 無線。


『前方廃屋付近、敵兵三名確認!』


 沈黙。


 索敵兵が。


 十二歳の少年を見る。


「……冗談だろ」


◇


 夕刻。


 撤退部隊の臨時集結地点。


 ヴァルターは。


 左手でG-35《アードラー》を抱えながら戻ってきた。


「父さん!」


 レイブンが走る。


「おっと」


 右腕は。


 もうない。


 レイブンは途中で気づき。


 父の左側へ飛び込んだ。


「帰ってきた!」


「約束したからな」


「遅い!」


「悪かった」


 セレナも近づく。


 ヴァルターを見る。


 右肩。


 顔。


 身体。


「怪我は」


「ない」


「本当に?」


「擦り傷程度だ」


「右腕は?」


「時間切れ」


「無理したでしょう」


「少し」


「ヴァルター」


「……かなり」


「あとで話があります」


「はい」


 完全に。


 夫が叱られる時の返事だった。


 だが。


 ヴァルターは。


 レイブンを見て。


 眉を寄せた。


「どうした」


「何が?」


「顔色」


 レイブンは。


 自分の胸元へ手を置いた。


「変なことがあった」


「変なこと?」


 近くにいた索敵兵が口を挟んだ。


「クロウ少尉」


「元だ」


「……予備役少尉」


「それも今だけだ」


「息子さんについてです」


 ヴァルターの表情が変わる。


「何があった」


「敵の攻撃を」


 索敵兵が。


 一度。


 レイブンを見る。


「発砲前に察知しました」


「……何?」


「一度じゃありません」


 支援兵も加わる。


「方向まで当てました。潜伏していた敵兵もです」


 ヴァルターが。


 レイブンを見る。


「お前、見えたのか?」


「ううん」


「音?」


「聞こえなかった」


「匂い?」


「違う」


「じゃあ何だ」


 レイブンは。


 言葉を探した。


「……嫌な感じ」


「嫌な感じ?」


「誰かが」


 胸。


「ここに」


 次に。


 首筋。


「銃を向けてるみたいな感じがする」


 ヴァルターの目が細くなる。


「それで方向が分かる?」


「うん」


「人数は」


「たぶん」


「距離」


「なんとなく」


 索敵兵が。


 困った顔をする。


「それを索敵兵の前で言われると、立場がないんですが」


 支援兵が苦笑する。


「俺たち二人がかりで見つけられなかった敵を、この子一人で三回当てました」


 ヴァルターは笑わなかった。


「軍医」


「え?」


「レイブンを診せる」


「父さん?」


「念のためだ」


 セレナも頷いた。


「そうね」


 レイブンだけが。


 自分の中で。


 まだ。


 何かが目を覚ましているような感覚を覚えていた。


 後日。


 帝国軍の魔力適性検査。


 感覚試験。


 既知スキル照合。


 複数の検査が行われた。


 だが。


 該当する能力は。


 一つもなかった。


 軍用索敵魔法でもない。


 感覚強化でもない。


 聴覚拡張でもない。


 未来予知でもない。


 既知の危険察知系スキルとも一致しない。


 世界各地に残された能力記録。


 軍の資料。


 魔術研究機関の分類。


 どこを照合しても。


 同一例が見つからなかった。


 やがて。


 仮の名称が与えられた。


 〔殺気看破(アタック・シールド)〕。


 自分。


 あるいは。


 自分が守ろうと認識した者へ向けられた。


 明確な攻撃意思を察知する。


 個人固有。


 常時発動型。


 受動技能(パッシブスキル)。


 その時。


 レイブン・クロウは。


 十二歳だった。


◇


 それから。


 季節が変わった。


 クロウ家が失ったものは多かった。


 家。


 家具。


 思い出の品。


 町で築いた人間関係。


 何もかもを。


 元通りにはできなかった。


 それでも。


 生活は。


 始めなければならない。


 避難先として割り当てられた町。


 小さな集合住宅。


 二階。


 二部屋。


 狭い台所。


 壁も薄い。


 以前の家より。


 ずっと小さい。


「レイブン!」


「今行く!」


「遅刻するわよ!」


「分かってる!」


 朝。


 制服。


 鞄。


 教科書。


 レイブンはパンを口に咥えかけ。


 セレナに取られた。


「座って食べる」


「時間ない!」


「五分早く起きる」


「父さんだって立ちながら食べてる!」


 視線。


 二人。


 台所。


 ヴァルター。


 立ったままパンを食べている。


「……」


 ヴァルターは。


 静かに。


 椅子へ座った。


「父さん」


「何だ」


「裏切ったな」


「家庭内の指揮権は母さんにある」


「ずるい」


「覚えておけ。勝てない戦いは避けろ」


「ヴァルター?」


「何でもありません」


 レイブンが笑う。


 セレナも。


 少しだけ笑った。


 戦争は。


 まだ続いている。


 だが。


 朝食はある。


 学校もある。


 宿題もある。


 日常は。


 戦争が終わるまで。


 待ってくれなかった。


◇


 学校では。


 レイブンは目立った。


「クロウ、これ分かる?」


「どれ?」


「ここの式」


「先に括弧の中を計算する」


「あ、そっか」


「昨日も同じところ間違えてなかった?」


「言うな!」


 成績。


 首席。


 運動。


 同年代では上位。


 猫系亜人としての身体能力だけでは説明できないほど。


 反応が速い。


 特に。


 球技。


 格闘訓練。


 模擬競技。


 相手が動こうとした瞬間。


 レイブンは。


 すでに反応している。


 ただし。


 〔殺気看破(アタック・シールド)〕は万能ではなかった。


 悪意のない攻撃。


 偶然の事故。


 罠。


 自然災害。


 そういったものには。


 ほとんど反応しない。


 そして。


 学校で。


 本気でレイブンを殺そうとする者など。


 当然いない。


 だから。


 日常では。


 ただの少年だった。


「レイブン!」


「何?」


「放課後、遊ばない?」


「今日は無理」


「また?」


「父さんのところ行く」


「軍?」


「うん」


 ヴァルターは。


 避難後。


 予備役の立場を維持しながら。


 新兵と再編成兵の訓練補助。


 そして。


 ある兵器開発へ。


 再び関わっていた。


◇


 帝国軍兵器技術試験場。


 午後四時二十分。


 木箱が。


 作業台へ置かれた。


「届きました」


 技術士官が言う。


「最終試作型です」


 ヴァルターは。


 箱を見る。


「最終?」


「ええ」


「誰が最終って決めた」


 技術士官の笑顔が。


 少し引きつった。


「……開けます」


「誤魔化したな」


 蓋。


 開く。


 油紙。


 その中。


 一挺の銃。


 ヴァルターが。


 無言になる。


 試作名称。


 SG-44。


 帝国軍が新たに開発した。


 12番径新式散弾実包を使用する。


 軍用散弾銃(ショットガン)。


 初期設計図しか存在しなかった兵器が。


 ようやく。


 銃の形になった。


 ヴァルターが左手で持ち上げる。


「……重い」


「軽量化しました」


「まだ重い」


「旧試作案より一・四キロ軽いです」


「兵士が持つのは旧試作案じゃない」


 技術士官が黙る。


 ヴァルターは。


 銃身(バレル)を見る。


「肉抜きは」


「強度限界まで」


「本当に?」


「試験値があります」


「あとで見る」


 次。


 銃床(ストック)。


 折り畳む。


 開く。


「ここ」


「はい?」


「蝶番が硬い」


「耐久性を優先しました」


「泥が入ったら?」


「……」


「凍ったら?」


「……」


「手袋をしたまま開けられるか?」


「改善します」


「それと」


 引き金(トリガー)付近。


 射撃機能切替ボタン。


「遠い」


「三ミリですよ?」


「三ミリ遠い」


「三ミリ……」


「撃たれてる時の三ミリは長い」


 技術士官が。


 手帳へ書き込む。


「他には?」


「弾倉」


「現在は――」


「装填動作を見せろ」


 技術兵がSG-44を受け取る。


 一発ずつ。


 散弾実包を装填。


 次に。


 試験用着脱式弾倉。


 装着。


 ヴァルターが首を振った。


「駄目」


「まだ何も言ってませんが」


「音が大きい」


「装填音ですか?」


「それも」


 ヴァルターが銃を受け取る。


「重心が変わりすぎる」


「ですが火力は――」


「火力だけなら大砲を持たせろ」


 技術士官が。


 頭を抱える。


「クロウ少尉」


「何だ」


「これ、いつになったら生産許可を出すんです?」


「俺に聞くな」


「あなたが毎回止めてるんです!」


「欠陥があるからだ」


「試験項目は全部合格しています!」


「試験場ではな」


 ヴァルターの声が。


 変わった。


「俺が欲しいのは」


 SG-44を見る。


「試験場で百点を取る銃じゃない」


 右肩。


 もう存在しない腕。


「泥の中へ落として」


 異界。


「雨に濡らして」


 戦場。


「兵士が震えた手で掴んで」


 あの日。


「それでも撃てる銃だ」


 技術士官は。


 何も言わなかった。


「壊れるなら工場で壊せ」


 ヴァルターがSG-44を作業台へ戻す。


「戦場で壊すな」


「……生産承認は?」


「却下」


「やっぱり!」


「改良型を持ってこい」


「何回目ですか!」


「数えてない」


「こっちは数えてます!」


 その時。


 作業場の扉。


 小さく。


 叩かれた。


「父さん?」


 全員が。


 扉を見る。


「レイブン?」


「入っていい?」


 ヴァルターが。


 時計を見る。


「学校は」


「終わった」


「宿題」


「終わった」


「本当に?」


「終わったって!」


 技術士官が。


 少し笑う。


「クロウ少尉、尋問はその辺で」


「お前はSG-44を直せ」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 レイブンが。


 作業台を見る。


「それ」


「触るなよ」


「分かってる」


「見るだけだぞ」


「うん」


 黒い猫耳。


 金と黒の瞳。


 SG-44を見る。


「これが?」


「ああ」


「父さんが作ってるやつ?」


「俺が作ってるわけじゃない」


 技術士官が。


 即座に口を挟む。


「この人は文句を言う担当」


「おい」


「間違ってません」


 レイブンが笑った。


 だが。


 今日は。


 銃を見に来たわけではなかった。


「父さん」


「何だ」


「話がある」


「珍しいな」


「真面目な話」


 ヴァルターが。


 息子を見る。


「……分かった」


 作業場の外。


 廊下。


 二人。


 並ぶ。


「どうした」


 レイブンは。


 少し迷った。


「休日の訓練」


「ああ」


「楽しい」


「それは結構」


「でも」


 父を見る。


「訓練じゃなくて」


「うん」


「父さんの仕事を手伝いたい」


 ヴァルターの表情から。


 僅かに笑みが消えた。


「軍に入りたいって意味か?」


「違う」


「なら?」


「父さんがやってること」


 作業場。


 SG-44。


 設計図。


 兵士。


「どうして駄目なのか」


「……」


「どうして直すのか」


「……」


「そういうのを知りたい」


 ヴァルターは。


 息子を見る。


「十二歳だぞ」


「知ってる」


「学校が仕事だ」


「それも知ってる」


「遊ぶのも仕事だ」


「遊んでる」


「母さんの手伝いは」


「してる」


「……逃げ道を全部塞ぐな」


「父さんが教えた」


「俺はそんなこと教えたか?」


「勝てるように準備しろって」


「余計なところだけ覚えてるな」


 レイブンは。


 少し笑った。


 ヴァルターは。


 作業場を見る。


 SG-44。


 未完成の兵器。


 そして。


 息子。


 まだ。


 兵士ではない。


 兵士にするつもりもない。


「条件がある」


 レイブンの耳が立った。


「いいの?」


「まだ許可してない」


「条件は?」


「銃は勝手に触るな」


「うん」


「弾薬も」


「うん」


「学校を優先」


「うん」


「成績が落ちたら終わり」


「分かった」


「母さんの許可」


「……」


 レイブンの耳が。


 ゆっくり伏せた。


「それ、一番難しくない?」


「だから条件だ」


「父さん」


「俺だけ怒られるのは嫌だ」


「ずるい」


「大人はずるいんだ」


 廊下に。


 親子の声が響いた。


 作業場では。


 技術士官が。


 SG-44を見下ろしている。


「……三ミリ、ねえ」


 引き金(トリガー)付近。


 切替機構。


 その位置を。


 ほんの少しだけ。


 内側へ書き直した。


 まだ。


 SG-44は完成していない。


 そして。


 レイブンも。


 まだ。


 自分が何になるのかを知らなかった。


 ただ。


 少年の世界に。


 父の背中だけではなく。


 父が見ている世界そのものが。


 少しずつ。


 入り始めていた。

特別付録「帰ってきた戦場」


アルディア連邦共和国――軍病院。


「眠れていますか?」


 軍医が聞いた。


「はい」


 エリシアの父は答えた。


「本当に?」


「……時々」


「どれくらい」


 沈黙。


「二時間」


「一晩に?」


「多ければ」


 軍医は。


 紙へ何かを書いた。


「夢は」


「見ます」


「戦場?」


「……はい」


「どんな夢ですか」


 父は。


 膝の上。


 両手を見る。


「家です」


「家?」


「帝国の」


 軍医は待つ。


「町へ入った時」


 洗濯物。


 割れた窓。


 子供靴。


 空薬莢。


「誰もいない家を見た」


「はい」


「それだけなんです」


「それだけ?」


「戦闘じゃない」


 父の指が。


 僅かに震える。


「銃撃された場面でもない」


「……」


「誰もいない家なんです」


 軍医は。


 遮らなかった。


「夢では」


 父が続ける。


「中から人が出てくる」


「誰が?」


「分からない」


「兵士ですか」


「違う」


「では?」


「家族です」


 息を吸う。


「俺を見てる」


「何と言いますか」


「何も」


 父の声が。


 小さくなる。


「だから怖い」


 隣室。


 エリシアの兄も。


 別の軍医と向き合っていた。


「大きな音が苦手になりましたか?」


「別に」


「ご家族から、食器を落とした音で床へ伏せたと聞きました」


「反射です」


「夜中に何度も窓を確認するとも」


「用心してるだけです」


「自宅で?」


「……」


「ここは前線ではありません」


「分かってます!」


 兄が。


 声を荒らげた。


 直後。


 自分の声に。


 自分自身が驚いた。


「……すみません」


「謝る必要はありません」


 軍医は。


 静かに言った。


「身体は帰ってきても、警戒反応が戦場に適応したまま残ることがあります」


「俺は病気なんですか」


「あなたの経験と現在の症状を確認しています」


 軍医は診療記録を見る。


「侵入的な記憶。悪夢。過度な警戒。大きな音への強い反応。戦場を思い出させる場所や話題の回避。そして、それが生活に影響している」


 兄は。


 床を見る。


「……いつ治りますか」


「時間には個人差があります」


「軍へ戻れますか」


「今は、戻ることより治療を優先しましょう」


「でも父さんも――」


「お父様も別室で診察を受けています」


 兄が。


 顔を上げる。


「父さんも?」


「詳しい内容を私から話すことはできません」


「……」


「ただ」


 軍医が言う。


「同じ戦場を経験しても、症状の出方は同じとは限りません」


 診察後。


 二人に下された診断には。


 同じ言葉が記されていた。


 心的外傷後ストレス障害――PTSD。


 それは。


 弱さの判定ではなかった。


 まして。


 臆病者という意味でもなかった。


 戦場から帰還した二人に。


 治療と休養が必要だという。


 医学上の診断だった。


◇


 病院の待合室。


 エリシア・L・ヴォルハラムは。


 椅子に座っていた。


 父と兄が。


 診察室から出てくる。


「お父さん」


「エリシア」


「……帰ろう」


 父が。


 少しだけ笑った。


「ああ」


 兄は。


 何も言わなかった。


 エリシアが。


 兄の隣へ立つ。


「帰ろ」


「……うん」


 三人で。


 病院の廊下を歩く。


 父と兄は。


 戦場から帰ってきた。


 だが。


 戦場のすべてを。


 向こうへ置いてくることは。


 できなかった。


 エリシアは。


 初めて知った。


 戦争は。


 銃声が止まれば。


 終わるものではない。


 家へ帰っても。


 眠っても。


 目を閉じても。


 人間の中で。


 続いてしまうことがある。


 そして。


 遠く離れた帝国では。


 一人の少年が。


 戦争の中で目覚めた力を抱えながら。


 父の仕事を知ろうとしていた。


 二人はまだ。


 互いの名前を知らない。


 互いの顔も知らない。


 けれど。


 同じ戦争は。


 違う形で。


 二人の人生へ。


 確かに痕跡を残し始めていた。

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