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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 2「父の背中」 #018

帝政歴339年――早朝。


 夜が明けても、町に朝は戻ってこなかった。


 西の空を覆っているのは朝靄ではない。


 黒煙だった。


 昨日まで地平線の向こう側にあった戦火は、もう肉眼で見えるところまで迫っている。


 時折、低く腹に響く音が届く。


 数秒後。


 別の場所で、もう一度。


 ――ドォン……。


 クロウ家の窓硝子が微かに震えた。


 食器棚の中で、皿同士が小さな音を立てる。


 十二歳になったレイブン・クロウは、窓の外を見ていた。


 黒い猫耳が、遠方から届く音を拾うたびに動く。


 金色と黒色。


 左右で異なる異色眼(オッドアイ)には、いつもの町とはまるで違う光景が映っていた。


 道路を歩いているのは、仕事へ向かう大人でも、学校へ急ぐ子供でもない。


 荷物を抱えた住民。


 負傷者を運ぶ衛生兵。


 泥まみれの帝国兵。


 そして東へ向かう避難民だった。


「……父さん」


 返事はない。


「父さん?」


 振り返る。


 レイブンは、それ以上言葉を続けられなかった。


 父がいた。


 だが。


 いつもの父ではなかった。


 ヴァルター・クロウは、古びた軍用装具を身につけていた。


 軍服そのものではない。


 階級章もつけていない。


 それでも、その姿には十二歳の少年にも分かるほどの違いがあった。


 そして何より。


 右腕があった。


「……本当に」


 レイブンが呟く。


「生えてる……」


「生えたんじゃない」


 後ろからセレナの声がした。


 白猫系亜人である母の顔には、疲労が滲んでいる。


 ヴァルターの右腕を再構築したのは彼女だった。


 失われた骨格。


 筋肉。


 血管。


 神経。


 それらを本当に再生させたわけではない。


 ヴァルター自身に残された身体の記憶を土台に、セレナの魔力によって一時的に形を与えている。


 右肩から指先へ。


 淡い魔力の光が、皮膚の下を脈打つように流れていた。


「借り物みたいなものよ」


 セレナが言う。


「それも、とても危ない借り物」


「聞こえてるぞ」


 ヴァルターが右手を握った。


 開く。


 もう一度握る。


「感覚は?」


「ある」


「痛みは?」


「ある」


「痺れは?」


「ある」


「なら――」


「セレナ」


 ヴァルターが妻を見る。


「全部ある。大丈夫だ」


「大丈夫な人はそんな答え方しないわ」


 セレナは睨み返した。


「二時間」


「ああ」


「絶対に二時間まで」


「分かった」


「昨日も言ったわね」


「覚えてる」


「二時間を過ぎたら、魔力供給を切るから」


「戦ってる途中でも?」


「途中でも」


 ヴァルターが少し笑う。


「容赦ないな」


「あなたを未亡人製造機にするつもりはないもの」


「……それは俺が死ぬ側じゃないか?」


「そう言ってるの」


 レイブンは二人を見る。


 こんな状況なのに。


 いつもの父と母だった。


 だからこそ。


 怖かった。


 ヴァルターは机へ置かれた銃へ手を伸ばした。


 帝国軍制式G-35《アードラー》。


 木製の銃床(ストック)。


 長い銃身(バレル)。


 使い込まれた金属部。


 かつてヴァルターが軍人だった頃から愛用していた、半自動小銃(マークスマンライフル)。


 六年前。


 異界へ向かった時にも携行した銃だった。


 右手が銃把(グリップ)を握る。


「……」


 ヴァルターは何も言わなかった。


 重い。


 銃そのものが変わったわけではない。


 六年間。


 この重さを忘れていただけだった。


「父さん」


「何だ」


「軍人に戻るの?」


 ヴァルターの黒い猫耳が僅かに動いた。


 すぐには答えない。


 右手には銃。


 首には認識票。


 窓の外には兵士。


 そして、そのさらに向こうには。


 連邦共和国軍がいる。


「……一時的にな」


「どうして?」


「お前たちを逃がすためだ」


「一緒に逃げればいいじゃん」


 レイブンの言葉に、ヴァルターは目を細めた。


「そうしたい」


「だったら――」


「全員がそれをやったら、誰が時間を稼ぐ?」


 レイブンが黙る。


 ヴァルターは息子の頭に左手を置いた。


「勘違いするなよ」


「……何を?」


「帝国のために残るんじゃない」


 セレナを見る。


 レイブンを見る。


 そして窓の外。


 避難していく住民たちを見る。


「父親をやるために残る」


 G-35を肩へ掛ける。


「お前と母さんが逃げ切ったら、俺も逃げる」


「本当に?」


「ああ」


「絶対?」


「……努力する」


「父さん」


「分かった、分かった。絶対だ」


 セレナが呆れたように息を吐いた。


「あなた、息子相手でもそういうところ変わらないわね」


「約束できないことを簡単に約束するなって軍で習った」


「誰に?」


「俺自身に」


「面倒な教官ね」


「評判はよかったぞ」


「自分で言わないの」


 ほんの一瞬だけ。


 家族に笑いが戻った。


 直後。


 ――ドォォンッ!


 今度は近かった。


 窓が大きく揺れる。


 三人の表情から、笑みが消えた。


 ヴァルターがG-35を握る。


「……来たな」


◇


 町の西方。


 午前六時十一分。


「敵部隊確認!」


 帝国軍の観測兵が叫んだ。


「西方街道! 距離約四千!」


 双眼鏡がヴァルターへ渡される。


 覗く。


 見えた。


 装甲車。


 輸送車。


 歩兵。


 そのさらに後方。


 別の車列。


 連邦共和国(アルディア連邦共和国)軍。


 もう。


 地図上の矢印ではなかった。


 人間が歩いている。


 兵士が銃を持っている。


 車両が動いている。


 こちらへ。


「敵の規模は」


「先頭だけでも一個大隊以上と思われます」


「こっちは?」


 若い帝国軍少尉が答える。


「残存兵力を統合して二個中隊相当です」


「相当、か」


 ヴァルターは双眼鏡を下ろした。


 その言葉の意味を知っている。


 完全な二個中隊ではない。


 損耗した部隊。


 指揮官を失った部隊。


 後退してきた兵士。


 行方不明者を抱えた部隊。


 それらを無理やり組み合わせて。


 二個中隊分に見せている。


「即応軍は?」


「向かっています」


「到着予定」


「……不明です」


「住民の避難完了は」


「早くても二時間以上」


 ヴァルターは右腕を見る。


 二時間。


 偶然にも。


 自分の腕と。


 町に残された時間は。


 ほとんど同じだった。


「分かった」


「何がです?」


 G-35の遊底(ボルト)を確認する。


「二時間作る」


◇


 同じ頃。


 町から数キロ西方。


「停止!」


 連邦軍の車列が止まった。


 兵士たちが次々と降車する。


 その中に。


 二人の猫系亜人がいた。


 エリシア・L・ヴォルハラムの父。


 そして。


 兄。


 父親は連邦軍の軍服を整えながら、遠方の町を見た。


「……あそこか」


 兄も見る。


 屋根。


 煙突。


 教会。


 小さな住宅。


 どこにでもある町に見えた。


「帝国軍、まだ残ってるのかな」


 兄が言った。


「いる」


「でも、ここまでずっと後退してる」


「だから何だ」


「もう戦う気がないんじゃないかって」


 父親が息子を見る。


「油断するな」


「父さん――」


「ここでは伍長だ」


「……伍長」


「戦場で敵を見下すな」


 兄は少し不満そうに口を閉じた。


 ここ数週間。


 連邦軍は勝ち続けていた。


 防衛線を突破。


 帝国軍後退。


 都市を確保。


 さらに前進。


 新聞も。


 ラジオも。


 軍内部の話も。


 連邦共和国の優勢ばかりを伝えていた。


 だから。


 いつの間にか。


 帝国軍は弱い。


 そう思い始めていた。


「昨日だって、大した抵抗なかったじゃないか」


「昨日は昨日だ」


「今日も同じかもしれない」


「同じじゃなかったら?」


 兄が黙る。


 父は町を見る。


「死んでから油断していましたと言っても遅い」


「……了解」


 父は知らなかった。


 あの町に。


 十二歳の少年がいることを。


 白猫の母親がいることを。


 六年前に右腕を失った黒猫の男が。


 今。


 自分たちの進路上で銃を握っていることを。


◇


 午前六時二十八分。


 空から。


 音が降ってきた。


 ――ヒュゥゥゥゥ……。


 ヴァルターの耳が跳ねる。


「伏せろ!」


 ――ドォォォンッ!!


 地面が揺れた。


 土煙。


 破片。


 石。


 帝国兵たちが身を伏せる。


 二発目。


 ――ドンッ!


 三発目。


 ――ドォンッ!


「修正射だ!」


 ヴァルターが叫ぶ。


「散れ! 一か所に固まるな!」


 若い兵士が震えながら銃を抱えている。


「敵が!」


「見えてる!」


「撃ちますか!?」


「まだだ!」


「でも射程には――」


 ヴァルターが兵士を見る。


「届く距離と当てられる距離は違う」


 G-35を構える。


「弾は無限じゃない」


 呼吸。


 照準。


 距離。


 敵の動き。


 風。


 ヴァルターの金属製照準器の向こうで。


 連邦軍歩兵が近づく。


「まだ……」


 さらに。


「まだだ」


 若い兵士たちが待つ。


 指が震えている。


 歯を食いしばっている者もいる。


 そして。


「――今」


 ヴァルターの指が。


 引き金(トリガー)を絞った。


 ――ダンッ!


 六年ぶり。


 実戦で。


 G-35が火を噴いた。


 右肩。


 衝撃。


 再構築された腕へ、反動が突き抜ける。


「――ッ!」


 激痛。


 それでも。


 銃口は下がらない。


「射撃開始!」


 帝国側の防衛線が。


 一斉に火を噴いた。


◇


「伏せろ!」


 連邦側。


 エリシアの父が息子を地面へ引き倒した。


 銃弾が頭上を抜ける。


「撃ってきた!」


「戦争なんだから当たり前だ!」


「情報では残存兵だけだって!」


「情報が撃ち返してくるのか!」


 兄が口を閉じた。


 土。


 煙。


 銃声。


 さっきまで静かに見えていた町。


 その手前から。


 激しい抵抗が返ってくる。


「こんな……」


「何だ!」


「こんなに抵抗するなんて……」


 父が銃を構える。


「だから言った」


 兄を見る。


「敵を舐めるな」


 その言葉は。


 数日前の食卓で交わされたものとは。


 重さが違っていた。


◇


 町の東側。


 レイブンはセレナとともに避難民の列へ入っていた。


「前を見て」


 母が言う。


「でも父さんが」


「前を見なさい」


「母さん!」


 レイブンが振り返る。


 西。


 黒煙。


 銃声。


 砲声。


 その向こうに父がいる。


「置いていけない!」


 セレナが立ち止まった。


 レイブンの肩を掴む。


「お父さんが何のために残ったと思ってるの」


「……」


「私たちが止まったら」


 声が震えた。


 白い耳が伏せられる。


「お父さんが残った意味がなくなる」


 レイブンは。


 唇を噛んだ。


「……分かった」


「行きましょう」


「うん」


 歩く。


 東へ。


 一歩進むたび。


 父から遠ざかっていった。


◇


 午前七時十二分。


 低いエンジン音が。


 東側から響き始めた。


 ヴァルターの耳が動く。


「何だ?」


 帝国兵が振り返る。


「車両!」


「敵!?」


「東からです!」


 次の瞬間。


 帝国軍旗。


 装甲車。


 輸送車。


 通信車。


 工兵車両。


「即応軍だ!」


 兵士たちから声が上がった。


「やっと来た!」


 だが。


 ヴァルターは笑わなかった。


「遅い」


 到着した車列を見る。


 そして。


 すぐに異変へ気づく。


「おい」


 通信車。


 補給車。


 救急車。


 狭い道路へ。


 一斉に入ってくる。


「馬鹿野郎……!」


 ヴァルターが走った。


「止めろ!」


 即応軍の兵士が振り返る。


「民間人は下がってください!」


「補給車をそこへ入れるな!」


「何です?」


「救急車の転回路を潰す気か!」


「あなた誰ですか!」


「通信車を東側へ回せ! 補給車はその後ろ!」


「だから誰の命令――」


「ヴァルター・クロウ!」


 兵士が。


 止まった。


「……クロウ?」


 近くにいた古参下士官まで振り返る。


「まさか」


 ヴァルターは構わない。


「指揮官は!」


「こちらです!」


 若い大尉が走ってくる。


「ヴァルター・クロウ予備役少尉ですね?」


「元だ」


「予備役登録は生きています」


「今それを話してる暇があるか?」


 砲声。


 地面が揺れる。


 大尉が黙る。


「戦況を!」


 ヴァルターが言う。


「我々第十一即応大隊は――」


「編制表はいらん! 今ここに何人いる!」


「先着二個中隊!」


「残りは!」


「避難民と軍用車両の渋滞に巻き込まれています!」


「やっぱりか」


 ヴァルターは簡易地図を地面へ広げた。


「ここを見ろ」


 町。


 道路。


 川。


 学校。


 駅。


「西側を守り切ろうとするな」


 大尉が眉を寄せる。


「町を放棄するんですか?」


「違う」


「では――」


「目的を間違えるな」


 ヴァルターが町を指差す。


「守るのは建物じゃない」


 次に。


 東へ伸びる避難路。


「人だ」


 大尉の表情が変わった。


「住民が抜けるまで時間を稼ぐ」


「しかし命令では都市防衛を――」


「全滅して町だけ残してどうする!」


 大尉が黙る。


「住民を逃がす。負傷兵を下げる。その後で部隊も順番に下がる」


「……」


「勝つための戦いじゃない」


 ヴァルターがG-35を握り直す。


「生きて帰るための戦いだ」


 大尉は。


 数秒。


 ヴァルターを見た。


 そして。


 敬礼した。


「了解しました」


「俺に敬礼するな。今の指揮官はお前だ」


「では、助言をお願いします」


「それならやる」


「第十一即応大隊!」


 大尉が無線を取る。


「配置変更! 第一中隊は西側防御線を補強!」


 兵士たちが動き出す。


「第二中隊は北西側面! 工兵は東側避難路の障害物除去!」


 ヴァルターが追加する。


「救急車の経路を最優先で空けろ!」


「了解!」


「動けない軍用車は路外へ!」


「了解!」


「通信線を一本、避難統制所へ回せ!」


「了解!」


 命令が。


 次々と流れていく。


 ヴァルターは。


 気づけば。


 また。


 兵士たちの中心に立っていた。


 六年間。


 捨てたと思っていたもの。


 軍人としての声。


 判断。


 癖。


 全部。


 残っていた。


 右腕と違って。


 魔力で作り直す必要すらなかった。


◇


 午前七時四十六分。


 連邦軍。


「前進!」


 エリシアの父と兄も。


 町へ向かっていた。


 だが。


 進撃速度は明らかに落ちている。


「さっきまでと違う」


 兄が言う。


「何が」


「帝国軍の動き」


 父も気づいていた。


 無秩序だった抵抗が。


 変わった。


 射撃位置。


 後退の順序。


 負傷者の搬送。


 防衛線。


「指揮官が変わったか」


 父が呟く。


「分かるの?」


「分かる」


 前方。


 帝国兵が。


 一部隊ずつ。


 秩序を保ったまま後退していく。


「逃げてるんじゃない」


「じゃあ?」


「時間を稼いでる」


 兄が町を見る。


 その時。


 気づいた。


「……人」


「何?」


「町の向こう」


 双眼鏡。


 東へ続く道。


 避難民。


「まだ住民がいる」


「ああ」


 兄の表情が変わる。


「俺たち」


 少しだけ。


 声が小さくなる。


「そこに向かって攻めてるんだな」


 父は。


 すぐには答えなかった。


「命令は帝国軍防衛線の排除だ」


「でも町がある」


「ある」


「人もいる」


「いる」


 兄は。


 何も言えなくなった。


 父が言う。


「覚えておけ」


「何を?」


「軍服を着ているから撃つんじゃない」


 息子を見る。


「自分や仲間へ武器を向けている相手と戦う」


 さらに。


 東へ逃げていく小さな人影を見る。


「逃げる民間人へ銃を向けるな」


「……了解」


 父が前を見る。


「それと」


「何?」


「帰るぞ」


 兄が。


 少し驚いた。


「エリシアたちが待ってる」


 兄は。


 ほんの少しだけ笑った。


「母さんもね」


「ああ」


 二人は知らない。


 その町の反対側でも。


 まったく同じように。


 家族のもとへ帰ることだけを願っている男がいる。


◇


 午前八時十九分。


「避難率八割!」


 無線兵が叫ぶ。


 ヴァルターは時計を見る。


 右腕。


 震えている。


 皮膚の下。


 魔力の光。


 不規則になっていた。


「……セレナに怒られるな」


「何か?」


「独り言だ」


 G-35を握る。


 指先の感覚が。


 少しずつ薄れている。


「予備線へ後退準備!」


 即応軍の大尉が振り返る。


「まだ戦えます!」


「だから下がるんだ!」


「しかし!」


「戦えなくなってから下がったら」


 ヴァルターの脳裏に。


 森が浮かんだ。


 二つの月。


 血。


 戻らなかった兵士たち。


「それは撤退じゃない」


 大尉を見る。


「敗走だ」


 大尉の表情が変わる。


「第一線、順次離脱!」


「了解!」


「一斉に立つな!」


「はい!」


「負傷者を先に!」


「了解!」


 ヴァルターがG-35を構える。


「俺が最後に――」


「教官」


 横から声。


 見れば。


 マティアス・グレーベ軍曹。


 《モグラ》。


「何してる」


「残ります」


「命令してない」


「予備役の人に命令権ありましたっけ?」


「お前な……」


「教官が言ったでしょう」


 マティアスが銃を構える。


「また帰ってこいって」


「だから先に帰れ」


「教官も一緒に」


 ヴァルターは。


 思わず笑った。


「馬鹿弟子」


「誰に教わったと思ってるんです」


「俺の教育は失敗だったらしい」


「最高の褒め言葉です」


 直後。


 銃弾が土嚢を削った。


「来るぞ!」


 会話は。


 そこで終わった。


◇


 午前八時五十八分。


 町の西部住宅街。


 連邦軍が。


 最初の家々へ入った。


 エリシアの兄が。


 足を止めそうになる。


「……」


 洗濯物。


 壊れた窓。


 倒れた自転車。


 道端。


 片方だけの子供靴。


 つい数時間前まで。


 人が暮らしていた。


「止まるな」


 父が言う。


「分かってる」


 兄は。


 それでも。


 周囲を見る。


「地図だと」


「何?」


「ただの市街地だった」


 父は答えない。


「本当に家なんだな」


「……当たり前だ」


「分かってたつもりだった」


 道の端。


 空薬莢。


 血。


 担架を引きずった跡。


 そして。


 東へ続く。


 無数の足跡。


 兄が呟く。


「帝国軍」


「何だ」


「逃げてたんじゃなかったんだ」


 父が振り返る。


「住民を逃がしてた」


 沈黙。


「……そうかもしれんな」


 父は。


 遠くを見る。


 帝国軍は。


 まだ後退を続けている。


 その中に。


 G-35を左肩へ当て。


 右腕で引き金(トリガー)を扱う。


 一人の黒猫系亜人がいた。


 距離がある。


 顔は見えない。


 名前も分からない。


 ただ。


「……あいつか」


 父が呟く。


「誰?」


「さっきから帝国兵をまとめてる奴」


 兄も見る。


「指揮官?」


「たぶんな」


 実際には。


 予備役から一時的に復帰した。


 ただの少尉だった。


 家族を逃がすためだけに。


 そこへ戻ってきた男だった。


◇


 午前九時十四分。


『クロウ少尉!』


 無線。


『東部避難統制所より連絡!』


「言え!」


『主要住民群、東部検問所を通過!』


 ヴァルターの耳が。


 僅かに立つ。


『避難、ほぼ完了です!』


 数秒。


 何も言わなかった。


「……そうか」


 肩。


 力が抜ける。


「よかった」


 その瞬間。


 右手。


 感覚が消えた。


 G-35が傾く。


「教官!」


 マティアスが銃を受け止める。


「騒ぐな」


「腕が!」


「時間切れだ」


 光。


 右手。


 指先から。


 崩れていく。


 魔力の粒子。


 腕。


 肘。


 上腕。


 最後に。


 右肩。


 光が消えた。


 六年前と同じ。


 右腕のないヴァルターへ戻る。


 マティアスが肩を貸す。


「終わりました」


「……ああ」


「住民も抜けました」


「ああ」


「教官」


「何だ」


 マティアスが。


 G-35を差し出す。


「今度は俺たちが帰る番です」


 ヴァルターは。


 左手で。


 愛銃を受け取った。


「そうだな」


 町を見る。


 煙。


 炎。


 壊れた屋根。


 クロウ家がある方角。


 戻れるかどうか。


 分からない。


 それでも。


 そこに家族はいない。


 それだけでいい。


「総員後退!」


 帝国兵たちが。


 東へ動き始める。


 ヴァルターも歩く。


 数歩。


 そして。


 一度だけ。


 振り返った。


 遠く。


 連邦兵が。


 町へ入ってくる。


 その中に。


 エリシア・L・ヴォルハラムの父と兄がいる。


 ヴァルターは知らない。


 向こうも。


 ヴァルターを知らない。


 この時。


 両家を結びつけているものは。


 名前でも。


 血でも。


 友情でもなかった。


 ただ。


 戦争だった。


 ヴァルターは。


 もう一度。


 東を向く。


「帰るぞ」


 誰かへの命令ではない。


 自分自身へ。


 六年前。


 異界で何度も繰り返した。


 たった一つの命令。


 生きろ。


 歩け。


 帰れ。


 家族のところへ。


 たとえ。


 帰るべき家が。


 もう。


 そこに残っていなかったとしても。

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