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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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17/189

Season 2「父の背中」 #017≪特別付録:エリシアside≫

特別付録「同じ空の反対側」


同日――アルディア連邦共和国領内。


     *


「また勝ったって!」


     *


 朝食の席。


     *


 エリシア・L・ヴォルハラムは。


 兄の声で顔を上げた。


     *


「何が?」


「西部戦線」


     *


 兄が。


 新聞を広げる。


     *


 一面。


     *


 大きな見出し。


     *


 《連邦軍、帝国防衛線を突破》


     *


 父が。


 珈琲を飲みながら言った。


「またか」


     *


 笑っていた。


     *


「帝国軍って、本当に強いの?」


 弟が聞く。


     *


「昔はな」


 父が答える。


「今はどうだか」


     *


 兄が新聞を机へ置く。


「三週間でこれだぞ」


     *


 地図。


     *


 矢印。


     *


 連邦軍の進撃。


     *


 帝国領内へ。


 何本も。


     *


「このまま首都まで行くんじゃないか?」


     *


「そんな簡単じゃないでしょう」


     *


 エリシアが言った。


     *


 家族が。


 彼女を見る。


     *


「何だよ」


 兄。


「新聞見ろよ」


     *


「見てる」


     *


「連戦連勝だ」


     *


「だから?」


     *


「帝国は弱いってことだろ」


     *


 エリシアは。


 新聞へ目を落とす。


     *


 写真。


     *


 破壊された帝国軍車両。


     *


 捕虜。


     *


 占領された町。


     *


 笑顔の連邦兵。


     *


 そこだけ見れば。


     *


 勝っている。


     *


 間違いなく。


     *


「……そこ」


     *


 エリシアが。


 写真の端を指した。


     *


「何?」


     *


 兄が覗き込む。


     *


 小さく。


     *


 写真の隅。


     *


 荷物を抱えて歩く。


     *


 帝国の民間人。


     *


 母親。


     *


 子供。


     *


 老人。


     *


「それが?」


     *


「この人たちも帝国人でしょ」


     *


「そりゃそうだろ」


     *


「兵士じゃない」


     *


 兄は。


 少し黙る。


     *


「戦争なんだから仕方ない」


     *


 エリシアは。


 その言葉が。


 好きになれなかった。


     *


 ――仕方ない。


     *


 便利な言葉だった。


     *


 自分が。


 安全な食卓にいる限り。


     *


「かわいそう」


     *


 ぽつり。


     *


 母が。


 エリシアを見る。


「誰が?」


     *


「帝国の人たち」


     *


 父の眉が。


 少し動いた。


     *


「エリシア」


「分かってる」


     *


 彼女は。


 先に言った。


「帝国と戦争してるのは知ってる」


     *


「なら――」


「でも」


     *


 新聞。


     *


 避難民。


     *


 写真の中。


     *


 子供が。


 こちらを見ている。


     *


「この子が何したの?」


     *


 誰も。


 答えなかった。


     *


◇


 その日の午後。


     *


 ヴォルハラム家にも。


 戦争が来た。


     *


 銃声ではなかった。


     *


 郵便だった。


     *


 封筒。


     *


 連邦共和国軍。


     *


 召集通知。


     *


「……来たか」


     *


 父が。


 封を開ける。


     *


 兄も。


 横から覗き込む。


     *


「誰?」


     *


 エリシアが聞く。


     *


 父は。


 紙を読む。


     *


「俺だ」


     *


 母の手が。


 止まった。


     *


「それと」


     *


 二枚目。


     *


 父が。


 兄を見る。


     *


「お前もだ」


     *


 さっきまで。


 帝国軍の弱さを笑っていた兄から。


     *


 笑顔が消えた。


     *


「……いつ?」


     *


「三日後」


     *


「三日?」


     *


「集合地点は中央駅」


     *


 部屋。


     *


 静かになった。


     *


 新聞には。


 勝利。


     *


 前進。


     *


 突破。


     *


 そんな言葉ばかり。


     *


 なのに。


     *


 父と兄は。


 戦争へ行く。


     *


 エリシアは。


 初めて。


     *


 新聞の中にあった戦争が。


     *


 自分の家へ入ってきたように感じた。


     *


◇


 三日後。


     *


 中央駅。


     *


 軍服。


     *


 鞄。


     *


 兵士。


     *


 家族。


     *


 見送り。


     *


「心配するな」


 父が言った。


     *


「今の戦況なら、そう長くはかからん」


     *


 兄も。


 少し笑う。


「帰ってくる頃には帝国の旗が変わってたりして」


     *


 母が。


「馬鹿なこと言わないの」


     *


 そう言いながら。


 少し笑った。


     *


 エリシアだけは。


 笑わなかった。


     *


「お父さん」


「ん?」


     *


「向こうにも」


     *


 言葉が。


 止まる。


     *


「何だ?」


     *


「……家族がいるんだよね」


     *


 父が。


 娘を見る。


     *


「帝国兵にも」


     *


 少し。


 困ったような顔。


     *


「いるだろうな」


     *


「だったら」


     *


 エリシアは。


 何を言えばいいのか。


 分からなかった。


     *


 敵を殺さないで。


     *


 そんなことは。


 兵士として戦地へ行く父に。


 言えない。


     *


 絶対に帰ってきて。


     *


 それも。


 簡単には言えなかった。


     *


 父が帰るためには。


     *


 誰かの父が。


 帰れなくなるかもしれない。


     *


 そのことに。


     *


 気づいてしまった。


     *


「……何でもない」


     *


 列車。


     *


 汽笛。


     *


 乗車。


     *


 父。


     *


 兄。


     *


 窓。


     *


 手を振る。


     *


 母も。


 弟も。


 手を振った。


     *


 エリシアも。


     *


 小さく。


 手を振った。


     *


 列車が。


 動く。


     *


 西へ。


     *


 帝国方面へ。


     *


 だんだん。


 小さくなる。


     *


 見えなくなる。


     *


 エリシアは。


 ホームに残った。


     *


 頭上。


     *


 駅の拡声器。


『本日も西部戦線において我が連邦共和国軍は――』


     *


 勝利。


     *


 また。


 その言葉。


     *


『帝国軍を後退させ――』


     *


 周囲から。


 歓声。


     *


「また勝った!」


     *


「もう終わるぞ!」


     *


「帝国なんて大したことない!」


     *


 誰かが。


 笑った。


     *


 エリシアは。


 笑えなかった。


     *


 新聞の写真。


     *


 荷物を抱えた帝国の母親。


     *


 その横。


     *


 子供。


     *


 もし。


     *


 父と兄の乗った列車が。


 あの子の町へ向かっているのだとしたら。


     *


 もし。


     *


 あの子の父親が。


 こちらへ銃を向けているのだとしたら。


     *


 どちらが。


 悪いのだろう。


     *


 エリシアには。


 まだ分からなかった。


     *


 ただ。


     *


 勝っているからといって。


     *


 笑っていいものではない。


     *


 それだけは。


 分かった。


     *


「……かわいそう」


     *


 誰にも聞こえない声。


     *


 それは。


 帝国に対してだったのか。


     *


 戦地へ向かった父と兄に対してだったのか。


     *


 それとも。


     *


 敵と味方に分けられてしまった。


     *


 両方の国の人々に対してだったのか。


     *


 エリシア自身にも。


     *


 まだ。


 分からなかった。


     *


 同じ日。


     *


 帝国では。


     *


 一人の黒猫の父親が。


     *


 六年ぶりに銃を握った。


     *


 連邦共和国では。


     *


 一人の少女が。


     *


 父と兄を戦地へ送り出した。


     *


 二人は。


     *


 まだ。


     *


 互いの名前すら知らない。


     *


 同じ戦争を。


     *


 正反対の場所から。


     *


 見ていた。

第17話「二十七キロの向こう」


帝政歴339年。


 夜明け前。


 ヴァルターは、目を覚ましていた。


 正確には。


 眠っていなかった。


     *


 ――ドン。


     *


 遠い。


     *


 ――ドォン。


     *


 少し近い。


     *


 ――……ドン。


     *


 また遠い。


     *


 砲声には。


 妙な規則性があった。


 一定ではない。


 だが、完全な無秩序でもない。


     *


 ヴァルターは寝台に横たわったまま、猫耳だけを音へ向けていた。


「……三門か」


 隣で。


 セレナが動いた。


「起きてたの?」


「起こしたか」


「あなたが眠らないからよ」


「寝てた」


「嘘」


「目は閉じてた」


「それを起きてるっていうの」


     *


 ヴァルターは天井を見る。


 また。


 ――ドン。


     *


「昨日より近い?」


 セレナが聞いた。


「……分からん」


「嘘」


     *


 今度は。


 ヴァルターが黙った。


     *


「分かるのね」


「たぶんな」


「どれくらい?」


「それは本当に分からん」


     *


 砲声だけで正確な距離など測れない。


 風向き。


 湿度。


 地形。


 砲の種類。


 いくらでも変わる。


     *


 だが。


 近づいている。


     *


 それだけは。


 軍人でなくても分かるほどになっていた。


     *


「セレナ」


「なに?」


「荷物」


「まとめてあるわ」


「レイブンの分も?」


「昨日のうちに」


「水は」


「ある」


「食料」


「三日分」


「現金」


「持った」


「身分証」


「ある」


「薬――」


「ヴァルター」


     *


 白い猫の妻が。


 夫を見る。


「私を誰だと思ってるの」


     *


 ヴァルターは。


 少しだけ笑った。


「俺よりしっかりしてる女」


「正解」


     *


 その程度の会話が。


 今はありがたかった。


     *


 ――ドォン。


     *


 二人とも。


 笑うのをやめた。


     *


◇


 午前六時四十分。


 町役場の放送設備が鳴った。


『市民の皆様へお知らせします』


     *


 クロウ家。


 朝食。


     *


 レイブンが。


 スプーンを止める。


     *


『西部地域の戦況変化に伴い――』


     *


 ヴァルターが。


 顔を上げる。


     *


『本日午前七時をもって、市内西部区域に第二段階避難命令を発令します』


     *


「第二段階?」


 レイブンが聞いた。


「西側から順番に町を空ける」


 ヴァルターが答える。


「ここは?」


「まだ対象外だ」


     *


 ――まだ。


     *


 その言葉。


     *


 レイブンも。


 最近は嫌いになり始めていた。


     *


「また、まだなんだ」


     *


 ヴァルターが。


 息子を見る。


     *


「……ああ」


     *


「いつになったら、まだじゃなくなるの?」


     *


 答えられなかった。


     *


◇


 午前八時十三分。


 西へ続く道路。


     *


 東へ向かう人。


 人。


 人。


     *


 荷車。


 自動車。


 自転車。


 徒歩。


     *


 荷物を背負った老人。


 子供を抱えた母親。


 鳥籠を持った少女。


 家財道具を荷車へ積めるだけ積んだ家族。


     *


 道は。


 ほとんど動いていなかった。


     *


「こんなに……」


 レイブンは。


 家の前から見ていた。


     *


 セレナが。


 息子の肩へ手を置く。


「中にいましょう」


「でも」


「邪魔にならないことも手伝いよ」


     *


 その言葉で。


 レイブンは家へ戻った。


     *


 ヴァルターだけが。


 道路に残った。


     *


 流れを見る。


     *


 人間の流れ。


 車両の流れ。


     *


 その隙間を。


 逆方向へ進む軍用車。


     *


 東から西へ。


     *


 兵士。


 弾薬。


 医薬品。


     *


 西から東へ。


     *


 市民。


 負傷兵。


 壊れた車両。


     *


 その二つが。


 同じ道路を奪い合っている。


     *


「……これじゃ増援が前へ出られん」


     *


 思わず。


 口にした。


     *


 その時。


「そうなんですよ」


     *


 背後。


     *


 ヴァルターが振り向く。


     *


「……お前」


     *


 帝国軍の軍曹。


 泥まみれ。


     *


 ヴァルターには見覚えがあった。


「マティアスか?」


「覚えてましたか」


 マティアス・グレーベ軍曹。


 かつて。


 ヴァルターの訓練を受けた兵士。


 兵士仲間からのあだ名は《モグラ》。


 陣地構築が異様に速かったことから付いた。


     *


「どうした、その格好」


「見ての通りです」


「部隊は」


     *


 マティアスの表情が。


 少し変わった。


「再編成中です」


     *


 その言葉。


     *


 ヴァルターは知っている。


     *


 便利な言葉だった。


     *


 部隊が消耗した。


 指揮官が死んだ。


 装備を失った。


 兵が散った。


     *


 それらを。


 まとめて隠せる。


     *


「何人残った」


     *


 マティアスは。


 少し黙った。


「定数百十二」


     *


 そこで。


 言葉を切る。


「今朝の点呼で、四十七」


     *


 ヴァルターは。


 何も言わなかった。


     *


「死んだのか」


「全員じゃありません」


「……そうか」


「負傷。行方不明。後送。別部隊への合流」


     *


「そうか」


     *


 同じ言葉しか。


 出なかった。


     *


「教官」


「俺はもう教官じゃない」


「俺にとっては教官ですよ」


     *


 マティアスは。


 少し笑った。


     *


「教わったこと、役に立ちました」


     *


 ヴァルターの顔が。


 強張る。


「……何が」


「逃げ方」


     *


 意外な答えだった。


「射撃じゃないのか」


「もちろん役に立ちました」


     *


 マティアスは。


 背負った銃を見る。


「でも一番役に立ったのは――」


     *


 ヴァルターを見る。


「『勝てないなら生きて帰れ』ってやつです」


     *


 ヴァルターは。


 返事ができなかった。


     *


「俺」


 マティアスが言う。


「帰ってきましたよ」


     *


「……ああ」


     *


 ようやく。


「よく帰った」


     *


 マティアスは。


 笑った。


「はい」


     *


 敬礼。


     *


 そして。


 また西へ向かった。


     *


「どこへ行く」


「再編成です」


「四十七人で?」


「他の残存部隊と合わせます」


     *


「マティアス」


     *


 軍曹が振り返る。


     *


 ヴァルターは。


 言葉を探した。


     *


 死ぬな。


     *


 そんな保証のできない言葉を。


 言いたくなかった。


     *


「……また帰ってこい」


     *


 マティアスは。


 少し驚いて。


     *


「了解」


     *


 西へ歩いていった。


     *


◇


 午後零時五十六分。


     *


 帝国軍の即応部隊が。


 ようやく町へ到着した。


     *


 だが。


 歓迎するような余裕は。


 誰にもなかった。


     *


 装甲車。


 輸送車。


 工兵車両。


 救急車。


     *


 交差点。


 渋滞。


     *


「止まれ!」


「民間車両を東へ流せ!」


「そっちは軍用道路だ!」


「救急車を先に通せ!」


     *


 怒号。


     *


 運転手同士の罵声。


     *


 泣く子供。


     *


 警笛。


     *


 町そのものが。


 一つの巨大な混乱になっていた。


     *


 ヴァルターは。


 それを見ていた。


     *


「……違う」


     *


 ぽつり。


     *


「父さん?」


     *


 レイブンが。


 隣にいる。


「何が?」


     *


 ヴァルターは答えない。


     *


 車列を見る。


     *


 即応部隊の先頭。


     *


 次。


     *


 補給車。


     *


 その後ろ。


     *


 通信車。


     *


 だが。


     *


「配置が逆だ」


     *


 レイブンには分からない。


     *


 ヴァルターには。


 分かる。


     *


 指揮所を置く場所。


 補給車の待機位置。


 救急車の進入路。


     *


 全部。


 急ぎすぎている。


     *


「これじゃ」


     *


 考える前に。


 身体が動いた。


     *


「父さん?」


     *


 ヴァルターは。


 道路へ出る。


     *


「おい!」


     *


 若い帝国兵が振り返る。


「民間人は下がってください!」


「指揮官は誰だ」


「下がって!」


「指揮官を呼べ!」


「だから――」


     *


「通信車をそこに置いたら、道路を塞ぐ!」


     *


 若い兵士が止まる。


「補給車を東側へ回せ! 救急車の転回場所を空けろ!」


「あなた誰ですか!」


     *


「ヴァルター・クロウ!」


     *


 兵士の表情。


 変わる。


     *


「……クロウ?」


     *


 隣の下士官まで。


 振り返る。


     *


「まさか」


     *


 その名を。


 知っている者がいた。


     *


 異界から。


 右腕を失って帰還した兵士。


     *


 かつて。


 教官だった男。


     *


 ヴァルターは。


 そんな反応を無視した。


     *


「工兵はどこだ!」


「後方です!」


「前へ出せ! 民間車両を一本東へ逃がしてから道路を閉じろ!」


     *


「しかし――」


     *


「ここで詰まったら、撤退部隊まで巻き込むぞ!」


     *


 その言葉。


     *


 下士官が理解する。


     *


「……工兵!」


     *


 命令が飛ぶ。


     *


「東側道路を確保!」


     *


 兵士が走る。


     *


「救急車を先に!」


     *


 車が動く。


     *


 詰まっていた流れが。


 少しずつ。


 ほどけ始める。


     *


 レイブンは。


 道路の端から。


 父を見ていた。


     *


 軍服ではない。


     *


 右腕もない。


     *


 銃もない。


     *


 それなのに。


     *


 兵士たちが。


 父の声で動いていた。


     *


「……父さん」


     *


 初めて。


     *


 レイブンは。


 父がかつて。


 どんな人間だったのか。


     *


 ほんの少しだけ。


 見た。


     *


◇


 午後三時二十一分。


     *


 最初の砲弾が。


 町の外縁へ落ちた。


     *


 ――ドォォォンッ!!


     *


 地面が。


 跳ねた。


     *


 窓。


     *


 一斉に。


 震える。


     *


 鳥が。


 飛び立つ。


     *


「伏せろ!」


     *


 ヴァルターの声。


     *


 レイブンは。


 考えるより先に。


 地面へ伏せていた。


     *


 二発目。


     *


 ――ドンッ!


     *


 遠い。


     *


 三発目。


     *


 ――ドォン!


     *


「着弾修正してる……」


     *


 ヴァルターが。


 呟く。


     *


「父さん?」


     *


「家へ戻れ!」


     *


「でも!」


「母さんを地下へ!」


     *


 その時。


     *


 町役場の放送。


     *


『市民の皆様へ――』


     *


 雑音。


     *


『全市域に避難命令を発令します』


     *


 ついに。


     *


 ――まだ。


     *


 ではなくなった。


     *


◇


「レイブン!」


     *


 セレナが。


 鞄を背負っていた。


     *


「母さん!」


「お父さんは!?」


「外!」


「また!?」


     *


 セレナが。


 玄関へ向かう。


     *


 ヴァルターが。


 戻ってきた。


     *


「二人とも地下へ」


「避難命令よ」


「分かってる」


「なら準備して」


     *


「……」


     *


 ヴァルターが。


 止まる。


     *


「あなた?」


     *


「セレナ」


     *


 声。


     *


 いつもと違う。


     *


「頼みがある」


     *


「何?」


     *


 ヴァルターは。


 自分の右肩を見る。


     *


 何もない。


     *


 六年前。


 異界で。


 失った場所。


     *


「右腕を」


     *


 セレナの表情が。


 変わった。


     *


「……何を言ってるの」


     *


「一時的でいい」


     *


「ヴァルター」


     *


「魔力で再構築できるだろ」


     *


 レイブンが。


 二人を見る。


「再構築……?」


     *


 セレナは。


 夫から目を逸らさない。


「理論上は」


     *


「なら」


「理論上は、よ」


     *


 声が強くなる。


「失った身体を魔力で形にするなんて、長時間維持できるものじゃない」


「分かってる」


「神経まで疑似形成するのよ」


「分かってる」


「痛むわ」


「知ってる」


「あなた、魔法の専門家じゃないでしょう!」


「だからお前に頼んでる」


     *


 沈黙。


     *


 外。


     *


 ――ドォン。


     *


 セレナの白い耳が。


 伏せられる。


「何をするつもり?」


     *


 ヴァルターは。


 すぐには答えなかった。


     *


「……家族を」


     *


 一度。


 言葉を切る。


「逃がせるだけの時間が欲しい」


     *


「軍に戻るの?」


「違う」


     *


 即答だった。


「じゃあ何」


     *


 ヴァルターは。


 妻を見る。


     *


 息子を見る。


「父親をやる」


     *


 セレナは。


 何も言えなくなった。


     *


◇


 地下室。


     *


 ランプ。


     *


 ヴァルターは。


 上着を脱いだ。


     *


 右肩。


     *


 古い傷。


     *


 レイブンは。


 初めて。


 真正面から見た。


     *


 父の腕が。


 本当に。


 途中から存在しないことを。


     *


「見るな」


     *


 ヴァルターが言う。


「……見る」


     *


「レイブン」


「見るよ」


     *


 金色と黒色の瞳。


     *


 逸らさなかった。


     *


 セレナが。


 夫の肩へ。


 両手を置く。


     *


「一度始めたら止められない」


「分かった」


「無理だと思ったら私が切る」


「ああ」


「反論しない」


「善処する」


「反論しない」


「……分かった」


     *


 セレナが。


 目を閉じる。


     *


 魔力。


     *


 空気が。


 僅かに震える。


     *


 白い光。


     *


 右肩。


     *


 失われた場所から。


     *


 細い。


 光の線。


     *


「――ッ!」


     *


 ヴァルターの身体が。


 跳ねる。


     *


「父さん!」


「来るな!」


     *


 歯を食いしばる。


     *


 骨。


     *


 筋肉。


     *


 神経。


     *


 実物ではない。


     *


 魔力によって。


 身体が覚えている形を。


     *


 無理やり。


 世界へ押し出す。


     *


「ぐ……っ!」


     *


 汗。


     *


 呼吸。


     *


 セレナも。


 震えている。


     *


「あと少し……!」


     *


 指。


     *


 一つ。


     *


 二つ。


     *


 五本。


     *


 腕。


     *


 右腕。


     *


 六年前に。


 失ったもの。


     *


 半透明の魔力を纏いながら。


     *


 そこに。


 存在していた。


     *


 ヴァルターが。


 指を動かす。


     *


 一度。


     *


 二度。


     *


 拳を握る。


     *


「……動く」


     *


 セレナは。


 笑わなかった。


「二時間」


     *


「何?」


「それ以上は駄目」


     *


「セレナ」


「二時間」


     *


 妻の目。


     *


 ヴァルターは。


 逆らえなかった。


「……了解」


     *


「軍隊みたいに返事しないで」


「はい」


「それも腹立つ」


     *


 レイブンが。


 少しだけ笑った。


     *


 三人とも。


 一瞬だけ。


 笑った。


     *


 外では。


 砲撃が続いていた。


     *


◇


 ヴァルターは。


 木箱から。


 軍服を取り出した。


     *


 だが。


 着なかった。


     *


 代わりに。


 丈夫な上着。


 古い装具。


     *


 認識票だけを。


 首へ掛ける。


     *


「父さん」


「何だ」


     *


「銃は?」


     *


「持ってない」


     *


 六年前。


 軍へ返した。


     *


 G-35《アードラー》。


     *


 もう。


 自宅にはない。


     *


 その時。


     *


 外。


     *


 軍用車が。


 急停車した。


     *


 扉。


     *


 ――バン。


     *


「ヴァルター!」


     *


 聞き覚えのある声。


     *


 玄関を開ける。


     *


 オスカーだった。


     *


「……その腕」


     *


 再構築された右腕を見る。


     *


「何も言うな」


     *


 オスカーは。


 何も言わなかった。


     *


 代わりに。


 車の後部を開ける。


     *


 長い。


 木製の箱。


     *


 ヴァルターの表情が。


 止まった。


     *


「おい」


     *


「保管庫から持ってきた」


     *


「勝手に?」


「書類は後で書く」


     *


「お前らしくないな」


「戦争中だ」


     *


 蓋。


     *


 開く。


     *


 油。


     *


 木。


     *


 鋼鉄。


     *


 六年前。


     *


 異界へ持っていった。


     *


 あの銃。


     *


 帝国軍制式G-35《アードラー》。


     *


 半自動小銃(マークスマンライフル)。


     *


 ヴァルターは。


 右手を伸ばした。


     *


 止まる。


     *


 六年前。


     *


 血。


     *


 森。


     *


 右腕。


     *


 そして。


     *


 今。


     *


 背後。


     *


 妻。


     *


 息子。


     *


 家。


     *


 ヴァルターは。


 G-35を。


 持ち上げた。


     *


 重さ。


     *


 忘れていなかった。


     *


 右手。


     *


 握れる。


     *


 左手。


     *


 銃床(ストック)。


     *


 肩。


     *


 構える。


     *


 六年。


     *


 身体だけが。


 覚えていた。


     *


「……二時間だけだ」


     *


 オスカーが。


 聞く。


「何が?」


     *


「この腕だ」


     *


 ヴァルターは。


 銃を下ろした。


     *


「二時間で終わらせる」


     *


 外。


     *


 また。


     *


 ――ドォン。


     *


 町のどこかで。


 黒煙が上がった。


     *


 レイブンは。


 父を見る。


     *


 軍服ではない。


     *


 階級章もない。


     *


 正式な復帰命令も。


 受けていない。


     *


 それでも。


     *


 その瞬間。


     *


 十二歳のレイブンには。


     *


 父の背中が。


     *


 今まで見たどんな時より。


     *


 大きく見えた。


     *


 ヴァルター・クロウ。


     *


 異界から帰った男。


     *


 右腕を失った兵士。


     *


 軍を拒み続けた父親。


     *


 その男が。


     *


 六年ぶりに。


     *


 銃を取った。

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