Season 2「父の背中」 #017≪特別付録:エリシアside≫
特別付録「同じ空の反対側」
同日――アルディア連邦共和国領内。
*
「また勝ったって!」
*
朝食の席。
*
エリシア・L・ヴォルハラムは。
兄の声で顔を上げた。
*
「何が?」
「西部戦線」
*
兄が。
新聞を広げる。
*
一面。
*
大きな見出し。
*
《連邦軍、帝国防衛線を突破》
*
父が。
珈琲を飲みながら言った。
「またか」
*
笑っていた。
*
「帝国軍って、本当に強いの?」
弟が聞く。
*
「昔はな」
父が答える。
「今はどうだか」
*
兄が新聞を机へ置く。
「三週間でこれだぞ」
*
地図。
*
矢印。
*
連邦軍の進撃。
*
帝国領内へ。
何本も。
*
「このまま首都まで行くんじゃないか?」
*
「そんな簡単じゃないでしょう」
*
エリシアが言った。
*
家族が。
彼女を見る。
*
「何だよ」
兄。
「新聞見ろよ」
*
「見てる」
*
「連戦連勝だ」
*
「だから?」
*
「帝国は弱いってことだろ」
*
エリシアは。
新聞へ目を落とす。
*
写真。
*
破壊された帝国軍車両。
*
捕虜。
*
占領された町。
*
笑顔の連邦兵。
*
そこだけ見れば。
*
勝っている。
*
間違いなく。
*
「……そこ」
*
エリシアが。
写真の端を指した。
*
「何?」
*
兄が覗き込む。
*
小さく。
*
写真の隅。
*
荷物を抱えて歩く。
*
帝国の民間人。
*
母親。
*
子供。
*
老人。
*
「それが?」
*
「この人たちも帝国人でしょ」
*
「そりゃそうだろ」
*
「兵士じゃない」
*
兄は。
少し黙る。
*
「戦争なんだから仕方ない」
*
エリシアは。
その言葉が。
好きになれなかった。
*
――仕方ない。
*
便利な言葉だった。
*
自分が。
安全な食卓にいる限り。
*
「かわいそう」
*
ぽつり。
*
母が。
エリシアを見る。
「誰が?」
*
「帝国の人たち」
*
父の眉が。
少し動いた。
*
「エリシア」
「分かってる」
*
彼女は。
先に言った。
「帝国と戦争してるのは知ってる」
*
「なら――」
「でも」
*
新聞。
*
避難民。
*
写真の中。
*
子供が。
こちらを見ている。
*
「この子が何したの?」
*
誰も。
答えなかった。
*
◇
その日の午後。
*
ヴォルハラム家にも。
戦争が来た。
*
銃声ではなかった。
*
郵便だった。
*
封筒。
*
連邦共和国軍。
*
召集通知。
*
「……来たか」
*
父が。
封を開ける。
*
兄も。
横から覗き込む。
*
「誰?」
*
エリシアが聞く。
*
父は。
紙を読む。
*
「俺だ」
*
母の手が。
止まった。
*
「それと」
*
二枚目。
*
父が。
兄を見る。
*
「お前もだ」
*
さっきまで。
帝国軍の弱さを笑っていた兄から。
*
笑顔が消えた。
*
「……いつ?」
*
「三日後」
*
「三日?」
*
「集合地点は中央駅」
*
部屋。
*
静かになった。
*
新聞には。
勝利。
*
前進。
*
突破。
*
そんな言葉ばかり。
*
なのに。
*
父と兄は。
戦争へ行く。
*
エリシアは。
初めて。
*
新聞の中にあった戦争が。
*
自分の家へ入ってきたように感じた。
*
◇
三日後。
*
中央駅。
*
軍服。
*
鞄。
*
兵士。
*
家族。
*
見送り。
*
「心配するな」
父が言った。
*
「今の戦況なら、そう長くはかからん」
*
兄も。
少し笑う。
「帰ってくる頃には帝国の旗が変わってたりして」
*
母が。
「馬鹿なこと言わないの」
*
そう言いながら。
少し笑った。
*
エリシアだけは。
笑わなかった。
*
「お父さん」
「ん?」
*
「向こうにも」
*
言葉が。
止まる。
*
「何だ?」
*
「……家族がいるんだよね」
*
父が。
娘を見る。
*
「帝国兵にも」
*
少し。
困ったような顔。
*
「いるだろうな」
*
「だったら」
*
エリシアは。
何を言えばいいのか。
分からなかった。
*
敵を殺さないで。
*
そんなことは。
兵士として戦地へ行く父に。
言えない。
*
絶対に帰ってきて。
*
それも。
簡単には言えなかった。
*
父が帰るためには。
*
誰かの父が。
帰れなくなるかもしれない。
*
そのことに。
*
気づいてしまった。
*
「……何でもない」
*
列車。
*
汽笛。
*
乗車。
*
父。
*
兄。
*
窓。
*
手を振る。
*
母も。
弟も。
手を振った。
*
エリシアも。
*
小さく。
手を振った。
*
列車が。
動く。
*
西へ。
*
帝国方面へ。
*
だんだん。
小さくなる。
*
見えなくなる。
*
エリシアは。
ホームに残った。
*
頭上。
*
駅の拡声器。
『本日も西部戦線において我が連邦共和国軍は――』
*
勝利。
*
また。
その言葉。
*
『帝国軍を後退させ――』
*
周囲から。
歓声。
*
「また勝った!」
*
「もう終わるぞ!」
*
「帝国なんて大したことない!」
*
誰かが。
笑った。
*
エリシアは。
笑えなかった。
*
新聞の写真。
*
荷物を抱えた帝国の母親。
*
その横。
*
子供。
*
もし。
*
父と兄の乗った列車が。
あの子の町へ向かっているのだとしたら。
*
もし。
*
あの子の父親が。
こちらへ銃を向けているのだとしたら。
*
どちらが。
悪いのだろう。
*
エリシアには。
まだ分からなかった。
*
ただ。
*
勝っているからといって。
*
笑っていいものではない。
*
それだけは。
分かった。
*
「……かわいそう」
*
誰にも聞こえない声。
*
それは。
帝国に対してだったのか。
*
戦地へ向かった父と兄に対してだったのか。
*
それとも。
*
敵と味方に分けられてしまった。
*
両方の国の人々に対してだったのか。
*
エリシア自身にも。
*
まだ。
分からなかった。
*
同じ日。
*
帝国では。
*
一人の黒猫の父親が。
*
六年ぶりに銃を握った。
*
連邦共和国では。
*
一人の少女が。
*
父と兄を戦地へ送り出した。
*
二人は。
*
まだ。
*
互いの名前すら知らない。
*
同じ戦争を。
*
正反対の場所から。
*
見ていた。
第17話「二十七キロの向こう」
帝政歴339年。
夜明け前。
ヴァルターは、目を覚ましていた。
正確には。
眠っていなかった。
*
――ドン。
*
遠い。
*
――ドォン。
*
少し近い。
*
――……ドン。
*
また遠い。
*
砲声には。
妙な規則性があった。
一定ではない。
だが、完全な無秩序でもない。
*
ヴァルターは寝台に横たわったまま、猫耳だけを音へ向けていた。
「……三門か」
隣で。
セレナが動いた。
「起きてたの?」
「起こしたか」
「あなたが眠らないからよ」
「寝てた」
「嘘」
「目は閉じてた」
「それを起きてるっていうの」
*
ヴァルターは天井を見る。
また。
――ドン。
*
「昨日より近い?」
セレナが聞いた。
「……分からん」
「嘘」
*
今度は。
ヴァルターが黙った。
*
「分かるのね」
「たぶんな」
「どれくらい?」
「それは本当に分からん」
*
砲声だけで正確な距離など測れない。
風向き。
湿度。
地形。
砲の種類。
いくらでも変わる。
*
だが。
近づいている。
*
それだけは。
軍人でなくても分かるほどになっていた。
*
「セレナ」
「なに?」
「荷物」
「まとめてあるわ」
「レイブンの分も?」
「昨日のうちに」
「水は」
「ある」
「食料」
「三日分」
「現金」
「持った」
「身分証」
「ある」
「薬――」
「ヴァルター」
*
白い猫の妻が。
夫を見る。
「私を誰だと思ってるの」
*
ヴァルターは。
少しだけ笑った。
「俺よりしっかりしてる女」
「正解」
*
その程度の会話が。
今はありがたかった。
*
――ドォン。
*
二人とも。
笑うのをやめた。
*
◇
午前六時四十分。
町役場の放送設備が鳴った。
『市民の皆様へお知らせします』
*
クロウ家。
朝食。
*
レイブンが。
スプーンを止める。
*
『西部地域の戦況変化に伴い――』
*
ヴァルターが。
顔を上げる。
*
『本日午前七時をもって、市内西部区域に第二段階避難命令を発令します』
*
「第二段階?」
レイブンが聞いた。
「西側から順番に町を空ける」
ヴァルターが答える。
「ここは?」
「まだ対象外だ」
*
――まだ。
*
その言葉。
*
レイブンも。
最近は嫌いになり始めていた。
*
「また、まだなんだ」
*
ヴァルターが。
息子を見る。
*
「……ああ」
*
「いつになったら、まだじゃなくなるの?」
*
答えられなかった。
*
◇
午前八時十三分。
西へ続く道路。
*
東へ向かう人。
人。
人。
*
荷車。
自動車。
自転車。
徒歩。
*
荷物を背負った老人。
子供を抱えた母親。
鳥籠を持った少女。
家財道具を荷車へ積めるだけ積んだ家族。
*
道は。
ほとんど動いていなかった。
*
「こんなに……」
レイブンは。
家の前から見ていた。
*
セレナが。
息子の肩へ手を置く。
「中にいましょう」
「でも」
「邪魔にならないことも手伝いよ」
*
その言葉で。
レイブンは家へ戻った。
*
ヴァルターだけが。
道路に残った。
*
流れを見る。
*
人間の流れ。
車両の流れ。
*
その隙間を。
逆方向へ進む軍用車。
*
東から西へ。
*
兵士。
弾薬。
医薬品。
*
西から東へ。
*
市民。
負傷兵。
壊れた車両。
*
その二つが。
同じ道路を奪い合っている。
*
「……これじゃ増援が前へ出られん」
*
思わず。
口にした。
*
その時。
「そうなんですよ」
*
背後。
*
ヴァルターが振り向く。
*
「……お前」
*
帝国軍の軍曹。
泥まみれ。
*
ヴァルターには見覚えがあった。
「マティアスか?」
「覚えてましたか」
マティアス・グレーベ軍曹。
かつて。
ヴァルターの訓練を受けた兵士。
兵士仲間からのあだ名は《モグラ》。
陣地構築が異様に速かったことから付いた。
*
「どうした、その格好」
「見ての通りです」
「部隊は」
*
マティアスの表情が。
少し変わった。
「再編成中です」
*
その言葉。
*
ヴァルターは知っている。
*
便利な言葉だった。
*
部隊が消耗した。
指揮官が死んだ。
装備を失った。
兵が散った。
*
それらを。
まとめて隠せる。
*
「何人残った」
*
マティアスは。
少し黙った。
「定数百十二」
*
そこで。
言葉を切る。
「今朝の点呼で、四十七」
*
ヴァルターは。
何も言わなかった。
*
「死んだのか」
「全員じゃありません」
「……そうか」
「負傷。行方不明。後送。別部隊への合流」
*
「そうか」
*
同じ言葉しか。
出なかった。
*
「教官」
「俺はもう教官じゃない」
「俺にとっては教官ですよ」
*
マティアスは。
少し笑った。
*
「教わったこと、役に立ちました」
*
ヴァルターの顔が。
強張る。
「……何が」
「逃げ方」
*
意外な答えだった。
「射撃じゃないのか」
「もちろん役に立ちました」
*
マティアスは。
背負った銃を見る。
「でも一番役に立ったのは――」
*
ヴァルターを見る。
「『勝てないなら生きて帰れ』ってやつです」
*
ヴァルターは。
返事ができなかった。
*
「俺」
マティアスが言う。
「帰ってきましたよ」
*
「……ああ」
*
ようやく。
「よく帰った」
*
マティアスは。
笑った。
「はい」
*
敬礼。
*
そして。
また西へ向かった。
*
「どこへ行く」
「再編成です」
「四十七人で?」
「他の残存部隊と合わせます」
*
「マティアス」
*
軍曹が振り返る。
*
ヴァルターは。
言葉を探した。
*
死ぬな。
*
そんな保証のできない言葉を。
言いたくなかった。
*
「……また帰ってこい」
*
マティアスは。
少し驚いて。
*
「了解」
*
西へ歩いていった。
*
◇
午後零時五十六分。
*
帝国軍の即応部隊が。
ようやく町へ到着した。
*
だが。
歓迎するような余裕は。
誰にもなかった。
*
装甲車。
輸送車。
工兵車両。
救急車。
*
交差点。
渋滞。
*
「止まれ!」
「民間車両を東へ流せ!」
「そっちは軍用道路だ!」
「救急車を先に通せ!」
*
怒号。
*
運転手同士の罵声。
*
泣く子供。
*
警笛。
*
町そのものが。
一つの巨大な混乱になっていた。
*
ヴァルターは。
それを見ていた。
*
「……違う」
*
ぽつり。
*
「父さん?」
*
レイブンが。
隣にいる。
「何が?」
*
ヴァルターは答えない。
*
車列を見る。
*
即応部隊の先頭。
*
次。
*
補給車。
*
その後ろ。
*
通信車。
*
だが。
*
「配置が逆だ」
*
レイブンには分からない。
*
ヴァルターには。
分かる。
*
指揮所を置く場所。
補給車の待機位置。
救急車の進入路。
*
全部。
急ぎすぎている。
*
「これじゃ」
*
考える前に。
身体が動いた。
*
「父さん?」
*
ヴァルターは。
道路へ出る。
*
「おい!」
*
若い帝国兵が振り返る。
「民間人は下がってください!」
「指揮官は誰だ」
「下がって!」
「指揮官を呼べ!」
「だから――」
*
「通信車をそこに置いたら、道路を塞ぐ!」
*
若い兵士が止まる。
「補給車を東側へ回せ! 救急車の転回場所を空けろ!」
「あなた誰ですか!」
*
「ヴァルター・クロウ!」
*
兵士の表情。
変わる。
*
「……クロウ?」
*
隣の下士官まで。
振り返る。
*
「まさか」
*
その名を。
知っている者がいた。
*
異界から。
右腕を失って帰還した兵士。
*
かつて。
教官だった男。
*
ヴァルターは。
そんな反応を無視した。
*
「工兵はどこだ!」
「後方です!」
「前へ出せ! 民間車両を一本東へ逃がしてから道路を閉じろ!」
*
「しかし――」
*
「ここで詰まったら、撤退部隊まで巻き込むぞ!」
*
その言葉。
*
下士官が理解する。
*
「……工兵!」
*
命令が飛ぶ。
*
「東側道路を確保!」
*
兵士が走る。
*
「救急車を先に!」
*
車が動く。
*
詰まっていた流れが。
少しずつ。
ほどけ始める。
*
レイブンは。
道路の端から。
父を見ていた。
*
軍服ではない。
*
右腕もない。
*
銃もない。
*
それなのに。
*
兵士たちが。
父の声で動いていた。
*
「……父さん」
*
初めて。
*
レイブンは。
父がかつて。
どんな人間だったのか。
*
ほんの少しだけ。
見た。
*
◇
午後三時二十一分。
*
最初の砲弾が。
町の外縁へ落ちた。
*
――ドォォォンッ!!
*
地面が。
跳ねた。
*
窓。
*
一斉に。
震える。
*
鳥が。
飛び立つ。
*
「伏せろ!」
*
ヴァルターの声。
*
レイブンは。
考えるより先に。
地面へ伏せていた。
*
二発目。
*
――ドンッ!
*
遠い。
*
三発目。
*
――ドォン!
*
「着弾修正してる……」
*
ヴァルターが。
呟く。
*
「父さん?」
*
「家へ戻れ!」
*
「でも!」
「母さんを地下へ!」
*
その時。
*
町役場の放送。
*
『市民の皆様へ――』
*
雑音。
*
『全市域に避難命令を発令します』
*
ついに。
*
――まだ。
*
ではなくなった。
*
◇
「レイブン!」
*
セレナが。
鞄を背負っていた。
*
「母さん!」
「お父さんは!?」
「外!」
「また!?」
*
セレナが。
玄関へ向かう。
*
ヴァルターが。
戻ってきた。
*
「二人とも地下へ」
「避難命令よ」
「分かってる」
「なら準備して」
*
「……」
*
ヴァルターが。
止まる。
*
「あなた?」
*
「セレナ」
*
声。
*
いつもと違う。
*
「頼みがある」
*
「何?」
*
ヴァルターは。
自分の右肩を見る。
*
何もない。
*
六年前。
異界で。
失った場所。
*
「右腕を」
*
セレナの表情が。
変わった。
*
「……何を言ってるの」
*
「一時的でいい」
*
「ヴァルター」
*
「魔力で再構築できるだろ」
*
レイブンが。
二人を見る。
「再構築……?」
*
セレナは。
夫から目を逸らさない。
「理論上は」
*
「なら」
「理論上は、よ」
*
声が強くなる。
「失った身体を魔力で形にするなんて、長時間維持できるものじゃない」
「分かってる」
「神経まで疑似形成するのよ」
「分かってる」
「痛むわ」
「知ってる」
「あなた、魔法の専門家じゃないでしょう!」
「だからお前に頼んでる」
*
沈黙。
*
外。
*
――ドォン。
*
セレナの白い耳が。
伏せられる。
「何をするつもり?」
*
ヴァルターは。
すぐには答えなかった。
*
「……家族を」
*
一度。
言葉を切る。
「逃がせるだけの時間が欲しい」
*
「軍に戻るの?」
「違う」
*
即答だった。
「じゃあ何」
*
ヴァルターは。
妻を見る。
*
息子を見る。
「父親をやる」
*
セレナは。
何も言えなくなった。
*
◇
地下室。
*
ランプ。
*
ヴァルターは。
上着を脱いだ。
*
右肩。
*
古い傷。
*
レイブンは。
初めて。
真正面から見た。
*
父の腕が。
本当に。
途中から存在しないことを。
*
「見るな」
*
ヴァルターが言う。
「……見る」
*
「レイブン」
「見るよ」
*
金色と黒色の瞳。
*
逸らさなかった。
*
セレナが。
夫の肩へ。
両手を置く。
*
「一度始めたら止められない」
「分かった」
「無理だと思ったら私が切る」
「ああ」
「反論しない」
「善処する」
「反論しない」
「……分かった」
*
セレナが。
目を閉じる。
*
魔力。
*
空気が。
僅かに震える。
*
白い光。
*
右肩。
*
失われた場所から。
*
細い。
光の線。
*
「――ッ!」
*
ヴァルターの身体が。
跳ねる。
*
「父さん!」
「来るな!」
*
歯を食いしばる。
*
骨。
*
筋肉。
*
神経。
*
実物ではない。
*
魔力によって。
身体が覚えている形を。
*
無理やり。
世界へ押し出す。
*
「ぐ……っ!」
*
汗。
*
呼吸。
*
セレナも。
震えている。
*
「あと少し……!」
*
指。
*
一つ。
*
二つ。
*
五本。
*
腕。
*
右腕。
*
六年前に。
失ったもの。
*
半透明の魔力を纏いながら。
*
そこに。
存在していた。
*
ヴァルターが。
指を動かす。
*
一度。
*
二度。
*
拳を握る。
*
「……動く」
*
セレナは。
笑わなかった。
「二時間」
*
「何?」
「それ以上は駄目」
*
「セレナ」
「二時間」
*
妻の目。
*
ヴァルターは。
逆らえなかった。
「……了解」
*
「軍隊みたいに返事しないで」
「はい」
「それも腹立つ」
*
レイブンが。
少しだけ笑った。
*
三人とも。
一瞬だけ。
笑った。
*
外では。
砲撃が続いていた。
*
◇
ヴァルターは。
木箱から。
軍服を取り出した。
*
だが。
着なかった。
*
代わりに。
丈夫な上着。
古い装具。
*
認識票だけを。
首へ掛ける。
*
「父さん」
「何だ」
*
「銃は?」
*
「持ってない」
*
六年前。
軍へ返した。
*
G-35《アードラー》。
*
もう。
自宅にはない。
*
その時。
*
外。
*
軍用車が。
急停車した。
*
扉。
*
――バン。
*
「ヴァルター!」
*
聞き覚えのある声。
*
玄関を開ける。
*
オスカーだった。
*
「……その腕」
*
再構築された右腕を見る。
*
「何も言うな」
*
オスカーは。
何も言わなかった。
*
代わりに。
車の後部を開ける。
*
長い。
木製の箱。
*
ヴァルターの表情が。
止まった。
*
「おい」
*
「保管庫から持ってきた」
*
「勝手に?」
「書類は後で書く」
*
「お前らしくないな」
「戦争中だ」
*
蓋。
*
開く。
*
油。
*
木。
*
鋼鉄。
*
六年前。
*
異界へ持っていった。
*
あの銃。
*
帝国軍制式G-35《アードラー》。
*
半自動小銃。
*
ヴァルターは。
右手を伸ばした。
*
止まる。
*
六年前。
*
血。
*
森。
*
右腕。
*
そして。
*
今。
*
背後。
*
妻。
*
息子。
*
家。
*
ヴァルターは。
G-35を。
持ち上げた。
*
重さ。
*
忘れていなかった。
*
右手。
*
握れる。
*
左手。
*
銃床。
*
肩。
*
構える。
*
六年。
*
身体だけが。
覚えていた。
*
「……二時間だけだ」
*
オスカーが。
聞く。
「何が?」
*
「この腕だ」
*
ヴァルターは。
銃を下ろした。
*
「二時間で終わらせる」
*
外。
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また。
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――ドォン。
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町のどこかで。
黒煙が上がった。
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レイブンは。
父を見る。
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軍服ではない。
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階級章もない。
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正式な復帰命令も。
受けていない。
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それでも。
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その瞬間。
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十二歳のレイブンには。
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父の背中が。
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今まで見たどんな時より。
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大きく見えた。
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ヴァルター・クロウ。
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異界から帰った男。
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右腕を失った兵士。
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軍を拒み続けた父親。
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その男が。
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六年ぶりに。
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銃を取った。




