Season 2「父の背中」 #016≪異界漂流篇:第3話「待ったか?」≫
第16話
「戦火は家路を辿る」
帝政歴339年。
その朝、戦争が始まったことを、レイブンは爆発ではなく母の手で知った。
「今日は学校、行かなくていいって」
食卓についたばかりだった。
レイブンはパンを持ったまま顔を上げた。
「休み?」
「休校」
「いつまで?」
「分からないわ」
「明日は?」
「だから、分からないの」
セレナはそう答えながら、棚から保存食を取り出していた。
缶詰。
乾燥肉。
小麦粉。
水。
いつもなら食卓に並ばないものまで、机の隅へ置いていく。
「何してるの?」
「確認よ」
「何の?」
「家に何日分食べ物があるか」
「なんで?」
セレナの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「念のため」
そう答えた。
*
ヴァルターは窓際にいた。
新聞は届いていない。
代わりにラジオが鳴っていた。
『――西部国境地域において昨夜から断続的な交戦が発生――』
雑音。
『政府は市民に対し、未確認情報の拡散を避け――』
ヴァルターが周波数を変える。
『――複数の国境検問所が一時閉鎖――』
また変える。
『――帝国鉄道は軍事輸送を優先するため、西部方面の一部旅客列車を――』
切った。
「父さん?」
「何だ」
「戦争なの?」
*
六年前にも。
似たような質問をされた。
あの頃のレイブンはまだ小さかった。
ヴァルターは曖昧に答えた。
大丈夫だ。
まだ戦争ではない。
心配するな。
だが。
十二歳になった息子へ、同じ言葉を使うことはできなかった。
「ああ」
ヴァルターは窓の外を見たまま答えた。
「始まった」
*
レイブンはパンを置いた。
「……どっちが始めたの?」
ヴァルターが振り返る。
「分からん」
「ラジオは?」
「自分たちが撃ったとは、どこの国も最初には言いたがらん」
「じゃあ、分からないの?」
「ああ」
ヴァルターは椅子へ戻った。
「少なくとも、ここにいる俺たちにはな」
*
最初に聞こえた情報では。
国境上空で軍用機同士が接触したという。
別の放送では、地上部隊への発砲が先だったと言っていた。
さらに別の噂では、国境監視所が砲撃されたという。
どれが最初だったのか。
町に暮らす人間には分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
帝国軍と、連邦共和国軍。
昨日まで互いへ銃口を向けながら撃たなかった二つの軍が。
今朝から。
撃っている。
*
午前九時。
商店街から小麦粉が消えた。
十時。
乾電池が売り切れた。
十一時。
駅前の燃料販売所に長い列ができた。
正午。
軍用車両を優先するため、幹線道路の一部が通行規制された。
午後二時。
学校の体育館が、市民用の臨時避難所へ変更された。
*
そして。
午後三時十二分。
――コン、コン。
*
クロウ家の玄関が鳴った。
*
ヴァルターは。
誰なのかを確認する前から。
顔をしかめた。
「軍?」
レイブンが聞いた。
「たぶんな」
「どうして分かるの?」
「叩き方」
「そんなので分かる?」
「長く軍にいるとな」
ヴァルターは立ち上がる。
「嫌でも分かる」
*
扉を開ける。
予想通りだった。
*
「ヴァルター」
オスカー・ベルンハルト中佐。
《鉄髭》。
コールサイン《バロン》。
今日は一人ではなかった。
その隣に。
エルンスト・ハーゲン大尉。
《牧師》。
コールサイン《シェパード》。
そして。
見覚えのない若い兵士。
*
ヴァルターは。
その若者を見て。
最初の言葉を失った。
*
若い。
*
十八。
いや。
十七かもしれない。
規定上は入隊可能な年齢なのだろう。
軍服を着ている。
小銃を背負っている。
階級章もある。
それでも。
ヴァルターには。
兵士より先に。
少年に見えた。
*
ふと。
階段から降りてくるレイブンの姿と重なった。
*
十二歳。
*
あと数年。
*
「……何の用だ」
声が。
低くなった。
*
オスカーが封筒を出す。
「予備役召集令だ」
「断る」
「まだ中身を読んでいない」
「教官だろ」
「……そうだ」
「なら断る」
*
即答。
*
「西部方面軍教育補充隊」
オスカーは続けた。
「勤務場所は後方。前線勤務ではない」
「聞いてない」
「新兵と補充兵の短期再訓練だ」
「断る」
「ヴァルター」
「断ると言った」
*
オスカーが。
少し声を落とした。
「これは要請じゃない」
「知ってる」
「戦時召集だ」
「それも知ってる」
「なら――」
「オスカー」
*
ヴァルターは。
隣の若い兵士を指した。
「そいつ何歳だ」
*
若い兵士が。
驚いたように姿勢を正す。
「十七歳です、少尉」
「少尉と呼ぶな」
「失礼しました」
「いつ入った」
「八か月前です」
「実戦経験は」
「ありません」
*
「……そうか」
*
ヴァルターは。
それ以上聞かなかった。
*
オスカーが察する。
「彼を連れてきたのは俺だ」
「悪趣味だな」
「違う」
「じゃあ何だ」
「運転手が足りなかった」
*
ヴァルターは黙った。
*
それが。
かえって現実だった。
*
誰かに見せるため。
説得材料として。
若い兵士を連れてきたわけではない。
*
ただ。
人が足りない。
*
だから十七歳の兵士が。
中佐を乗せた車を運転している。
*
「教官も足りない」
オスカーが言う。
「車両兵も足りない。通信兵も足りない。衛生兵もだ」
「……」
「戦争が始まって、まだ一日だ」
*
ヴァルターの左手が。
僅かに握られる。
*
「なのにもう足りないのか」
「もう、じゃない」
オスカーは首を横に振った。
「始まる前から足りなかったんだ」
*
沈黙。
*
遠くで。
軍用トラックの音。
*
「俺が教えたら」
ヴァルターが言った。
「そいつらはどうなる」
*
「配置される」
「どこへ」
「必要な部隊へ」
「前線か」
「……場合による」
*
「誤魔化すな」
*
オスカーは。
数秒黙った。
「前線へ行く者もいる」
*
ヴァルターが笑った。
*
乾いた。
短い笑いだった。
「そうだろうな」
*
「ヴァルターさん」
エルンストが口を開く。
「だからこそです」
「何がだ」
「何も知らないまま送るより、あなたが教えた方が――」
「生き残れる?」
「……はい」
*
ヴァルターの表情が。
変わった。
*
森。
*
二つの月。
*
若い兵士。
*
『少尉。もし帰れたら何します?』
*
笑っていた。
*
数日後。
いなくなった。
*
「……それを」
ヴァルターは呟いた。
「俺も昔は信じてた」
*
「何をです?」
「教えれば死なないってことだ」
*
エルンストは答えない。
「伏せ方を教える」
「……」
「撃ち方を教える」
「……」
「遮蔽物の選び方。止血。撤退。弾の数え方。仲間の運び方」
*
ヴァルターの声が。
次第に低くなる。
「全部教える」
*
右肩。
*
ない腕が。
疼いた。
「それでも死ぬ」
*
誰も。
否定しなかった。
*
「俺はな」
ヴァルターは。
家の中を見る。
*
階段。
*
そこにレイブンがいる。
*
話を聞いている。
*
「あいつと大して変わらない顔をした子供に」
*
レイブンを見る。
「銃を持たせるための教師にはなりたくない」
*
「父さん……」
*
オスカーは。
召集令を下ろした。
*
「気持ちは分かる」
「分かるなら帰れ」
「だが」
*
オスカーの声にも。
疲れがあった。
「俺には、その若い兵士を何も教えず送り出す方が怖い」
*
ヴァルターは。
返せなかった。
*
それは。
正論だった。
*
だから。
余計に腹が立った。
*
「……帰れ」
*
それしか。
言えなかった。
*
◇
戦争開始から四日。
*
町から。
若い男が減った。
*
召集。
*
志願。
*
配置転換。
*
駅のホームには。
軍服姿が増えた。
*
見送る家族も。
*
レイブンは。
母と買い物へ出た帰り。
駅前で足を止めた。
*
若い兵士。
*
母親らしい女性が。
何度も襟元を直している。
「ちゃんと食べるのよ」
「分かってる」
「手紙も」
「書くって」
「怪我しないで」
「それは分かんないよ」
「そんなこと言わないの」
*
兵士が。
困ったように笑った。
*
列車が来る。
*
母親が。
最後まで。
息子の手を離さなかった。
*
「母さん」
「なに?」
*
レイブンは。
列車を見ながら聞いた。
「父さんも、昔あんな感じだった?」
*
セレナは。
少し考えた。
「もっと生意気だったわ」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
*
列車が動き始める。
「……ええ」
*
セレナの白い耳が。
少し伏せられた。
「見送る側は、いつも似たような気持ちよ」
*
◇
七日目。
*
食料品に購入制限がついた。
*
一世帯。
小麦粉二袋まで。
保存肉三缶まで。
*
燃料は。
軍と公共機関優先。
*
夜間。
灯火管制。
*
カーテンを閉める。
*
窓から光を漏らさない。
*
レイブンは。
暗くなった自分の部屋で。
宿題をしていた。
*
学校は休校なのに。
宿題だけは配られた。
*
「意味分かんない……」
*
思わず。
いつもの調子で呟く。
*
階下から。
セレナの笑い声。
*
ほんの一瞬。
戦争が始まる前と。
何も変わらない気がした。
*
だが。
遠くから。
*
――ドン。
*
低い音。
*
鉛筆が止まる。
*
「……雷?」
*
階下。
*
ヴァルターの黒い耳が。
すでに西を向いていた。
*
「違う」
*
「何?」
*
セレナが聞く。
*
「砲声だ」
*
「ここまで聞こえるの?」
*
「風向きによる」
*
そう答えた。
*
だが。
ヴァルターは。
窓際へ歩いた。
*
音の間隔。
*
方向。
*
大きさ。
*
無意識に。
測っていた。
*
「……近づいてる」
*
◇
十一日目。
*
最初の避難民が。
町へ入った。
*
百人。
*
翌日。
三百人。
*
さらに翌日。
数えられなくなった。
*
学校。
公民館。
教会。
倉庫。
*
使える建物が。
次々と避難所になった。
*
レイブンも。
物資運搬を手伝った。
*
「これ、水!」
「奥へ!」
「分かった!」
*
箱を抱える。
*
十二歳には重い。
*
それでも。
運んだ。
*
途中。
自分と同じくらいの少年が。
床に座っていた。
*
片耳に包帯。
*
靴がない。
*
「……」
*
目が合う。
*
レイブンは。
水を一本差し出した。
「飲む?」
*
少年は受け取った。
「ありがとう」
「どこから来たの?」
*
少年が。
地名を言った。
*
レイブンには。
聞き覚えがあった。
*
地理の授業。
*
この町から。
列車なら。
数時間。
*
「家は?」
*
聞いてから。
聞かなければよかったと思った。
*
「燃えた」
*
少年は。
水の瓶を見ながら答えた。
*
「父さんは?」
「知らない」
「……」
「軍にいる」
*
レイブンは。
何も言えなくなった。
*
◇
十五日目。
*
エルンストが。
一人で来た。
*
無精髭。
*
目の下。
濃い隈。
*
「……寝てるか?」
ヴァルターが聞いた。
「二時間ほど」
「一日?」
「二日で」
「馬鹿野郎」
「褒め言葉として受け取ります」
*
以前なら。
笑ったかもしれない。
*
二人とも。
笑わなかった。
*
「今日は召集令を持ってきてない」
「じゃあ何だ」
*
「話です」
*
エルンストは。
玄関先に立ったまま言った。
「第三防御線を放棄しました」
*
ヴァルターの顔が。
変わる。
「いつ」
「昨夜」
「理由」
「北側が抜かれました」
「予備線は」
「構築中です」
「間に合うのか」
*
エルンストは。
答えなかった。
*
「何キロだ」
「ここから?」
「ああ」
「百五十弱」
*
ヴァルターが。
目を閉じる。
*
「昨日まで二百あった」
「……はい」
*
「一日で五十縮んだのか」
「直線距離です」
「そういう話をしてるんじゃない」
*
エルンストが。
視線を落とした。
*
「補充兵が持ちません」
「……」
「昨日来た兵が、今日には前へ出る」
*
ヴァルターの奥歯が。
噛み締められる。
「それを俺に言うな」
「言います」
「エルンスト」
「言わせてください」
*
初めて。
元部下が。
真正面から逆らった。
*
「あなたが嫌なのは分かってます」
「……」
「俺だって嫌です」
*
声が。
少し震えた。
「十七の奴に銃を渡して」
*
「……」
「三日後に名簿から名前を消す仕事なんか」
*
ヴァルターが。
エルンストを見る。
「誰が死んだ」
*
沈黙。
*
「……ケスラー中尉のところの新人が二人」
*
ヴァルターは。
何も言わなかった。
*
「名前は?」
*
エルンストが。
二つ。
名前を言った。
*
知らない名前だった。
*
知らない。
*
それなのに。
胸が重くなった。
*
「……そうか」
*
「俺たちは」
エルンストが続ける。
「勝つ方法より」
*
一度。
息を飲む。
「生きて帰る方法を教えられる人間が欲しい」
*
ヴァルターは。
返事をしなかった。
*
「帰れ」
*
それでも。
最後には。
そう言った。
*
「……はい」
*
エルンストは。
敬礼しなかった。
*
ただ。
頭を下げた。
*
そして。
帰った。
*
ヴァルターは。
その背中が見えなくなっても。
玄関を閉めなかった。
*
◇
二十二日目。
*
町の駅に。
列車が入ってきた。
*
西から。
*
人々は。
避難民を乗せた列車だと思った。
*
違った。
*
負傷兵だった。
*
窓。
*
包帯。
*
血。
*
担架。
*
歩ける者は。
自分で降りた。
*
歩けない者は。
運ばれた。
*
レイブンは。
駅前から。
その光景を見ていた。
*
兵士は。
もっと強いものだと思っていた。
*
父のように。
*
怒鳴って。
走って。
銃を持って。
*
だが。
担架の上にいた兵士は。
泣いていた。
*
「母さん……」
*
そう呼んでいた。
*
レイブンは。
その場から。
しばらく動けなかった。
*
◇
二十八日目。
*
西へ向かう道路が。
軍用車両で埋まった。
*
東へ向かう道路が。
避難民で埋まった。
*
町は。
二つの流れの間にあった。
*
西へ。
兵士。
*
東へ。
家族。
*
その日の夕方。
逆のことが起きた。
*
西から。
軍用車両が戻ってきた。
*
一台。
*
二台。
*
五台。
*
十台。
*
泥だらけ。
*
車体に穴。
*
窓がない。
*
荷台には。
疲れ切った帝国兵。
*
誰も。
喋っていなかった。
*
ヴァルターは。
家の前から。
それを見ていた。
*
一両。
装甲車。
*
履帯が傷んでいる。
*
砲塔に。
煤。
*
次。
*
弾薬車。
*
空。
*
次。
*
救急車。
*
次。
*
トラック。
*
荷台の兵士。
*
「……後退じゃない」
*
セレナが隣に立つ。
「何?」
*
ヴァルターの目は。
車列から離れない。
「崩れてる」
*
その夜。
*
町役場から。
紙が配られた。
*
《避難準備命令》
*
セレナは。
鞄を開いた。
*
服。
*
水。
*
保存食。
*
写真。
*
「何を持っていけばいいの?」
レイブンが聞いた。
*
セレナは。
少し考えた。
「自分で持てる分だけ」
*
「本は?」
「一冊」
「一冊だけ?」
「重くなるから」
*
レイブンは。
自室へ戻った。
*
本棚。
*
何冊もある。
*
どれか一冊。
*
選べなかった。
*
その時。
初めて。
*
避難というものが。
旅行とは違うのだと。
分かった。
*
◇
三十一日目。
*
朝。
*
ヴァルターは。
音で目を覚ました。
*
――ドン。
*
目を開く。
*
数秒。
*
――ドォン。
*
近い。
*
起き上がる。
*
窓へ。
*
西。
*
煙。
*
昨日より。
明らかに近い。
*
道路。
*
帝国軍。
*
塹壕。
*
土嚢。
*
有刺鉄線。
*
対車両障害物。
*
昨日まではなかった。
*
自宅から。
歩いて行ける場所に。
*
防御陣地が。
できていた。
*
「……」
*
ヴァルターは。
何も言わなかった。
*
階下。
*
セレナが。
朝食を作っている。
*
レイブンが。
眠そうな顔で降りてくる。
「おはよう……」
「おはよう」
「今日、何曜日?」
*
セレナが。
一瞬。
考えた。
*
「……木曜日」
「学校、まだ休み?」
「ええ」
「そっか」
*
パン。
*
少量の卵。
*
薄くしたスープ。
*
三人で。
食べる。
*
外では。
兵士が。
塹壕を掘っている。
*
だが。
家の中では。
「レイブン」
「ん?」
「肘」
「何?」
「食卓につくな」
「父さんだって昔やってたって、お祖母ちゃんが」
「母さん……」
「私は何も言ってないわよ」
「ヘレーネだ……」
*
レイブンが笑う。
*
セレナも。
*
ヴァルターも。
少しだけ。
*
その時。
*
――ドンッ。
*
食器が。
小さく震えた。
*
笑い声が止まる。
*
三人とも。
窓を見る。
*
ヴァルターだけが。
音の意味を。
理解していた。
*
「……着弾した」
*
「どこ?」
*
レイブンが聞く。
*
「まだ町の外だ」
*
まだ。
*
ヴァルターは。
その言葉を口にしてから。
嫌になった。
*
まだ。
*
何度。
この言葉を使っただろう。
*
まだ国境だ。
*
まだ遠い。
*
まだ防御線がある。
*
まだ避難準備だ。
*
まだ町の外だ。
*
――まだ。
*
それは。
安全を意味する言葉ではなくなっていた。
*
ただ。
戦争が。
ここへ到着していない。
*
それだけだった。
*
昼前。
*
軍用車が。
クロウ家の前で止まった。
*
扉が開く。
*
オスカー。
*
今回は。
玄関を叩かなかった。
*
ヴァルターが。
自分から外へ出た。
「何キロだ」
*
挨拶すらなかった。
*
「……何がだ」
「前線」
*
オスカーは。
答えなかった。
*
「何キロだ」
*
「二十七」
*
ヴァルターの顔が。
固まった。
*
「昨日は」
「四十一」
*
「十四キロ下がったのか」
「……ああ」
*
「一晩で」
「そうだ」
*
遠く。
*
また。
砲声。
*
「予備線は」
「町の西側」
*
ヴァルターが。
ゆっくりと。
自宅の向こうを見る。
*
見える。
*
土嚢。
*
塹壕。
*
兵士。
*
つまり。
*
あれが。
予備線。
*
「……ここじゃないか」
*
オスカーは。
否定しなかった。
*
「ヴァルター」
「何だ」
*
「もう一度だけ聞く」
*
召集令は。
出さなかった。
*
「教官として来てくれ」
*
ヴァルターは。
目を閉じる。
*
十七歳の兵士。
*
異界で死んだ部下。
*
エルンスト。
*
『生きて帰る方法を教えられる人間が欲しい』
*
レイブン。
*
十二歳。
*
セレナ。
*
家。
*
食卓。
*
朝。
*
「……断る」
*
オスカーは。
長い間。
ヴァルターを見ていた。
*
「そうか」
*
それだけ。
*
責めなかった。
*
説得もしなかった。
*
車へ戻る。
*
乗り込む前。
「避難命令が出たら」
*
オスカーが振り返る。
「今度こそ、すぐ行け」
*
「……」
*
「軍人としてじゃない」
*
少し間を置く。
「友人として言ってる」
*
車が走り去った。
*
ヴァルターは。
一人。
道路に残った。
*
西。
*
二十七キロ。
*
車なら。
大した距離ではない。
*
軍隊なら。
なおさらだった。
*
家へ戻る。
*
居間。
*
木箱。
*
六年前から。
ほとんど開けなかった箱。
*
ヴァルターは。
蓋を開ける。
*
軍服。
*
階級章。
*
認識票。
*
古い装具。
*
そして。
空いた場所。
*
そこには。
かつて。
愛用していた銃があった。
*
今は。
軍の保管庫にある。
*
ヴァルターは。
左手で。
軍服へ触れた。
*
今度は。
すぐには離さなかった。
*
「父さん」
*
後ろ。
*
レイブン。
*
「それ」
*
軍服を見る。
「着るの?」
*
ヴァルターは。
長い間。
答えなかった。
*
外。
*
――ドォン。
*
窓が。
震えた。
*
今までで。
一番大きかった。
*
レイブンの黒い耳が。
伏せられる。
*
ヴァルターは。
その姿を見る。
*
軍服。
*
息子。
*
軍服。
*
息子。
*
左手を。
軍服から離す。
*
そして。
レイブンの頭へ置いた。
「まだ着ない」
*
「……そっか」
*
「ああ」
*
その日の夕方。
*
町の西。
*
地平線に。
初めて。
砲撃の閃光が見えた。
*
音は。
数秒遅れて届いた。
*
ヴァルターは。
その時間を。
無意識に数えていた。
*
一。
*
二。
*
三。
*
――ドォン。
*
「……」
*
近い。
*
窓の外。
*
帝国軍の兵士が。
家々を回っている。
*
避難経路。
*
地下室。
*
消火用水。
*
負傷者搬送場所。
*
もう。
この町は。
後方ではなかった。
*
夜。
*
灯火管制。
*
真っ暗な部屋。
*
レイブンは。
窓の隙間から。
西を見ていた。
*
遠く。
*
空が。
赤く光る。
*
「父さん」
「何だ」
*
「あれ」
*
指を差す。
「町?」
*
ヴァルターは。
しばらく見た。
*
「……ああ」
*
「燃えてる?」
*
「ああ」
*
「人は?」
*
今度は。
答えられなかった。
*
レイブンも。
それ以上聞かなかった。
*
親子は。
暗い窓辺に立った。
*
遠く。
赤い空。
*
さらに。
その手前。
*
黒い地平線。
*
小さな光が。
いくつも動いていた。
*
ヴァルターの猫の目は。
レイブンより。
少しだけ遠くまで見えた。
*
だから。
気づいた。
*
光は。
家ではない。
*
車両。
*
一つ。
*
二つ。
*
その後ろにも。
*
さらに。
*
道路を。
東へ。
*
こちらへ。
*
進んでいる。
*
ヴァルターの左手が。
窓枠を掴んだ。
*
「父さん?」
*
レイブンには。
まだ分からない。
*
ヴァルターには。
分かった。
*
西から。
戦争が。
*
こちらへ向かって。
*
道路を。
*
一本ずつ。
*
町を。
*
一つずつ。
*
食い潰しながら。
*
近づいている。
*
そして。
*
クロウ家のある町は。
*
もう。
*
地図の後方にある町ではなかった。
第三話「待ったか?」
八十六日目。
*
ヴァルターは走っていた。
「っ……!」
息。
血。
泥。
G-35。
残弾。
僅か。
*
情報を得た。
門が開く。
場所も。
時間も。
確証はない。
それでも。
行くしかなかった。
*
「少尉!」
後ろ。
「先に行ってください!」
「馬鹿言うな!」
「追いつかれます!」
「全員で帰る!」
*
光。
「伏せろ!」
*
爆発。
*
耳鳴り。
*
ヴァルターは地面へ転がった。
「……っ」
起きる。
G-35を探す。
ある。
「ハーゲン!」
返事。
「フェルナー!」
返事。
*
走る。
*
八十八日目。
門が開くとされた地点へ到達。
何もない。
*
「……嘘だろ」
*
ヴァルターは。
膝をついた。
*
写真を出す。
セレナ。
レイブン。
*
初めて。
「……帰れないかもしれないな」
そう言った。
*
その夜。
眠れなかった。
*
八十九日目。
音。
*
――ブゥゥゥン。
*
聞き覚えがあった。
「……」
ヴァルターの猫耳が立つ。
「少尉?」
「黙れ」
*
音。
低い。
空気そのものが震える。
*
「門だ」
*
走った。
*
草原。
その中央。
空間が歪んでいる。
「……開いた」
*
異界門。
*
「通信機!」
「はい!」
『――こちら……帝国……前線……』
*
ヴァルターは。
無線機を奪うように取った。
「こちらヴァルター・クロウ少尉!」
雑音。
「帝国前線基地、応答しろ!」
『――所属を……繰り返せ――』
「ヴァルター・クロウ!」
*
数秒。
*
『……クロウ少尉?』
*
声。
帝国語。
*
ヴァルターは。
笑った。
「……そうだ」
*
その瞬間。
森から光。
「少尉!」
*
爆発。
*
右側。
*
衝撃。
*
「――ッ!」
*
何かが。
なくなった。
*
地面。
血。
*
「少尉!」
「止血!」
「右腕が――!」
*
ヴァルターは。
右を見る。
*
肩から先。
ない。
*
「……」
声が出なかった。
*
痛みは。
少し遅れて来た。
*
「――ああああッ!!」
*
視界が白くなる。
*
それでも。
「門……」
「少尉、動かないで!」
「門へ……」
「止血が先です!」
「閉じる……!」
*
左手。
地面。
這う。
*
「帰る……」
*
セレナ。
*
レイブン。
*
「帰るんだ……!」
*
九十日目。
*
異界門を越えた帝国側では。
再派遣された帰還誘導部隊が。
森の入口へ向かっていた。
*
「生存者!」
「どこだ!」
「前方!」
*
ルーカス・フェルナー曹長が。
最初に見つけた。
*
黒い猫耳。
泥。
血。
破れた軍服。
左手には。
まだG-35《アードラー》。
*
そして。
右腕がない。
*
「……嘘だろ」
*
ルーカスが走る。
「少尉!」
*
ヴァルターが。
僅かに顔を上げる。
「……フェルナー?」
「はい!」
「……本物か」
「本物です!」
*
担架。
「衛生兵!」
「出血が酷い!」
「急げ!」
*
ヴァルターの意識が落ちていく。
「少尉!」
*
目を閉じる直前。
彼は。
聞いた。
*
帝国軍の無線。
帝国兵の声。
帝国製車両の機関音。
*
帰ってきた。
*
そして。
基地へ運び込まれた時。
人だかり。
叫ぶ衛生兵。
担架。
眩しい照明。
*
ヴァルターは。
誰かへ聞いた。
「……家族は」
「無事です!」
*
その一言で。
身体から力が抜けた。
*
担架の横を走っていたルーカスへ。
ヴァルターは。
かすれた声で言った。
「……待ったか?」
*
ルーカスの顔が歪んだ。
「……三か月ですよ」
*
「そうか……」
ヴァルターは。
ほんの少し。
笑った。
*
「悪かったな」
*
そこで。
意識を失った。
*
三か月。
九十日。
異界へ向かった軍人は。
出発した時と同じ姿では。
帰ってこなかった。
*
けれど。
帰った。
*
妻のいる世界へ。
息子のいる家へ。
そして。
もう二度と聞きたくないと願うことになる、
軍靴の音が響く世界へ。




