↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
PR
16/189

Season 2「父の背中」 #016≪異界漂流篇:第3話「待ったか?」≫

第16話


「戦火は家路を辿る」


帝政歴339年。


 その朝、戦争が始まったことを、レイブンは爆発ではなく母の手で知った。


「今日は学校、行かなくていいって」


 食卓についたばかりだった。


 レイブンはパンを持ったまま顔を上げた。


「休み?」


「休校」


「いつまで?」


「分からないわ」


「明日は?」


「だから、分からないの」


 セレナはそう答えながら、棚から保存食を取り出していた。


 缶詰。


 乾燥肉。


 小麦粉。


 水。


 いつもなら食卓に並ばないものまで、机の隅へ置いていく。


「何してるの?」


「確認よ」


「何の?」


「家に何日分食べ物があるか」


「なんで?」


 セレナの手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「念のため」


 そう答えた。


     *


 ヴァルターは窓際にいた。


 新聞は届いていない。


 代わりにラジオが鳴っていた。


『――西部国境地域において昨夜から断続的な交戦が発生――』


 雑音。


『政府は市民に対し、未確認情報の拡散を避け――』


 ヴァルターが周波数を変える。


『――複数の国境検問所が一時閉鎖――』


 また変える。


『――帝国鉄道は軍事輸送を優先するため、西部方面の一部旅客列車を――』


 切った。


「父さん?」


「何だ」


「戦争なの?」


     *


 六年前にも。


 似たような質問をされた。


 あの頃のレイブンはまだ小さかった。


 ヴァルターは曖昧に答えた。


 大丈夫だ。


 まだ戦争ではない。


 心配するな。


 だが。


 十二歳になった息子へ、同じ言葉を使うことはできなかった。


「ああ」


 ヴァルターは窓の外を見たまま答えた。


「始まった」


     *


 レイブンはパンを置いた。


「……どっちが始めたの?」


 ヴァルターが振り返る。


「分からん」


「ラジオは?」


「自分たちが撃ったとは、どこの国も最初には言いたがらん」


「じゃあ、分からないの?」


「ああ」


 ヴァルターは椅子へ戻った。


「少なくとも、ここにいる俺たちにはな」


     *


 最初に聞こえた情報では。


 国境上空で軍用機同士が接触したという。


 別の放送では、地上部隊への発砲が先だったと言っていた。


 さらに別の噂では、国境監視所が砲撃されたという。


 どれが最初だったのか。


 町に暮らす人間には分からない。


 ただ一つだけ確かなことがあった。


 帝国(ヴァルグラント帝国)軍と、連邦共和国(アルディア連邦共和国)軍。


 昨日まで互いへ銃口を向けながら撃たなかった二つの軍が。


 今朝から。


 撃っている。


     *


 午前九時。


 商店街から小麦粉が消えた。


 十時。


 乾電池が売り切れた。


 十一時。


 駅前の燃料販売所に長い列ができた。


 正午。


 軍用車両を優先するため、幹線道路の一部が通行規制された。


 午後二時。


 学校の体育館が、市民用の臨時避難所へ変更された。


     *


 そして。


 午後三時十二分。


 ――コン、コン。


     *


 クロウ家の玄関が鳴った。


     *


 ヴァルターは。


 誰なのかを確認する前から。


 顔をしかめた。


「軍?」


 レイブンが聞いた。


「たぶんな」


「どうして分かるの?」


「叩き方」


「そんなので分かる?」


「長く軍にいるとな」


 ヴァルターは立ち上がる。


「嫌でも分かる」


     *


 扉を開ける。


 予想通りだった。


     *


「ヴァルター」


 オスカー・ベルンハルト中佐。


 《鉄髭》。


 コールサイン《バロン》。


 今日は一人ではなかった。


 その隣に。


 エルンスト・ハーゲン大尉。


 《牧師》。


 コールサイン《シェパード》。


 そして。


 見覚えのない若い兵士。


     *


 ヴァルターは。


 その若者を見て。


 最初の言葉を失った。


     *


 若い。


     *


 十八。


 いや。


 十七かもしれない。


 規定上は入隊可能な年齢なのだろう。


 軍服を着ている。


 小銃を背負っている。


 階級章もある。


 それでも。


 ヴァルターには。


 兵士より先に。


 少年に見えた。


     *


 ふと。


 階段から降りてくるレイブンの姿と重なった。


     *


 十二歳。


     *


 あと数年。


     *


「……何の用だ」


 声が。


 低くなった。


     *


 オスカーが封筒を出す。


「予備役召集令だ」


「断る」


「まだ中身を読んでいない」


「教官だろ」


「……そうだ」


「なら断る」


     *


 即答。


     *


「西部方面軍教育補充隊」


 オスカーは続けた。


「勤務場所は後方。前線勤務ではない」


「聞いてない」


「新兵と補充兵の短期再訓練だ」


「断る」


「ヴァルター」


「断ると言った」


     *


 オスカーが。


 少し声を落とした。


「これは要請じゃない」


「知ってる」


「戦時召集だ」


「それも知ってる」


「なら――」


「オスカー」


     *


 ヴァルターは。


 隣の若い兵士を指した。


「そいつ何歳だ」


     *


 若い兵士が。


 驚いたように姿勢を正す。


「十七歳です、少尉」


「少尉と呼ぶな」


「失礼しました」


「いつ入った」


「八か月前です」


「実戦経験は」


「ありません」


     *


「……そうか」


     *


 ヴァルターは。


 それ以上聞かなかった。


     *


 オスカーが察する。


「彼を連れてきたのは俺だ」


「悪趣味だな」


「違う」


「じゃあ何だ」


「運転手が足りなかった」


     *


 ヴァルターは黙った。


     *


 それが。


 かえって現実だった。


     *


 誰かに見せるため。


 説得材料として。


 若い兵士を連れてきたわけではない。


     *


 ただ。


 人が足りない。


     *


 だから十七歳の兵士が。


 中佐を乗せた車を運転している。


     *


「教官も足りない」


 オスカーが言う。


「車両兵も足りない。通信兵も足りない。衛生兵もだ」


「……」


「戦争が始まって、まだ一日だ」


     *


 ヴァルターの左手が。


 僅かに握られる。


     *


「なのにもう足りないのか」


「もう、じゃない」


 オスカーは首を横に振った。


「始まる前から足りなかったんだ」


     *


 沈黙。


     *


 遠くで。


 軍用トラックの音。


     *


「俺が教えたら」


 ヴァルターが言った。


「そいつらはどうなる」


     *


「配置される」


「どこへ」


「必要な部隊へ」


「前線か」


「……場合による」


     *


「誤魔化すな」


     *


 オスカーは。


 数秒黙った。


「前線へ行く者もいる」


     *


 ヴァルターが笑った。


     *


 乾いた。


 短い笑いだった。


「そうだろうな」


     *


「ヴァルターさん」


 エルンストが口を開く。


「だからこそです」


「何がだ」


「何も知らないまま送るより、あなたが教えた方が――」


「生き残れる?」


「……はい」


     *


 ヴァルターの表情が。


 変わった。


     *


 森。


     *


 二つの月。


     *


 若い兵士。


     *


『少尉。もし帰れたら何します?』


     *


 笑っていた。


     *


 数日後。


 いなくなった。


     *


「……それを」


 ヴァルターは呟いた。


「俺も昔は信じてた」


     *


「何をです?」


「教えれば死なないってことだ」


     *


 エルンストは答えない。


「伏せ方を教える」


「……」


「撃ち方を教える」


「……」


「遮蔽物の選び方。止血。撤退。弾の数え方。仲間の運び方」


     *


 ヴァルターの声が。


 次第に低くなる。


「全部教える」


     *


 右肩。


     *


 ない腕が。


 疼いた。


「それでも死ぬ」


     *


 誰も。


 否定しなかった。


     *


「俺はな」


 ヴァルターは。


 家の中を見る。


     *


 階段。


     *


 そこにレイブンがいる。


     *


 話を聞いている。


     *


「あいつと大して変わらない顔をした子供に」


     *


 レイブンを見る。


「銃を持たせるための教師にはなりたくない」


     *


「父さん……」


     *


 オスカーは。


 召集令を下ろした。


     *


「気持ちは分かる」


「分かるなら帰れ」


「だが」


     *


 オスカーの声にも。


 疲れがあった。


「俺には、その若い兵士を何も教えず送り出す方が怖い」


     *


 ヴァルターは。


 返せなかった。


     *


 それは。


 正論だった。


     *


 だから。


 余計に腹が立った。


     *


「……帰れ」


     *


 それしか。


 言えなかった。


     *


◇


 戦争開始から四日。


     *


 町から。


 若い男が減った。


     *


 召集。


     *


 志願。


     *


 配置転換。


     *


 駅のホームには。


 軍服姿が増えた。


     *


 見送る家族も。


     *


 レイブンは。


 母と買い物へ出た帰り。


 駅前で足を止めた。


     *


 若い兵士。


     *


 母親らしい女性が。


 何度も襟元を直している。


「ちゃんと食べるのよ」


「分かってる」


「手紙も」


「書くって」


「怪我しないで」


「それは分かんないよ」


「そんなこと言わないの」


     *


 兵士が。


 困ったように笑った。


     *


 列車が来る。


     *


 母親が。


 最後まで。


 息子の手を離さなかった。


     *


「母さん」


「なに?」


     *


 レイブンは。


 列車を見ながら聞いた。


「父さんも、昔あんな感じだった?」


     *


 セレナは。


 少し考えた。


「もっと生意気だったわ」


「そうじゃなくて」


「分かってる」


     *


 列車が動き始める。


「……ええ」


     *


 セレナの白い耳が。


 少し伏せられた。


「見送る側は、いつも似たような気持ちよ」


     *


◇


 七日目。


     *


 食料品に購入制限がついた。


     *


 一世帯。


 小麦粉二袋まで。


 保存肉三缶まで。


     *


 燃料は。


 軍と公共機関優先。


     *


 夜間。


 灯火管制。


     *


 カーテンを閉める。


     *


 窓から光を漏らさない。


     *


 レイブンは。


 暗くなった自分の部屋で。


 宿題をしていた。


     *


 学校は休校なのに。


 宿題だけは配られた。


     *


「意味分かんない……」


     *


 思わず。


 いつもの調子で呟く。


     *


 階下から。


 セレナの笑い声。


     *


 ほんの一瞬。


 戦争が始まる前と。


 何も変わらない気がした。


     *


 だが。


 遠くから。


     *


 ――ドン。


     *


 低い音。


     *


 鉛筆が止まる。


     *


「……雷?」


     *


 階下。


     *


 ヴァルターの黒い耳が。


 すでに西を向いていた。


     *


「違う」


     *


「何?」


     *


 セレナが聞く。


     *


「砲声だ」


     *


「ここまで聞こえるの?」


     *


「風向きによる」


     *


 そう答えた。


     *


 だが。


 ヴァルターは。


 窓際へ歩いた。


     *


 音の間隔。


     *


 方向。


     *


 大きさ。


     *


 無意識に。


 測っていた。


     *


「……近づいてる」


     *


◇


 十一日目。


     *


 最初の避難民が。


 町へ入った。


     *


 百人。


     *


 翌日。


 三百人。


     *


 さらに翌日。


 数えられなくなった。


     *


 学校。


 公民館。


 教会。


 倉庫。


     *


 使える建物が。


 次々と避難所になった。


     *


 レイブンも。


 物資運搬を手伝った。


     *


「これ、水!」


「奥へ!」


「分かった!」


     *


 箱を抱える。


     *


 十二歳には重い。


     *


 それでも。


 運んだ。


     *


 途中。


 自分と同じくらいの少年が。


 床に座っていた。


     *


 片耳に包帯。


     *


 靴がない。


     *


「……」


     *


 目が合う。


     *


 レイブンは。


 水を一本差し出した。


「飲む?」


     *


 少年は受け取った。


「ありがとう」


「どこから来たの?」


     *


 少年が。


 地名を言った。


     *


 レイブンには。


 聞き覚えがあった。


     *


 地理の授業。


     *


 この町から。


 列車なら。


 数時間。


     *


「家は?」


     *


 聞いてから。


 聞かなければよかったと思った。


     *


「燃えた」


     *


 少年は。


 水の瓶を見ながら答えた。


     *


「父さんは?」


「知らない」


「……」


「軍にいる」


     *


 レイブンは。


 何も言えなくなった。


     *


◇


 十五日目。


     *


 エルンストが。


 一人で来た。


     *


 無精髭。


     *


 目の下。


 濃い隈。


     *


「……寝てるか?」


 ヴァルターが聞いた。


「二時間ほど」


「一日?」


「二日で」


「馬鹿野郎」


「褒め言葉として受け取ります」


     *


 以前なら。


 笑ったかもしれない。


     *


 二人とも。


 笑わなかった。


     *


「今日は召集令を持ってきてない」


「じゃあ何だ」


     *


「話です」


     *


 エルンストは。


 玄関先に立ったまま言った。


「第三防御線を放棄しました」


     *


 ヴァルターの顔が。


 変わる。


「いつ」


「昨夜」


「理由」


「北側が抜かれました」


「予備線は」


「構築中です」


「間に合うのか」


     *


 エルンストは。


 答えなかった。


     *


「何キロだ」


「ここから?」


「ああ」


「百五十弱」


     *


 ヴァルターが。


 目を閉じる。


     *


「昨日まで二百あった」


「……はい」


     *


「一日で五十縮んだのか」


「直線距離です」


「そういう話をしてるんじゃない」


     *


 エルンストが。


 視線を落とした。


     *


「補充兵が持ちません」


「……」


「昨日来た兵が、今日には前へ出る」


     *


 ヴァルターの奥歯が。


 噛み締められる。


「それを俺に言うな」


「言います」


「エルンスト」


「言わせてください」


     *


 初めて。


 元部下が。


 真正面から逆らった。


     *


「あなたが嫌なのは分かってます」


「……」


「俺だって嫌です」


     *


 声が。


 少し震えた。


「十七の奴に銃を渡して」


     *


「……」


「三日後に名簿から名前を消す仕事なんか」


     *


 ヴァルターが。


 エルンストを見る。


「誰が死んだ」


     *


 沈黙。


     *


「……ケスラー中尉のところの新人が二人」


     *


 ヴァルターは。


 何も言わなかった。


     *


「名前は?」


     *


 エルンストが。


 二つ。


 名前を言った。


     *


 知らない名前だった。


     *


 知らない。


     *


 それなのに。


 胸が重くなった。


     *


「……そうか」


     *


「俺たちは」


 エルンストが続ける。


「勝つ方法より」


     *


 一度。


 息を飲む。


「生きて帰る方法を教えられる人間が欲しい」


     *


 ヴァルターは。


 返事をしなかった。


     *


「帰れ」


     *


 それでも。


 最後には。


 そう言った。


     *


「……はい」


     *


 エルンストは。


 敬礼しなかった。


     *


 ただ。


 頭を下げた。


     *


 そして。


 帰った。


     *


 ヴァルターは。


 その背中が見えなくなっても。


 玄関を閉めなかった。


     *


◇


 二十二日目。


     *


 町の駅に。


 列車が入ってきた。


     *


 西から。


     *


 人々は。


 避難民を乗せた列車だと思った。


     *


 違った。


     *


 負傷兵だった。


     *


 窓。


     *


 包帯。


     *


 血。


     *


 担架。


     *


 歩ける者は。


 自分で降りた。


     *


 歩けない者は。


 運ばれた。


     *


 レイブンは。


 駅前から。


 その光景を見ていた。


     *


 兵士は。


 もっと強いものだと思っていた。


     *


 父のように。


     *


 怒鳴って。


 走って。


 銃を持って。


     *


 だが。


 担架の上にいた兵士は。


 泣いていた。


     *


「母さん……」


     *


 そう呼んでいた。


     *


 レイブンは。


 その場から。


 しばらく動けなかった。


     *


◇


 二十八日目。


     *


 西へ向かう道路が。


 軍用車両で埋まった。


     *


 東へ向かう道路が。


 避難民で埋まった。


     *


 町は。


 二つの流れの間にあった。


     *


 西へ。


 兵士。


     *


 東へ。


 家族。


     *


 その日の夕方。


 逆のことが起きた。


     *


 西から。


 軍用車両が戻ってきた。


     *


 一台。


     *


 二台。


     *


 五台。


     *


 十台。


     *


 泥だらけ。


     *


 車体に穴。


     *


 窓がない。


     *


 荷台には。


 疲れ切った帝国兵。


     *


 誰も。


 喋っていなかった。


     *


 ヴァルターは。


 家の前から。


 それを見ていた。


     *


 一両。


 装甲車。


     *


 履帯が傷んでいる。


     *


 砲塔に。


 煤。


     *


 次。


     *


 弾薬車。


     *


 空。


     *


 次。


     *


 救急車。


     *


 次。


     *


 トラック。


     *


 荷台の兵士。


     *


「……後退じゃない」


     *


 セレナが隣に立つ。


「何?」


     *


 ヴァルターの目は。


 車列から離れない。


「崩れてる」


     *


 その夜。


     *


 町役場から。


 紙が配られた。


     *


《避難準備命令》


     *


 セレナは。


 鞄を開いた。


     *


 服。


     *


 水。


     *


 保存食。


     *


 写真。


     *


「何を持っていけばいいの?」


 レイブンが聞いた。


     *


 セレナは。


 少し考えた。


「自分で持てる分だけ」


     *


「本は?」


「一冊」


「一冊だけ?」


「重くなるから」


     *


 レイブンは。


 自室へ戻った。


     *


 本棚。


     *


 何冊もある。


     *


 どれか一冊。


     *


 選べなかった。


     *


 その時。


 初めて。


     *


 避難というものが。


 旅行とは違うのだと。


 分かった。


     *


◇


 三十一日目。


     *


 朝。


     *


 ヴァルターは。


 音で目を覚ました。


     *


 ――ドン。


     *


 目を開く。


     *


 数秒。


     *


 ――ドォン。


     *


 近い。


     *


 起き上がる。


     *


 窓へ。


     *


 西。


     *


 煙。


     *


 昨日より。


 明らかに近い。


     *


 道路。


     *


 帝国軍。


     *


 塹壕。


     *


 土嚢。


     *


 有刺鉄線。


     *


 対車両障害物。


     *


 昨日まではなかった。


     *


 自宅から。


 歩いて行ける場所に。


     *


 防御陣地が。


 できていた。


     *


「……」


     *


 ヴァルターは。


 何も言わなかった。


     *


 階下。


     *


 セレナが。


 朝食を作っている。


     *


 レイブンが。


 眠そうな顔で降りてくる。


「おはよう……」


「おはよう」


「今日、何曜日?」


     *


 セレナが。


 一瞬。


 考えた。


     *


「……木曜日」


「学校、まだ休み?」


「ええ」


「そっか」


     *


 パン。


     *


 少量の卵。


     *


 薄くしたスープ。


     *


 三人で。


 食べる。


     *


 外では。


 兵士が。


 塹壕を掘っている。


     *


 だが。


 家の中では。


「レイブン」


「ん?」


「肘」


「何?」


「食卓につくな」


「父さんだって昔やってたって、お祖母ちゃんが」


「母さん……」


「私は何も言ってないわよ」


「ヘレーネだ……」


     *


 レイブンが笑う。


     *


 セレナも。


     *


 ヴァルターも。


 少しだけ。


     *


 その時。


     *


 ――ドンッ。


     *


 食器が。


 小さく震えた。


     *


 笑い声が止まる。


     *


 三人とも。


 窓を見る。


     *


 ヴァルターだけが。


 音の意味を。


 理解していた。


     *


「……着弾した」


     *


「どこ?」


     *


 レイブンが聞く。


     *


「まだ町の外だ」


     *


 まだ。


     *


 ヴァルターは。


 その言葉を口にしてから。


 嫌になった。


     *


 まだ。


     *


 何度。


 この言葉を使っただろう。


     *


 まだ国境だ。


     *


 まだ遠い。


     *


 まだ防御線がある。


     *


 まだ避難準備だ。


     *


 まだ町の外だ。


     *


 ――まだ。


     *


 それは。


 安全を意味する言葉ではなくなっていた。


     *


 ただ。


 戦争が。


 ここへ到着していない。


     *


 それだけだった。


     *


 昼前。


     *


 軍用車が。


 クロウ家の前で止まった。


     *


 扉が開く。


     *


 オスカー。


     *


 今回は。


 玄関を叩かなかった。


     *


 ヴァルターが。


 自分から外へ出た。


「何キロだ」


     *


 挨拶すらなかった。


     *


「……何がだ」


「前線」


     *


 オスカーは。


 答えなかった。


     *


「何キロだ」


     *


「二十七」


     *


 ヴァルターの顔が。


 固まった。


     *


「昨日は」


「四十一」


     *


「十四キロ下がったのか」


「……ああ」


     *


「一晩で」


「そうだ」


     *


 遠く。


     *


 また。


 砲声。


     *


「予備線は」


「町の西側」


     *


 ヴァルターが。


 ゆっくりと。


 自宅の向こうを見る。


     *


 見える。


     *


 土嚢。


     *


 塹壕。


     *


 兵士。


     *


 つまり。


     *


 あれが。


 予備線。


     *


「……ここじゃないか」


     *


 オスカーは。


 否定しなかった。


     *


「ヴァルター」


「何だ」


     *


「もう一度だけ聞く」


     *


 召集令は。


 出さなかった。


     *


「教官として来てくれ」


     *


 ヴァルターは。


 目を閉じる。


     *


 十七歳の兵士。


     *


 異界で死んだ部下。


     *


 エルンスト。


     *


『生きて帰る方法を教えられる人間が欲しい』


     *


 レイブン。


     *


 十二歳。


     *


 セレナ。


     *


 家。


     *


 食卓。


     *


 朝。


     *


「……断る」


     *


 オスカーは。


 長い間。


 ヴァルターを見ていた。


     *


「そうか」


     *


 それだけ。


     *


 責めなかった。


     *


 説得もしなかった。


     *


 車へ戻る。


     *


 乗り込む前。


「避難命令が出たら」


     *


 オスカーが振り返る。


「今度こそ、すぐ行け」


     *


「……」


     *


「軍人としてじゃない」


     *


 少し間を置く。


「友人として言ってる」


     *


 車が走り去った。


     *


 ヴァルターは。


 一人。


 道路に残った。


     *


 西。


     *


 二十七キロ。


     *


 車なら。


 大した距離ではない。


     *


 軍隊なら。


 なおさらだった。


     *


 家へ戻る。


     *


 居間。


     *


 木箱。


     *


 六年前から。


 ほとんど開けなかった箱。


     *


 ヴァルターは。


 蓋を開ける。


     *


 軍服。


     *


 階級章。


     *


 認識票。


     *


 古い装具。


     *


 そして。


 空いた場所。


     *


 そこには。


 かつて。


 愛用していた銃があった。


     *


 今は。


 軍の保管庫にある。


     *


 ヴァルターは。


 左手で。


 軍服へ触れた。


     *


 今度は。


 すぐには離さなかった。


     *


「父さん」


     *


 後ろ。


     *


 レイブン。


     *


「それ」


     *


 軍服を見る。


「着るの?」


     *


 ヴァルターは。


 長い間。


 答えなかった。


     *


 外。


     *


 ――ドォン。


     *


 窓が。


 震えた。


     *


 今までで。


 一番大きかった。


     *


 レイブンの黒い耳が。


 伏せられる。


     *


 ヴァルターは。


 その姿を見る。


     *


 軍服。


     *


 息子。


     *


 軍服。


     *


 息子。


     *


 左手を。


 軍服から離す。


     *


 そして。


 レイブンの頭へ置いた。


「まだ着ない」


     *


「……そっか」


     *


「ああ」


     *


 その日の夕方。


     *


 町の西。


     *


 地平線に。


 初めて。


 砲撃の閃光が見えた。


     *


 音は。


 数秒遅れて届いた。


     *


 ヴァルターは。


 その時間を。


 無意識に数えていた。


     *


 一。


     *


 二。


     *


 三。


     *


 ――ドォン。


     *


「……」


     *


 近い。


     *


 窓の外。


     *


 帝国軍の兵士が。


 家々を回っている。


     *


 避難経路。


     *


 地下室。


     *


 消火用水。


     *


 負傷者搬送場所。


     *


 もう。


 この町は。


 後方ではなかった。


     *


 夜。


     *


 灯火管制。


     *


 真っ暗な部屋。


     *


 レイブンは。


 窓の隙間から。


 西を見ていた。


     *


 遠く。


     *


 空が。


 赤く光る。


     *


「父さん」


「何だ」


     *


「あれ」


     *


 指を差す。


「町?」


     *


 ヴァルターは。


 しばらく見た。


     *


「……ああ」


     *


「燃えてる?」


     *


「ああ」


     *


「人は?」


     *


 今度は。


 答えられなかった。


     *


 レイブンも。


 それ以上聞かなかった。


     *


 親子は。


 暗い窓辺に立った。


     *


 遠く。


 赤い空。


     *


 さらに。


 その手前。


     *


 黒い地平線。


     *


 小さな光が。


 いくつも動いていた。


     *


 ヴァルターの猫の目は。


 レイブンより。


 少しだけ遠くまで見えた。


     *


 だから。


 気づいた。


     *


 光は。


 家ではない。


     *


 車両。


     *


 一つ。


     *


 二つ。


     *


 その後ろにも。


     *


 さらに。


     *


 道路を。


 東へ。


     *


 こちらへ。


     *


 進んでいる。


     *


 ヴァルターの左手が。


 窓枠を掴んだ。


     *


「父さん?」


     *


 レイブンには。


 まだ分からない。


     *


 ヴァルターには。


 分かった。


     *


 西から。


 戦争が。


     *


 こちらへ向かって。


     *


 道路を。


     *


 一本ずつ。


     *


 町を。


     *


 一つずつ。


     *


 食い潰しながら。


     *


 近づいている。


     *


 そして。


     *


 クロウ家のある町は。


     *


 もう。


     *


 地図の後方にある町ではなかった。

第三話「待ったか?」


 八十六日目。


     *


 ヴァルターは走っていた。


「っ……!」


 息。


 血。


 泥。


 G-35。


 残弾。


 僅か。


     *


 情報を得た。


 門が開く。


 場所も。


 時間も。


 確証はない。


 それでも。


 行くしかなかった。


     *


「少尉!」


 後ろ。


「先に行ってください!」


「馬鹿言うな!」


「追いつかれます!」


「全員で帰る!」


     *


 光。


「伏せろ!」


     *


 爆発。


     *


 耳鳴り。


     *


 ヴァルターは地面へ転がった。


「……っ」


 起きる。


 G-35を探す。


 ある。


「ハーゲン!」


 返事。


「フェルナー!」


 返事。


     *


 走る。


     *


 八十八日目。


 門が開くとされた地点へ到達。


 何もない。


     *


「……嘘だろ」


     *


 ヴァルターは。


 膝をついた。


     *


 写真を出す。


 セレナ。


 レイブン。


     *


 初めて。


「……帰れないかもしれないな」


 そう言った。


     *


 その夜。


 眠れなかった。


     *


 八十九日目。


 音。


     *


 ――ブゥゥゥン。


     *


 聞き覚えがあった。


「……」


 ヴァルターの猫耳が立つ。


「少尉?」


「黙れ」


     *


 音。


 低い。


 空気そのものが震える。


     *


「門だ」


     *


 走った。


     *


 草原。


 その中央。


 空間が歪んでいる。


「……開いた」


     *


 異界門。


     *


「通信機!」


「はい!」


『――こちら……帝国……前線……』


     *


 ヴァルターは。


 無線機を奪うように取った。


「こちらヴァルター・クロウ少尉!」


 雑音。


「帝国前線基地、応答しろ!」


『――所属を……繰り返せ――』


「ヴァルター・クロウ!」


     *


 数秒。


     *


『……クロウ少尉?』


     *


 声。


 帝国語。


     *


 ヴァルターは。


 笑った。


「……そうだ」


     *


 その瞬間。


 森から光。


「少尉!」


     *


 爆発。


     *


 右側。


     *


 衝撃。


     *


「――ッ!」


     *


 何かが。


 なくなった。


     *


 地面。


 血。


     *


「少尉!」


「止血!」


「右腕が――!」


     *


 ヴァルターは。


 右を見る。


     *


 肩から先。


 ない。


     *


「……」


 声が出なかった。


     *


 痛みは。


 少し遅れて来た。


     *


「――ああああッ!!」


     *


 視界が白くなる。


     *


 それでも。


「門……」


「少尉、動かないで!」


「門へ……」


「止血が先です!」


「閉じる……!」


     *


 左手。


 地面。


 這う。


     *


「帰る……」


     *


 セレナ。


     *


 レイブン。


     *


「帰るんだ……!」


     *


 九十日目。


     *


 異界門を越えた帝国側では。


 再派遣された帰還誘導部隊が。


 森の入口へ向かっていた。


     *


「生存者!」


「どこだ!」


「前方!」


     *


 ルーカス・フェルナー曹長が。


 最初に見つけた。


     *


 黒い猫耳。


 泥。


 血。


 破れた軍服。


 左手には。


 まだG-35《アードラー》。


     *


 そして。


 右腕がない。


     *


「……嘘だろ」


     *


 ルーカスが走る。


「少尉!」


     *


 ヴァルターが。


 僅かに顔を上げる。


「……フェルナー?」


「はい!」


「……本物か」


「本物です!」


     *


 担架。


「衛生兵!」


「出血が酷い!」


「急げ!」


     *


 ヴァルターの意識が落ちていく。


「少尉!」


     *


 目を閉じる直前。


 彼は。


 聞いた。


     *


 帝国軍の無線。


 帝国兵の声。


 帝国製車両の機関音。


     *


 帰ってきた。


     *


 そして。


 基地へ運び込まれた時。


 人だかり。


 叫ぶ衛生兵。


 担架。


 眩しい照明。


     *


 ヴァルターは。


 誰かへ聞いた。


「……家族は」


「無事です!」


     *


 その一言で。


 身体から力が抜けた。


     *


 担架の横を走っていたルーカスへ。


 ヴァルターは。


 かすれた声で言った。


「……待ったか?」


     *


 ルーカスの顔が歪んだ。


「……三か月ですよ」


     *


「そうか……」


 ヴァルターは。


 ほんの少し。


 笑った。


     *


「悪かったな」


     *


 そこで。


 意識を失った。


     *


 三か月。


 九十日。


 異界へ向かった軍人は。


 出発した時と同じ姿では。


 帰ってこなかった。


     *


 けれど。


 帰った。


     *


 妻のいる世界へ。


 息子のいる家へ。


 そして。


 もう二度と聞きたくないと願うことになる、


 軍靴の音が響く世界へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。