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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 2「父の背中」 #015≪異界漂流篇:第2話「帰れない兵士」≫

第15話「軍靴の向かう先」


帝政歴339年――。


 ――コン、コン。


 朝食の途中だった。


 ヴァルターの黒い猫耳が、玄関の方へ向く。


 セレナも手を止めた。


 そして。


 パンを頬張っていたレイブンまで、同じ方向へ耳を向ける。


「……また?」


 十二歳の少年が聞いた。


「ああ」


 ヴァルターは珈琲(コーヒー)を置いた。


「たぶんな」


「今日は誰?」


「知らん」


「父さんの昔の友達?」


「軍服着て朝飯時に来る奴を友達と呼んでいいならな」


「じゃあ友達じゃない?」


「難しいところだ」


 セレナが呆れたように笑った。


「あなた」


「何だ」


「玄関で長話しないでね」


「するつもりはない」


「昨日もそう言って四十分だったわよ」


「……今日は十分で追い返す」


「追い返す前提なんだ」


 レイブンが呟く。


「食べてろ」


 ヴァルターは立ち上がった。


     *


 廊下。


 一歩。


 二歩。


 以前なら。


 軍靴の音を聞いただけで、右肩の奥が疼いた。


 泥。


 二つの月。


 無線。


 光。


 血。


 存在しない右腕。


 今朝も。


 扉の向こうから革靴が石を擦る音がする。


 ――ザッ。


 ヴァルターの足が、ほんの僅かに鈍った。


     *


『少尉!』


     *


 耳の奥で声がした。


 だが。


「父さん!」


 今度は背後。


「早くしないと俺、学校行くよ!」


「行け!」


「見送りは!?」


「母さんに頼め!」


「雑!」


     *


 ヴァルターは。


 少しだけ笑った。


 玄関扉へ左手を掛ける。


「……ここだ」


 小さく呟いた。


 森ではない。


 異界でもない。


 自宅だ。


 扉を開けた。


     *


「おはようございます、少尉」


「帰れ」


「早いですよ!」


     *


 立っていたのは。


 フリードリヒ・ケスラー中尉。


 赤褐色の猫耳を持つ帝国軍人。


 ヴァルターより年下。


 現役時代には射撃訓練で何度も顔を合わせた男だった。


 几帳面。


 融通が利かない。


 そして。


 妙なところで世話焼き。


 兵士たちからのあだ名は**《帳面》**。


 本人は嫌っている。


 コールサインは《スクライブ》。


「俺はまだ何も言ってません」


「軍服を着てる」


「はい」


「書類を持ってる」


「はい」


「朝飯時だ」


「それは申し訳ありません」


「三つ揃った。軍からの面倒事だ」


「推理としては正解です」


「じゃあ帰れ」


「だから早いです!」


     *


 ヴァルターが扉を閉めようとする。


「待ってください!」


 ケスラーが慌てて足を差し込む。


「挟むぞ」


「予備役を怪我させたら報告書が増えるのでやめてください」


「お前は昔から書類の心配ばかりだな」


「誰かさんが報告書を書かないからでしょう」


「記憶にない」


「三十七件あります」


「数えるな」


     *


 昔と同じだった。


 だからこそ。


 ヴァルターは少し困った。


 軍人としてではなく。


 知っている男として来られる方が。


 追い返しにくい。


     *


「……五分だ」


「十分では?」


「減った」


「なぜ」


「お前だからだ」


「ひどい」


     *


 ケスラーは表情を改めた。


「昨日、ベルンハルト中佐が来ましたね」


「ああ」


「ハーゲン大尉とフェルナー曹長も」


「ああ」


「断った」


「断った」


「即答で?」


「即答で」


「でしょうね」


「分かってるなら何しに来た」


     *


 ケスラーは。


 持っていた書類を下ろした。


「説得ではありません」


「……」


「状況を伝えに来ました」


「いらん」


「聞いてください」


「新聞で足りる」


「新聞にはまだ載ってません」


     *


 その一言。


 ヴァルターの黒い耳が。


 僅かに動いた。


     *


「連邦側が動きました」


「どの程度だ」


 反射だった。


 言った後で。


 ヴァルター自身が気づく。


 ケスラーも気づいた。


 だが何も言わなかった。


「国境線から後退していません」


「それは知ってる」


「逆です」


「……何?」


「前へ出ています」


     *


 朝の空気が。


 少し冷たくなった。


「昨日夜半から、連邦共和国(アルディア連邦共和国)軍の複数部隊が前進配置を開始しました」


「規模は」


「まだ確定していません」


「装甲?」


「確認されています」


「砲兵」


「同じく」


「航空は」


「国境付近で哨戒回数が増加」


 質問が。


 次々と出る。


     *


 ケスラーは答える。


 ヴァルターは聞く。


     *


 気づけば。


 二人とも。


 昔と同じ話し方になっていた。


     *


「……」


 ヴァルターが口を閉じる。


「何だ」


「いえ」


「言え」


「軍人に戻ったみたいだったので」


     *


 ヴァルターの表情が。


 消えた。


     *


「……帰れ」


「ヴァルターさん」


「帰れ」


「俺は――」


「聞いた」


     *


 右肩。


 疼く。


     *


 地図。


 部隊。


 砲兵。


 航空。


 敵。


     *


 そういう言葉を聞くと。


 頭が勝手に考える。


 距離。


 時間。


 補給。


 火力。


 退路。


     *


 そして。


 その先にはいつも。


 血がある。


     *


「俺は」


 ヴァルターは低く言った。


「もう、その先を考えたくない」


     *


 ケスラーは。


 何も返さなかった。


     *


「父さん!」


 家の中から声。


「行ってきます!」


     *


 ヴァルターが振り返る。


 レイブンが玄関まで来ていた。


 制服。


 鞄。


 黒い猫耳。


 金色と黒色の異色眼(オッドアイ)。


「……ああ」


 声が。


 少し柔らかくなる。


「行ってこい」


「今日帰ったら走る?」


「宿題が終わったらな」


「昨日もそれ言った!」


「今日も言う」


「分かったよ」


「寄り道するな」


「分かってる」


「車に気をつけろ」


「子供じゃないって」


「十二歳は子供だ」


「父さん基準?」


「世間基準だ」


     *


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


     *


 レイブンが走っていく。


 ヴァルターは。


 姿が角を曲がるまで見ていた。


     *


「……あの子が理由ですか」


 ケスラー。


「一つだ」


「奥さんも」


「ああ」


「家も」


「ああ」


     *


 ヴァルターは。


 空の右袖を見る。


「帰る場所を知ってしまったからな」


     *


 ケスラーは。


 静かに敬礼した。


「今日は帰ります」


「今日は?」


「また誰か来ますよ」


「来るなと言っておけ」


「それは無理です」


「なぜ」


「あなた、教官として人気ありましたから」


「嘘をつけ」


「恐怖政治という意味で」


「帰れ」


     *


 ケスラーは笑いながら去っていった。


     *


 その背中を見送り。


 ヴァルターは。


 深く息を吐いた。


     *


 学校。


     *


「静かに!」


 教師が黒板を叩いた。


「今日から、下校規則が一部変更される」


 教室がざわつく。


「先生、何で?」


「国境情勢の影響だ」


     *


 レイブンの耳が立った。


「しばらくの間、放課後の不要な外出は禁止。部活動も終了時刻を繰り上げる」


「えー!」


「それから」


 教師は。


 少し言葉を選んだ。


「警報が鳴った場合の避難訓練を、明日実施する」


     *


 教室が静かになった。


     *


「警報って」


 誰かが言う。


「空襲?」


     *


 教師は。


 すぐには答えなかった。


「訓練だ」


 それだけだった。


     *


 昼休み。


「なあ、レイブン」


「ん?」


「本当に戦争になるのかな」


 友人が窓を見る。


 遠く。


 軍用車列。


     *


「……分かんない」


「お前の父ちゃん、軍人なんだろ?」


「予備役」


「呼ばれる?」


「……」


     *


 朝。


 玄関。


 軍服。


     *


「知らない」


 レイブンは答えた。


     *


「でもさ」


「ん?」


「父さん、軍の人が来るたび嫌そうな顔するんだ」


「行きたくないんじゃない?」


「たぶん」


     *


 少し考える。


「昔は違ったんだけどな」


「どう違った?」


「軍服着てる父さん、格好よかった」


     *


 六歳の記憶。


 まだ右腕があった頃。


 玄関。


 軍服。


 父の大きな背中。


     *


 そして。


 担架。


 血。


 なくなった右腕。


     *


「……今も格好いいけど」


「何だそれ」


「うるさい」


     *


 午後。


 体育。


     *


「次、クロウ!」


「はい!」


     *


 走る。


 跳ぶ。


 着地。


 また走る。


     *


「速い!」


     *


 教師が計時器を見る。


「……クロウ」


「何です?」


「本当に陸上部入らないか?」


「入りません」


「勿体ないぞ」


「休日に父さんと走ってますから」


「父親は速いのか」


「速いです」


「片腕だったな?」


「はい」


「それでも?」


「はい」


     *


 レイブンは。


 少しだけ笑った。


「まだ一度も勝ったことないです」


     *


 放課後。


 友人たちと校門を出る。


     *


 街は。


 少し変わっていた。


     *


 駅。


 兵士。


 軍用列車。


 荷物。


 木箱。


 燃料車。


     *


 商店では。


 人々が食料を多めに買っている。


     *


 掲示板。


《市民防護訓練実施のお知らせ》


     *


「……」


 レイブンは立ち止まった。


     *


 六年前。


 まだ小さかった頃。


 軍用車列を窓から見た。


『戦争するの?』


『……まだだ』


     *


 父の声。


     *


 ――まだ。


     *


 あの言葉だけが。


 今になって。


 妙に思い出された。


     *


 夕方。


「ただいま」


「おかえり」


     *


 いつもより。


 少し静かな声だった。


 セレナが気づく。


「どうしたの?」


「学校で避難訓練やるって」


     *


 台所。


 セレナの手が止まる。


「そう」


「母さん」


「なに?」


「戦争になるの?」


     *


 六年前。


 同じ質問を。


 父へした。


     *


 セレナは。


 すぐには答えなかった。


「お父さんに聞いてみる?」


「父さんは?」


「裏庭」


     *


 レイブンは。


 裏庭へ向かった。


     *


 ヴァルターは。


 一人。


 地面へ木の棒で線を引いていた。


     *


「父さん?」


「……」


「何してるの?」


     *


 ヴァルターが。


 はっとする。


     *


 地面。


 線。


 円。


 矢印。


     *


 国境。


 道路。


 部隊。


 無意識に。


 戦況図を描いていた。


     *


 ヴァルターは。


 木の棒を捨てた。


「何でもない」


「地図?」


「違う」


「でも――」


「走るぞ」


     *


 話を切った。


     *


「父さん」


「何だ」


「戦争になる?」


     *


 ヴァルターが。


 止まる。


     *


 十二歳の息子。


 六年前と同じ質問。


     *


 あの時。


『まだだ』


 そう答えた。


     *


 今は。


 同じ言葉を。


 簡単には言えなかった。


     *


「……分からん」


 それが。


 今のヴァルターに言える、


 一番正直な答えだった。


     *


「そっか」


「怖いか?」


「少し」


「そうか」


「父さんは?」


     *


 ヴァルターは。


 少し考えた。


「怖い」


     *


 レイブンが意外そうに見る。


「父さんでも?」


「父さんだからだ」


「?」


     *


 ヴァルターは。


 息子の頭へ左手を置いた。


「怖いものが増えた」


「何が?」


     *


 妻。


 息子。


 家。


 朝食。


 帰る場所。


     *


「秘密だ」


「何だよそれ」


     *


「走るぞ」


「今日こそ勝つ」


「言ったな」


     *


 二人が並ぶ。


     *


 その時。


 遠く。


 鐘。


     *


 ――ゴォォォン。


     *


 ヴァルターの耳が立つ。


「……?」


 レイブンも空を見る。


「何の音?」


     *


 二度目。


 ――ゴォォォン。


     *


 町の方。


     *


 そして。


 続いて。


 甲高い警報音。


     *


 ――ウゥゥゥゥ――。


     *


「父さん?」


     *


 ヴァルターの顔から。


 表情が消えた。


     *


「家に入れ」


「え?」


「レイブン」


     *


 声が変わった。


 父親の声から。


 かつての軍人の声へ。


「今すぐ家に入れ」


     *


「……分かった」


     *


 レイブンが走る。


     *


 ヴァルターは。


 空を見る。


     *


 警報。


     *


 軍用車両。


     *


 町の向こう。


 兵士たちが走っている。


     *


 近所の家々から。


 人が顔を出す。


     *


 その直後。


 町内放送が鳴った。


『市民の皆様へお知らせします』


     *


 雑音。


     *


『これは訓練ではありません』


     *


 ヴァルターの左手が。


 ゆっくりと握られた。


     *


『繰り返します』


     *


 セレナが家から出てくる。


「ヴァルター……?」


     *


『これは訓練ではありません』


     *


 遠く。


 西の空。


     *


 低い。


 低い。


 機関音が聞こえた。


     *


 ヴァルターは。


 その音を知っていた。


     *


「……二人とも」


 セレナとレイブンを見る。


「地下へ行け」


「あなたは?」


     *


 答えない。


     *


 警報は。


 鳴り続けている。


     *


 六年前。


 異界で。


 ヴァルターは。


 帰るために戦った。


     *


 今。


 その帰る場所そのものへ。


 何かが。


 近づいていた。

異界漂流篇「三か月」


第二話「帰れない兵士」


 異界へ来て。


 十二日目。


     *


「食料、あと何日だ」


「節約して五日です」


「弾薬」


「小銃弾は四割」


「医薬品」


「鎮痛剤が不足しています」


     *


 ヴァルターは地図を見る。


 正確には。


 地図ではなかった。


 紙へ手書きした線。


 森。


 川。


 廃村。


 丘。


 門があった場所。


 そして。


 先遣部隊の痕跡。


     *


 十二日間。


 帰還方法は見つからなかった。


     *


 現地人のアセルたちとは。


 奇妙な協力関係になっていた。


 言葉は少しずつ覚えた。


 水。


 食べ物。


 敵。


 友。


 危険。


 そして。


 ――門。


     *


「モン……ナイ」


 アセルが片言で言う。


「分かってる」


「モン……マタ、ヒラク」


 ヴァルターが顔を上げた。


「いつだ」


 通じない。


「いつ開く?」


 アセルは首を横へ振った。


     *


 分からない。


 それが。


 一番怖かった。


     *


 三十一日目。


 最初の死者が出た。


     *


 戦闘ではなかった。


 傷。


 感染。


 薬が足りなかった。


     *


「……すみません」


 若い兵士が言った。


「何がだ」


「帰れそうに……ないですね」


「馬鹿言うな」


「少尉」


「帰るぞ」


「……」


「死んだ兵士に次の任務はない」


 ヴァルターは。


 何度も部下へ言ってきた言葉を口にした。


「だから生きろ」


「……はい」


     *


 その兵士は。


 夜明け前に息を引き取った。


     *


 墓を作った。


 帝国式の簡素な墓。


 認識票を半分だけ残す。


 半分は。


 ヴァルターが持った。


     *


 四十八日目。


 弾薬。


 三割。


     *


 五十三日目。


 食料。


 現地調達へ移行。


     *


 六十一日目。


 また戦闘。


     *


「左!」


 G-35。


 発砲。


 薬莢。


「残弾!」


「少ないです!」


「一発ずつ狙え!」


     *


 魔法。


 銃。


 剣。


 爆発。


     *


 戦いながら。


 ヴァルターは。


 自分たちが何と戦っているのかさえ。


 分からなくなっていた。


     *


 六十八日目。


 部下が聞いた。


「少尉」


「何だ」


「もし帰れたら何します?」


「寝る」


「それだけですか?」


「三日くらい寝る」


「家族は?」


     *


 ヴァルターは。


 写真を見る。


「……息子に謝る」


「何を?」


「分からん」


「分からないのに?」


「三か月近く家を空けたら、何かしら謝ることはあるだろ」


 部下が笑った。


「奥さんには?」


「もっと謝る」


     *


 笑い声。


 久しぶりだった。


     *


 七十二日目。


 その部下も。


 帰ってこなかった。


     *


 夜。


 ヴァルターは一人。


 写真を見る。


 端が。


 少し擦れていた。


「……帰る」


 何度目か分からない。


「俺は帰る」


     *


 それはもう。


 決意というより。


 祈りに近かった。

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