Season 2「父の背中」 #015≪異界漂流篇:第2話「帰れない兵士」≫
第15話「軍靴の向かう先」
帝政歴339年――。
――コン、コン。
朝食の途中だった。
ヴァルターの黒い猫耳が、玄関の方へ向く。
セレナも手を止めた。
そして。
パンを頬張っていたレイブンまで、同じ方向へ耳を向ける。
「……また?」
十二歳の少年が聞いた。
「ああ」
ヴァルターは珈琲を置いた。
「たぶんな」
「今日は誰?」
「知らん」
「父さんの昔の友達?」
「軍服着て朝飯時に来る奴を友達と呼んでいいならな」
「じゃあ友達じゃない?」
「難しいところだ」
セレナが呆れたように笑った。
「あなた」
「何だ」
「玄関で長話しないでね」
「するつもりはない」
「昨日もそう言って四十分だったわよ」
「……今日は十分で追い返す」
「追い返す前提なんだ」
レイブンが呟く。
「食べてろ」
ヴァルターは立ち上がった。
*
廊下。
一歩。
二歩。
以前なら。
軍靴の音を聞いただけで、右肩の奥が疼いた。
泥。
二つの月。
無線。
光。
血。
存在しない右腕。
今朝も。
扉の向こうから革靴が石を擦る音がする。
――ザッ。
ヴァルターの足が、ほんの僅かに鈍った。
*
『少尉!』
*
耳の奥で声がした。
だが。
「父さん!」
今度は背後。
「早くしないと俺、学校行くよ!」
「行け!」
「見送りは!?」
「母さんに頼め!」
「雑!」
*
ヴァルターは。
少しだけ笑った。
玄関扉へ左手を掛ける。
「……ここだ」
小さく呟いた。
森ではない。
異界でもない。
自宅だ。
扉を開けた。
*
「おはようございます、少尉」
「帰れ」
「早いですよ!」
*
立っていたのは。
フリードリヒ・ケスラー中尉。
赤褐色の猫耳を持つ帝国軍人。
ヴァルターより年下。
現役時代には射撃訓練で何度も顔を合わせた男だった。
几帳面。
融通が利かない。
そして。
妙なところで世話焼き。
兵士たちからのあだ名は**《帳面》**。
本人は嫌っている。
コールサインは《スクライブ》。
「俺はまだ何も言ってません」
「軍服を着てる」
「はい」
「書類を持ってる」
「はい」
「朝飯時だ」
「それは申し訳ありません」
「三つ揃った。軍からの面倒事だ」
「推理としては正解です」
「じゃあ帰れ」
「だから早いです!」
*
ヴァルターが扉を閉めようとする。
「待ってください!」
ケスラーが慌てて足を差し込む。
「挟むぞ」
「予備役を怪我させたら報告書が増えるのでやめてください」
「お前は昔から書類の心配ばかりだな」
「誰かさんが報告書を書かないからでしょう」
「記憶にない」
「三十七件あります」
「数えるな」
*
昔と同じだった。
だからこそ。
ヴァルターは少し困った。
軍人としてではなく。
知っている男として来られる方が。
追い返しにくい。
*
「……五分だ」
「十分では?」
「減った」
「なぜ」
「お前だからだ」
「ひどい」
*
ケスラーは表情を改めた。
「昨日、ベルンハルト中佐が来ましたね」
「ああ」
「ハーゲン大尉とフェルナー曹長も」
「ああ」
「断った」
「断った」
「即答で?」
「即答で」
「でしょうね」
「分かってるなら何しに来た」
*
ケスラーは。
持っていた書類を下ろした。
「説得ではありません」
「……」
「状況を伝えに来ました」
「いらん」
「聞いてください」
「新聞で足りる」
「新聞にはまだ載ってません」
*
その一言。
ヴァルターの黒い耳が。
僅かに動いた。
*
「連邦側が動きました」
「どの程度だ」
反射だった。
言った後で。
ヴァルター自身が気づく。
ケスラーも気づいた。
だが何も言わなかった。
「国境線から後退していません」
「それは知ってる」
「逆です」
「……何?」
「前へ出ています」
*
朝の空気が。
少し冷たくなった。
「昨日夜半から、連邦共和国軍の複数部隊が前進配置を開始しました」
「規模は」
「まだ確定していません」
「装甲?」
「確認されています」
「砲兵」
「同じく」
「航空は」
「国境付近で哨戒回数が増加」
質問が。
次々と出る。
*
ケスラーは答える。
ヴァルターは聞く。
*
気づけば。
二人とも。
昔と同じ話し方になっていた。
*
「……」
ヴァルターが口を閉じる。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「軍人に戻ったみたいだったので」
*
ヴァルターの表情が。
消えた。
*
「……帰れ」
「ヴァルターさん」
「帰れ」
「俺は――」
「聞いた」
*
右肩。
疼く。
*
地図。
部隊。
砲兵。
航空。
敵。
*
そういう言葉を聞くと。
頭が勝手に考える。
距離。
時間。
補給。
火力。
退路。
*
そして。
その先にはいつも。
血がある。
*
「俺は」
ヴァルターは低く言った。
「もう、その先を考えたくない」
*
ケスラーは。
何も返さなかった。
*
「父さん!」
家の中から声。
「行ってきます!」
*
ヴァルターが振り返る。
レイブンが玄関まで来ていた。
制服。
鞄。
黒い猫耳。
金色と黒色の異色眼。
「……ああ」
声が。
少し柔らかくなる。
「行ってこい」
「今日帰ったら走る?」
「宿題が終わったらな」
「昨日もそれ言った!」
「今日も言う」
「分かったよ」
「寄り道するな」
「分かってる」
「車に気をつけろ」
「子供じゃないって」
「十二歳は子供だ」
「父さん基準?」
「世間基準だ」
*
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
*
レイブンが走っていく。
ヴァルターは。
姿が角を曲がるまで見ていた。
*
「……あの子が理由ですか」
ケスラー。
「一つだ」
「奥さんも」
「ああ」
「家も」
「ああ」
*
ヴァルターは。
空の右袖を見る。
「帰る場所を知ってしまったからな」
*
ケスラーは。
静かに敬礼した。
「今日は帰ります」
「今日は?」
「また誰か来ますよ」
「来るなと言っておけ」
「それは無理です」
「なぜ」
「あなた、教官として人気ありましたから」
「嘘をつけ」
「恐怖政治という意味で」
「帰れ」
*
ケスラーは笑いながら去っていった。
*
その背中を見送り。
ヴァルターは。
深く息を吐いた。
*
学校。
*
「静かに!」
教師が黒板を叩いた。
「今日から、下校規則が一部変更される」
教室がざわつく。
「先生、何で?」
「国境情勢の影響だ」
*
レイブンの耳が立った。
「しばらくの間、放課後の不要な外出は禁止。部活動も終了時刻を繰り上げる」
「えー!」
「それから」
教師は。
少し言葉を選んだ。
「警報が鳴った場合の避難訓練を、明日実施する」
*
教室が静かになった。
*
「警報って」
誰かが言う。
「空襲?」
*
教師は。
すぐには答えなかった。
「訓練だ」
それだけだった。
*
昼休み。
「なあ、レイブン」
「ん?」
「本当に戦争になるのかな」
友人が窓を見る。
遠く。
軍用車列。
*
「……分かんない」
「お前の父ちゃん、軍人なんだろ?」
「予備役」
「呼ばれる?」
「……」
*
朝。
玄関。
軍服。
*
「知らない」
レイブンは答えた。
*
「でもさ」
「ん?」
「父さん、軍の人が来るたび嫌そうな顔するんだ」
「行きたくないんじゃない?」
「たぶん」
*
少し考える。
「昔は違ったんだけどな」
「どう違った?」
「軍服着てる父さん、格好よかった」
*
六歳の記憶。
まだ右腕があった頃。
玄関。
軍服。
父の大きな背中。
*
そして。
担架。
血。
なくなった右腕。
*
「……今も格好いいけど」
「何だそれ」
「うるさい」
*
午後。
体育。
*
「次、クロウ!」
「はい!」
*
走る。
跳ぶ。
着地。
また走る。
*
「速い!」
*
教師が計時器を見る。
「……クロウ」
「何です?」
「本当に陸上部入らないか?」
「入りません」
「勿体ないぞ」
「休日に父さんと走ってますから」
「父親は速いのか」
「速いです」
「片腕だったな?」
「はい」
「それでも?」
「はい」
*
レイブンは。
少しだけ笑った。
「まだ一度も勝ったことないです」
*
放課後。
友人たちと校門を出る。
*
街は。
少し変わっていた。
*
駅。
兵士。
軍用列車。
荷物。
木箱。
燃料車。
*
商店では。
人々が食料を多めに買っている。
*
掲示板。
《市民防護訓練実施のお知らせ》
*
「……」
レイブンは立ち止まった。
*
六年前。
まだ小さかった頃。
軍用車列を窓から見た。
『戦争するの?』
『……まだだ』
*
父の声。
*
――まだ。
*
あの言葉だけが。
今になって。
妙に思い出された。
*
夕方。
「ただいま」
「おかえり」
*
いつもより。
少し静かな声だった。
セレナが気づく。
「どうしたの?」
「学校で避難訓練やるって」
*
台所。
セレナの手が止まる。
「そう」
「母さん」
「なに?」
「戦争になるの?」
*
六年前。
同じ質問を。
父へした。
*
セレナは。
すぐには答えなかった。
「お父さんに聞いてみる?」
「父さんは?」
「裏庭」
*
レイブンは。
裏庭へ向かった。
*
ヴァルターは。
一人。
地面へ木の棒で線を引いていた。
*
「父さん?」
「……」
「何してるの?」
*
ヴァルターが。
はっとする。
*
地面。
線。
円。
矢印。
*
国境。
道路。
部隊。
無意識に。
戦況図を描いていた。
*
ヴァルターは。
木の棒を捨てた。
「何でもない」
「地図?」
「違う」
「でも――」
「走るぞ」
*
話を切った。
*
「父さん」
「何だ」
「戦争になる?」
*
ヴァルターが。
止まる。
*
十二歳の息子。
六年前と同じ質問。
*
あの時。
『まだだ』
そう答えた。
*
今は。
同じ言葉を。
簡単には言えなかった。
*
「……分からん」
それが。
今のヴァルターに言える、
一番正直な答えだった。
*
「そっか」
「怖いか?」
「少し」
「そうか」
「父さんは?」
*
ヴァルターは。
少し考えた。
「怖い」
*
レイブンが意外そうに見る。
「父さんでも?」
「父さんだからだ」
「?」
*
ヴァルターは。
息子の頭へ左手を置いた。
「怖いものが増えた」
「何が?」
*
妻。
息子。
家。
朝食。
帰る場所。
*
「秘密だ」
「何だよそれ」
*
「走るぞ」
「今日こそ勝つ」
「言ったな」
*
二人が並ぶ。
*
その時。
遠く。
鐘。
*
――ゴォォォン。
*
ヴァルターの耳が立つ。
「……?」
レイブンも空を見る。
「何の音?」
*
二度目。
――ゴォォォン。
*
町の方。
*
そして。
続いて。
甲高い警報音。
*
――ウゥゥゥゥ――。
*
「父さん?」
*
ヴァルターの顔から。
表情が消えた。
*
「家に入れ」
「え?」
「レイブン」
*
声が変わった。
父親の声から。
かつての軍人の声へ。
「今すぐ家に入れ」
*
「……分かった」
*
レイブンが走る。
*
ヴァルターは。
空を見る。
*
警報。
*
軍用車両。
*
町の向こう。
兵士たちが走っている。
*
近所の家々から。
人が顔を出す。
*
その直後。
町内放送が鳴った。
『市民の皆様へお知らせします』
*
雑音。
*
『これは訓練ではありません』
*
ヴァルターの左手が。
ゆっくりと握られた。
*
『繰り返します』
*
セレナが家から出てくる。
「ヴァルター……?」
*
『これは訓練ではありません』
*
遠く。
西の空。
*
低い。
低い。
機関音が聞こえた。
*
ヴァルターは。
その音を知っていた。
*
「……二人とも」
セレナとレイブンを見る。
「地下へ行け」
「あなたは?」
*
答えない。
*
警報は。
鳴り続けている。
*
六年前。
異界で。
ヴァルターは。
帰るために戦った。
*
今。
その帰る場所そのものへ。
何かが。
近づいていた。
異界漂流篇「三か月」
第二話「帰れない兵士」
異界へ来て。
十二日目。
*
「食料、あと何日だ」
「節約して五日です」
「弾薬」
「小銃弾は四割」
「医薬品」
「鎮痛剤が不足しています」
*
ヴァルターは地図を見る。
正確には。
地図ではなかった。
紙へ手書きした線。
森。
川。
廃村。
丘。
門があった場所。
そして。
先遣部隊の痕跡。
*
十二日間。
帰還方法は見つからなかった。
*
現地人のアセルたちとは。
奇妙な協力関係になっていた。
言葉は少しずつ覚えた。
水。
食べ物。
敵。
友。
危険。
そして。
――門。
*
「モン……ナイ」
アセルが片言で言う。
「分かってる」
「モン……マタ、ヒラク」
ヴァルターが顔を上げた。
「いつだ」
通じない。
「いつ開く?」
アセルは首を横へ振った。
*
分からない。
それが。
一番怖かった。
*
三十一日目。
最初の死者が出た。
*
戦闘ではなかった。
傷。
感染。
薬が足りなかった。
*
「……すみません」
若い兵士が言った。
「何がだ」
「帰れそうに……ないですね」
「馬鹿言うな」
「少尉」
「帰るぞ」
「……」
「死んだ兵士に次の任務はない」
ヴァルターは。
何度も部下へ言ってきた言葉を口にした。
「だから生きろ」
「……はい」
*
その兵士は。
夜明け前に息を引き取った。
*
墓を作った。
帝国式の簡素な墓。
認識票を半分だけ残す。
半分は。
ヴァルターが持った。
*
四十八日目。
弾薬。
三割。
*
五十三日目。
食料。
現地調達へ移行。
*
六十一日目。
また戦闘。
*
「左!」
G-35。
発砲。
薬莢。
「残弾!」
「少ないです!」
「一発ずつ狙え!」
*
魔法。
銃。
剣。
爆発。
*
戦いながら。
ヴァルターは。
自分たちが何と戦っているのかさえ。
分からなくなっていた。
*
六十八日目。
部下が聞いた。
「少尉」
「何だ」
「もし帰れたら何します?」
「寝る」
「それだけですか?」
「三日くらい寝る」
「家族は?」
*
ヴァルターは。
写真を見る。
「……息子に謝る」
「何を?」
「分からん」
「分からないのに?」
「三か月近く家を空けたら、何かしら謝ることはあるだろ」
部下が笑った。
「奥さんには?」
「もっと謝る」
*
笑い声。
久しぶりだった。
*
七十二日目。
その部下も。
帰ってこなかった。
*
夜。
ヴァルターは一人。
写真を見る。
端が。
少し擦れていた。
「……帰る」
何度目か分からない。
「俺は帰る」
*
それはもう。
決意というより。
祈りに近かった。




