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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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14/189

Season 2「父の背中」 #014≪異界漂流篇:第1話「門の向こう」≫

第14話


「呼び戻す声」


帝政歴339年――。


 朝。


 目を覚ましたヴァルター・クロウは、しばらく天井を見つめていた。


 夢を見ていた。


 何の夢だったのか。


 目を開けた途端、ほとんどが霧の向こうへ消えてしまった。


 ただ。


 音だけが残っている。


     *


『――ヴァルター!』


 誰かの声。


『右だ! 右から来るぞ!』


 銃声。


 土を叩く何か。


 聞き慣れない言葉。


 魔法が空気を裂く甲高い音。


 そして。


『少尉!』


     *


「……」


 ヴァルターは右手を伸ばそうとした。


 何かを掴もうとして。


 肩が動く。


 そこで止まる。


 布団の上には、


 何もなかった。


「……そうだったな」


 右腕はない。


 六年前から。


     *


 隣を見る。


 セレナはまだ眠っている。


 白い猫耳。


 静かな寝息。


 ヴァルターは左手で顔を擦ると、ゆっくり身体を起こした。


 夢の続きを思い出そうとはしなかった。


     *


「レイブン!」


「起きてる!」


「なら降りてこい!」


「着替えてる!」


「五分前にも聞いた!」


「今度は本当に着替えてる!」


「昨日もそれ言っただろ!」


 階下。


 朝食の席。


 ヴァルターは新聞を畳んだ。


 セレナが珈琲(コーヒー)を置く。


「朝から元気ね」


「あいつが遅いんだ」


「あなたも昔は寝坊してたんでしょう?」


「誰から聞いた」


「ヘレーネさん」


「……母さん余計なことばかり教えるな」


「お祖母ちゃん!」


 二階からレイブンの声。


「まだ聞いてない話ある!?」


「聞かなくていい!」


     *


 階段を駆け下りる。


「走るな!」


「間に合わない!」


「あと二十五分ある!」


 レイブンの足が止まった。


「……あるじゃん」


「何で残念そうなんだ」


     *


 十二歳になったレイブンは、朝からよく動く。


 黒い猫耳。


 黒い尾。


 父とよく似た毛色。


 ただし、その瞳だけは違った。


 金色と黒色。


 左右で色の異なる異色眼(オッドアイ)。


 席へ座る。


 パンを取る。


「いただきます」


「弁当」


「持った」


「昨日もそう言った」


「今日は本当に持った」


「見せろ」


「何で!?」


「信用がない」


「ひどくない?」


「実績だ」


 セレナが笑った。


     *


 その笑い声を聞きながら。


 ヴァルターは、新聞の端へ視線を落とした。


《国境全域――臨戦態勢継続》


 昨日より大きな文字だった。


     *


「行ってきます!」


「気をつけてね」


「帰ったら走るぞ」


「今日は勝つ!」


「まだ無理だ」


「やってみなきゃ分かんないだろ!」


「六年早い」


「それ六年前から言ってない!?」


 玄関が閉まる。


 足音が遠ざかる。


     *


 静かになった。


「……」


 ヴァルターは新聞を開く。


 読もうとして。


 読めなかった。


 活字が頭に入ってこない。


「あなた」


「何だ」


「昨日からずっとそこ見てる」


 同じ欄。


 国境。


 部隊。


 増援。


 予備役。


 召集。


「……そうか」


「気になる?」


「別に」


「嘘」


 即答だった。


「昔から嘘が下手ね」


「軍人は嘘が下手なくらいがいい」


「今は予備役でしょう?」


「……そうだったな」


     *


 ――コン、コン。


     *


 二人の猫耳が。


 同時に玄関へ向いた。


「朝から誰かしら」


 セレナが立ち上がろうとする。


「待て」


 ヴァルターが先に立った。


「俺が出る」


     *


 廊下。


 一歩。


 二歩。


 玄関へ近づく。


 ヴァルターの耳が音を拾う。


 外。


 複数。


 呼吸。


 衣擦れ。


 そして。


 革製の軍靴が石畳を擦る音。


     *


 ――ザッ。


     *


 足が止まった。


     *


 泥。


 雨。


 暗い森。


 軍靴が湿った地面へ沈む。


 ――ザッ。


 ――ザッ。


『隊列を崩すな!』


 知らない空。


 二つの月。


 G-35《アードラー》の重さ。


『少尉!』


     *


「……あなた?」


 後ろからセレナ。


 ヴァルターは瞬きをした。


 玄関。


 自宅。


 朝。


「……何でもない」


 左手を伸ばす。


 扉を開いた。


     *


「久しぶりだな、ヴァルター」


 立っていた男を見て。


 ヴァルターの顔から表情が消えた。


「……オスカー」


     *


 オスカー・ベルンハルト中佐。


 ヴァルターが現役時代に所属していた部隊の元上官。


 灰色混じりの髪。


 茶褐色の猫耳。


 若い頃から変わらない鋭い眼。


 部下からのあだ名は――《鉄髭》。


 コールサイン《バロン》。


 規律には厳しい。


 だが、自分が行けない場所へ部下だけを送り込むことを嫌う男だった。


 異界門先遣救出作戦。


 ヴァルターを送り出した側の人間でもある。


     *


 その後ろ。


「少尉」


 若い軍人が敬礼する。


「……その呼び方はやめろ」


「失礼しました」


 エルンスト・ハーゲン大尉。


 かつてヴァルターの直属部下だった男。


 薄茶色の猫耳。


 人当たりは柔らかい。


 だが戦闘時には別人のように冷静になることから、仲間内では**《牧師》**。


 コールサイン《シェパード》。


 六年前。


 ヴァルター救出のために再編成された捜索隊にも参加していた。


     *


 さらに。


「……隊長」


「だからやめろ」


「じゃあ、ヴァルターさん」


「それでいい」


 ルーカス・フェルナー曹長。


 灰黒色の猫系亜人。


 大柄。


 口数は少ない。


 あだ名は**《熊猫》**。


 本人は嫌っている。


 コールサイン《グリズリー》。


 彼もまた。


 三か月前ではなく。


 六年前のあの日。


 異界から帰還したヴァルターを最初に担架へ載せた一人だった。


     *


「三人で何の用だ」


 ヴァルターは聞いた。


 オスカーが答える。


「分かっているだろう」


「分からんな」


「そうか」


「ああ」


「なら説明する」


「帰れ」


「……」


「説明はいらん」


     *


 オスカーは。


 昔と変わらない。


 ヴァルターを真正面から見た。


「教官として戻ってほしい」


「断る」


 間はなかった。


「条件くらい聞け」


「断る」


「常勤ではない」


「断る」


「前線勤務でもない」


「断る」


「ヴァルター」


「断る」


     *


 エルンストが小さく息を吐いた。


「少尉――」


「エルンスト」


「……ヴァルターさん」


「お前まで来たのか」


「来ました」


「なぜ」


「俺たちだけでは足りないからです」


     *


 オスカーが封筒を取り出す。


「西部方面軍は、予備役を含めた教育経験者を集めている」


「他を当たれ」


「当たった」


「なら足りる」


「足りん」


「知らん」


     *


「新兵だけじゃありません」


 エルンストが続けた。


「再編部隊。補充兵。予備役復帰組。配置転換された古参兵までいます」


「現役教官に任せろ」


「現役教官が足りません」


「俺は片腕だ」


「口は二人分あります」


「……お前、昔より言うようになったな」


「誰に教わったと思ってるんです」


     *


 一瞬。


 昔の空気が戻った。


 訓練場。


『ハーゲン! 銃口を下げろ!』


『下げてます!』


『俺の目には上がって見える!』


『少尉の目がおかしいんじゃ――』


『腕立て五十!』


『横暴です!』


     *


 ヴァルターの口元が。


 僅かに緩んだ。


 だが。


 オスカーが持っている封筒へ視線を戻した瞬間。


 消えた。


     *


 白い紙。


 帝国軍の紋章。


 公印。


     *


 別の紙が。


 重なる。


 六年前。


 異界門。


『先遣救出任務――』


「……」


『命令だ、ヴァルター』


     *


「受け取らん」


 声が低くなった。


 オスカーが眉を寄せる。


「これは命令書じゃない」


「同じだ」


「違う」


「俺には同じに見える」


     *


 左手が。


 無意識に右肩へ触れた。


 何もない。


 それでも。


 疼く。


 存在しないはずの指。


 存在しないはずの肘。


 そこにまだ何かがあるように。


 そして。


 焼けるように痛む。


     *


 暗い森。


 叫び。


 赤い光。


 衝撃。


 G-35《アードラー》が地面へ落ちる。


『少尉!』


 右を見る。


 腕が。


     *


「ヴァルター」


 オスカーの声。


     *


 朝。


 玄関。


 自宅。


     *


「……」


 ヴァルターは息を吐いた。


「帰れ」


「話だけでも――」


「帰れと言ってる」


     *


 セレナは。


 少し離れたところから夫を見ていた。


 左手。


 震えていた。


 ほんの僅かに。


     *


「怖いんですか」


 ルーカスだった。


「曹長」


 エルンストが止める。


「いい」


 ヴァルターが言った。


 ルーカスを見る。


「怖いよ」


     *


 三人が黙る。


「軍服を見るのも」


 左手を握る。


「命令書を見るのも」


「……」


「軍靴の音を聞くのも」


 右肩。


「時々な」


     *


 ルーカスは。


 ヴァルターの空になった右袖を見た。


「……すみません」


「謝るな」


     *


 ヴァルターは。


 オスカーを見る。


「俺は帰ってきた」


「ああ」


「三か月かかった」


「……ああ」


「右腕を置いてきた」


 オスカーの猫耳が僅かに伏せられる。


「それでも帰った」


「分かっている」


「違う」


 ヴァルターの声は静かだった。


「分かってない」


     *


「俺はな」


 言葉を探す。


「帰ってから六年かけて、やっと――」


 家の中。


 食卓。


 セレナ。


 そして。


 もう学校へ向かっている息子。


「朝飯を食って」


「……」


「息子を学校へ送り出して」


「……」


「帰ってきたら一緒に走って」


 小さく息を吐く。


「そういうのが普通だと思えるようになった」


     *


 オスカーは何も言わない。


「それを」


 ヴァルターは封筒を見る。


「また軍服一枚で壊したくない」


     *


 沈黙。


     *


 やがて。


 オスカーが封筒を下ろした。


「……あの時」


 ヴァルターが見る。


「何だ」


「お前を行かせたのは俺だ」


「命令だった」


「俺が伝えた」


「同じだ」


「違う」


 今度は。


 オスカーがそう言った。


     *


「お前が帰らなかった三か月」


 中佐の声は低かった。


「毎朝、門から報告が来た」


「……」


「生存者なし」


「……」


「発見なし」


「……」


「通信なし」


     *


 オスカーは一度だけ目を伏せた。


「俺も、あの命令を忘れた日はない」


     *


 ヴァルターは。


 何も言えなかった。


     *


「だから」


 オスカーは封筒を懐へ戻した。


「今日は置いていかん」


「……」


「命令もしない」


「そうしてくれ」


「だが」


「まだあるのか」


「また来る」


「来るな」


「それは聞けん」


「上官命令か?」


「友人としてだ」


「もっと質が悪いな」


     *


 エルンストが笑った。


「少し安心しました」


「何がだ」


「ヴァルターさんがまだヴァルターさんだったので」


「どういう意味だ」


「そのままです」


「腕立て五十」


「もう部下じゃありませんよ」


「……そうだったな」


「でもやるんですか?」


「やれ」


「横暴だなあ」


     *


 三人が門へ向かう。


 ルーカスだけが。


 一度振り返った。


「ヴァルターさん」


「何だ」


「あの時」


 少し迷う。


「担架に乗せた時、覚えてます?」


「……少しな」


「最初に何て言ったか」


     *


 基地。


 眩しい照明。


 担架。


 血。


『待ったか?』


     *


 ヴァルターの黒い耳が。


 僅かに動いた。


「……覚えてる」


「俺たち」


 ルーカスは笑った。


「三か月待ちましたよ」


「悪かったな」


「だから今度は」


 そこで止めた。


「……いや」


「何だ」


「何でもありません」


 敬礼。


 今度は。


 ヴァルターも左手で返した。


     *


 三人が去ったあと。


 玄関が閉まる。


     *


「……」


 ヴァルターは。


 扉に背中を預けた。


     *


「あなた」


 セレナ。


「大丈夫」


「聞いてないわ」


「……」


「手」


 左手を見る。


 まだ。


 僅かに震えている。


     *


 セレナがその手を取った。


「戻らなくていい」


「……」


「戻りたいなら戻ればいい」


「……」


「でも」


 白い猫耳が。


 ヴァルターへ向く。


「怖いから戻る必要もないし、怖いから戻らないと決める必要もない」


     *


「難しいこと言うな」


「簡単よ」


「どこが」


「あなたが決めなさいってこと」


     *


 ヴァルターは。


 妻の手を見る。


「……そうだな」


     *


 その頃。


 学校。


     *


「クロウ!」


「はい!」


「スタート!」


 レイブンが地面を蹴った。


     *


 十二歳。


 黒い猫耳。


 黒い尾。


 金色と黒色の異色眼(オッドアイ)。


 障害物。


 一つ。


 二つ。


 軽々と越える。


「速っ!」


「またレイブンだ!」


     *


 最後の障害。


 踏み切る。


 跳ぶ。


 着地。


 そのまま走り抜ける。


     *


「……また一位」


 体育教師が計時器を見る。


「先生」


「何だ」


「その言い方やめません?」


「何でだ」


「俺が悪いみたいじゃないですか」


「お前が速すぎるのが悪い」


「理不尽だ」


 周囲から笑い声。


     *


 教室へ戻れば。


「レイブン、ここ教えて」


「どこ?」


「この式」


「先にこっちを――」


「クロウ!」


「今度は何?」


「放課後、勝負!」


「何の?」


「走る!」


「さっき走ったじゃん」


「俺は負けてない!」


「いや負けてたよ」


「うるさい!」


     *


 笑う。


 勉強する。


 走る。


 友人に囲まれる。


     *


 その窓の外。


 低い音。


 軍用機。


     *


 レイブンの黒い耳だけが。


 一瞬。


 窓へ向いた。


     *


 放課後。


 家へ帰る。


「ただいま!」


「おかえり」


「父さんは?」


「裏庭」


「また?」


「待ってたみたいよ」


     *


 裏庭。


 ヴァルターは。


 片腕で準備運動をしていた。


「遅い」


「学校あるんだから仕方ないだろ」


「言い訳するな」


「父さん今日ずっと家じゃん」


「……」


「あ」


「何だ」


「図星?」


「走るぞ」


「誤魔化した!」


     *


 二人が並ぶ。


「今日こそ勝つ」


「無理だ」


「何で」


「お前はまだ十二だ」


「父さん片腕じゃん」


「脚は二本ある」


「ずるい」


「何がだ」


     *


「位置について」


 レイブンが腰を落とす。


 ヴァルターも姿勢を低くする。


「よーい――」


     *


 風。


 土。


 息子の声。


     *


 一瞬だけ。


 別の地面が重なった。


 異界。


 泥。


 軍靴。


 血。


     *


 だが。


「父さん!」


 レイブンの声。


     *


 景色が戻る。


 裏庭。


 夕方。


 息子。


「遅い!」


「言ったな!」


     *


 走る。


 二人で。


     *


 今度の足音は。


 逃げるためではない。


 敵へ向かうためでもない。


 ただ。


 息子と競争するための足音だった。


     *


 ヴァルターは。


 少しだけ速く走った。


「ちょっ、速っ!」


「追いつけ!」


「待て!」


「戦場で待ってくれる奴はいないぞ!」


「それ軍人の理屈だろ!」


「そうだったな!」


     *


 ヴァルターは。


 笑った。


 レイブンも。


 笑った。


     *


 窓から。


 セレナが二人を見ている。


     *


 その日の夜。


 食卓。


「父さん」


「何だ」


「今日、誰か来た?」


 ヴァルターの箸が。


 一瞬だけ止まった。


「どうしてだ」


「玄関に軍靴の跡あった」


「……よく見てるな」


「猫だから」


「関係あるか?」


「たぶん」


     *


「昔の仲間だ」


 ヴァルターは答えた。


「軍の?」


「ああ」


「何しに?」


「……遊びに」


「軍服で?」


「そういう奴なんだ」


「変なの」


「まったくだ」


     *


 レイブンは。


 それ以上聞かなかった。


     *


 夜。


 家族が眠ったあと。


 ヴァルターは一人。


 玄関へ行った。


     *


 床。


 軍靴の跡。


 昼間より薄くなっている。


     *


 しゃがむ。


 左手で。


 布を取る。


 ゆっくり。


 拭き取る。


     *


 ――ザッ。


 軍靴。


『命令だ』


     *


 手が止まる。


     *


 ――お父さん!


     *


 昼間のレイブンの声。


     *


 ヴァルターは。


 再び布を動かした。


     *


 軍靴の跡が。


 消えていく。


     *


 全部消えるまで。


 何度も。


 何度も。


 床を拭いた。


     *


 そして。


 翌朝。


     *


 ――コン、コン。


     *


 また。


 扉が鳴った。


     *


 食卓。


 ヴァルターの黒い猫耳が動く。


 セレナも。


 レイブンも。


 玄関を見る。


「また?」


 レイブンが聞いた。


「……ああ」


     *


 ヴァルターは立つ。


 今度は。


 左手は震えていなかった。


     *


 玄関。


 扉を開く。


     *


「おはようございます、ヴァルター少尉」


「その呼び方はやめろ」


     *


 立っていたのは。


 また別の。


 懐かしい軍服だった。


     *


 戦争は。


 まだ始まっていない。


 それでも。


 帝国(ヴァルグラント帝国)は、


 かつて軍服を脱いだ者たちの家を。


 一軒。


 また一軒と。


 訪ね始めていた。


     *


 そして。


 ヴァルター・クロウの過去も。


 扉の向こうから。


 何度でも。


 彼の名を呼んでいた。

異界漂流篇「三か月」


第一話「門の向こう」


 異界門を潜った瞬間。


 ヴァルター・クロウは、最初に――音を失った。


     *


 直前まで聞こえていた。


『第二救出分隊、前進!』


『間隔を空けろ!』


『通信確認!』


 軍靴。


 装備。


 小銃(ライフル)の金属音。


 背後で唸る異界門。


 それらすべてが。


 門を越えた一瞬だけ、


 ――消えた。


     *


 次に。


 光が戻った。


「――ッ」


 ヴァルターは目を細める。


 足裏に。


 硬い地面。


「全員止まれ!」


 反射的に左手を上げる。


 右手にはG-35《アードラー》。


 帝国軍制式半自動小銃(マークスマンライフル)。


 銃床を肩へ押し当てる。


「人数確認!」


「一!」


「二!」


「三!」


 後方から声が続く。


 全員いる。


「通信」


「確認します」


 通信兵が無線機へ触れる。


「こちら第二救出分隊。門前基地、応答願います」


 雑音。


『――……第二……聞こえ……』


「感度低下!」


「想定内だ。アンテナを――」


 そこで。


 ヴァルターは気づいた。


「……空」


「少尉?」


「上を見ろ」


     *


 二つ。


 月があった。


     *


「……冗談だろ」


 誰かが呟いた。


 青白い月。


 その隣。


 僅かに赤みを帯びた、小さな月。


 ヴァルターは数秒だけ見上げた。


「見るのは後だ」


 G-35を構え直す。


「目的を忘れるな」


 先遣部隊。


 救出。


 帰還。


 それだけだ。


     *


 森へ入った。


 木々は帝国にもあるものと似ている。


 だが。


 葉の色が微妙に違った。


 空気も。


 湿度も。


 匂いも。


 知らない世界だった。


「足跡!」


 先頭がしゃがむ。


 泥。


 軍靴。


「帝国軍のものです」


「数は?」


「複数」


「追う」


     *


 進んだ。


 一時間。


 二時間。


 やがて。


 装備品を発見した。


「……帝国製です」


 水筒。


 泥まみれ。


 少し先。


 薬莢。


「発砲したのか」


「そのようです」


 さらに。


 血。


     *


 ヴァルターの猫耳が動く。


「止まれ」


 全員が止まる。


「何か聞こえます?」


「……」


 風。


 葉。


 遠くの鳥。


 違う。


「右」


 G-35を向ける。


「何かいる」


     *


 木々の間。


 影。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


「識別!」


「できません!」


「撃つな!」


     *


 影が姿を現す。


 人だった。


 だが。


 帝国兵ではない。


 長い外套。


 金属製の胸当て。


 手には。


 杖。


「……現地人?」


     *


 互いに。


 見つめる。


 言葉は通じない。


 向こうが何かを言った。


 ヴァルターはG-35を僅かに下げる。


「武器を下げろ」


「しかし――」


「撃つな」


     *


 ヴァルターは自分の胸を指した。


「ヴァルター」


 相手は首を傾げる。


「ヴァルター・クロウ」


 今度は。


 向こうの一人が自分を指した。


「――アセル」


「アセル?」


 相手が頷く。


     *


 その時。


 森の奥から。


 別の声。


 怒号。


 現地人たちの表情が変わった。


「何だ?」


 アセルが叫ぶ。


 ヴァルターには理解できない。


 だが。


 意味だけは分かった。


 ――逃げろ。


     *


 光が飛んだ。


「伏せろ!」


 爆発。


 土。


 炎。


「魔法攻撃!」


「散開!」


     *


 森の向こうから別の集団。


 同じ世界の人間。


 だが装備が違う。


 杖。


 剣。


 弓。


「少尉!」


「撃つな! まだ敵味方が――」


 光。


 再び。


「――ッ!」


 帝国兵一人が吹き飛ぶ。


「衛生兵!」


「応戦許可を!」


     *


 ヴァルターは歯を食いしばった。


「……許可する!」


     *


 G-35が火を噴いた。


 異世界に。


 帝国製火薬の銃声が響いた。


     *


 戦闘は。


 十分にも満たなかった。


 だが。


 終わった頃には。


 隊列は崩れていた。


「人数確認!」


「四名不足!」


「探せ!」


「少尉!」


 通信兵が叫ぶ。


「門との通信が!」


 無線。


 雑音だけ。


「こちら第二救出分隊!」


『――――』


「門前基地、応答願います!」


『――――』


     *


 ヴァルターは空を見る。


 二つの月。


「……戻るぞ」


     *


 来た道を戻った。


 走った。


 森を抜ける。


 そこに。


 異界門が――。


「……ない」


     *


 誰かの声だった。


「少尉」


「……」


「門が」


 ヴァルターは。


 何も答えられなかった。


     *


 あったはずの場所。


 草原。


 岩。


 空。


 それだけ。


     *


 通信兵が何度も呼びかける。


「門前基地!」


 雑音。


「こちら第二救出分隊!」


 雑音。


「応答してください!」


     *


 ヴァルターは。


 G-35を握った。


「……設営する」


「少尉?」


「日没までに防御陣地を作る」


「でも門が――」


「明日探す」


「……」


「必ず帰る」


     *


 その夜。


 ヴァルターは眠らなかった。


 二つの月を見ながら。


 胸ポケットから。


 一枚の写真を取り出した。


 セレナ。


 六歳のレイブン。


 自分。


「……待ってろ」


 誰にも聞こえない声。


「帰るからな」

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