Season 2「父の背中」 #014≪異界漂流篇:第1話「門の向こう」≫
第14話
「呼び戻す声」
帝政歴339年――。
朝。
目を覚ましたヴァルター・クロウは、しばらく天井を見つめていた。
夢を見ていた。
何の夢だったのか。
目を開けた途端、ほとんどが霧の向こうへ消えてしまった。
ただ。
音だけが残っている。
*
『――ヴァルター!』
誰かの声。
『右だ! 右から来るぞ!』
銃声。
土を叩く何か。
聞き慣れない言葉。
魔法が空気を裂く甲高い音。
そして。
『少尉!』
*
「……」
ヴァルターは右手を伸ばそうとした。
何かを掴もうとして。
肩が動く。
そこで止まる。
布団の上には、
何もなかった。
「……そうだったな」
右腕はない。
六年前から。
*
隣を見る。
セレナはまだ眠っている。
白い猫耳。
静かな寝息。
ヴァルターは左手で顔を擦ると、ゆっくり身体を起こした。
夢の続きを思い出そうとはしなかった。
*
「レイブン!」
「起きてる!」
「なら降りてこい!」
「着替えてる!」
「五分前にも聞いた!」
「今度は本当に着替えてる!」
「昨日もそれ言っただろ!」
階下。
朝食の席。
ヴァルターは新聞を畳んだ。
セレナが珈琲を置く。
「朝から元気ね」
「あいつが遅いんだ」
「あなたも昔は寝坊してたんでしょう?」
「誰から聞いた」
「ヘレーネさん」
「……母さん余計なことばかり教えるな」
「お祖母ちゃん!」
二階からレイブンの声。
「まだ聞いてない話ある!?」
「聞かなくていい!」
*
階段を駆け下りる。
「走るな!」
「間に合わない!」
「あと二十五分ある!」
レイブンの足が止まった。
「……あるじゃん」
「何で残念そうなんだ」
*
十二歳になったレイブンは、朝からよく動く。
黒い猫耳。
黒い尾。
父とよく似た毛色。
ただし、その瞳だけは違った。
金色と黒色。
左右で色の異なる異色眼。
席へ座る。
パンを取る。
「いただきます」
「弁当」
「持った」
「昨日もそう言った」
「今日は本当に持った」
「見せろ」
「何で!?」
「信用がない」
「ひどくない?」
「実績だ」
セレナが笑った。
*
その笑い声を聞きながら。
ヴァルターは、新聞の端へ視線を落とした。
《国境全域――臨戦態勢継続》
昨日より大きな文字だった。
*
「行ってきます!」
「気をつけてね」
「帰ったら走るぞ」
「今日は勝つ!」
「まだ無理だ」
「やってみなきゃ分かんないだろ!」
「六年早い」
「それ六年前から言ってない!?」
玄関が閉まる。
足音が遠ざかる。
*
静かになった。
「……」
ヴァルターは新聞を開く。
読もうとして。
読めなかった。
活字が頭に入ってこない。
「あなた」
「何だ」
「昨日からずっとそこ見てる」
同じ欄。
国境。
部隊。
増援。
予備役。
召集。
「……そうか」
「気になる?」
「別に」
「嘘」
即答だった。
「昔から嘘が下手ね」
「軍人は嘘が下手なくらいがいい」
「今は予備役でしょう?」
「……そうだったな」
*
――コン、コン。
*
二人の猫耳が。
同時に玄関へ向いた。
「朝から誰かしら」
セレナが立ち上がろうとする。
「待て」
ヴァルターが先に立った。
「俺が出る」
*
廊下。
一歩。
二歩。
玄関へ近づく。
ヴァルターの耳が音を拾う。
外。
複数。
呼吸。
衣擦れ。
そして。
革製の軍靴が石畳を擦る音。
*
――ザッ。
*
足が止まった。
*
泥。
雨。
暗い森。
軍靴が湿った地面へ沈む。
――ザッ。
――ザッ。
『隊列を崩すな!』
知らない空。
二つの月。
G-35《アードラー》の重さ。
『少尉!』
*
「……あなた?」
後ろからセレナ。
ヴァルターは瞬きをした。
玄関。
自宅。
朝。
「……何でもない」
左手を伸ばす。
扉を開いた。
*
「久しぶりだな、ヴァルター」
立っていた男を見て。
ヴァルターの顔から表情が消えた。
「……オスカー」
*
オスカー・ベルンハルト中佐。
ヴァルターが現役時代に所属していた部隊の元上官。
灰色混じりの髪。
茶褐色の猫耳。
若い頃から変わらない鋭い眼。
部下からのあだ名は――《鉄髭》。
コールサイン《バロン》。
規律には厳しい。
だが、自分が行けない場所へ部下だけを送り込むことを嫌う男だった。
異界門先遣救出作戦。
ヴァルターを送り出した側の人間でもある。
*
その後ろ。
「少尉」
若い軍人が敬礼する。
「……その呼び方はやめろ」
「失礼しました」
エルンスト・ハーゲン大尉。
かつてヴァルターの直属部下だった男。
薄茶色の猫耳。
人当たりは柔らかい。
だが戦闘時には別人のように冷静になることから、仲間内では**《牧師》**。
コールサイン《シェパード》。
六年前。
ヴァルター救出のために再編成された捜索隊にも参加していた。
*
さらに。
「……隊長」
「だからやめろ」
「じゃあ、ヴァルターさん」
「それでいい」
ルーカス・フェルナー曹長。
灰黒色の猫系亜人。
大柄。
口数は少ない。
あだ名は**《熊猫》**。
本人は嫌っている。
コールサイン《グリズリー》。
彼もまた。
三か月前ではなく。
六年前のあの日。
異界から帰還したヴァルターを最初に担架へ載せた一人だった。
*
「三人で何の用だ」
ヴァルターは聞いた。
オスカーが答える。
「分かっているだろう」
「分からんな」
「そうか」
「ああ」
「なら説明する」
「帰れ」
「……」
「説明はいらん」
*
オスカーは。
昔と変わらない。
ヴァルターを真正面から見た。
「教官として戻ってほしい」
「断る」
間はなかった。
「条件くらい聞け」
「断る」
「常勤ではない」
「断る」
「前線勤務でもない」
「断る」
「ヴァルター」
「断る」
*
エルンストが小さく息を吐いた。
「少尉――」
「エルンスト」
「……ヴァルターさん」
「お前まで来たのか」
「来ました」
「なぜ」
「俺たちだけでは足りないからです」
*
オスカーが封筒を取り出す。
「西部方面軍は、予備役を含めた教育経験者を集めている」
「他を当たれ」
「当たった」
「なら足りる」
「足りん」
「知らん」
*
「新兵だけじゃありません」
エルンストが続けた。
「再編部隊。補充兵。予備役復帰組。配置転換された古参兵までいます」
「現役教官に任せろ」
「現役教官が足りません」
「俺は片腕だ」
「口は二人分あります」
「……お前、昔より言うようになったな」
「誰に教わったと思ってるんです」
*
一瞬。
昔の空気が戻った。
訓練場。
『ハーゲン! 銃口を下げろ!』
『下げてます!』
『俺の目には上がって見える!』
『少尉の目がおかしいんじゃ――』
『腕立て五十!』
『横暴です!』
*
ヴァルターの口元が。
僅かに緩んだ。
だが。
オスカーが持っている封筒へ視線を戻した瞬間。
消えた。
*
白い紙。
帝国軍の紋章。
公印。
*
別の紙が。
重なる。
六年前。
異界門。
『先遣救出任務――』
「……」
『命令だ、ヴァルター』
*
「受け取らん」
声が低くなった。
オスカーが眉を寄せる。
「これは命令書じゃない」
「同じだ」
「違う」
「俺には同じに見える」
*
左手が。
無意識に右肩へ触れた。
何もない。
それでも。
疼く。
存在しないはずの指。
存在しないはずの肘。
そこにまだ何かがあるように。
そして。
焼けるように痛む。
*
暗い森。
叫び。
赤い光。
衝撃。
G-35《アードラー》が地面へ落ちる。
『少尉!』
右を見る。
腕が。
*
「ヴァルター」
オスカーの声。
*
朝。
玄関。
自宅。
*
「……」
ヴァルターは息を吐いた。
「帰れ」
「話だけでも――」
「帰れと言ってる」
*
セレナは。
少し離れたところから夫を見ていた。
左手。
震えていた。
ほんの僅かに。
*
「怖いんですか」
ルーカスだった。
「曹長」
エルンストが止める。
「いい」
ヴァルターが言った。
ルーカスを見る。
「怖いよ」
*
三人が黙る。
「軍服を見るのも」
左手を握る。
「命令書を見るのも」
「……」
「軍靴の音を聞くのも」
右肩。
「時々な」
*
ルーカスは。
ヴァルターの空になった右袖を見た。
「……すみません」
「謝るな」
*
ヴァルターは。
オスカーを見る。
「俺は帰ってきた」
「ああ」
「三か月かかった」
「……ああ」
「右腕を置いてきた」
オスカーの猫耳が僅かに伏せられる。
「それでも帰った」
「分かっている」
「違う」
ヴァルターの声は静かだった。
「分かってない」
*
「俺はな」
言葉を探す。
「帰ってから六年かけて、やっと――」
家の中。
食卓。
セレナ。
そして。
もう学校へ向かっている息子。
「朝飯を食って」
「……」
「息子を学校へ送り出して」
「……」
「帰ってきたら一緒に走って」
小さく息を吐く。
「そういうのが普通だと思えるようになった」
*
オスカーは何も言わない。
「それを」
ヴァルターは封筒を見る。
「また軍服一枚で壊したくない」
*
沈黙。
*
やがて。
オスカーが封筒を下ろした。
「……あの時」
ヴァルターが見る。
「何だ」
「お前を行かせたのは俺だ」
「命令だった」
「俺が伝えた」
「同じだ」
「違う」
今度は。
オスカーがそう言った。
*
「お前が帰らなかった三か月」
中佐の声は低かった。
「毎朝、門から報告が来た」
「……」
「生存者なし」
「……」
「発見なし」
「……」
「通信なし」
*
オスカーは一度だけ目を伏せた。
「俺も、あの命令を忘れた日はない」
*
ヴァルターは。
何も言えなかった。
*
「だから」
オスカーは封筒を懐へ戻した。
「今日は置いていかん」
「……」
「命令もしない」
「そうしてくれ」
「だが」
「まだあるのか」
「また来る」
「来るな」
「それは聞けん」
「上官命令か?」
「友人としてだ」
「もっと質が悪いな」
*
エルンストが笑った。
「少し安心しました」
「何がだ」
「ヴァルターさんがまだヴァルターさんだったので」
「どういう意味だ」
「そのままです」
「腕立て五十」
「もう部下じゃありませんよ」
「……そうだったな」
「でもやるんですか?」
「やれ」
「横暴だなあ」
*
三人が門へ向かう。
ルーカスだけが。
一度振り返った。
「ヴァルターさん」
「何だ」
「あの時」
少し迷う。
「担架に乗せた時、覚えてます?」
「……少しな」
「最初に何て言ったか」
*
基地。
眩しい照明。
担架。
血。
『待ったか?』
*
ヴァルターの黒い耳が。
僅かに動いた。
「……覚えてる」
「俺たち」
ルーカスは笑った。
「三か月待ちましたよ」
「悪かったな」
「だから今度は」
そこで止めた。
「……いや」
「何だ」
「何でもありません」
敬礼。
今度は。
ヴァルターも左手で返した。
*
三人が去ったあと。
玄関が閉まる。
*
「……」
ヴァルターは。
扉に背中を預けた。
*
「あなた」
セレナ。
「大丈夫」
「聞いてないわ」
「……」
「手」
左手を見る。
まだ。
僅かに震えている。
*
セレナがその手を取った。
「戻らなくていい」
「……」
「戻りたいなら戻ればいい」
「……」
「でも」
白い猫耳が。
ヴァルターへ向く。
「怖いから戻る必要もないし、怖いから戻らないと決める必要もない」
*
「難しいこと言うな」
「簡単よ」
「どこが」
「あなたが決めなさいってこと」
*
ヴァルターは。
妻の手を見る。
「……そうだな」
*
その頃。
学校。
*
「クロウ!」
「はい!」
「スタート!」
レイブンが地面を蹴った。
*
十二歳。
黒い猫耳。
黒い尾。
金色と黒色の異色眼。
障害物。
一つ。
二つ。
軽々と越える。
「速っ!」
「またレイブンだ!」
*
最後の障害。
踏み切る。
跳ぶ。
着地。
そのまま走り抜ける。
*
「……また一位」
体育教師が計時器を見る。
「先生」
「何だ」
「その言い方やめません?」
「何でだ」
「俺が悪いみたいじゃないですか」
「お前が速すぎるのが悪い」
「理不尽だ」
周囲から笑い声。
*
教室へ戻れば。
「レイブン、ここ教えて」
「どこ?」
「この式」
「先にこっちを――」
「クロウ!」
「今度は何?」
「放課後、勝負!」
「何の?」
「走る!」
「さっき走ったじゃん」
「俺は負けてない!」
「いや負けてたよ」
「うるさい!」
*
笑う。
勉強する。
走る。
友人に囲まれる。
*
その窓の外。
低い音。
軍用機。
*
レイブンの黒い耳だけが。
一瞬。
窓へ向いた。
*
放課後。
家へ帰る。
「ただいま!」
「おかえり」
「父さんは?」
「裏庭」
「また?」
「待ってたみたいよ」
*
裏庭。
ヴァルターは。
片腕で準備運動をしていた。
「遅い」
「学校あるんだから仕方ないだろ」
「言い訳するな」
「父さん今日ずっと家じゃん」
「……」
「あ」
「何だ」
「図星?」
「走るぞ」
「誤魔化した!」
*
二人が並ぶ。
「今日こそ勝つ」
「無理だ」
「何で」
「お前はまだ十二だ」
「父さん片腕じゃん」
「脚は二本ある」
「ずるい」
「何がだ」
*
「位置について」
レイブンが腰を落とす。
ヴァルターも姿勢を低くする。
「よーい――」
*
風。
土。
息子の声。
*
一瞬だけ。
別の地面が重なった。
異界。
泥。
軍靴。
血。
*
だが。
「父さん!」
レイブンの声。
*
景色が戻る。
裏庭。
夕方。
息子。
「遅い!」
「言ったな!」
*
走る。
二人で。
*
今度の足音は。
逃げるためではない。
敵へ向かうためでもない。
ただ。
息子と競争するための足音だった。
*
ヴァルターは。
少しだけ速く走った。
「ちょっ、速っ!」
「追いつけ!」
「待て!」
「戦場で待ってくれる奴はいないぞ!」
「それ軍人の理屈だろ!」
「そうだったな!」
*
ヴァルターは。
笑った。
レイブンも。
笑った。
*
窓から。
セレナが二人を見ている。
*
その日の夜。
食卓。
「父さん」
「何だ」
「今日、誰か来た?」
ヴァルターの箸が。
一瞬だけ止まった。
「どうしてだ」
「玄関に軍靴の跡あった」
「……よく見てるな」
「猫だから」
「関係あるか?」
「たぶん」
*
「昔の仲間だ」
ヴァルターは答えた。
「軍の?」
「ああ」
「何しに?」
「……遊びに」
「軍服で?」
「そういう奴なんだ」
「変なの」
「まったくだ」
*
レイブンは。
それ以上聞かなかった。
*
夜。
家族が眠ったあと。
ヴァルターは一人。
玄関へ行った。
*
床。
軍靴の跡。
昼間より薄くなっている。
*
しゃがむ。
左手で。
布を取る。
ゆっくり。
拭き取る。
*
――ザッ。
軍靴。
『命令だ』
*
手が止まる。
*
――お父さん!
*
昼間のレイブンの声。
*
ヴァルターは。
再び布を動かした。
*
軍靴の跡が。
消えていく。
*
全部消えるまで。
何度も。
何度も。
床を拭いた。
*
そして。
翌朝。
*
――コン、コン。
*
また。
扉が鳴った。
*
食卓。
ヴァルターの黒い猫耳が動く。
セレナも。
レイブンも。
玄関を見る。
「また?」
レイブンが聞いた。
「……ああ」
*
ヴァルターは立つ。
今度は。
左手は震えていなかった。
*
玄関。
扉を開く。
*
「おはようございます、ヴァルター少尉」
「その呼び方はやめろ」
*
立っていたのは。
また別の。
懐かしい軍服だった。
*
戦争は。
まだ始まっていない。
それでも。
帝国は、
かつて軍服を脱いだ者たちの家を。
一軒。
また一軒と。
訪ね始めていた。
*
そして。
ヴァルター・クロウの過去も。
扉の向こうから。
何度でも。
彼の名を呼んでいた。
異界漂流篇「三か月」
第一話「門の向こう」
異界門を潜った瞬間。
ヴァルター・クロウは、最初に――音を失った。
*
直前まで聞こえていた。
『第二救出分隊、前進!』
『間隔を空けろ!』
『通信確認!』
軍靴。
装備。
小銃の金属音。
背後で唸る異界門。
それらすべてが。
門を越えた一瞬だけ、
――消えた。
*
次に。
光が戻った。
「――ッ」
ヴァルターは目を細める。
足裏に。
硬い地面。
「全員止まれ!」
反射的に左手を上げる。
右手にはG-35《アードラー》。
帝国軍制式半自動小銃。
銃床を肩へ押し当てる。
「人数確認!」
「一!」
「二!」
「三!」
後方から声が続く。
全員いる。
「通信」
「確認します」
通信兵が無線機へ触れる。
「こちら第二救出分隊。門前基地、応答願います」
雑音。
『――……第二……聞こえ……』
「感度低下!」
「想定内だ。アンテナを――」
そこで。
ヴァルターは気づいた。
「……空」
「少尉?」
「上を見ろ」
*
二つ。
月があった。
*
「……冗談だろ」
誰かが呟いた。
青白い月。
その隣。
僅かに赤みを帯びた、小さな月。
ヴァルターは数秒だけ見上げた。
「見るのは後だ」
G-35を構え直す。
「目的を忘れるな」
先遣部隊。
救出。
帰還。
それだけだ。
*
森へ入った。
木々は帝国にもあるものと似ている。
だが。
葉の色が微妙に違った。
空気も。
湿度も。
匂いも。
知らない世界だった。
「足跡!」
先頭がしゃがむ。
泥。
軍靴。
「帝国軍のものです」
「数は?」
「複数」
「追う」
*
進んだ。
一時間。
二時間。
やがて。
装備品を発見した。
「……帝国製です」
水筒。
泥まみれ。
少し先。
薬莢。
「発砲したのか」
「そのようです」
さらに。
血。
*
ヴァルターの猫耳が動く。
「止まれ」
全員が止まる。
「何か聞こえます?」
「……」
風。
葉。
遠くの鳥。
違う。
「右」
G-35を向ける。
「何かいる」
*
木々の間。
影。
一つ。
二つ。
三つ。
「識別!」
「できません!」
「撃つな!」
*
影が姿を現す。
人だった。
だが。
帝国兵ではない。
長い外套。
金属製の胸当て。
手には。
杖。
「……現地人?」
*
互いに。
見つめる。
言葉は通じない。
向こうが何かを言った。
ヴァルターはG-35を僅かに下げる。
「武器を下げろ」
「しかし――」
「撃つな」
*
ヴァルターは自分の胸を指した。
「ヴァルター」
相手は首を傾げる。
「ヴァルター・クロウ」
今度は。
向こうの一人が自分を指した。
「――アセル」
「アセル?」
相手が頷く。
*
その時。
森の奥から。
別の声。
怒号。
現地人たちの表情が変わった。
「何だ?」
アセルが叫ぶ。
ヴァルターには理解できない。
だが。
意味だけは分かった。
――逃げろ。
*
光が飛んだ。
「伏せろ!」
爆発。
土。
炎。
「魔法攻撃!」
「散開!」
*
森の向こうから別の集団。
同じ世界の人間。
だが装備が違う。
杖。
剣。
弓。
「少尉!」
「撃つな! まだ敵味方が――」
光。
再び。
「――ッ!」
帝国兵一人が吹き飛ぶ。
「衛生兵!」
「応戦許可を!」
*
ヴァルターは歯を食いしばった。
「……許可する!」
*
G-35が火を噴いた。
異世界に。
帝国製火薬の銃声が響いた。
*
戦闘は。
十分にも満たなかった。
だが。
終わった頃には。
隊列は崩れていた。
「人数確認!」
「四名不足!」
「探せ!」
「少尉!」
通信兵が叫ぶ。
「門との通信が!」
無線。
雑音だけ。
「こちら第二救出分隊!」
『――――』
「門前基地、応答願います!」
『――――』
*
ヴァルターは空を見る。
二つの月。
「……戻るぞ」
*
来た道を戻った。
走った。
森を抜ける。
そこに。
異界門が――。
「……ない」
*
誰かの声だった。
「少尉」
「……」
「門が」
ヴァルターは。
何も答えられなかった。
*
あったはずの場所。
草原。
岩。
空。
それだけ。
*
通信兵が何度も呼びかける。
「門前基地!」
雑音。
「こちら第二救出分隊!」
雑音。
「応答してください!」
*
ヴァルターは。
G-35を握った。
「……設営する」
「少尉?」
「日没までに防御陣地を作る」
「でも門が――」
「明日探す」
「……」
「必ず帰る」
*
その夜。
ヴァルターは眠らなかった。
二つの月を見ながら。
胸ポケットから。
一枚の写真を取り出した。
セレナ。
六歳のレイブン。
自分。
「……待ってろ」
誰にも聞こえない声。
「帰るからな」




