Season 2「父の背中」 #013
第13話「境界線の火花」
帝政歴339年――。
春の風が、カーテンを揺らしていた。
開け放した窓から入り込んだ風は、居間の机に置かれた新聞の端を持ち上げ、ぱらり、と一枚だけ頁をめくる。
ヴァルター・クロウはそれを左手で押さえた。
「……またか」
新聞の片隅。
そこには、もう見慣れてしまった文字がある。
国境。
増派。
抗議。
演習。
警戒。
六年前なら、ひとつひとつの記事を食い入るように読んでいただろう。
今は違う。
ヴァルターは新聞を畳むと、その上に飲みかけの珈琲を置いた。
「父さん!」
二階から声が落ちてきた。
「何だ!」
「鞄知らない!?」
「知らん!」
「昨日ここに置いたはずなんだけど!」
「自分で置いたなら自分で探せ!」
どたどた、と二階を走り回る音がする。
台所に立っていたセレナが、白い猫耳をぴくりと動かした。
「あなた」
「ん?」
「昨日、レイブンの鞄を動かさなかった?」
「……」
ヴァルターの耳が止まる。
「掃除するとき、椅子の後ろに」
「父さん!」
階上から声。
「椅子の後ろだ!」
「何で知ってんの!?」
「いいから早く降りてこい!」
「はーい!」
セレナが肩を震わせた。
「笑うな」
「だって」
「邪魔だったんだ」
「はいはい」
階段から駆け下りる足音。
「走るな!」
「遅刻する!」
「まだ二十分ある!」
途中まで降りてきたレイブンが止まった。
「……二十分?」
「ああ」
「じゃあ大丈夫だな」
「急に落ち着くな」
*
十二歳になったレイブン・クロウは、六年前より随分と背が伸びていた。
父譲りの黒い髪。
黒い猫耳。
感情がそのまま出る長い黒尾。
そして、幼い頃から変わらない金色と黒色の異色眼。
椅子に腰を下ろすと、セレナが焼いたパンを一つ掴んだ。
「いただきます」
「手は?」
「洗った」
「顔」
「洗った」
「宿題」
「やった」
「弁当」
「持った」
「本当に?」
「……」
レイブンの耳が僅かに伏せた。
「取ってくる」
「やっぱり忘れてるじゃない」
セレナが笑う。
ヴァルターも、小さく息を吐いた。
こんな朝が好きだった。
特別なことなど、何一つ起こらない朝。
息子が忘れ物をして。
妻が笑って。
自分がそれを眺めている。
六年前。
異界の夜に望んでいたものは、案外こんなものだったのかもしれない。
*
ヴァルターの軍服は、もう普段着ではなくなっていた。
あの頃。
右腕を失って帰還した彼は、健康上の理由による兵役区分変更申請と、一通の退役願を提出した。
完全に軍を去るつもりだった。
だが、上層部は首を縦に振らなかった。
『君の身体状況は理解している』
かつて上官から告げられた言葉を、時折思い出す。
『だが、君が持ち帰った経験まで退役させる必要はない』
異界での生存経験。
実戦経験。
兵士の教育。
そしてSG-44《シュヴァルツ・カッツェ》の基礎設計に残された彼の意見。
軍が提示した妥協案は――予備役編入だった。
現役勤務を解く。
平時の常勤義務も免除。
ただし、必要とされた場合には軍籍へ復帰できる身分を残す。
ヴァルターは悩んだ末、それを受け入れた。
あれから六年。
軍から呼び出されることは、ほとんどなかった。
だからこそ。
ヴァルター自身もいつしか、その一枚の予備役編入通知を、机の引き出しの奥へ追いやっていた。
*
「行ってきます!」
玄関でレイブンが靴を履く。
「今日は試験だったな」
「数学」
「自信は?」
「普通」
「お前の普通は信用ならん」
「何で?」
「この前も『普通』と言って一位だっただろ」
「だって、難しかったし」
「それを学校で言うなよ」
「何で?」
「嫌われるぞ」
レイブンが首を傾げる。
セレナが笑いながら鞄を渡した。
「はい。首席さん」
「母さんまで」
「頑張ってらっしゃい」
「はーい。行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。
数秒。
また開いた。
「どうした」
「……弁当」
「お前は!」
*
学校では。
「クロウ」
「はい」
答案用紙が机に置かれた。
レイブンは数字を見る。
九十八。
「あ」
「何だ、その不満そうな声は」
教師が眉を上げた。
「いや……ここ間違えたのかって」
「そこを間違えて九十八だ」
「はい」
「ちなみに今回も学年一位だ」
教室のあちこちから声が上がる。
「またかよ!」
「レイブン、お前二点くらい俺にくれ!」
「点数って渡せるの?」
「そういう意味じゃねえ!」
教室が笑いに包まれた。
レイブンもつられて笑う。
「クロウ」
「はい?」
「次は満点を狙うか?」
「いや」
答案を見つめる。
「間違えたところを覚えます」
教師は一瞬だけ黙り、
「……そうか」
とだけ答えた。
*
昼休みになれば、レイブンの机には自然と人が集まった。
「これ分かんない」
「どこ?」
「ここ」
「それ、式を先に分ければいいよ」
「クロウ、歴史も教えて」
「俺まだ飯食ってるんだけど」
「食いながらでいいから」
「無茶言うなよ」
「レイブン、今日帰りどうする?」
「普通に帰る」
「じゃあ途中まで一緒に行こうぜ」
「いいよ」
誰かと話している。
誰かに呼ばれる。
また別の誰かが割り込んでくる。
成績首席。
運動も得意。
それだけなら、距離を置かれていたかもしれない。
けれどレイブンは、誰かが失敗すれば笑う前に手を貸し、自分が失敗すれば誰より先に笑った。
頼まれれば勉強を教え。
遊びに誘われれば加わり。
喧嘩が起これば、どちらか一方の味方になるより先に間へ入った。
だからいつしか。
誰も彼を「首席」とは呼ばなくなっていた。
ただ。
「レイブン」
そう呼ばれていた。
*
午後。
校庭。
「位置について!」
短距離走。
レイブンは他の生徒と並び、腰を落とす。
黒い耳が立った。
尾が低く伸び、自然に身体の均衡を取る。
「用意――」
乾いた音が鳴った。
地面を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩。
風が耳の横を抜けた。
「速っ!」
背後から声が飛ぶ。
レイブンはそのまま駆け抜けた。
「……」
体育教師が計時器を見る。
もう一度見る。
「クロウ」
「はい?」
「陸上部」
「入りません」
「まだ何も言ってない」
「父さんにも似たこと言われたので」
「休日は何をしてるんだ」
「走ったり、体力作りしたり」
「誰と?」
「父さん」
「……なるほど」
教師は妙に納得した顔をした。
*
その頃。
学校から何百キロも離れた西の果てでは。
風の音が違っていた。
*
帝国西部国境。
六年前まで簡素だった監視所は、今では土嚢と鉄条網に囲まれている。
遠くには対車両障害物。
さらに奥には砲兵陣地。
双眼鏡を覗く帝国兵の視界の先には、連邦共和国の国旗が揺れていた。
「また来た」
「何が」
「車両」
隣の兵士が双眼鏡を上げる。
三両。
装輪装甲車。
ゆっくりと国境へ近づいてくる。
「近くないか?」
「ああ」
通信兵が無線機を取った。
「第三監視所より司令部。連邦軍装甲車三両が接近中」
『越境は』
「ありません」
『発砲許可なし。監視を継続せよ』
「了解」
通信が切れる。
「発砲許可なし、だと」
「そりゃそうだろ」
「分かってるよ」
兵士は銃を握り直した。
「……ただ、最近多すぎる」
*
国境を挟んだ向こう側。
連邦兵もこちらを見ている。
双眼鏡越しに。
互いの顔までは分からない。
それでも。
相手が自分を警戒していることくらいは分かる。
帝国兵が銃を持てば。
連邦兵も銃を持つ。
こちらが一歩前へ出れば。
向こうも一歩前へ出る。
六年間。
それを繰り返してきた。
撃たない。
越えない。
だが、目を逸らさない。
それが。
二つの国の間に残された、奇妙な日常だった。
*
その均衡を壊したのは。
誰かの号令ではなかった。
*
――ドンッ。
*
地面が震えた。
「――ッ!?」
帝国兵が顔を上げる。
国境標識の向こう側から、黒煙が上がっていた。
「爆発!」
「どこだ!」
「二十七号標識付近!」
双眼鏡を上げる。
土煙。
炎。
その中に。
「……装甲車だ」
「何?」
「連邦の装甲車がやられた!」
*
無線が騒がしくなる。
『第三監視所、状況報告!』
「連邦軍車両一両が爆発!」
『帝国側の発砲は!?』
「ありません!」
『確認しろ!』
「こちらからの発砲なし! 砲撃もありません!」
通信兵が叫んでいる最中。
「おい」
一人が呟いた。
「向こう……」
*
煙の向こう。
連邦兵が走っている。
負傷者を引きずる者。
炎上した車両へ向かう者。
そして。
帝国側へ向き直る者。
「……まずい」
銃口が上がった。
*
「伏せろ!」
帝国兵たちも身を低くする。
反射的に。
銃が肩へ上がる。
照準の向こうに。
連邦兵。
連邦兵の銃口の向こうに。
帝国兵。
*
「撃つな!」
指揮官の怒声が飛んだ。
「全員、撃つな!」
「でも向こうはこっちを――」
「まだ撃っていない!」
「隊長!」
「引き金から指を外せ!」
*
静かだった。
炎上する装甲車の音だけが聞こえる。
ぱちぱちと。
弾薬が熱せられる音。
誰かの叫び声。
荒い呼吸。
*
一人。
誰か一人でよかった。
恐怖に負けて。
指を少しだけ曲げれば。
それで終わった。
*
だが。
銃声は鳴らなかった。
*
やがて。
連邦側の指揮官らしき兵士が腕を上げた。
何かを叫ぶ。
一挺。
また一挺。
僅かに銃口が下がる。
帝国側でも。
「……下げろ」
指揮官が言った。
「ゆっくりだ」
銃口が下がった。
*
戦争にはならなかった。
その場では。
*
夕方。
学校から帰る途中。
「なあ、レイブン」
「ん?」
「軍の車、多くない?」
友人が街道を指差した。
数台の軍用トラックが、彼らの横を通り過ぎていく。
レイブンの黒い耳が、その機関音を追った。
「……多いね」
「また演習かな」
「さあ」
「お前の父ちゃん、軍にいたんだろ?」
「今も予備役だけど」
「じゃあ聞けば分かる?」
「父さん、軍の話はあんまりしないよ」
「そっか」
友人は少し黙った。
「戦争とか、ならないよな」
「……」
レイブンは答えようとして。
やめた。
六年前。
血まみれで帰ってきた父の姿が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
「ならない方がいいよ」
「そりゃそうだ」
二人は、それ以上話さなかった。
*
レイブンが家へ着いた頃。
ヴァルターは居間にいた。
「ただいま」
「おかえり」
「母さんは?」
「買い物」
「今日、数学返ってきた」
「どうだった」
「九十八」
「……」
「何、その顔」
「お前、本当に俺の息子か?」
「どういう意味だよ」
「俺は数学で九十八なんて取ったことない」
「低かった?」
「聞くな」
レイブンが笑った。
ヴァルターも笑う。
「父さん」
「ん?」
「今日、軍の車がいっぱい走ってた」
その言葉に。
ヴァルターの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「……そうか」
「また演習?」
「たぶんな」
「ふーん」
レイブンはそれ以上気にせず、鞄を持って自室へ上がっていった。
*
夕暮れ。
ヴァルターは一人、窓の外を見ていた。
遠くで。
低い音。
軍用車両。
西へ向かっている。
「……」
嫌な感じがした。
根拠などない。
ただ。
軍人だった頃に何度も覚えた。
何かが起こる前。
人が慌ただしくなり。
車両が増え。
電話が鳴り。
誰も理由を説明しなくなる。
あの空気。
*
夜。
夕食を終え。
レイブンは自室で机に向かっていた。
明日の授業。
教科書。
ノート。
静かな時間。
階下では。
ラジオが流れていた。
『――本日午後、帝国・連邦国境付近において、連邦共和国軍の装甲車一両が爆発する事案が発生しました』
ヴァルターの手が止まる。
セレナも振り返った。
『連邦側は現在、爆発原因について調査中としていますが、外部からの攻撃を含むあらゆる可能性を排除しないとの声明を発表――』
「……」
『これに対し、帝国政府は帝国軍による攻撃を全面的に否定。両国による共同調査を提案しています』
ヴァルターは黙って聞く。
『なお、国境では一時、双方の兵士が互いに銃を構える事態となりましたが、発砲は確認されていません』
セレナが小さく息を吐いた。
「撃たなかったのね」
「ああ」
「なら……」
「違う」
ヴァルターの声は低かった。
「何が?」
「撃たなかったんじゃない」
ラジオを見る。
「撃つところまで行ったんだ」
*
しばらくして。
臨時放送を知らせる音が鳴った。
『――番組の途中ですが、帝国政府からの緊急発表をお伝えします』
ヴァルターの黒い耳が、ぴんと立つ。
『本日発生した国境事案ならびに連邦共和国軍の警戒水準引き上げを受け、帝国軍は本日二十二時をもって――』
一瞬。
ラジオの声が妙に遠く聞こえた。
『――西部方面軍を中心とする国境配置部隊を、通常警戒態勢から臨戦態勢へ移行します』
*
ヴァルターは動かなかった。
臨戦態勢。
それは戦争ではない。
だが。
戦争になった瞬間に動けるよう。
人を集め。
弾薬を配り。
車両へ燃料を入れ。
部隊を配置し。
命令一つで戦える状態にする。
――戦争の、一歩手前。
*
「ヴァルター」
セレナの声。
「……ああ」
「あなた」
彼女が何を言おうとしているのか。
聞く前から分かった。
「呼ばれるの?」
「……」
答えられなかった。
*
ヴァルターは立ち上がった。
机。
引き出し。
左手で開く。
古い書類。
兵器開発資料。
軍歴証明。
その下。
一枚の紙。
六年間。
ほとんど触れることのなかったもの。
《現役勤務解除――予備役編入》
左手で持ち上げる。
「……」
紙は軽い。
なのに。
妙に重かった。
*
二階。
レイブンの部屋。
少年は何も知らず。
鉛筆を走らせている。
「……よし」
問題を一つ解く。
窓の外。
軍用車両の音。
レイブンの耳が僅かに動いた。
けれど。
すぐに教科書へ戻る。
明日は学校だった。
友人がいる。
授業がある。
体育がある。
また答案が返ってくる。
少年にとって。
明日はまだ。
今日の続きだった。
*
その遥か西。
国境。
夜の闇の中。
戦車の機関が目を覚ます。
整備兵が最後の点検を終える。
弾薬箱の封が切られる。
兵士たちは鉄帽を被り。
銃を手元へ置き。
塹壕の中から。
暗闇の向こうを見つめていた。
向こう側でも。
同じことが行われている。
*
帝国。
連邦共和国。
どちらも。
戦争を始めたとは言っていない。
どちらも。
これは防衛だと言っている。
それでも。
六年間続いた冷戦は。
国境で上がった一本の黒煙によって。
姿を変えた。
*
銃声は。
まだない。
宣戦布告も。
まだない。
けれど。
もう。
兵士たちは。
弾の入っていない銃を持って、
国境に立っているわけではなかった。
*
ヴァルターは予備役編入通知を見つめたあと。
静かに引き出しへ戻した。
閉じる。
――コトン。
小さな音。
「父さん?」
階段からレイブンの声がした。
「どうした?」
「消しゴム知らない?」
「お前は物を失くしすぎだ!」
「机にあったやつ!」
「自分の部屋を探せ!」
「なかった!」
「鞄は?」
「……」
「見てないな?」
「見てくる!」
階段を駆け上がる音。
「走るな!」
「はーい!」
ヴァルターは呆れたように息を吐いた。
セレナが笑う。
その笑いにつられて。
ヴァルターも少しだけ笑った。
けれど。
閉じた引き出しから、
しばらく手を離すことができなかった。
外では。
夜の町を、
一台の軍用車両が西へ走っていった。




