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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #012

第12話「国境の向こう側」


帝政歴333年――。


 朝のクロウ家には、いつもと変わらない匂いが満ちていた。


 焼きたてのパン。卵料理。少し濃く淹れられた珈琲(コーヒー)。


 窓から差し込む朝日を浴びながら、六歳になったレイブン・クロウはパンを頬張っている。


 黒い猫耳に、同じく黒い尾。


 まだ幼さの残る顔に並ぶのは、金色と黒色の異色眼(オッドアイ)。


「レイブン。食事中に本を読まないの」


 台所から、母セレナの声が飛んできた。


「読んでないよ」


「じゃあ、何を見てるの?」


「お父さん」


「……」


 向かい側に座っていたヴァルターの黒い猫耳が、ぴくりと動いた。


 左手には新聞。


 右袖は、肩口から先がない。


「お父さんは新聞読んでる」


「あら」


 食器を持って戻ってきたセレナの白い猫耳が、ゆっくりと夫へ向いた。


「ヴァルター?」


「……何だ」


「新聞」


「今、重要なところなんだ」


「昨日、レイブンに『食事中は本を読むな』と言ったのは?」


「……俺だな」


「じゃあ?」


「……はい」


 ぱたり、と新聞が畳まれた。


「お父さんも怒られた」


「食べろ、レイブン」


「はーい」


 少年の笑い声が食卓に広がる。


 いつも通りの朝だった。


 少なくとも――レイブンにとっては。


 ヴァルターが畳んだ新聞。


 その一面には、大きな活字が残されていた。


《連邦共和国(アルディア連邦共和国)軍、国境方面で部隊展開を拡大》


     *


 始まりは、軍人でなければ気にも留めない程度の動きだった。


 国境警備隊の交代。


 定期的な機動演習。


 装甲車両を伴う即応訓練。


 連邦共和国(アルディア連邦共和国)政府も「通常の防衛訓練である」と発表していた。


 帝国(ヴァルグラント帝国)側も、当初は過剰な反応を避けた。


 国境に兵士がいること自体は珍しくない。


 戦車が走ることも、砲兵が演習することもある。


 一個大隊が移動した程度なら、それだけで戦争にはならない。


 ところが――部隊は帰らなかった。


 それどころか、増えた。


 一個大隊。


 二個。


 三個。


 数日後には五個。


 国境後方を走る軍用列車の本数が増え、車両集積地が拡張され、通信部隊まで進出する。


 それでも、まだ「演習」という言葉は使われ続けた。


 そして、その数が九個に達した日。


 帝国(ヴァルグラント帝国)の西部方面軍司令部から、楽観的な空気が消えた。


     *


「確認できたものだけで、九個大隊です」


 作戦室。


 壁一面を占める国境地図に、参謀が九つ目の赤い駒を置いた。


「配置は?」


「北西部から中央国境にかけて分散。戦車部隊も確認されています」


「砲兵は」


「後方へ展開中。さらに航空基地の発着回数も増加しています」


 部屋にいた将校たちの表情が変わる。


「連邦政府の説明は?」


「国境防衛態勢の強化です」


「理由は」


「帝国側の軍備拡張。それと――異界門を巡る軍事的不透明性への対抗措置だと」


「こちらが原因だと言いたいわけか」


「少なくとも、向こうの声明では」


 参謀が地図へ視線を戻した。


 赤い駒。


 国境線。


 その反対側には、帝国軍を示す駒が並んでいる。


 まだ一発も撃たれていない。


 それでも、地図だけを見れば。


 両国は少しずつ、互いへ身体を向け始めていた。


     *


 やがて、帝国(ヴァルグラント帝国)も動いた。


 西部国境方面への増援。


 最終的な展開計画――十個師団級。


 ただし、それだけの兵力が一夜で国境へ現れるわけではない。


 まず先遣部隊が動いた。


 続いて歩兵。


 装甲部隊。


 砲兵。


 工兵。


 通信隊。


 その後ろから弾薬、燃料、食料、医薬品が続く。


 鉄道駅には軍用貨物列車が並び、街道を軍用車両が途切れることなく西へ走っていった。


 兵士だけを動かしても、軍隊は戦えない。


 戦える状態にするためには、その何倍もの物資と人間を動かさなければならない。


 ヴァルターは、その光景の意味を知っていた。


     *


「お父さん!」


 学校から帰ってきたレイブンが、鞄を置くより早く窓へ駆け寄った。


「見て!」


「どうした」


「すごいいっぱい!」


 ヴァルターも窓際へ立つ。


 家の前の通りを、帝国軍の車列が進んでいた。


 軍用トラック。


 牽引車。


 装甲車。


 荷台には完全装備の兵士たち。


 一台が角を曲がって消えても、すぐ次が現れる。


「兵隊さん?」


「ああ」


「どこ行くの?」


「西だ」


「西?」


「連邦共和国(アルディア連邦共和国)との国境」


 レイブンは窓硝子に手をつき、通り過ぎていく兵士たちを目で追った。


 しばらくして。


「戦争するの?」


 ヴァルターの表情が止まった。


 六歳の少年に悪意などない。


 新聞も軍事報告も理解していない。


 ただ、兵士が大勢いるから聞いただけだった。


「……まだだ」


「まだ?」


「ああ」


「じゃあ戦争じゃない?」


「今はな」


 それ以上は言えなかった。


 ――まだ。


 自分で口にしておきながら、その二文字が嫌に耳へ残った。


 まるで、その先にあるものを認めてしまったようだった。


「レイブン」


「なに?」


「帰ってきたら、まず手を洗う」


「あっ」


「忘れたな?」


「今やる!」


 黒い尾を跳ねさせながら、レイブンが廊下を走っていく。


「走るな!」


「はーい!」


「返事しながら走るな!」


「はーい!」


「……聞いてないな、あいつ」


 思わず苦笑する。


 だが、ヴァルターが再び窓の外を見た時。


 その笑みは消えた。


 軍用車列は、まだ続いていた。


     *


 その夜。


 居間のラジオから、落ち着いた声のニュースが流れていた。


『――帝国(ヴァルグラント帝国)政府は本日、連邦共和国(アルディア連邦共和国)軍による国境方面への九個大隊規模の展開について、帝国領土の安全保障に重大な影響を及ぼし得るとの見解を発表しました』


 床ではレイブンが本を読んでいる。


 セレナは食器を拭きながら、時折ラジオへ目を向けていた。


『これを受け帝国軍は、西部方面軍を中心として国境警戒態勢を強化。最終的に十個師団級の――』


 ぷつり。


 ヴァルターがラジオを消した。


「消すの?」


「ああ」


「聞かなくていいの?」


「この先は大体分かる」


 セレナは食器を置いた。


「……軍に戻りたい?」


 ヴァルターの左手が止まった。


「どこへ」


「分かってるでしょう」


「……」


 無意識に右腕を動かそうとして。


 何もない右袖だけが、僅かに揺れた。


「戻りたいかどうかと、戻れるかどうかは別だ」


     *


 右腕を失ってから。


 何もかもが変わった。


 軍服の釦を留める。


 靴紐を結ぶ。


 文字を書く。


 銃を持つ。


 弾倉を交換する。


 かつて身体が勝手にこなしていた動作を、今は一つずつ左手で覚え直している。


 軍に残る道がないわけではなかった。


 教官。


 後方勤務。


 技術顧問。


 兵器開発。


 SG-44《シュヴァルツ・カッツェ》の設計協力も、その一つだった。


 軍はまだヴァルターを必要としている。


 本人にも、それは分かっていた。


 けれど――。


「お父さん」


「ん?」


 レイブンが本を抱えてやってきた。


「これ、何て読むの?」


「どれだ」


「これ」


 小さな指の先。


「……『冒険』だ」


「ぼうけん?」


「ああ」


「異界みたいな?」


 ヴァルターの目が、一瞬だけ止まる。


 知らない森。


 二つの月。


 血の匂い。


 帰れない夜。


「……本の中だけにしておけ」


「なんで?」


「帰ってくるのが大変だからだ」


「?」


 レイブンは意味が分からないまま首を傾げ、やがて「ふーん」と本へ戻っていった。


 その背中を見ながら。


 ヴァルターは思う。


 異界にいた三か月。


 何度、この光景を思い浮かべただろう。


 レイブンの黒い耳。


 金色と黒色の瞳。


 セレナの白い毛並み。


 食卓。


 家の匂い。


 帰りたかった。


 軍へではない。


 帝国へでもない。


 ――この家へ。


     *


 深夜。


 妻と息子が眠ったあとも、ヴァルターだけは居間に残っていた。


 卓上灯の下。


 一枚の書類。


《健康上の理由に伴う兵役区分変更申請書》


 左手でペンを握る。


 以前よりは慣れた。


 それでも、文字を書くたびに右手があった頃との違いを思い知らされる。


 氏名。


ヴァルター・クロウ


 階級。


少尉


 所属。


 軍籍番号。


 そして――。


申請理由。


 ペンが止まった。


 理由なら、いくらでもある。


 右上肢欠損。


 戦闘職種継続困難。


 長期的身体機能制限。


 軍務遂行能力への影響。


 どれも事実だった。


 どれを書いても、軍医は否定しないだろう。


 だが。


 ヴァルターが本当に軍から離れたい理由は、それだけではなかった。


     *


 静かな部屋。


 時計の音。


 その規則正しい響きの向こうから、別の夜が蘇ってくる。


 二つの月が浮かぶ異界。


 湿った土。


 知らない木々。


 知らない言葉。


 左腕だけで抱えたG-35《アードラー》。


 ――帰りたい。


 何度、そう思った。


 生きて帰れたなら。


 もう一度だけ家族に会えたなら。


 そんなことばかり考えていた。


 そして今。


 壁一枚向こうで、その家族が眠っている。


     *


 ヴァルターはペンを動かした。


《異界任務中に負った右上肢欠損により、従来の戦闘職種における継続勤務は困難と判断する》


 書き終える。


 それでも。


 何かが足りなかった。


「……」


 机の端に置かれていた白紙を、左手で引き寄せる。


 数秒。


 いや。


 もっと長く。


 ヴァルターは何も書かなかった。


 やがて。


 ゆっくりとペン先を紙へ落とした。


《退役願》


 書いた瞬間。


 たった三文字が、妙に重く見えた。


「……軍を辞める、か」


 十代から軍服を着てきた。


 朝起きれば訓練。


 命令があれば出動。


 銃を持つことも。


 仲間と歩くことも。


 軍人であることも。


 いつの間にか、自分という人間の一部になっていた。


 それを手放したら。


 自分は何になるのだろう。


 しばらく考えて。


 壁の向こうへ視線を向けた。


「……父親、か」


 不思議と。


 悪くないと思った。


     *


「まだ起きてたの?」


 後ろから声がした。


 振り返ると、寝間着姿のセレナが立っている。


「起こしたか?」


「隣にいなかったから」


 白い猫耳を揺らしながら近づいてくる。


「何を書いてるの?」


 ヴァルターは隠さなかった。


 セレナが最初の書類を見る。


 次に、その隣。


「……退役願」


「ああ」


「右腕のこと?」


「それもある」


「それも?」


 ヴァルターは寝室の方を見る。


「レイブンが六歳になった」


「そうね」


「三か月だ」


「……」


「たった三か月いなかっただけなのに」


 自嘲気味に笑う。


「随分いろんなものを見逃した気がする」


 セレナは夫の隣へ椅子を寄せた。


「軍を辞めたいの?」


 ヴァルターは、すぐには答えなかった。


 窓の向こうから、遠く列車の走る音が聞こえる。


 西へ向かう軍用列車なのかもしれない。


 以前なら。


 何師団の列車だ。


 何両編成だ。


 どこへ展開する。


 そんなことを考えた。


 今は――。


「家にいたい」


 それが答えだった。


「朝、レイブンが学校へ行くところを見て」


「うん」


「帰ってきたら話を聞いて」


「うん」


「お前と飯を食う」


「……うん」


「今は、それでいい」


 セレナの視線が、空の右袖へ落ちる。


「後悔しない?」


「分からん」


「そう」


「でも」


 ヴァルターは妻を見る。


「異界では後悔した」


「何を?」


「もっと家にいればよかったって」


 しばらく。


 何も聞こえなかった。


 やがてセレナは、夫の左手へ自分の手を重ねた。


「だったら」


「ん?」


「今度は一人で決めないで」


「……」


「私にも相談して」


 ヴァルターの黒い耳が僅かに下がる。


「悪かった」


「それから」


「まだあるのか」


「レイブンにも」


「あいつに軍の退役制度が分かると思うか?」


「そういう意味じゃないわよ」


 セレナは少し笑った。


「『お父さんが家にいてもいいか』くらい、聞いてみたら?」


「……」


 ヴァルターも、ほんの少し笑った。


「聞くまでもない気がするな」


     *


 翌朝。


 レイブンが目を覚ますより少し早く。


 ヴァルターは二枚の書類を封筒へ入れた。


 健康上の理由による兵役区分変更申請書。


 そして。


 退役願。


 だが。


 封は閉じなかった。


 提出するかどうか。


 もう少しだけ、家族と話してから決めたかった。


     *


 同じ朝。


 遥か西方。


 帝国(ヴァルグラント帝国)と連邦共和国(アルディア連邦共和国)を隔てる国境。


 監視所の帝国兵が、双眼鏡を覗いていた。


「……また増えたな」


「どこだ?」


「十一時方向」


 隣の兵士も双眼鏡を上げる。


 国境線の向こう。


 土煙を上げて進む連邦軍車両。


 新しく掘られた陣地。


 兵員輸送車。


 砲兵部隊。


「九個大隊、か」


「確認できてるだけでな」


「こっちは?」


「最終的に十個師団級だとさ」


「……それ、警戒って規模か?」


「俺に聞くなよ」


 二人は黙った。


 双眼鏡の向こう。


 連邦側の監視所にも、一人の兵士が立っている。


 こちらを見ていた。


 帝国兵が双眼鏡を下ろす。


 連邦兵も、しばらくして双眼鏡を下ろした。


 どちらも銃を構えない。


 まだ。


 引き金へ指を掛ける者はいない。


     *


 帝国(ヴァルグラント帝国)は言う。


 これは防衛だ。


 連邦共和国(アルディア連邦共和国)も言う。


 こちらも防衛だ、と。


 その言葉を繰り返すたび。


 国境へ兵士が増えた。


 戦車が増えた。


 砲が増えた。


 弾薬が増えた。


 それでも。


 銃声だけは、まだ聞こえなかった。


     *


 その夜。


「お父さん」


「何だ」


「明日も家にいる?」


 寝る前のレイブンが、ヴァルターを見上げた。


「ああ」


「学校から帰ってきても?」


「いるよ」


「じゃあ遊ぼう」


「宿題が終わったらな」


「えー」


「その顔をしても駄目だ」


「お母さん」


「私を味方につけようとしても駄目」


「二対一だ……」


「何の勝負をしてるんだ、お前は」


 セレナが笑う。


 レイブンも笑う。


 ヴァルターも、つられて笑った。


 その笑い声が消えたあと。


 ヴァルターは、ほんの一瞬だけ机を見る。


 引き出しの中には。


 まだ封をしていない、一通の封筒がある。


     *


 窓の外には、いつもの町。


 街灯。


 閉店する商店。


 帰宅を急ぐ人々。


 家々から漏れる暖かな灯り。


 その遥か西では。


 また一編成。


 軍用列車が国境方面へ到着していた。


 帝国(ヴァルグラント帝国)。


 連邦共和国(アルディア連邦共和国)。


 二つの国を隔てる線そのものは、昨日から一歩も動いていない。


 ただ。


 その両側に立つ兵士の数だけが、


 昨日より多くなっていた。


 そして。


 誰も撃ってはいないのに。


 誰も戦争を始めたとは言っていないのに。


 国境の空気だけが、


 少しずつ。


 火薬の匂いに近づいていた。

Season 2「父の背中」へと続きます


S1は第12話までとします、S2は第13話からです。

ここまでお読みくださりありがとうございます、まだまだレイブン本人の人生はスタート地点ですが、これからもより面白くしていきます。


また、作品のレビューや感想も受け付けております。<私的に~の表現がおかしい>や<この#~の表現方法、最高!>でも構いません。作者のモチベーションにつながります(笑)


それでは、今しばらくS2の開始までお待ちくださいませ!!

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