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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #02

第2話 父の帰る家


レイブン・S・クロウが生まれてから、クロウ家の一日は少しだけ形を変えた。


それ以前の朝は、もっと静かだった。


セレナが起きて湯を沸かし、朝食の支度を始めるころ、ヴァルターも決まった時刻に寝台を離れる。軍務のある日は制服へ袖を通し、簡単な朝食を済ませ、同じ時刻に玄関を出る。


帰宅する時間には多少の差があっても、その生活は規則正しかった。


軍人であるヴァルターにとって、時間とは守るべきものだった。


ところが今では、その規則をまったく気にしない存在が家の中心にいる。


夜明け前。


窓の外には、まだ夜の色が残っていた。


クロウ家の寝室に、小さな泣き声が響く。


「……ん」


ヴァルターの黒い猫耳が先に反応した。


目を開く。


暗い天井。


もう一度、泣き声が聞こえた。


隣室からだ。


ヴァルターは枕元の時計へ視線を向ける。


「四時十三分」


隣で眠っていたセレナが、布団から顔だけを出した。


白い猫耳の片方が、わずかに伏せられている。


「……時間を報告しなくていいから」


「いや、昨夜は三時五十二分だった」


「だから?」


「二十一分遅い」


「あなた」


セレナが片目を開けた。


「レイブンは軍の定時報告じゃないのよ」


「分かっている」


「本当に?」


ヴァルターは答えなかった。


その代わり、寝台から起き上がる。


セレナも身体を起こそうとしたが、ヴァルターが手で制した。


「俺が行く」


「大丈夫?」


「子供を抱くだけだ」


「最初のころ、その『抱くだけ』で何分も固まっていた人がいたような気がするけど」


「昔の話だ」


「まだそんなに経ってないわよ」


ヴァルターは聞こえなかったことにした。


隣室へ入る。


小さな寝台の中で、レイブンが泣いていた。


黒い髪。


頭には、まだ身体の大きさに比べても小さな黒い猫耳。


生まれた日の頼りない姿からは少しずつ成長している。それでもヴァルターが両腕を差し入れれば、身体全体が簡単に収まるほど小さい。


「どうした」


当然、返事はない。


「腹か」


泣き続けている。


「違うか」


変化なし。


ヴァルターは眉間へわずかに皺を寄せた。


軍務ならば、もっと単純だった。


状況を確認する。


情報を集める。


原因を推定する。


優先順位を決めて対処する。


必要ならば別の手段へ切り替える。


ところが、目の前の相手は報告をしてくれない。


「……難しいな」


ヴァルターは慎重にレイブンを抱き上げた。


片腕で頭から首を支え、もう片方を身体の下へ回す。


最初のころに比べれば、ずいぶん自然な動きになっていた。


身体を胸元へ寄せる。


すると、レイブンの泣き声が少し弱くなった。


「そうか」


ヴァルターは息子の顔を見る。


「これでいいのか」


黒い猫耳が小さく動いた。


泣き声がさらに弱くなる。


やがて、部屋は静かになった。


父と息子が向き合った。


レイブンが目を開く。


片方は金色。


もう片方は深い黒。


まだ幼い左右異色の瞳が、焦点を探すように動いた末、父親の顔のあたりで止まる。


「……」


ヴァルターも黙って見つめ返した。


未来の戦士を見ていたわけではない。


何か特別な力を見出したわけでもない。


ただ自分の腕の中にいる息子を見ていた。


「お前の目は、本当に不思議だな」


レイブンの手が動く。


小さな指が、ヴァルターの寝間着を掴んだ。


そのまま口元へ引き寄せようとする。


「待て」


ヴァルターが止めた。


「それは食べ物じゃない」


背後から笑い声が聞こえた。


振り向く。


扉のところにセレナが立っている。


「何を教えてるの?」


「服は食べ物ではないと説明していた」


セレナは一度黙った。


そして、堪えきれずに笑った。


「何がおかしい」


「だって……そんな真顔で言うから」


「重要なことだ」


「まだ言葉も分からないのよ?」


「なら、分かるまで教えればいい」


「あなたらしいわね」


セレナが近づく。


指先でレイブンの頬を優しく撫でると、彼の耳が母親の声へ向くように動いた。


「ほら」


セレナが言った。


「ちゃんと聞いてる」


「耳はいいようだな」


「猫系なんだから、耳がいいのは普通でしょう?」


「そういう意味ではない」


ヴァルターは最近、一つのことに気づいていた。


レイブンは音によく反応する。


食器が触れ合う音。


扉が開閉する音。


窓の外を通過する車両の音。


そして、父と母の声。


特に分かりやすいのは、ヴァルターが帰宅したときだった。


夕方。


帝国の街へ橙色の光が差し始めるころ、軍務を終えたヴァルターが家へ戻ってくる。


鍵が回る。


玄関扉が開く。


軍靴の底が床へ触れる。


規則的な足音が廊下を進む。


「ただいま」


居間にいたセレナより先に、床へ敷かれた厚い布の上で横になっていたレイブンの黒い猫耳が動いた。


ヴァルターが足を止める。


レイブンが顔を動かした。


まだ身体を自由に動かせるわけではない。


それでも耳だけは、明らかに玄関の方向を捉えていた。


「おかえりなさい」


台所からセレナが顔を出した。


「ああ」


ヴァルターは答えたものの、息子から視線を外さなかった。


軍帽を取る。


レイブンの視線が父親を追った。


「今、俺が入った瞬間に反応した」


「だから前から言ってるでしょう?」


セレナが笑う。


「あなたが帰ってきたの、分かるみたいよ」


「足音か?」


「たぶんね」


ヴァルターは自分の軍靴を見る。


硬い靴底。


歩幅。


歩行速度。


本人には意識するほどのものではなかった。


しかし毎日ほぼ同じ時間帯に、同じ人物が、同じ靴を履いて同じ廊下を歩けば、床へ伝わる振動や音にも一定の特徴が生まれる。


猫系亜人の聴覚を持つ子供が、それを繰り返し聞いている。


声を理解できなくても、その音と父親の帰宅を結びつけ始めていても不思議ではない。


ヴァルターはしゃがんだ。


「レイブン」


黒い耳が動く。


「レイブン」


もう一度呼ぶ。


今度は顔も動いた。


金色と黒の瞳が父を見つける。


「……聞いているな」


「でしょう?」


ヴァルターは両腕を伸ばした。


レイブンはまだ、自分からそこまで歩いてくることはできない。


だから父親のほうから近づく。


抱き上げる。


小さな手が、帝国軍の制服を掴んだ。


「ただいま」


レイブンには、まだ軍服の意味など分からない。


階級章も。


帝国軍という組織も。


父親がなぜ毎朝それを身につけて家を出るのかも知らない。


ただ、その服を着た男が毎晩帰ってくる。


今の彼にとっては、それだけだった。


「今日はどうだった」


ヴァルターが尋ねる。


セレナが答えた。


「よく飲んで、よく寝て、少し泣いて、また寝たわ」


「体調は?」


「問題なし」


「異常は?」


「なし」


ヴァルターが頷く。


セレナは腰へ手を当てた。


「……完全に報告になってるわよ」


「確認しているだけだ」


「だから家庭なのよ、ここは」


「分かっている」


「本当に?」


「今日は二度目だな、その質問」


「あなたが二度も疑われることをするからでしょう?」


レイブンを挟んで、夫婦の会話が続く。


その内容を理解できない息子は、父親の制服を握ったまま二人の声を聞いていた。


やがて夕食の時間になる。


窓の外では、帝国の街が夜へ変わり始めていた。


遠くを列車が走っていく。


規則的な車輪音。


ヴァルターが何気なく窓を見る。


客車ではなかった。


平貨車が何両も連なり、その上には軍用車両が固定されている。


車体が揺れるたび、固定用の鎖がわずかに振動する。


最近、ああした列車を見る回数が増えた。


新聞では連邦共和国との外交的緊張が報じられている。


国境地帯での演習。


部隊移動。


外交官による抗議。


軍備増強を巡る議論。


それでも街は平穏だった。


商店は営業している。


学校には子供たちが通っている。


夕方になれば仕事を終えた市民が家へ帰る。


まだ誰も、日常が壊れたとは思っていない。


「あなた」


セレナの声。


ヴァルターは窓から視線を戻した。


「どうした?」


「それは私の台詞よ」


「……何でもない」


セレナは夫の顔を見た。


何でもない顔ではなかった。


だが、それ以上は聞かなかった。


軍人である夫が家庭へ持ち帰れないものがあることを、彼女は知っている。


代わりに、ヴァルターの腕の中を指さした。


「ほら」


視線を落とす。


レイブンが眠っていた。


先ほどまで制服を掴んでいた手からも、すっかり力が抜けている。


「寝たか」


「あなたに抱かれてると、よく寝るわね」


「そうなのか?」


「安心するんじゃない?」


ヴァルターは黙った。


安心。


その言葉は、軍人としての自分へ向けられるものとは少し違っていた。


軍で求められるのは規律だった。


判断。


責任。


命令を遂行する能力。


必要ならば武器を持ち、危険な場所へ進む覚悟。


しかし、この小さな子供が自分へ求めているものは、おそらくもっと単純だった。


朝になればいなくなる。


夜になれば帰ってくる。


聞き慣れた足音。


聞き慣れた声。


そして、自分を抱き上げる腕。


それだけなのだろう。


ヴァルターは眠っている息子を見た。


「……なら」


「何?」


「いや」


少し間を置く。


「帰ってこないとな」


セレナは何も言わなかった。


ただ、その言葉を聞いていた。


夜。


レイブンを寝かせたあと、ヴァルターは居間の机に座っていた。


翌日の軍務に必要な書類へ目を通す。


紙をめくる音。


壁時計の針。


暖炉の中で薪が弾ける。


そこへセレナが温かい飲み物を置いた。


「まだ仕事?」


「確認だけだ」


「家では休めばいいのに」


「これが終わったら休む」


セレナが向かい側へ座る。


机の上の書類には触れなかった。


しばらく静かな時間が流れる。


「ねえ」


「ん?」


「レイブン、どんな子になると思う?」


ヴァルターの手が止まった。


「分からない」


「即答ね」


「まだ何も決まっていないだろう」


「想像くらいしてもいいじゃない」


ヴァルターは寝室の方向を見た。


扉の向こうで、息子が眠っている。


「元気なら、それでいい」


「それだけ?」


「それ以上は、あいつ自身が決めることだ」


セレナが少し微笑んだ。


「あなたと同じ軍人になったら?」


今度は、ヴァルターの答えが遅れた。


「……分からない」


「反対する?」


「それも分からない」


ヴァルターは軍人という仕事を誇りに思っている。


だが、その制服が何を要求するのかも知っていた。


命令に従うこと。


自分の判断へ責任を持つこと。


そして、ときには帰れる保証のない場所へ向かうこと。


息子に自分と同じ道を歩いてほしいという思いと、歩いてほしくないという思い。


今はまだ、どちらにも答えを出せなかった。


「ずいぶん先の話ね」


「ああ」


「そのころまで、ちゃんと父親していてね」


ヴァルターが眉を上げる。


「今もしているつもりだ」


「午前四時十三分に乳児の生活周期を分析する父親だけど?」


「……それは忘れろ」


セレナが笑った。


そのとき。


寝室から小さな声が聞こえた。


ヴァルターの耳が動く。


ほぼ同時に立ち上がった。


「俺が行く」


「時間は測らないでね」


「分かっている」


寝室へ入る。


薄暗い部屋の中で、レイブンが目を覚ましていた。


ヴァルターは寝台へ近づき、息子を抱き上げる。


「大丈夫だ」


低い声で言う。


「ここにいる」


レイブンの手が伸びた。


父親の指を掴む。


帝国も。


連邦共和国も。


国境の緊張も。


軍も。


そして、この世界の外側に存在するものさえ。


今のレイブンには何の意味もなかった。


彼の世界はまだ小さい。


母の声。


父の足音。


暖炉の音。


窓から差し込む朝の光。


そして、夜になれば必ず帰ってくる人。


このころのレイブン・S・クロウにとって、ヴァルター・クロウとは帝国軍人ではなかった。


教官でもない。


異界を知る男でもない。


ただの父親だった。


毎朝、家を出る。


そして毎晩、


同じ足音とともに帰ってくる。


少年がその背中の向こう側にある「軍」という世界を初めて意識するのは――まだ、もう少し先のことだった。

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