Season 8「継ぐ者、見守る者」 #165
第165話「第七週――近すぎる距離」
第七週の朝、志願兵たちは初めて屋内訓練棟へ集められた。
床には衝撃を吸収する素材が敷かれ、壁際には訓練用の保護具が並んでいる。第五週に使った複合演習区画のような大きな障害物はなく、射撃場のように遠くを見る必要もない。その代わり、ここでは数歩進めば相手へ手が届く。
六週間の訓練を終えた志願兵たちは、もう新しい環境を見ただけで内容を決めつけることは少なくなっていた。
それでも、中央に立つレイブンが訓練用防具を身につけているのを見れば、おおよその予想はできる。
「第七週は近接距離を扱う」
レイブンは志願兵たちを見渡した。
「ただし、最初に一つ勘違いを潰しておく。今週の目的は、格闘技大会で勝てる兵士を作ることじゃない」
その隣で同じく防具を着けていたHoundが、自分の手袋を確かめながら笑った。
「今ちょっと残念そうな顔した奴がいるな」
「お前は楽しそうだな」
「合法的に教官へ殴りかかれる週だろ?」
「俺じゃなくて志願兵を見ろ」
「冗談だよ」
どこまで冗談なのか分からない顔をしているHoundを無視し、レイブンは話を続けた。
「FICFには、世界各地で発達してきたさまざまな格闘術や武器術の研究成果が入っている。打撃、投げ、組み、受身、足運び、間合い、武器を持った状態での身体操作。それぞれに長い歴史がある。ただ、それらを全部覚えれば強くなるという体系じゃない」
レイブンは床に引かれた境界線まで歩いた。
「重要なのは、距離が変わっても判断を止めないことだ」
遠距離なら、見る時間がある。
距離が縮まれば、その時間も縮まる。
相手と接触すれば、視覚だけでは分からない情報が増え、姿勢や重心、足場、疲労、仲間との位置関係が直接身体へ返ってくる。そこでは射撃場のように姿勢を整えてから次の課題へ進めるとは限らない。
だからこそ、第五週で始めたFICFの基礎がここへ繋がる。
「今日の最初は勝敗をつけない。相手を倒す必要もない。まず、自分がどの距離なら周囲を見られて、どこまで近づくと視野が狭くなるのかを知ってもらう」
一人の志願兵が尋ねた。
「格闘経験のある者が有利でしょうか」
「有利になる部分はある。でも、その経験だけで今週の評価が決まるわけじゃない」
「なぜですか?」
「相手一人だけ見てればいい訓練にしないから」
その答えで、何人かの表情が変わった。
Houndが小さく笑う。
「六週間付き合って、そろそろ分かってきただろ。こいつが素直に一対一だけやらせるわけない」
「人聞き悪いな」
「事実だろ」
最初の訓練では、二人一組になった志願兵たちが保護具を着け、互いに距離を変えながら身体の反応を確かめた。
経験者と未経験者を最初から競わせることはしない。姿勢を崩した時に安全に立て直せるか、接触した瞬間に力任せにならないか、足元への注意を失っていないかを補助教官が見る。
第一週の測定で高い身体能力を示した猫系亜人の志願兵は、ここでも動きが速かった。
相手との距離を素早く詰め、反応も鋭い。
ところがレイブンは途中で止めた。
「今、後ろ見えてた?」
志願兵が振り返る。
背後には別の組がいる。
「……見えていませんでした」
「相手へ集中し過ぎたな」
「はい」
「速さはそのままでいい。でも、近づくほど視野が狭くなる癖がある。覚えておけ」
志願兵は頷いた。
今度は別の組へ移る。
そこでは人間種の志願兵が、相手と接触することを恐れて距離を取り続けていた。危険ではない。だが後退するたび、自分から壁際へ近づいている。
レイブンは訓練を止めず、しばらく見ていた。
やがて本人が壁を視界の端で捉えた。
足が止まる。
そこで初めて横へ動いた。
課題終了後、レイブンが近づいた。
「何に気づいた?」
「逃げることしか考えてなくて、自分で動ける場所を狭くしていました」
「そうだな。距離を取る判断自体は悪くない。でも後ろへ下がることだけが、距離を取る方法じゃない」
志願兵は床を見る。
「怖かったです」
「何が?」
「接触するのが」
第一週なら、本人はそれを口にしなかったかもしれない。
レイブンは頷いた。
「なら、それも情報だ。無理に消そうとするな。どの距離で焦り始めるか分かれば、早めに動ける」
「慣れれば、なくなりますか?」
「なくなるかもしれないし、残るかもしれない。でも、残っていても扱えるようにはなる」
志願兵の肩から少し力が抜けた。
午前の後半から、訓練には受身と姿勢回復が組み込まれた。
FICFに登録された各種の着地・受身体系は、派手に転がるためのものではない。予想外に身体の均衡を崩した時、そこで動きを完全に切らず、安全に次の判断へ戻るために研究されている。
レイブンは速度を上げさせなかった。
まず安全に倒れる。
周囲を確認する。
起き上がれるなら起きる。
起き上がること自体が危険な状況を想定した場合には、別の判断をする。
同じ動作を全員へ強制もしない。
身体構造が違えば、衝撃の逃がし方も変わる。
狐系亜人の志願兵が一度、前の人間種とまったく同じ動きを真似しようとして姿勢を崩した。
「止めよう」
レイブンが近づく。
「痛いところは?」
「ありません」
「じゃあ今の、どうだった?」
「真似しない方がいいという意味が分かりました」
「早く分かってよかった」
Houndが横から口を挟む。
「FICFの悪い教え方って、たぶん『NoXみたいに動け』だからな」
「誰がそんな教え方するんだよ」
「お前以外の誰か」
「俺を例にする必要ある?」
「分かりやすいから」
志願兵たちから笑いが起きる。
レイブンは諦めたように耳を僅かに伏せた。
午後になると、訓練の意味が変わった。
相手との接触だけではなく、周囲の状況が加えられたのである。
二人が向き合っている最中に、別方向から音が入る。班員から情報が来る。訓練区画の一部が使えなくなる。相手との距離だけを見ていれば、別の変化を見落とす。
ある志願兵は、目の前の相手を押し返すことに成功した直後、そのまま追おうとした。
「終了」
レイブンの声で止まる。
「今、何しようとした?」
「距離を詰めようとしました」
「なぜ?」
「相手の姿勢が崩れたので、有利だと思いました」
「その時、班から何て報告が来てた?」
志願兵の顔が止まった。
「……聞いていませんでした」
「実際には?」
班員が答える。
「別方向の課題目標を確認したと伝えました」
志願兵は自分の判断を理解した。
目の前の相手へ勝つことが、班の目的ではなかった。
「近い相手ほど気になる」
レイブンは全員へ向けて言った。
「自分に直接影響するものだから当然だ。でも、目の前にいる相手が一番重要とは限らない。離れる判断もある」
一人が尋ねた。
「勝てる状況でも、ですか?」
「勝つって何に?」
質問した志願兵が黙った。
「相手を倒すこと?」
「……それも勝利だと思います」
「場合によってはな。でも任務を失敗して相手一人だけ倒したなら、それを勝ちと呼べるか?」
誰も答えない。
レイブンは続けた。
「FICFにはENGAGEだけじゃなく、DISENGAGEとREPOSITIONも含まれている。接触したら最後まで付き合え、なんて体系じゃない。必要なら離れる。場所を変える。仲間と合流する。目的を優先する」
Houndが頷く。
「逃げるのと、離脱を選ぶのは同じじゃないってことだ」
「そういうこと」
第七週の三日目、Houndが実演役に入った。
志願兵たちは円状に距離を取り、中央へ立つHoundを見る。
「何で俺なんだ?」
「犬系亜人と人間種で感覚が違う例を見せたいから」
「NoX本人がやればいいだろ」
「俺だけ見せると、また俺の動きを真似する」
「なるほど」
Houndは納得すると、一人の志願兵を呼んだ。
レイブンが説明する。
「動きの形を見るな。どこを見て、いつ距離を変えているかを見る」
訓練が始まる。
Houndはレイブンほど静かな動きではない。
身体の使い方も違う。
犬系亜人らしい強い踏み込みと安定した姿勢を使う一方、無理にレイブンのような身軽さを再現しようとはしない。相手が距離を変えれば、自分の得意な位置を保つように動く。
短い実演が終わる。
「どう違った?」
レイブンが尋ねる。
猫系亜人の志願兵が答えた。
「教官とは動き方が違います」
「それだけ?」
第一週に最高評価を受けた、人間種の志願兵が手を上げた。
「Hound教官は、自分から相手に合わせているというより、相手を自分が動きやすい位置へ誘導していたように見えました」
Houndの耳が動く。
「よく見てるな」
レイブンも頷いた。
「それでいい。技の名前を当てる必要はない。何を目的に身体を動かしたのかを見る」
Houndが志願兵へ笑う。
「ちなみに、俺の真似もしなくていいぞ」
「はい」
「即答されると少し傷つくな」
笑いが広がった。
第七週後半には、これまで学んだ要素が再び重なり始めた。
志願兵は班で移動し、情報を共有し、狭い区画へ入る。そこで対抗役と接触しても、必ずしも戦う必要はない。
目的は別の場所にある。
ところが最初の班は、対抗役を見つけた瞬間に全員の意識をそちらへ向けた。
数分後、課題終了が告げられた。
「え?」
班長役がレイブンを見る。
「まだ対抗役を――」
「何のために入った?」
その一言で、班員たちの表情が変わった。
指定された確認地点へ到達する。
それが課題だった。
対抗役を倒せとは一度も言われていない。
「完全に忘れていました」
班長役が認める。
「どうして?」
「敵役を見つけたからです」
「近くにいたから重要だと思った?」
「はい」
「第七週の失敗としては分かりやすいな」
レイブンは怒らなかった。
「もう一回やる?」
「お願いします」
二回目。
対抗役が現れた。
今度は班長が止まった。
仲間へ短く確認する。
その相手と関わらずに進める経路がある。
班は進路を変えた。
対抗役は追ってこなかった。
目的地点へ到達した時、志願兵たちは一度目よりもずっと早く課題を終えていた。
「戦わなかったのに終わった……」
一人が呟く。
レイブンが聞いていた。
「不満?」
「いえ。ただ、近接訓練なのに」
「近接戦闘を教える週だからこそだ」
レイブンは答えた。
「近づいたら必ず戦うと思ってるなら、相手に距離を決められてるのと同じだからな」
第七週の最終日。
志願兵たちは再び屋内訓練棟へ戻った。
初日と同じ床。
同じ境界線。
しかし一週間前とは立ち方が違う。
誰かと向き合っても、相手の胸元だけを見ない。足場を見る。周囲を見る。仲間との距離を見る。
レイブンは最後の課題として、勝敗のない短い対抗訓練を行わせた。
評価されるのは、相手を何回倒したかではない。
自分が不利になった時に無理を続けなかったか、仲間からの情報へ反応できたか、距離を変える選択肢を失わなかったか。そして、課題の目的そのものを忘れなかったかだった。
全組が終わる頃には、志願兵たちの防具は汗で重くなっていた。
レイブンも訓練棟の中央へ立つ。
「七週間終わった」
最初の頃なら、そこで十三週目の話を期待する視線がすぐに集まっていただろう。
今回は違った。
彼らは静かに待っている。
「近接戦闘で一番危ないことは何だと思う?」
複数の答えが出た。
視野が狭くなること。
焦ること。
相手だけを見ること。
足場を忘れること。
目的を失うこと。
レイブンは全部を聞いた。
「どれもある」
その上で、少しだけ言葉を足した。
「俺が一番避けてほしいのは、戦い始めたから戦い続けなきゃいけないと思うことだ」
訓練棟が静かになる。
「必要なら戦え。でも、離れられるなら離れる判断も持て。位置を変えられるなら変えろ。助けを呼べるなら呼べ。一人で始めたから一人で終わらせる必要もない」
志願兵たちは頷いた。
その中から、猫系亜人の志願兵が手を上げた。
「教官。十三週目に、教官と近接距離になった場合は?」
Houndが吹き出しそうになる。
レイブンは質問した本人を見た。
「まず聞くけど、何で俺と近接戦闘する必要があるの?」
志願兵が固まった。
周囲から小さな笑いが起きる。
「……必要がなければ、しません」
「正解」
「必要になった場合は?」
「その時は頑張れ」
今度はHoundが完全に笑った。
「そこ教えないのかよ」
「俺が十三週目の対抗側なのに、俺との戦い方まで教えてどうする」
「ここまで散々ヒント出してきた奴が言う?」
レイブンは少し考え、志願兵たちへ向き直った。
「じゃあ一つだけ」
空気が引き締まる。
「一人で来るな」
数秒の沈黙のあと、何人かが顔を見合わせた。
Houndの笑みが消える。
それは単なる警告ではなかった。
七週間の教育を受けてきた彼らなら、その意味を考えられる。
NoXと一対一で勝てないから人数を集めろ、というだけの話ではない。
一人の視界には限界がある。
一人の判断は外れる。
一人の身体には疲労がある。
一人が相手を見ている間に、別の誰かは周囲を見ることができる。
そして何より、最終日の目的はレイブンを倒すことではない。
「第七週終了。今日はしっかり身体を休めろ。違和感が残っている者は必ず申告してから戻ること」
志願兵たちは返事をし、順番に訓練棟を出ていった。
Houndは最後まで残った。
「あと六週間だな」
「ああ」
「半分越えた」
レイブンは床に残された訓練用防具を拾い、返却場所へ運ぶ。
「早いな」
「最初は十三週間なんて長いと思ったけどな」
「俺も」
「嘘つけ。計画したのお前だろ」
「計画する十三週間と、教える十三週間は違うよ」
Houndはその言葉に少し笑った。
「で、どうだ?」
「何が?」
「あいつら。本当に旧市街でお前を困らせそうか?」
レイブンはすぐには答えなかった。
開いた扉の向こうでは、志願兵たちが互いに今日の動きを話しながら歩いている。誰が勝った、誰が強かったという話だけではない。どの場面で視野が狭くなったか、なぜ離れる判断が遅れたのか、自分なら次にどうするかを言葉にしていた。
「困らせてくれないと困る」
レイブンはそう答えて、防具を置いた。
七週間前、彼らは十三週目を教官一人に大人数で挑む試合だと思っていた。
今は少し違う。
敵を見つけることと、敵を追うことは同じではない。
接触することと、戦い続けることも同じではない。
そして相手に勝つことと、自分たちの目的を達成することも同じではない。
第七週を終えた志願兵たちは、ようやくその違いを身体で理解し始めていた。




