Season 8「継ぐ者、見守る者」 #163
第163話「第五週――動き続ける戦場」
第五週の朝、志願兵たちが訓練場へ到着した時、そこには前週までとは明らかに異なる景色が用意されていた。
射撃位置も、机の並ぶ教室もない。広い訓練区画には高さの異なる壁や段差、斜面、低い障害物、足場の変化する通路が配置され、その先には建物を模した構造物が続いている。安全管理のため各所には監視要員が置かれているものの、全体だけを見れば、小さな市街地の一角を切り取って再構成したようにも見えた。
志願兵たちは、入口で足を止めた。
第四週まで彼らが学んできたのは、自分と仲間を知り、武器を持っても周囲を見失わず、離れた仲間へ情報を伝えることだった。ところが今朝の訓練場には、立ち止まって考えることさえ許してくれなさそうな地形が広がっている。
「おはよう」
背後から聞こえた声に、一斉に振り返った。
レイブンはいつもの教官用装備ではなく、身体の動きを妨げない訓練装備を身につけていた。その隣にはHoundもいる。
「第五週を始める。今週から、お前たちには動きながら今までの四週間を使ってもらう」
一人の志願兵が訓練区画を見た。
「障害走でしょうか」
「似ている部分はある。でも、速さを競うだけならこんなものは要らない」
レイブンは入口へ向かいながら答えた。
「戦場では、移動を終えてから戦闘が始まるとは限らない。走っている途中で状況が変わるし、遮蔽物を越えた先で判断を求められることもある。転倒した直後に周囲を確認しなければならない場合もあれば、進める場所を見つけても、仲間が同じ方法で通れるとは限らない」
そこでレイブンは振り返った。
「だから今日から、移動と判断を別々に扱うのをやめる」
v17a2で正式体系化されたFENRIR Integrated Combat Flow――FICF。その基本原則は、移動と戦闘を分離しないことにある。
しかし、レイブンはその名称を掲げて、いきなりFENRIR隊員と同じ動きを志願兵へ要求するつもりはなかった。
「先に言っておく。FENRIRの高等訓練をそのままやらせるわけじゃない」
志願兵の中にあった緊張が、少しだけ緩んだ。
「身体能力は全員違う。種族特性も違う。経験も違う。それなのに、同じ高さを跳べ、同じ速さで走れ、同じ動きをしろと言っても意味がない。今週見るのは、派手に動けるかどうかじゃない」
レイブンは自分の足元を示した。
「自分の身体で、次の行動へ繋げられるかを見る」
最初に行われたのは、驚くほど地味な訓練だった。
走る。
止まる。
方向を変える。
姿勢を低くする。
段差を越える。
安全な高さから着地し、そのまま次の行動へ移る。
身体を崩した時には無理に踏ん張らず、衝撃を逃がして立て直す。
最初の一時間、志願兵たちは武器すら持たなかった。
FICFに含まれるPLFや五点接地、受身、戦闘転動といった技術も、いきなり実戦速度では教えない。まず安全な環境で身体の使い方を理解させ、それぞれの体格や種族特性に合わせて補助教官が修正していく。
猫系亜人の志願兵が軽快に段差を越えた。
続いた人間種の志願兵が同じ動きを真似しようとしたところで、レイブンが止めた。
「待て」
志願兵が動きを止める。
「今、何をしようとした?」
「前の人と同じように越えようとしました」
「なぜ?」
「速かったので」
「速いのは見れば分かる。でも、お前とあいつは身体が違う」
レイブンは先に通過した猫系亜人を呼び戻した。
二人を並べれば、体格も重心も違う。
「同じ障害物でも、最適な越え方が同じとは限らない。FICFは動きをコピーする体系じゃない。地形と身体と次の行動を繋げるための考え方だ」
「では、自分に合った方法を探すんですか?」
「そう。ただし安全基準の中でな。格好よさはいらない」
後ろで聞いていたHoundが笑った。
「今のうちに言っとくけど、NoXの真似をしようとか考えるなよ。あいつ基準にするとろくなことにならないからな」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
「俺だって基礎からやってる」
「お前の基礎は長年積み上げた後の基礎だろ。志願兵に同じ感覚を要求するな」
レイブンは言い返そうとして、少し考えた。
「……それはそうだな」
Houndが珍しいものを見るような顔をした。
「素直に認めた」
「補助教官を褒めた方がいい?」
「気持ち悪いからやめろ」
二人のやり取りに笑いが起こり、志願兵たちの緊張も少し解けた。
午前中いっぱいを使って基礎的な身体操作を確認したあと、午後からは班行動へ移った。
そこで初めて、これまでの四週間が戻ってきた。
班ごとに訓練区画へ入り、指定された地点を通過して終点へ向かう。ただし、単純に最短経路を走ればいいわけではない。途中には複数の経路があり、身体能力の違いによって通りやすさが変わる。
最初の班は、先頭に立った猫系亜人の志願兵が選んだ経路をそのまま進んだ。
本人は難なく越えた。
次の者も続く。
三人目で止まった。
小柄な狐系亜人の志願兵には、その経路が合わなかった。
「行けます」
本人はそう言った。
だが班長役が止めた。
「待って。別の道を探そう」
「でも、時間が――」
「全員で通れないなら意味がない」
その言葉を聞いたレイブンは、離れた位置で記録していた端末へ短く入力した。
Houndが覗こうとする。
「何て書いた?」
「個人評価だから見るなって前にも言っただろ」
「もう補助教官なんだけど」
「それでも勝手に覗くな」
Houndは肩をすくめた。
班は少し遠回りになる経路を選んだ。
到着時間は遅くなった。
しかし全員が大きく隊形を崩すことなく終点へ着いた。
課題終了後、レイブンは班長役へ尋ねた。
「なぜ経路を変えた?」
「全員が通れる方法を選びました」
「時間を失ったな」
「はい」
「それは失敗?」
班長役は迷った。
「分かりません」
「なら、そのままでいい」
意外そうな顔が返ってくる。
「状況次第だからだ。速さが絶対に必要なら別の判断があったかもしれない。でも今回の課題では、全員を終点へ連れていくことも条件に含まれていた。お前は一つの条件を守るために、別の条件である時間を使った」
レイブンは班員たちを見る。
「重要なのは、自分たちが何と何を交換したのか理解することだ」
第二週で扱った判断が、移動の中へ入っていた。
翌日から、訓練は少しずつ複雑になった。
志願兵たちは安全に管理された段差や壁を越え、狭い場所では身体を小さく使い、着地した後に周囲を確認する。速度を上げる前には必ず動作を分解して練習し、失敗した者を笑うことは禁止されていた。
特にレイブンが厳しく見たのは、無理を隠す行為だった。
ある志願兵が着地した直後、ほんの僅かに片足を庇った。
そのまま次へ進もうとする。
「止まれ」
レイブンの声が飛んだ。
志願兵が振り返る。
「痛めた?」
「大丈夫です」
「質問に答えてない。痛めた?」
数秒の沈黙のあと、志願兵は頷いた。
「少し違和感があります」
「Sage――」
名前を呼びかけたところで、レイブンは自分で止まった。
今日の医療監督はSageではない。
長年の癖だった。
Houndが横で笑う。
「WOLF PACKじゃないぞ、教官殿」
「分かってる」
レイブンは待機していた衛生担当を呼び、志願兵を確認させた。
重大な負傷ではなかった。
だが、その日の高負荷訓練からは外された。
「教官、続けられます」
本人が訴える。
「知ってる」
「なら――」
「続けられることと、続けるべきことは同じじゃない」
レイブンは穏やかに答えた。
「今日無理をして悪化させたら、明日以降の訓練まで失う。十三週間あるんだ。一日の記録を守るために残りを捨てるな」
志願兵は悔しそうだった。
「休むのも訓練だと思えとは言わない。ただ、自分の状態を班へ伝えるのは第一週から教えてるだろ」
「……はい」
「なら使え」
その志願兵は監督側から班の動きを観察することになった。
ところが、それが思わぬ結果を生んだ。
外から見ることで、自分が参加していた時には気づかなかった班の癖が見えたのである。
速い者が前へ出過ぎる。
後方の報告が前へ届くまでに時間がかかる。
障害物を越えること自体に集中し、その直後の周囲確認が遅れる。
訓練終了後、本人がそれを班員へ伝えると、レイブンは何も付け加えなかった。
教官が言うより、その方がよく伝わると判断したからだった。
第五週の中盤になると、訓練用火器が戻ってきた。
ただし射撃が主役ではない。
志願兵たちは移動し、止まり、状況を確認し、安全な条件が整った時だけ訓練用火器を使用する。
移動中に何かを見つけても、無理な姿勢のまま反応する必要はない。
まず身体を安定させる。
仲間の位置を見る。
必要なら場所を変える。
そして、撃つべきなのかを判断する。
ある班では、先頭の志願兵が訓練目標を見つけた瞬間に動きを止めた。
後ろの仲間も次々に止まる。
ところが最後尾だけは、何が起きたのか分からない。
「前、どうした?」
返事が来るまで僅かな時間がかかった。
その間に、先頭の志願兵が気づいた。
「伝わってない」
班長役がすぐ後方へ情報を送る。
第四週で学んだことだった。
全員が同じ景色を見ているとは限らない。
地形が加われば、その差はさらに大きくなる。
レイブンは訓練を止めなかった。
班は自分たちで修正し、移動を再開した。
課題を終えたところで、Houndが志願兵たちへ声を掛けた。
「どうだった?」
「思ったより、動きながら話せません」
一人が答えた。
「だろうな」
「止まっている時なら分かるんです。でも走った後だと息も上がるし、周囲も見なきゃいけないし……」
「そこが今日の課題だ」
レイブンが続ける。
「今までできていたことが、身体を動かしただけでできなくなる。だから個別に覚えた技術を繋げる必要がある」
猫系亜人の志願兵が尋ねた。
「FICFというのは、そのためのものですか?」
レイブンは頷いた。
「そうだ。ただし、勘違いするな。FICFは派手な跳躍や格闘技の名前じゃない」
志願兵たちの前を歩きながら、レイブンは言葉を選んだ。
「世界中には、それぞれ違う身体の使い方がある。降下部隊が身につけてきた着地技術もあれば、転倒時に身体を守る受身もある。走る、跳ぶ、登る、障害物を越える技術もあるし、立った状態だけを前提にしない格闘術もある。それらを一つの流派に塗り替えるんじゃない」
レイブンは訓練区画を見る。
「必要な原理を研究して、状況に応じて繋げる。走った先で止まって戦闘を始めるんじゃなく、走っている時から判断は続いている。着地した瞬間も、起き上がる途中も、仲間を助けている時も同じだ。それがFICFの基本になる」
「では、最終的にはFENRIRと同じ動きを?」
「この十三週間では無理だ」
即答だった。
「FICFはFENRIRの高等戦闘訓練体系だ。お前たちが今やっているのは、その入口になる基礎だと思え」
Houndが頷いた。
「そこを飛ばして完成形だけ真似すると怪我するからな」
「それに、完成形なんてない」
レイブンが言った。
Houndが見る。
「ないのか?」
「相手も地形も装備も身体も変わるんだぞ。固定した一つの動きが完成形になるわけないだろ」
「確かに」
志願兵たちはその会話を聞きながら、自分たちが今週繰り返してきた動きを思い返していた。
走り方一つを全員同じにはしていない。
障害物の越え方も違う。
身体の大きい者が有利な場所もあれば、小柄な者が通りやすい場所もある。
重要なのは、自分ができる方法を知り、それを班全体の動きへ組み込むことだった。
第五週の最終日、志願兵たちはこれまでで最も広い複合区画へ入った。
今回は最初から終点まで、教官側が細かな動きを指定しない。
班ごとに経路を選ぶ。
途中で状況が変わる。
予定していた通路が使えなくなれば別の道を探し、班員の一人が模擬的に行動制限を受ければ、残る者で移動方法を組み直す。
最初の数週間なら、そのたびに止まって教官を探していた。
今は班内で声が飛ぶ。
できる者が先に確認する。
遅れている者へ手を貸す。
自分だけ通れる場所なら、他の経路を探す。
得た情報を前後へ伝える。
SmartARも使うが、表示だけに視線を固定しない。
そして、必要のない訓練目標にまで反応して時間を失わない。
最速で終点へ到着した班はなかった。
正確には、レイブンが最速記録そのものを設定していなかった。
すべての班が戻ったあと、志願兵たちは疲労した身体を休ませながら教官の前へ集まった。
「今日、一番速かった班を知りたい奴は?」
何人かが顔を上げる。
「教えない」
不満そうな空気が広がった。
Houndが笑う。
「聞いといてそれかよ」
「今日は速度競争じゃないからな」
レイブンは志願兵たちを見る。
「それより、最初に立てた経路を最後まで一度も変えなかった班は?」
誰も手を上げない。
「それでいい」
一人が尋ねた。
「予定通りに進めなかったのに、ですか?」
「予定通りに進むことが目的じゃない。目的を達成するために予定を使うんだ。状況が変わったのに計画だけ守り続けたら、計画に部隊を合わせることになる」
レイブンは第五週の訓練区画を振り返った。
「身体の動きも同じだ。最初に決めた動作へ無理に自分を押し込むな。着地が崩れたなら立て直せ。通れないなら別の場所を探せ。仲間が遅れたなら班の動きを変えろ」
第一週から教えてきたことが、ここで再び一つへ繋がった。
自分を知る。
仲間を知る。
周囲を見る。
見えないものを伝える。
そして第五週では、それらを身体が動き続ける状況でも失わない。
レイブンは志願兵たちの顔を見る。
「来週から、もっと判断する時間を減らす」
疲れていた者たちの表情が固まった。
Houndが横からレイブンを見る。
「それ、今言う必要あったか?」
「心の準備ができるだろ」
「できるか?」
「たぶん」
「教官が『たぶん』って言うなよ」
志願兵の間から笑いが起こった。
レイブンも僅かに口元を緩める。
その中から一人が手を上げた。
「教官」
「何?」
「十三週目の旧市街でも、今日みたいな移動を使うんでしょうか」
またその質問だった。
だが、五週間前とは少し意味が変わっている。
彼らはもう、単純にレイブンをどう捕まえるかだけを考えていなかった。
「使うかどうかは、お前たちが決める」
レイブンは答えた。
「俺は『この動きを使え』とは指定しない」
「では、旧市街をどう進むかも?」
「自分たちで決めろ」
「教官は?」
「俺も自分で決める」
その答えを聞いた志願兵たちは、自然と訓練区画の建物へ視線を向けた。
十三週目の舞台となる旧市街は、今日よりはるかに複雑になる。
一本道ではない。
全員が同じ場所を通る必要もない。
そして、そこで対抗するレイブンも一か所に留まるとは限らない。
Houndが小さく呟いた。
「今のでまた考え始めたな」
「考えさせるために言った」
「やっぱり性格悪いぞ」
「教育だよ」
第五週の終了が告げられると、志願兵たちは宿舎へ戻っていった。
疲れてはいる。
それでも、第一週のように自分の記録だけを気にする者はほとんどいなかった。誰がどの障害を通りやすかったか、どこで班が詰まったのか、別の経路ならどうなっていたのかを話しながら歩いている。
レイブンはその背中を見送り、無人になりつつある訓練区画へ目を向けた。
FICFは、兵士を曲芸師にするための体系ではない。
移動のためだけに移動せず、戦うためだけに戦わず、生き残るためだけに立ち止まり続けもしない。地形と身体、装備、仲間、敵、そして次の判断を途切れさせないための考え方だった。
志願兵たちは、まだその入口に立っただけだ。
だが五週間前には別々だった動作と判断が、少しずつ一つの流れへ変わり始めている。
十三週間の訓練課程は、ここで五週を終えた。
残る八週間でレイブンが見ようとしているのは、彼らがどれほど速く動けるようになるかではない。
状況が動き続けても、自分たちで考えることを止めない兵士になれるかどうかだった。




