Season 8「継ぐ者、見守る者」 #159
第159話「第一週――自分を知る」
新教育課程の初日、志願兵たちが最初に渡されたものは銃でも防具でもなかった。
訓練場の脇に設けられた教室へ移動した彼らの机に置かれていたのは、一人につき数枚の記録用紙だった。氏名や年齢、出身地といった一般的な項目の下には、これまで経験した訓練、扱ったことのある装備、魔力適性や身体的特性について記入する欄がある。そこまでは、多くの志願兵が想像していた範囲だった。
彼らの手が止まったのは、その先だった。
自分が苦手だと思うこと。
恐怖を感じる状況。
助けを必要とする状況。
自分では判断できないと思うこと。
そして最後に、自分より優れていると思う同期の能力を一つ挙げ、その理由を書く欄まで用意されていた。
教室の前方に立つレイブンは、鉛筆の動きが一斉に鈍くなる様子を黙って見ていた。
「教官」
前方に座っていた犬系亜人の志願兵が手を上げた。
「質問を許可する」
「苦手なことを書く欄ですが、これは適性評価に使われるのでしょうか」
「使う」
志願兵の表情が硬くなった。
レイブンはそこで言葉を切らず、机の間をゆっくり歩きながら説明を続けた。
「ただし、不得意だから落とすためじゃない。本人が自覚している弱点と、実際の行動にどれくらい差があるのかを見るためだ。高所が苦手ならそう書け。閉所が苦手でも構わない。魔力操作が不得意なら隠すな。長距離走が遅いなら、それも今の状態として記録する。十三週間後に同じ評価をするから、その時に何が変わったかを見る」
「怖いものがない場合は?」
別の志願兵が尋ねた。
レイブンはその人物を見る。
「本当にないなら、そう書けばいい。ただし、まだ自分が何を怖がるのか知らない可能性は考えておけ」
教室が静かになる。
「恐怖そのものを恥じる必要はない。問題になるのは、怖くなった時に自分がどうなるのかを知らないことだ。身体が固まるのか、周囲が見えなくなるのか、逆に動き過ぎるのか。それが分かれば、仲間にも伝えられるし、対処を考えられる」
再び鉛筆が動き始めた。
レイブンは前へ戻り、教卓に腰を預けた。
彼自身にも、恐怖が消えたことなど一度もない。
戦場に長くいた者ほど恐怖しなくなるという話を、レイブンは信じていなかった。経験によって変わるのは恐怖の有無ではなく、それが生じた時に何を優先するかだった。自分の身体がどんな反応をするのかを知り、訓練で身につけた行動へ繋げる。それでも失敗することはあるし、経験したことのない状況に遭遇すれば判断が遅れることもある。
だから最初から、怖がらない兵士を作るつもりはなかった。
自分の状態を把握できる兵士を作る。
第一週の目的は、そこにあった。
記入が終わった後、志願兵たちは屋外へ戻された。
そこでも、すぐに射撃訓練が始まることはなかった。
基本的な身体能力を確認するための測定が行われ、走力、持久力、平衡感覚、視覚と聴覚、反応速度などが確認される。猫系亜人なら夜間視力や聴覚に優れる傾向があり、犬系亜人なら嗅覚が強い者もいる。しかし、種族だけで個人の能力を決めつけることはしない。同じ猫系亜人でも個人差はあり、人間種の中にも訓練によって優れた観察力を身につけた者がいる。
測定が進むにつれ、最初の自己申告との違いが見え始めた。
自分は足が速いと思っていた志願兵が中程度の記録に留まり、逆に体力に自信がないと書いた小柄な狐系亜人の志願兵が、一定の速度を長く維持する課題では上位に入った。
記録を見た志願兵たちの間から声が上がる。
「静かにしろとは言わない」
レイブンが告げた。
「気づいたことがあるなら話せ。自分の予想と違ったなら、その理由も考えろ」
狐系亜人の志願兵が、自分の記録を何度も見ていた。
「意外だったか?」
レイブンが近づく。
「はい。自分は体力がないと思っていました」
「どうして?」
「走るのが遅いので」
「速さと持久力は同じじゃない」
レイブンは記録端末の表示を指した。
「最初の加速は遅い。でも一定速度に入ってからほとんど落ちていない。自分の強みを一つ見落としてたな」
志願兵が自分の記録を見る。
「では、長距離移動では役に立てるということでしょうか」
「可能性はある。ただ、今日一回の数字で決めるな。体調でも変わるし、荷物を持てば結果も変わる。今分かったのは、少なくとも『自分には体力がない』と決めつけるには早かったってことだ」
「はい」
「覚えておけ」
レイブンは次の測定へ向かった。
第一週の三日目になると、個人測定から二人一組の課題へ移った。
内容そのものは単純だった。
限られた情報を二人で確認し、指定された地点へ到達する。速度を競うものではなく、終了後には自分が何を見て、相手が何を見ていたのかを互いに説明させる。
そこで、最初の大きな差が現れた。
能力の高い者同士を組ませても、必ずしも良い結果にはならなかった。
互いに自分の判断を優先して別々のものを見てしまう組がある一方、個々の記録では目立たなかった二人が、頻繁に短い確認を交わすことで安定した結果を残した。
課題終了後、レイブンは全員を集めた。
「一番速かった組は?」
二人が手を上げる。
「見落としは?」
補助教官が結果を読み上げる。
複数あった。
「じゃあ、最も見落としが少なかった組」
別の二人が手を上げる。
「到着時間は?」
最速ではない。
だが大きく遅れてもいなかった。
レイブンは全員を見る。
「どっちが正解だと思う?」
意見が分かれた。
速い方がいいと言う者もいれば、情報を見落とさない方を評価する者もいる。
レイブンはすぐに答えを示さなかった。
「状況による」
しばらく議論させたあとで、ようやく口を開いた。
「急がなければ誰かが死ぬなら速度を優先することもある。逆に、一つの見落としが班全体を危険に晒すなら慎重さが必要になる。だから『いつでも速い方が正しい』『いつでも慎重な方が正しい』とは教えない」
志願兵たちは聞いている。
「重要なのは、自分たちが何を優先しているのか理解していることだ。速く動くなら、その代わりに何を見落とす可能性があるのか考える。慎重に進むなら、その時間によって何を失う可能性があるのか考える。選んだ以上、結果まで引き受ける」
レイブンはそこで一度、訓練場を見渡した。
「十三週目、俺と向き合う時も同じだ」
空気が変わった。
最終日のエキシビションについて触れられると、志願兵たちの集中が一段上がる。
「俺を探すことに夢中になって、目的を忘れたら?」
誰も答えない。
「俺の勝ちだ」
レイブンは続ける。
「逆に俺の位置が分からなくても、お前たちが課題を達成すれば?」
今度は先ほどの犬系亜人が答えた。
「我々の勝ちですか」
「そうなる条件もある」
「条件は教えていただけないのですか?」
「今はな」
何人かが不満そうな顔をする。
レイブンはそれを見ていた。
「その顔は覚えておけ。情報が足りないと、人間は勝手に空白を埋めたくなる。十三週間後には、その癖も使う」
志願兵たちの視線が一斉に鋭くなった。
レイブンはわずかに笑った。
「楽しみにしてるよ」
第一週の五日目。
志願兵たちは、ようやく訓練用装備を身につけた。
ただし、射撃場へは向かわなかった。
与えられたのは基本装備一式で、それぞれ自分の身体に合わせて調整することから始める。UAES対応装備についても、装備側が身体へ適応するから何もしなくていいという考えは認められない。自動調整が正常か、自分の動きを妨げていないか、表示される情報と実際の感覚に違いがないかを本人が確かめる。
一人の志願兵がSmartARを起動したまま歩き、表示へ意識を取られて足元の障害物に気づくのが遅れた。
転倒する前に止まったが、レイブンはその場で全員を止めた。
「今、何が起きた?」
本人が答える。
「表示を見過ぎました」
「SmartARが悪い?」
「いえ。自分です」
「半分正解」
志願兵が顔を上げる。
「装備側の表示方法に問題がある可能性も確認する。人間が全部悪い、機械が全部悪い、どっちかに決めるな。使う側と作る側の両方が改善するために記録する」
レイブンは補助教官へ視線を送り、その時の表示情報を保存させた。
「それと、今転びかけたのは失敗として記録する」
志願兵の顔が強張る。
「ただし減点だけじゃない。自分から原因を申告したことも記録する」
「……はい」
「隠した方が問題だからな」
夕方、第一週最後の訓練を終えた志願兵たちは、再び最初の教室へ戻った。
五日前と同じ席。
同じ記録用紙。
レイブンは初日に書かせた自己評価を返した。
「読め」
紙をめくる音が教室を満たす。
わずか五日しか経っていない。
それでも、そこに書いた自分自身と、実際に測定された自分との間に違いを見つけた者は少なくなかった。
「書き直すんですか?」
誰かが尋ねる。
「まだ書き直さない」
レイブンは教卓の前に立った。
「間違っていても残す。それがお前たちが初日に自分をどう見ていたかという記録になる」
自分を過大評価していた者。
過小評価していた者。
得意だと思っていたものに穴があった者。
弱点だと思っていたものの中に、使い方次第では強みになる特性を見つけた者。
第一週だけで、それらすべてを理解できたわけではない。
「来週から少しずつ負荷を上げる」
志願兵たちの表情が引き締まる。
「身体だけじゃない。判断することが増える。装備も増える。見るものも増える。当然、失敗も増える」
レイブンは初日の記録用紙を持ち上げた。
「十三週目にこれをもう一度見る。その時、自分が初日に何を書いたか笑えるくらい変わっていればいい。ただし、自分を強いと思い込む方向に変わる必要はない」
教室の後方にいた志願兵が尋ねる。
「では、どうなればいいのでしょうか」
レイブンは少し考えてから答えた。
「自分に何ができて、何ができないのかを、今より正確に仲間へ伝えられるようになれ」
それだけ言って、第一週の訓練を終了した。
志願兵たちが退出したあと、レイブンは一人で記録を確認していた。
扉が開き、Houndが顔を出す。
「生きてるか、教官殿」
「まだ一週間だぞ」
「新兵じゃなくて、お前の方を聞いた」
「何で俺なんだよ」
Houndは空いている椅子へ座り、机いっぱいに並んだ記録を見る。
「全員分読むのか?」
「読む」
「今日中に?」
「そのつもり」
「十三週間持たないぞ」
レイブンが顔を上げる。
「父さんにも似たようなこと言われた気がする」
「ヴァルター教官が正しい」
「そこだけ意気投合するなよ」
Houndは一枚の記録を手に取ろうとして、レイブンに止められた。
「勝手に見るな。個人評価だ」
「はいはい」
Houndは手を引っ込める。
「で、どうなんだ。今年の志願兵は」
レイブンは即答しなかった。
窓の外では、訓練を終えた志願兵たちが宿舎へ戻っていく。
疲れて歩幅が小さくなった者もいれば、同期と今日の結果について話し込んでいる者もいる。初日に比べれば、互いの名前を呼ぶ声も増えていた。
「まだ分からない」
レイブンは答えた。
「一週間だからな」
「珍しいな。お前が評価を保留するの」
「だから十三週間あるんだろ」
レイブンは記録へ視線を戻した。
「最終日に俺を困らせるくらいにはなってもらわないと、わざわざ教官に戻った意味がない」
Houndが笑う。
「負けたら?」
「その時は俺が教えたことを、あいつらがちゃんと使えたってことだ」
「勝ったら?」
「終わったあと全員で反省会」
「どっちに転んでも逃がさないのか」
「教育だからな」
Houndは立ち上がり、扉へ向かった。
「ほどほどにしろよ、教官」
「お前も来週から手伝え」
Houndの足が止まった。
「……何を?」
「第二週から班行動を増やす。副教官が足りない」
「俺、志願してないぞ」
「さっき補助教官なら辞退したな」
「した」
「今回は協力要請」
「言い方変えただけじゃないか?」
レイブンはようやく顔を上げ、笑った。
「WOLF PACK副指揮官の経験、若い連中に還元してくれ」
Houndはしばらくレイブンを睨んでいたが、最後には諦めたように肩を落とした。
「……昼飯奢れよ」
「食堂でいい?」
「せめて外にしろ」
扉が閉まったあと、教室には再び静けさが戻った。
レイブンは一枚目の記録を開く。
十三週間のうち、まだ一週間しか終わっていない。
旧市街地での約束までは遠い。
だからこそ、急ぐ必要はなかった。
最終日に教官一人を追い詰めるために必要なのは、最初から強い志願兵を集めることではない。
自分を知り、隣にいる仲間を知るところから始める。
レイブンは赤字を入れる代わりに、最初の記録の余白へ短い質問を書き込んだ。
その答えを出すのは教官ではない。
次の十二週間を進む、志願兵たち自身だった。




