Season 8「継ぐ者、見守る者」 #158
第158話「十三週間の教官」
異界門を巡る騒動が終わり、エルネたちの生活がフェルガリアで動き始めた頃、レイブンのもとへ一通の正式辞令が届いた。
送り主はFENRIRではなかった。
軍教育総監部。
文面の冒頭に並ぶ形式的な文章を読み進めていたレイブンは、任命内容へ差しかかったところで目を止めた。
訓練教官への再就任。
期間は、次期志願兵教育課程の開始から修了まで。
「……また俺?」
執務室で呟くと、向かいに座っていたHoundが露骨に笑った。
「適任じゃないか」
「何が嬉しいんだよ」
「新兵たちの顔を想像してる」
「やめろ」
「NoXが教官として戻ってくるんだぞ。しかも現役のFENRIR指揮官だ。着任前から噂になる」
「余計な噂を流したら、お前も補助教官に入れるからな」
Houndの笑顔が止まった。
「それは職権乱用じゃないか?」
「志願制にするよ。今ここで志願する?」
「謹んで辞退する」
レイブンは辞令を机へ置いた。
ただし、今回の再就任は単純な教官復帰ではなかった。
教育総監部が求めているのは、旧来の課程をそのまま繰り返すことではない。長く軍教育の基礎に残っていたヴォルター時代の訓練体系を整理し、現在の戦場環境に適合した新しい志願兵教育課程へ置き換えることが、今回の任務には含まれていた。
レイブンは辞令の横に置かれた教育計画案を開いた。
そこには、これまで積み重ねられてきた訓練の記録が残っている。
古い体系が無意味だったわけではない。
むしろ、それによって生き残った兵士は多い。
だが、帝国と連邦共和国が正面から衝突することを前提に作られた教育体系と、異界戦争を経て多種族・魔導技術・SmartAR・複合部隊運用が当たり前になった現在では、兵士に求められる判断が違っていた。
レイブンは資料を閉じた。
「全部捨てるわけじゃない」
Houndが首を傾げる。
「ヴォルター式を廃止するんだろ?」
「制度としてはな。でも、使えるものまで捨てる必要はない。名前と形だけ残して、理由も分からず続ける方が危ない」
「じゃあ、どうする?」
レイブンは机上の新しい計画書を指で叩いた。
「十三週間にする」
「十三?」
「ああ」
志願兵を短期間で兵士らしく見せることだけを目的にしない。最初から完成された兵士を作ろうとも考えない。
十三週間で教えるのは、戦場へ出た時に自分が何を知らないのかを理解し、仲間と情報を共有し、状況が変わった時に命令の意味を考えながら動けるところまでだった。
射撃が上手いだけでは足りない。
身体能力だけでも足りない。
SmartARの表示だけを信じる兵士にもしたくない。
魔力反応を読めても、目の前の地形を見なくなれば意味がない。
逆に新技術を嫌い、経験だけを絶対視する兵士も現在の戦場では危うい。
「それで十三週間?」
「段階を踏ませる」
レイブンは新しい課程を見ながら答えた。
最初の期間では、志願兵として最低限必要な身体管理と規律、装備の扱い、負傷を避けるための基礎、安全確認、仲間との意思疎通を徹底する。そこから射撃や魔導装備、SmartARなどの各種装備へ進み、後半になるほど個人では解決できない課題を増やしていく。
途中からは、情報が欠ける。
指示が途中で変わる。
使える装備が限定される。
班の誰かが模擬的に行動不能になれば、その人物を置き去りにせず任務をどう組み替えるかを考えさせる。
ただ速く走れる兵士より、立ち止まるべき時に止まれる兵士を育てる。
最後まで、教官が答えを先に教えることはしない。
「父さんが聞いたら何て言うかな」
レイブンが呟く。
「怒るんじゃないか?」
「やっぱり?」
「最初はな」
Houndは少し考えた。
「そのあと全部読んで、文句言いながら赤入れる」
「ありそう」
レイブンは苦笑した。
その日の夕方、予想通りヴァルターへ計画書を持っていった。
父は居間の机で最初の数頁を読み、しばらく何も言わなかった。
「どう?」
「急かすな」
「もう十分読んだだろ」
「十三週間分あるんだぞ」
「全部今日読まなくても――」
「黙っていろ」
「はい」
かつて教官だった父の前では、年齢を重ねてもこの空気だけは変わらない。
ヴァルターは頁をめくり続けた。
「私の時代の課程を廃止するそうだな」
「制度としては」
「遠慮するな。古いから捨てると言えばいい」
「古いからじゃない」
レイブンの返事は早かった。
ヴァルターが顔を上げる。
「今の兵士が向き合う状況に、そのままでは合わないから変える。父さんたちが間違ってたって話じゃない」
「なら何が違う」
「昔は、ある程度は敵の形を想定できた。今は違う。相手が人間種とも限らないし、魔法を使うかもしれない。思念伝達みたいに既存の通信とは違うものだって出てきた。SmartARが使える状況もあれば、壊れる状況もある。味方の身体能力も装備も一律じゃない」
ヴァルターは黙って聞いていた。
「だから手順を覚えさせるだけじゃ足りない。なぜそうするのかを理解させたい。想定と違った時に、何もできなくなる兵士にはしたくない」
「それで判断力を教える、と」
「教えられるとは思ってない」
レイブンは首を振った。
「判断しなきゃいけない状況を作る。失敗できる訓練の中で、自分の判断が何を起こすのかを経験させる」
ヴァルターは再び計画書を見る。
「甘くしたつもりか?」
「全然」
「だろうな」
父の口元が僅かに動いた。
「昔より面倒だ」
「そう思う?」
「教官にとってはな。怒鳴って走らせるだけなら簡単だ。考えさせるなら、教官側がそれ以上に考えなければならん」
レイブンは少し笑った。
「だから嫌なんだよ」
「なら辞退するか?」
「しない」
「そう言うと思った」
ヴァルターは計画書の後半へ進んだ。
やがて最後の項目で手が止まる。
「これは何だ」
レイブンは視線だけで場所を確認した。
「最終日」
「読めば分かる。なぜお前一人なんだ」
そこに記されているのは、十三週間の訓練を終えた志願兵たちへ用意された最終エキシビションだった。
舞台は訓練用に管理されている旧市街地区画。
実弾を用いる戦闘ではない。
志願兵側は複数の班に分かれ、索敵と情報共有を行いながら、指定された模擬目標を探す。使用するのは訓練用判定機材と安全化された模擬爆弾で、課題達成までの過程そのものが評価対象となる。
そして対抗側は、一人。
レイブン・S・クロウ。
「一対多数の非対称戦をやる」
ヴァルターの眉が上がる。
「志願兵全員対お前か」
「ああ」
「勝たせるつもりは?」
「ある」
「本当に?」
「最初から勝てない訓練を約束してどうするんだよ」
レイブンは椅子へ座り直した。
「俺を倒すことだけが勝利条件じゃない。十三週間で学んだことを使って、俺に見つからずに目的を達成してもいい。俺の位置を突き止めて行動を制限してもいい。全員が同じ方向から追い回す必要もない」
「逆に、お前は?」
「探す。邪魔する。判断を崩す」
それ以上の細かな方法をレイブンは語らなかった。
エキシビションの目的は戦闘技術を誇示することではない。
志願兵たちが、自分たちより経験も能力も上の相手に対して、人数という優位を本当に優位として使えるかを見るためのものだった。
個人で追えば負ける。
互いの情報を信じなければ負ける。
SmartARに表示された情報だけを追えば、視野が狭くなる。
逆に疑ってばかりいれば動けない。
十三週間のすべてを、一つの状況へ持ち込ませる。
「それと」
レイブンが続けた。
「これは修了試験じゃない」
「ほう」
「第十三週まで到達した時点で正式な評価はほぼ終わってる。最終日はエキシビションだ。落とすためじゃない」
「では何のためだ」
「卒業する連中に、最後に教官を本気で困らせる機会をやる」
ヴァルターは数秒、息子の顔を見つめた。
そして低く笑った。
「なるほど」
「何?」
「お前らしい」
「褒めてる?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「性格が悪い」
「父さんに言われたくない」
ヴァルターは計画書を閉じた。
「やれ」
「いいの?」
「私の許可など必要ないだろう」
「元教官として聞いてる」
ヴァルターは少し考える。
「なら条件がある」
「何?」
「ヴォルター式を廃止するなら、名前だけ変えて同じものを作るな」
レイブンの表情から笑みが消えた。
「分かってる」
「兵士を壊して強くするという発想へ戻るな。壊れた者を戦場へ送り出しても、部隊の負担になるだけだ。厳しさと消耗を混同するな」
レイブンは父の言葉を黙って受け止めた。
ヴァルター自身が、旧い軍教育の中を生きてきた。
だからこそ、その限界も知っている。
「覚えておく」
「覚えるだけでは足りん。教官なら実行しろ」
「ああ」
数日後。
新しい志願兵教育課程の初日を迎えた。
朝の訓練場には、さまざまな出自の志願兵たちが整列していた。
人間種。
猫系亜人。
犬系亜人。
狐系亜人。
その他にも身体的特徴の異なる者がいる。
体格も違う。
魔力適性も違う。
これまでに受けた教育も違う。
それでも今日からは、同じ十三週間を進む。
ざわめきが止まったのは、黒い猫耳を持つ教官が訓練場へ現れた時だった。
レイブンは彼らの前まで歩き、整列した志願兵を見渡した。
誰かを威圧するために声を張り上げることはしなかった。
「レイブン・S・クロウだ」
静かな声が訓練場へ通る。
「今日から十三週間、お前たちの教育を担当する」
志願兵の中に緊張が走る。
NoXという名を知っている者もいるのだろう。
レイブンは気にしなかった。
「最初に言っておく。ここでは、失敗することを禁止しない」
何人かの表情が変わった。
「ただし、失敗した理由を考えず、同じことを繰り返すのは許さない。分からないことを分かったふりするのも同じだ。装備が分からなければ聞け。指示の意味が分からなければ確認しろ。身体に異常があれば申告しろ。黙って倒れることを根性とは呼ばない」
訓練場は静かだった。
「十三週間で、お前たちを英雄にするつもりはない」
レイブンは続ける。
「戦場で英雄になろうとするな。必要なのは、自分が何をするべきか考え、隣にいる仲間と一緒に帰ってこられる兵士だ」
最後列まで視線を送る。
「そのために走る。学ぶ。撃つ。失敗する。考え直す。また試す。それを十三週間続ける」
一人の志願兵が手を上げた。
「質問」
「はい、教官」
「どうぞ」
「最終日に、教官と戦うという話は本当でしょうか」
周囲が僅かにざわめいた。
もう広まっているらしい。
レイブンはため息をつきたくなったが、顔には出さなかった。
「本当だ」
今度ははっきり空気が変わった。
「十三週目の最終日。訓練用旧市街区画で、俺一人を対抗側とするエキシビションを行う」
志願兵たちは互いの顔を見る。
「お前たちは班を組み、索敵と情報共有を行いながら課題を達成する。訓練用の模擬爆弾を含む判定機材も使う。細かい条件は、その日まで教えない」
別の志願兵が思わず声を漏らす。
「教官一人対、俺たち全員……?」
「そうだ」
「倒せば勝ちですか?」
レイブンは少しだけ口元を上げた。
「十三週間後、それを自分たちで考えられるようになっていればいい」
志願兵たちの間に緊張と好奇心が混ざった。
レイブンはそれ以上、最終日のことを説明しなかった。
「ただし一つだけ約束する」
全員が彼を見る。
「俺も手は抜かない」
今度は誰も声を上げなかった。
レイブンは腕時計を確認する。
「さて」
最終日は十三週間後。
その時までに、この中の誰が速くなるかではない。
誰が最も上手く撃てるようになるかだけでもない。
互いを見ることができるか。
自分の判断を言葉にできるか。
間違いを認め、状況が変われば考えを変えられるか。
そして、自分だけではなく仲間と任務を終えられるか。
それを確かめる十三週間が始まる。
レイブンは志願兵たちへ向き直った。
「第一週を始める。まず、お前たち自身のことを教えてもらう」
誰かが予想外という顔をした。
レイブンはその反応を見ながら続けた。
「何ができるかだけじゃない。何ができないのかもだ。そこを知らないまま組んだ部隊は、最初から欠陥を抱える」
訓練場の端では、新しい教育課程の記録が開始されていた。
ヴォルター時代から受け継がれてきた訓練は、ここで制度として役目を終える。
その経験を捨てるのではなく、今の兵士たちが生きる時代へ合わせて組み直すために。
十三週間後、旧市街地で教官一人と志願兵たちが向き合うという約束だけを残して、新しい第一週の朝が動き始めた。




