Season 8「継ぐ者、見守る者」 #157
第157話「ここで暮らす」
フェルガリアの海を訪れてから数日後、帰還者たちの生活をめぐる話し合いが本格的に始まった。
これまで彼らに用意されていたのは、あくまで帰還直後の保護環境だった。医療施設を中心に寝床と食事が確保され、健康状態の確認と並行して言語や社会制度について説明を受けていたものの、それをいつまでも続けることはできない。危険がなくなったから追い出すという話ではなく、彼ら自身がこの世界でどんな生活を望むのかを決める時期が来ていた。
レイブンが会議室へ入った時、エルネはすでに窓際の席に座っていた。隣にはセイルとアーシェがおり、少し離れた席には彼らと一緒に帰還した者たちの姿もある。全員が同じ種族でも、同じ地域の出身でもない。異界で暮らしていたという一点では共通していても、そこで築いてきた人生はそれぞれ違っていた。
そのため、FENRIRが彼らを一括して扱うことはしなかった。
今日の席に軍服姿の者が少ないのも、そのためだった。
FENRIRから参加しているのはレイブンとルナ、それに連絡調整を担当する数名だけで、話し合いの中心にはフェルガリア側の生活支援担当者や行政関係者が座っている。
レイブンが席に着くと、エルネが小さく手を上げた。
「おはよう」
「おはよう。早いな」
「勉強した」
「挨拶を?」
「時間」
エルネが壁の時計を指す。
「遅れる、よくない」
「誰に教わった?」
「ルナ」
レイブンが妹を見る。
「そこはちゃんとしてるんだな」
「どういう意味?」
「別に」
「兄様?」
「会議始まるぞ」
レイブンは何事もなかったように前を向いた。
話し合いは、まず帰還者たちの希望を聞くところから始まった。
住居をどうするか。
誰と暮らしたいか。
どの地域を希望するか。
こちら側の言語教育をどこまで受けたいか。
将来的に働く意思があるか。
家族単位で暮らしたい者、共同生活を希望する者、一人で暮らすことに不安を感じる者もいる。
答えを急ぐ必要はないと何度も説明された。
それでも帰還者たちは真剣に話し合った。
彼らにとって住む場所を決めるという行為は、レイブンたちが考える以上に重い。
異界にいた頃、住む場所は安全性によって決まった。水があるか、食料が得られるか、危険な生物や敵対勢力から身を守れるか、移動する必要が生じた時に逃げられるか。好みより、生存できることが先にあった。
今は違う。
市場が近い方がいい。
静かな場所がいい。
海が見たい。
人が多いところは苦手だ。
畑を作りたい。
誰かと一緒に暮らしたい。
そんな理由で選んでもいい。
それを理解するまでに、帰還者たちには少し時間が必要だった。
「危険は?」
一人の帰還者が尋ねた。
まだこちら側の言葉を十分に話せないため、通訳を介して質問が伝えられる。
生活支援担当者が答えようとしたところで、その人物はレイブンを見た。
軍人として答えてほしいらしい。
レイブンは少し考えた。
「危険がない場所はない」
会議室が静かになる。
「でも、住む場所を決める時に敵襲を最初に考える必要はない。フェルガリアにも事故や犯罪はあるし、災害だって起こる。ただ、夜に交代で見張りを立てなきゃ眠れない場所じゃない」
通訳を介して言葉が伝わる。
「武器は?」
「普段の生活では必要ない」
その答えに、何人かが互いを見る。
レイブンには、その反応がよく分かった。
自分もかつて似た感覚を持っていた。
安全な場所へ戻ってきたはずなのに、武器を手の届かないところへ置くことに違和感があった。静かな夜ほど、何かを聞き逃しているように感じる時期もあった。
「すぐ慣れろとは言わないよ」
レイブンは続ける。
「眠れないなら相談すればいい。人の多い場所が苦手なら、それも言っていい。こっちの暮らし方に合わせるために、自分の感覚を全部捨てる必要はないから」
エルネがじっと聞いていた。
会議が進むと、仮住居の候補がいくつか提示された。
その一つに、フェルガリアの住宅区画があった。
港から少し離れ、商業地区へも公共交通で移動できる。帰還者支援の拠点にも比較的近く、言語教育や生活相談を受けやすい。
エルネがすぐ地図を見る。
先日、海辺で開いていたものより詳しい地図だった。
「海」
彼女が呟く。
ルナが隣から覗く。
「歩いてすぐって距離じゃないけど、行けるよ」
「市場?」
「こっち」
「レイブンの家?」
「それは――」
ルナが兄を見る。
レイブンが答える。
「車なら来られる」
エルネは地図を見つめた。
「ヴァルターも?」
「父さんのところにも行ける」
「セレナ?」
その言葉に、レイブンの表情が僅かに和らぐ。
「墓地にも行けるよ」
エルネは頷いた。
彼女の指がフェルガリアの住宅区画へ触れる。
「ここ、見たい」
「決める前に?」
「うん」
「その方がいい」
レイブンはすぐに同意した。
地図だけで暮らす場所を決める必要はない。
セイルも興味を示した。
アーシェは少し考えてから、エルネと同じ場所を見たいと答えた。
三人が必ず一緒に住むかどうかは、まだ決めない。
ただ少なくとも最初は、互いにすぐ会える距離にいたいらしい。
午後、候補地の見学が行われた。
今回はレイブンが先頭に立つことはなかった。
住宅担当者が案内し、エルネたちがその後ろを歩く。レイブンとルナは質問された時に答えられる位置にいるだけだった。
建物は特別豪華ではない。
中規模の集合住宅で、改修された部屋がいくつか用意されている。
エルネが最初に確認したのは窓だった。
開ける。
外の空気が入る。
「開く」
「普通は開くよ」
ルナが答える。
「医療施設、少ししか開かない」
「安全管理されてたからね」
エルネは窓の外を見る。
遠くに港湾施設の一部が見える。
海そのものは建物の間から僅かに見える程度だったが、それでも彼女には十分だったらしい。
「風、来る」
レイブンはその言葉を聞いて、何も言わず窓の外を見た。
異界で彼らが感じていた風とは違う。
誰かが境界の向こうから存在を伝えるためのものでもない。
開いた窓から普通に入ってくる、街の風だった。
セイルは台所へ興味を示した。
設備の使い方を説明されると、何度も確認している。
「セイル、料理するの?」
ルナが尋ねる。
エルネが通訳する。
返ってきた言葉を聞いて、エルネが笑った。
「自分の方がレイブンより上手って」
「何年前の俺と比較してるんだよ」
セイルが何か付け加える。
「今でも勝てるって」
「言ったな」
「兄様、張り合わないの」
「別に張り合ってない」
「顔が張り合ってる」
住宅担当者が事情を知らないまま笑いを堪えている。
アーシェは部屋の広さより、浴室や階段、休める場所を確認していた。身体は回復しているものの、まだ以前と同じようには動けない。自分の状態を無視して生活を決めようとしない姿を見て、レイブンは安心した。
見学を終えたあと、三人は建物の外にある小さな広場へ座った。
「どう?」
レイブンが尋ねる。
エルネはすぐには答えなかった。
「静か」
「ああ」
「でも、人いる」
「住宅地だからな」
「夜?」
「もっと静かになる」
「見張り?」
「いない」
エルネは少し不思議そうな顔をする。
「本当に?」
「警察や街の安全を守る仕組みはある。でも、住民が交代で武器を持って見張るような場所じゃない」
エルネは建物を見る。
「寝ていい?」
問い方は幼く聞こえたが、意味はそうではなかった。
レイブンは彼女の目を見て答える。
「寝ていいよ」
エルネはゆっくり息を吐いた。
隣でセイルが空を見上げる。
アーシェも背もたれへ身体を預けた。
ルナは何も言わず、三人と同じ方向を見ていた。
しばらくして、エルネが口を開く。
「ここにする」
レイブンは確認する。
「今日決めていいのか?」
「うん」
「他の場所も見られるぞ」
「見たら、迷う」
「迷ってもいいんだけどな」
「でも、ここ好き」
「理由は?」
エルネは少し考えた。
「海に行ける。市場に行ける。ルナも来る。レイブンも来る。エリシアも、リリアも、ルークも来る」
「父さんも?」
「ヴァルターも」
エルネは笑う。
「セイルとアーシェも近い」
レイブンは二人を見る。
セイルが頷く。
アーシェも頷いた。
「分かった」
レイブンはそれ以上、別の候補を勧めなかった。
住むのは彼らだ。
選んだのも彼らだ。
数日後、必要な手続きと最低限の準備が整った。
エルネたちは医療施設を完全に離れるわけではなく、しばらくは定期的な健康確認を受ける。それでも、寝起きする場所は自分たちの住居へ移ることになった。
引っ越しの日、WOLF PACKの面々まで顔を出した。
「何で全員いるんだよ」
レイブンが駐車場を見回す。
Houndが荷物を抱えながら答える。
「人手がいるだろ」
「大した荷物ないぞ」
「だったら早く終わる」
Grizzlyはすでに大きな箱を運んでいる。
Lynxは部屋番号を確認し、Hawkは窓から周囲を眺めていた。Cipherは生活用端末の初期設定について説明を受け、Sageはアーシェが無理に荷物を持たないよう目を光らせている。
「これ、部隊行動じゃないからな」
レイブンが言う。
「分かってる」
Houndは平然としている。
「休日だ」
「全員?」
「偶然だな」
「絶対嘘だろ」
エルネは彼らの会話を聞きながら、レイブンへ尋ねる。
「WOLF PACK?」
「ああ」
「みんな、友達?」
レイブンは答えようとして、少し考えた。
Houndが先に口を開く。
「戦友」
エルネが首を傾げる。
Houndは覚えたばかりの異界語らしい単語を使い、もう一度言った。
エルネの目が大きくなる。
そして笑った。
「家族?」
今度はHoundが困った顔をする。
「そこまで言われると照れるな」
「普段あれだけうるさいのに?」
Lynxが横から言う。
「うるさいは余計だろ」
部屋の中に笑いが広がった。
荷物そのものは多くなかった。
異界から持ち帰れた私物は限られている。
衣服や生活用品の大半はこちら側で用意されたものだ。
だからこそ、エルネは一つ一つを自分で置く場所を決めた。
食器。
服。
市場で初めて自分で買った小物。
フェルガリアの海で撮った写真。
ヴァルターの家で渡された、若いレイブンとルナが写る写真の複製。
最後の一枚を見つけたレイブンが顔をしかめる。
「父さん、本当に渡したのか」
「大事」
エルネが写真立てへ入れる。
「もっとまともな写真なかったの?」
「これ、好き」
「俺が子供の頃のやつじゃん」
「かわいい」
「それもういいから」
EINHERJARの勤務を終えてから合流したエリシアが、ちょうどその会話を聞いた。
「どの写真?」
「見なくていい」
「見せる」
「エルネ」
写真はレイブンの抵抗を無視してエリシアへ渡った。
しばらくして部屋に笑い声が響き、レイブンだけが納得のいかない顔で立っていた。
夕方には荷物も片づいた。
WOLF PACKの仲間たちが帰り、支援担当者も最後の説明を終えて建物を出る。
エリシアと双子も先に帰った。
ルナも翌朝の勤務があるため、玄関でエルネへ手を振る。
「何かあったら連絡して」
「うん」
「何もなくても連絡していいからね」
「うん」
「夜中に兄様へ電話してもいいよ」
「おい」
レイブンが振り返る。
「俺は?」
「兄様なら出るでしょ」
「出るけど」
「じゃあ問題ない」
ルナは満足そうに帰っていった。
最後に残ったレイブンも玄関へ向かう。
「端末の使い方は大丈夫?」
「大丈夫」
「鍵は?」
エルネが見せる。
「食事は?」
台所からセイルが何かを言った。
エルネが訳す。
「セイルが作る」
「それなら大丈夫そうだな」
「レイブン」
「ん?」
エルネが部屋を見回す。
「ここ、私たちの?」
「ああ」
「今日から?」
「今日から」
エルネは鍵を握った。
「帰る場所?」
レイブンは一瞬だけ黙った。
その言葉には、長い間まったく別の重さがあった。
紫色の空の下で、彼らが求め続けたもの。
遠い世界へ戻るために、何度も口にしたもの。
だが、もうその意味だけではない。
「そうだよ」
レイブンは答えた。
「ここがお前たちの家だ」
エルネがゆっくり笑う。
「ただいま、言える?」
「誰に?」
エルネはセイルとアーシェを見る。
二人もこちらを見ていた。
「みんなに」
「言えるだろ」
レイブンは玄関の外へ出る。
「じゃあ、俺は帰る」
「うん」
扉が閉まる直前、エルネが呼び止めた。
「レイブン」
「何?」
「また明日」
レイブンは少し驚いた。
これまで彼らの間では、別れる時の言葉にどこか重さがあった。
次に会える保証がなかった時代が長かったからだ。
今は違う。
「明日は仕事だよ」
「じゃあ、あとで」
「それでいい」
レイブンは笑った。
「またな」
扉が閉まった。
エルネはしばらく玄関を見ていた。
やがて鍵を掛ける。
セイルが台所から呼んでいる。
アーシェは窓辺で街の灯りを眺めていた。
エルネは靴を脱ぎ、部屋の奥へ戻る。
夕食を終え、夜が深くなった頃。
三人はそれぞれの寝床へ入った。
エルネはしばらく眠れなかった。
静かだった。
風が窓を揺らす。
遠くを車が通る。
建物のどこかで水の流れる音がする。
知らない音はまだ多い。
それでも、武器へ手を伸ばす必要はなかった。
見張りの交代時間を気にする必要もない。
夜明けまで誰かが起きている必要もない。
エルネは布団の中で目を閉じた。
今日、自分で鍵を受け取った。
自分で選んだ場所へ入り、自分で荷物を置いた。
明日になれば市場へ行ける。
海へも行ける。
レイブンたちに会いたければ連絡できる。
窓の向こうにはフェルガリアの夜が広がっていた。
紫色ではない空の下で、エルネは初めて、自分の意思で選んだ家の中で眠りについた。




