Season 8「継ぐ者、見守る者」 #156
第156話「普通の海へ」
フェルガリアへ出かける朝、レイブンは軍装ではなく、黒いシャツの上から薄手の上着を羽織って玄関に立っていた。
武器も防具もない。SmartARも任務用装備も持たず、ポケットに入っているのは財布と端末、それから子供たちに必要なものをまとめた小さな袋だけだった。軍人として見れば驚くほど軽い格好なのに、出発の直前になってから何かを忘れているような感覚が消えず、玄関脇に置いた荷物をもう一度確かめている。
「さっきから三回目よ」
後ろから聞こえたエリシアの声に、レイブンは振り返った。
「三回も見た?」
「見たわ。リリアの分もルークの分も入ってるし、私も確認したから大丈夫」
「予備は?」
「入ってる」
「飲み物は?」
「あるわ」
「着替え――」
「レイブン」
名前を呼ばれ、ようやくレイブンは口を閉じた。
エリシアも今日はValkyrieではない。普段着姿でルークを抱き、その隣では外出の準備を終えたリリアが母の服へ小さな手を伸ばしている。
「今日は作戦じゃないのよ」
「分かってる」
「なら、少しは私に任せて」
レイブンは荷物から手を離した。
「……了解」
「そこも軍人みたいに返事しなくていいの」
「癖なんだよ」
エリシアが笑う。
玄関を出たところで、すでに待っていたルナが二人を見た。
「遅い」
「予定時刻前だろ」
「父さんと同じこと言ってみたかっただけ」
「やめろ。二人に増えたら面倒だ」
「本人に言ってあげようか?」
「絶対言うなよ」
いつもの兄妹の会話を聞きながら、エリシアが小さく肩を揺らした。
待ち合わせはフェルガリアの中心部から少し離れた広場だった。
以前、異界帰還者たちが医療施設から外へ出た時には、周囲の警戒や健康状態の確認が付きまとっていた。今日は最低限の支援要員が離れた位置から同行するだけで、FENRIRによる警護作戦ではない。
エルネたちには、ただ街を歩く時間が与えられていた。
レイブンたちが到着すると、三人はすでに広場にいた。
アーシェは補助具を使っているが、足取りは以前よりかなり安定している。セイルは街を行き交う人々を観察し、エルネは店先に並ぶ品物へ目を奪われていた。
そこへルナが近づく。
「おはよう、エルネ」
「おはよう」
以前より発音が自然になっている。
「早いね」
「楽しみ、だった」
エルネはそう答えてから、レイブンの隣にいるエリシアへ気づいた。
「エリシア」
「おはよう」
さらに視線が下がる。
リリアとルーク。
エルネの顔が一気に明るくなった。
「二人も!」
「今日は家族で来た」
レイブンが答える。
「約束しただろ。帰るためじゃなくて、みんなで来るって」
エルネは何度も頷いた。
最初に向かったのは、フェルガリアの市場だった。
かつて国境に近い港として発展した街には、帝国系と連邦系だけでなく、周辺地域から流入した食文化や工芸品が入り混じっている。日抵協定以降は日本から入ってくる品も増え、同じ通りを歩いているだけで看板の文字や香りが何度も変わった。
エルネは数歩進むたびに足を止めた。
「これは?」
「パン」
「知ってる」
「じゃあ聞くなよ」
「この形、知らない」
「そっちか」
横ではセイルが焼き菓子の店から動かなくなっている。
アーシェが何か言うと、セイルは首を振る。さらにアーシェが言葉を重ねると、今度は明らかに不満そうな顔になった。
「何て言ってる?」
ルナがエルネに尋ねる。
「アーシェが、朝ごはん食べたから駄目って」
「別に一つくらいいいんじゃない?」
レイブンが口を挟むと、アーシェがこちら側の言葉を拾った。
「駄目」
「俺に言った?」
「レイブンも、駄目」
「俺は何も買ってないけど」
アーシェがレイブンの手を見る。
そこには、いつの間にか買った温かい焼き菓子があった。
ルナが吹き出す。
「いつ買ったの?」
「さっき」
「兄様、セイルより先に買ってるじゃん」
「俺は朝飯食べてから時間経ってるからいいだろ」
エリシアが隣から覗き込む。
「一口もらっていい?」
レイブンは少し考え、そのまま半分に割った。
「どうぞ」
「ありがとう」
セイルがその様子を見て、店を指差す。
アーシェを見る。
さらにレイブンとエリシアを見る。
何かを訴えるような顔だった。
「セイル、今のは交渉材料にならないと思う」
もちろん通じていない。
それでもエルネが笑いながら説明すると、最終的にはアーシェも折れた。
セイルが買った菓子を嬉しそうに食べ始める。
「何か、思ってたのと違うな」
レイブンが呟いた。
「何が?」
エリシアが尋ねる。
「向こうにいた頃、もっと落ち着いた奴だった気がする」
エルネが首を振った。
「昔から、これ」
「そうだった?」
「レイブン、周り見てなかった」
「そこまで余裕なかったんだよ」
エルネはそれ以上からかわなかった。
むしろ、その言葉を聞いて少しだけ表情を和らげた。
「今は、見てる」
レイブンもエルネを見る。
「ああ。今はな」
市場を抜ける頃には、エルネの手には小さな袋がいくつも増えていた。買い方そのものにまだ慣れていないため、最初はレイブンやルナが支払いを手伝っていたが、途中からはエルネ自身が店員とやり取りしようとするようになった。
言葉を間違えることもある。
通貨の単位を取り違えることもある。
それでも店員が待ってくれれば、エルネは自分で最後まで話した。
レイブンは横から答えを出さなかった。
必要になった時だけ助ける。
この世界で暮らすのは、レイブンではなくエルネ自身だからだった。
昼前、一行は港へ向かった。
そこから先は市場の喧騒が少しずつ遠ざかり、潮の匂いが濃くなる。
アーシェのために途中で何度か休憩を挟みながら歩き、やがて視界の先に海が広がった。
エルネが立ち止まった。
セイルも止まる。
アーシェは補助具へ身体を預けながら、静かに顔を上げた。
青い海だった。
門はない。
紫色の空もない。
海底から魔力光が立ち上ることもなければ、空間の向こうから誰かの思念が届くこともない。
ただ波が寄せている。
船が遠くを進み、海鳥がその上を飛んでいた。
「ここ……あの海?」
エルネが尋ねる。
「同じフェルガリアの海だよ」
レイブンが答える。
「でも、門があった場所とは少し離れてる」
エルネは水平線を見る。
「もう、何もない?」
「観測上はな。門も帰標石の反応も消えた」
「向こうも?」
レイブンは少し間を置いた。
「少なくとも、こちらと繋がる道はない」
エルネは頷いた。
以前なら、その言葉には寂しさが強く混じっていた。
今日は違った。
彼女は海を見ている。
過去への入口としてではなく、目の前にある景色として。
ルナが先へ歩いた。
「エルネ」
「何?」
「こっち」
堤防沿いの遊歩道を抜けると、砂浜へ降りられる場所がある。
ルナは靴を脱いだ。
「何する?」
「海に入る」
レイブンが後ろから声を掛ける。
「転ぶなよ」
「子供じゃないんだから」
「舟艇隊長が休日に波打ち際で転んだら部下に何て説明するんだ?」
「兄様が押したって言う」
「冤罪だろ」
ルナは笑いながら水際へ向かった。
エルネも靴を脱ぐ。
砂へ足を置いた瞬間、その感触が予想と違ったらしく立ち止まった。
「熱い」
「日が当たってるからな」
数歩進む。
今度は波が足元まで届いた。
「冷たい!」
エルネが飛び退く。
ルナが笑う。
「海なんだから冷たいよ」
「聞いてない!」
「言ってないからね」
「ルナ!」
二人が波打ち際で言い合う。
セイルも靴を脱いで続き、波を避けようとして逆に深いところへ踏み込んだ。アーシェはまだ砂浜を自由に歩けないため、エリシアとレイブンが近くの座れる場所へ案内した。
レイブンは子供たちを連れてその隣に腰を下ろす。
「行かないの?」
エリシアが尋ねる。
「俺?」
「みんな楽しそうよ」
「子供見てる」
「私もいるわよ」
「アーシェもいるし」
アーシェがこちら側の言葉を理解した。
「私、大丈夫」
「ほら」
エリシアが笑う。
「でも――」
「行ってきたら?」
レイブンは海を見る。
ルナとエルネがこちらへ手を振っている。
セイルは少し離れた場所で何かを拾っていた。
レイブンは立ち上がった。
「ちょっとだけ」
「ええ」
砂浜へ降りる。
靴を脱いで水際へ向かうと、ルナが待ち構えていた。
「遅い」
「だから子供を――」
言い終わる前に、水が飛んできた。
レイブンのズボンが濡れる。
沈黙した兄を見て、ルナが一歩下がった。
「……兄様?」
「やったな」
「待って。今のは事故」
「両手ですくって投げて事故は無理があるだろ」
「エルネ!」
ルナが逃げる。
レイブンが追う。
事情を理解したエルネまで笑いながら逃げ始めた。
セイルは最初こそ見ているだけだったが、ルナから何かを叫ばれた次の瞬間にはレイブンへ水を飛ばした。
「セイル、お前までそっちか!」
言葉は通じなくても声で意味は伝わる。
セイルが笑う。
レイブンも水を返した。
海辺に笑い声が広がった。
銃声ではない。
警報でもない。
誰かが負傷した声でもない。
ただ遊んでいるだけだった。
少し離れた場所で、エリシアがその光景を眺めている。
腕の中のリリアが海の方へ手を伸ばし、隣のルークも波音へ反応している。
「あなたたちのお父さんよ」
エリシアは小さく言った。
その頃にはレイブンも完全に濡れていた。
戻ってきた夫を見て、エリシアが笑う。
「ずいぶん楽しんだみたいね」
「俺が始めたんじゃない」
「兄様が本気になるからでしょ」
ルナも濡れている。
「先にやったのはお前だ」
「大人げない」
「お前も大人だろ」
エルネとセイルが笑いながら後ろにいる。
レイブンは持ってきたタオルで髪を拭いた。
「着替え持ってきて正解だった」
エリシアが言う。
レイブンの手が止まる。
「……朝、俺が確認してたやつ?」
「そう」
「確認してよかっただろ」
「濡れるつもりだったの?」
「違う」
「じゃあ偶然ね」
エリシアは楽しそうだった。
昼食は港を見渡せる場所で取った。
エルネたちは初めて見る料理に何度も質問し、ルナが答え、途中からエリシアも説明へ加わった。レイブンはリリアを抱きながら食事をし、時折ルークの様子も確認している。
エルネがその姿をじっと見ていた。
「何?」
レイブンが気づく。
「慣れた」
「何が?」
「レイブン、父」
「ようやく?」
エルネは笑った。
「少し」
「まだ少しかよ」
「向こうのレイブン、ずっと怖い顔」
「そんな顔してた?」
セイルとアーシェが同時に頷いた。
「三対一はずるいだろ」
ルナが横から加わる。
「私も知ってるから四対一」
「お前は味方じゃないの?」
「事実には公平です」
エリシアまで口元を押さえている。
「笑ってるだろ」
「ごめんなさい。でも、想像できるから」
レイブンは諦めて食事へ戻った。
午後になると、アーシェの疲労を考えて長い移動は避け、海の見える広場で過ごすことになった。
そこでエルネは、この世界へ来て初めて自分から地図を開いた。
「ここ、フェルガリア」
「ああ」
ルナが隣に座る。
「私たち、今ここ」
「そう」
「レイブンの家?」
ルナが地図上のおおよその方向を示す。
「この辺りの先。正確な場所は別だけど」
「ヴァルター?」
「また別」
エルネは地図を眺める。
以前の彼女にとって、この世界はレイブンとルナが帰っていった遠い場所でしかなかった。
今は違う。
フェルガリアがある。
医療施設がある。
レイブンたちの家がある。
ヴァルターの家がある。
セレナとヘレーネの墓がある。
市場があり、海があり、今日歩いた道がある。
「私たちの家は?」
エルネが尋ねた。
ルナが一瞬だけ黙る。
レイブンも聞いていた。
「これから決めるんだ」
レイブンが答えた。
「ずっと医療施設に住むわけじゃない。体調確認と手続きが済めば、生活する場所を選べるようにする」
「一緒?」
「エルネたちが望むなら、近くに住めるよう相談はできる。ただ、全員が同じ場所じゃなくてもいい」
エルネは考える。
「選べる?」
「ああ」
「私が?」
「お前が」
レイブンは地図へ手を伸ばさなかった。
代わりに、エルネ自身が見ている場所をそのまま見守った。
「帰ってきた先まで、誰かに決めてもらう必要はないよ」
エルネは地図へ目を落とす。
長い沈黙のあと、彼女の指がフェルガリアの街をなぞった。
「ここ、好き」
「十日ちょっとで決めるのは早くない?」
「海ある」
「それだけ?」
「みんな、いる」
その言葉にレイブンは返事を止めた。
ルナが微笑む。
「じゃあ、候補にしよう」
「うん」
夕暮れが近づく頃、一行は港へ戻った。
水平線が赤く染まり始める。
以前この場所には、もう一つの空が重なっていた。
紫色の向こう側にエルネが立ち、レイブンは境界を挟んで彼女の名を呼んだ。
今日は何も重ならない。
同じ側にいる。
エルネが海を見ながら、ぽつりと言った。
「レイブン」
「何?」
「海、怖くない」
レイブンは彼女の横へ立った。
「よかった」
「前は、道だった」
「帰るための?」
「うん」
エルネは波を見つめる。
「今は、海」
「ああ」
それ以上の説明はいらなかった。
門を探す必要のない海。
向こう側の反応を数える必要のない海。
誰が帰れて、誰が残っているのかを確かめなくていい海。
ルナが少し離れたところから二人を呼んだ。
「兄様、エルネ。帰るよ」
「分かった」
レイブンが答える。
エルネは海へ一度だけ振り返った。
別れを告げるような仕草ではなかった。
今日見た景色を覚えるように、静かに眺めただけだった。
「また来る?」
彼女が尋ねる。
「来ればいいだろ」
「門、ない」
「門なんてなくても来られる」
エルネが笑う。
「そっか」
レイブンも笑った。
「ああ。今度は普通に来ればいい」
帰り道、リリアとルークはすっかり眠っていた。
エリシアも静かに子供たちを見守り、ルナはエルネたちと今日撮った写真を確認している。
そこには武器を持った者が一人も写っていなかった。
海を背に笑うエルネ。
水を掛けられて顔をしかめるレイブン。
その横で笑うルナとセイル。
休憩場所で穏やかに座るアーシェ。
双子を抱くエリシア。
どれも戦史には残らない。
作戦報告書にも載らない。
それでよかった。
フェルガリアの街に灯りがともり始める。
異界から帰ってきた者たちにとって、この世界はもう単なる避難先ではなくなりつつあった。
そこには会いたい人がいて、また行きたい場所があり、自分で選べる明日がある。
そして海は、ようやくただの海になっていた。




