Season 8「継ぐ者、見守る者」 #155
第155話「会えなかった人へ」
ヴァルターの家を訪ねた翌日、エルネからレイブンへ連絡が入った。
こちら側の文字を覚え始めたばかりの彼女が送ってきた文章は短く、ところどころ不自然だった。それでも、何を望んでいるのかはすぐに分かった。
セレナに会いに行きたい。
昨日の帰り道で交わした約束を、エルネは翌日まで待つ必要すらないと思ったらしい。
レイブンはしばらく端末を見つめてから、仕事の予定を確認した。異界門を巡る緊急態勢はすでに解除され、WOLF PACKの勤務も通常体制へ戻りつつある。午前中に済ませるべき報告を終えれば、午後は時間を作れそうだった。
返信を入力しようとしたところで、もう一通届いた。
今度はセイルからだった。
文字ではない。エルネの端末を借りて撮影したらしい短い映像で、セイルがこちら側の言葉を慎重に発音している。
『俺も、行く』
その後ろからアーシェの声が聞こえた。
『私も』
映像の最後では、撮影しているエルネが笑っていた。
レイブンは小さく息を吐き、三人まとめて連れていくと返信した。
午後。
待ち合わせ場所へ着くと、ルナが先に来ていた。
「お前も行くの?」
「行くよ」
「今日は休み?」
「半休」
「取ったの?」
「兄様もでしょ」
「俺は勤務調整」
「似たようなものじゃん」
ルナはそう言いながら、手にしていた花を見せた。
白を基調にした小さな花束だった。
「母さんの分?」
「うん。それと、おばあちゃんにも」
レイブンは頷いた。
ヘレーネも、もういない。
エルネたちが帰還した時には、セレナもヘレーネも彼らを迎えることができなかった。
昨日、ヴァルターは会えた。
しかし、同じ家族でありながら会わせることのできない人もいる。
その事実を、エルネたちはこれから知ることになる。
ほどなくして三人が現れた。
アーシェは補助具を使っているものの、数日前より明らかに足取りが安定している。セイルが無意識に彼女の歩調へ合わせ、その隣をエルネが歩いていた。
エルネの手にも花があった。
こちらの店で買ったものらしい。
「それ、自分で選んだ?」
レイブンが尋ねる。
「うん」
「意味は聞いた?」
エルネは首を傾げた。
「意味?」
「花によって色々あるんだよ。まあ、今日は気にしなくていいけど」
ルナが兄を見る。
「兄様が花の意味とか気にするんだ」
「俺を何だと思ってる?」
「ショットガン」
「人間ですらなくなったぞ」
「黒猫系亜人だから、そもそも人間種じゃないし」
「そういう話じゃない」
二人の会話を聞いて、エルネが笑う。
セイルも最近では、言葉の内容を理解できなくても兄妹がいつもの調子で言い合っていることだけは分かるようになっていた。
墓地までは車で移動した。
街を離れるにつれて建物が減り、景色が静かになっていく。エルネたちは車窓を眺めていたが、今日は前回のように目に入るものを次々と尋ねることはなかった。
これから会いに行く相手が、墓の中にいる。
その意味を理解しているからだった。
墓地へ到着すると、レイブンはアーシェの歩調に合わせてゆっくり進んだ。先に行く必要はなく、誰かを急がせる理由もない。
やがて、クロウ家の墓前へ着く。
ルナが足を止めた。
「ここ」
エルネは墓標を見る。
「セレナ?」
「ああ」
レイブンが答える。
「母さんと、祖母さんが眠ってる」
エルネは昨日ヴァルターの家で見せてもらった写真を思い出したのだろう。墓標とレイブンの顔を交互に見てから、静かに前へ進んだ。
花を置く。
何を言えばいいのか分からないらしく、しばらく黙っていた。
レイブンも急かさなかった。
風が木々の葉を揺らしている。
セイルとアーシェも、それぞれ持ってきた花を供えた。
エルネがようやく口を開く。
「セレナ」
彼女はこちら側の言葉で話そうとして、途中で止まった。
「向こうの言葉でいいよ」
レイブンが言った。
エルネが振り返る。
「分からない」
「俺たちが全部分からなくてもいい」
ルナも頷いた。
「母さんに話すんだから」
エルネは墓前へ向き直った。
それから、異界の言葉で話し始めた。
レイブンはもう、そのすべてを理解することはできない。
だが単語はいくつか拾えた。
レイブン。
ルナ。
紫の空。
家。
帰る。
生きる。
エルネは何度か言葉を詰まらせながら、それでも長く話していた。
途中からセイルも加わった。
彼の話し方はエルネより短かったが、レイブンとルナの名前を何度も口にした。アーシェは静かな声で続き、最後には三人とも墓前へ頭を下げた。
レイブンは何も訳さなかった。
訳す必要もないと思った。
やがてエルネがこちらを向く。
「レイブン」
「うん?」
「少し……言って」
「何を?」
「セレナに」
エルネは自分の胸へ手を置いた。
「ちゃんと、帰したって」
レイブンは一瞬、返事を失った。
エルネが言いたいことは分かった。
自分たちは、あなたの子供たちを見捨てなかった。
二人が帰りたいと願っていたから、その願いを一緒に守った。
そして最後には、二人を元の世界へ送り出した。
レイブンは母の墓を見る。
「母さん」
声にすると、不思議なほど昔の距離へ戻る。
「俺とルナが向こうにいた時、この三人が一緒にいてくれた」
ルナが隣に立つ。
「食べ物も、寝る場所も、帰る方法も、みんなで探した。危ない時には助けてもらったし、俺たちも助けた。たぶん、どっちが守ったとか、そういう話じゃなかったんだと思う」
エルネが静かに聞いている。
「俺たちは二人だけで帰ってきたわけじゃなかった」
レイブンは花の置かれた墓前へ視線を落とした。
「だから、紹介する。エルネ、セイル、アーシェ。向こうでできた家族だ」
ルナが兄を見る。
エルネも、その言葉を理解した。
「家族」
「ああ」
レイブンは振り返る。
「昨日、自分で言っただろ」
エルネの目が潤む。
「言った」
「なら紹介としては間違ってない」
「うん」
ルナがエルネの隣へ移動した。
「母さん、たぶん喜んでるよ」
エルネが墓を見る。
「会いたかった」
「俺も会わせたかった」
レイブンは素直に答えた。
「母さんなら、お前たちが帰ってきたって聞いたら、まず食事を用意したと思う」
「それ絶対する」
ルナが笑う。
「そのあと兄様が向こうでちゃんと食べてたか聞いて、エルネたちの答え次第で兄様が怒られる」
「何で俺が怒られる前提なんだよ」
「だって母さんだよ?」
「……否定しにくいな」
エルネが二人を見る。
「セレナ、怖い?」
「怖くないよ」
レイブンが答えた。
「ただ、家族のことになると強い」
「強い?」
「父さんより強かったかも」
「兄様、それ父さんに聞かれたら怒られるよ」
「本人も否定しないと思う」
少しだけ空気が柔らかくなった。
その時、アーシェが墓標の隣に刻まれた名前へ目を向けた。
彼女が何か尋ねる。
エルネが聞き返し、やがてレイブンを見る。
「ヘレーネ?」
「祖母さん」
「レイブンの?」
「ああ。父さんの母親だ」
エルネはヘレーネの名前を見る。
「どんな人?」
レイブンは少し考えた。
祖母について語ろうとすると、一つの姿だけでは収まらない。
「手紙を残してくれた人だよ」
「手紙?」
「俺がまだ小さかった頃から、言葉を残してくれた。家族のことも、自分がどこから来たのかも、忘れないように」
ルナが墓前へ花を添える。
「おばあちゃんも、私たちが帰ってきた時はすごく喜んでた」
「エルネたちの話もした?」
レイブンは記憶を辿る。
「全部じゃない。でも、向こうで俺たちだけじゃなかったことは知ってた」
エルネは少し安心したように笑った。
「じゃあ、知ってる」
「ああ。名前までは知らなくてもな」
エルネはヘレーネにも頭を下げた。
墓地を出るまで、誰も急がなかった。
アーシェの体調を確認しながら休憩を挟み、木陰のベンチへ座る。
そこからは遠くの街が見えた。
エルネがその景色を眺めながら言う。
「レイブン」
「何?」
「死ぬって……こっちも同じ?」
「同じだよ」
レイブンは答えた。
「俺やルナみたいな例外はある。でも、それが普通じゃない」
エルネは少し考える。
「レイブン、ずっと生きる?」
「今のところはな」
「ルナも?」
「うん」
ルナが答える。
「エリシアも、リリアとルークも」
エルネは昨日会った双子を思い出したようだった。
「小さいのに?」
「普通に育つよ」
レイブンは説明する。
「最初から成長しないわけじゃない。俺たちの不老不死も、傷つかないって意味じゃないし」
「痛い?」
「普通に痛い」
「兄様は痛くても黙るけどね」
「今それ必要?」
「大事」
エルネは笑わなかった。
代わりに、少し寂しそうな目でレイブンを見る。
「じゃあ、みんな先にいなくなる?」
問いの意味は重かった。
レイブンは簡単な慰めを返さなかった。
「そうなる人もいる」
エルネは墓地の方を見る。
「セレナみたいに?」
「ああ」
「怖い?」
レイブンは考えた。
「怖いよ」
それを認めることに、もう抵抗はなかった。
「長く生きれば、見送ることも増える。母さんと祖母さんが亡くなって、それは分かった」
ルナも静かに聞いている。
「でも母さんに言われたんだ。死なないことと、生きることを同じにするなって」
エルネが顔を上げる。
「意味?」
「俺もまだ全部分かったとは言えない」
レイブンは遠くの街を見る。
「ただ、死なないからって何もしないで時間だけ過ごすのは、生きてることとは違うんだと思う。会える人には会うし、家族と飯を食うし、仕事もする。喧嘩もするし、仲直りもする。いつか別れるとしても、その間まで無くす必要はない」
エルネは長い間黙っていた。
やがて小さく頷く。
「なら、私も生きる」
「昨日も言ってたな」
「何回でも言う」
「それでいい」
セイルが二人の会話についていけず、エルネへ異界語で尋ねた。
エルネが説明すると、彼はしばらく考えたあと、こちら側の言葉を一つだけ選んだ。
「生きる」
アーシェも微笑む。
「私も」
ルナが笑った。
「じゃあ決まり」
レイブンは妹を見る。
「何が?」
「次は楽しいところに連れていこう」
「急だな」
「だって帰ってきてから病院、兄様の家、父さんの家、お墓だよ。そろそろ普通に遊んでもいいでしょ」
言われてみればその通りだった。
帰還してから彼らが触れてきたのは、検査や手続き、過去との再会ばかりだった。
「どこ行く?」
レイブンが尋ねる。
「フェルガリア」
「この前通っただろ」
「通っただけ。ちゃんと街を歩いてない」
ルナはエルネたちを見る。
「海も見せたい。門とか帰標石とか関係ない、普通の海」
エルネが「海」という言葉に反応した。
「行く」
「決まりだね」
「アーシェの体調次第だからな」
レイブンが念を押すと、アーシェが頷いた。
「無理、しない」
「よし」
「兄様もね」
「何で俺まで?」
「そこはセット」
レイブンは反論を諦めた。
帰り際、エルネはもう一度だけ墓地を振り返った。
「セレナ」
小さな声だった。
「ありがとう」
風が吹く。
木々が揺れ、その向こうにはこの世界の青い空が広がっていた。
返事はない。
それでもエルネは微笑んだ。
レイブンは何も言わず、彼女が再び歩き出すまで隣に立っていた。
その夜、レイブンが自宅へ戻ると、エリシアがリリアを抱いていた。ルークはすでに眠っている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「会えた?」
エリシアの問いに、レイブンは少しだけ考えてから頷いた。
「ああ。会わせてきた」
墓へ行っただけだと言うこともできた。
けれど、今日はそれでいいと思った。
エリシアがリリアを抱いたまま隣へ来る。
「エルネたちは?」
「次はフェルガリアへ遊びに行くって」
「遊びに?」
「ルナが決めた」
「いいんじゃない?」
「まあな」
レイブンは眠そうに目を動かす娘を見た。
異界の門は消えた。
帰還作戦も終わった。
もう誰かを救出するために紫色の空を追う必要はない。
だから次に彼らと向き合う時、そこに作戦名は必要なかった。
レイブンはリリアの小さな手へ指を差し出しながら、エリシアへ言った。
「次の休み、空いてる?」
「たぶん。どうして?」
「みんなで行こう」
「フェルガリア?」
「ああ」
リリアが父の指を握る。
レイブンはその小さな手を見ながら笑った。
「今度は、帰るためじゃなくてな」




