Season 8「継ぐ者、見守る者」 #154
第154話「父が待っていた人たち」
エルネたちがヴァルターを訪ねる日、空は朝からよく晴れていた。
異界門を巡る一連の騒動が終わってから、フェルガリア周辺では非常態勢が段階的に解除されていた。海底遺構については遠隔監視だけが継続されているものの、異界へ通じていた空間反応は再検出されていない。帰還者たちも医療施設の中だけで過ごす段階を終え、生活支援を受けながら少しずつこちらの世界へ触れ始めている。
その中で、レイブンが以前から約束していた訪問の日が来た。
「父さんの前で変な話するなよ」
車を降りる前、レイブンが念を押すと、隣に座っていたルナが露骨に眉を寄せた。
「変な話って何?」
「昔の俺の話」
「それのどこが変なの?」
「お前は分かってて言ってるだろ」
「父さんだって兄様の昔は知ってるよ」
「異界にいた頃は知らない」
「だから聞きたいんじゃない?」
レイブンは反論しかけたが、後部座席からエルネの笑い声が聞こえてきたため諦めた。
今日はエルネ、セイル、アーシェの三人が同行している。アーシェはまだ長距離を自由に歩ける状態ではないものの、医療側から短時間の外出許可は下りていた。体調が変わればすぐ戻れるように予定にも余裕を持たせている。
エルネは窓の向こうにある家を見つめた。
「ここ?」
「ああ」
「レイブンとルナの……父?」
「ヴァルター・クロウ」
ルナが答える。
「ちょっと怖い顔してるけど、怖くないよ」
「余計な説明をするな」
「でも教官だったでしょ?」
「だったじゃなくて、今でも教官みたいなこと言うだろ」
「それはそう」
兄妹の会話を聞きながら、エルネは少し緊張したように自分の服を整えた。
レイブンはそれに気づく。
「そんなに構えなくていい」
「でも、父」
「俺たちの父さんだぞ」
「だから」
エルネの返事を聞いて、レイブンはようやく彼女が何を気にしているのか理解した。
エルネたちは、異界でレイブンとルナを助けた。
だが同時に、二人がどれほど危険な日々を送っていたかも知っている。親の立場から見れば、聞きたいこともあるだろうし、知らなかった出来事を知れば感情を揺さぶられることもある。
「怒られないよ」
レイブンが言った。
「たぶん」
「兄様」
「冗談だよ」
ルナに睨まれ、レイブンは車を降りた。
玄関へ向かう途中で扉が開いた。
ヴァルターが立っていた。
以前より身体は細くなっている。失った右腕を魔力で再構築した名残もあり、歩き方には若い頃のような力強さはない。それでも背筋は伸びており、長年軍人と教官として生きた男の立ち姿は変わっていなかった。
「父さん」
「遅い」
レイブンが腕時計を見る。
「予定より五分早いけど」
「ならもっと早く来られただろう」
「何だよそれ」
「父さん、おはよう」
ルナが割って入る。
「ああ。よく来た」
ヴァルターの視線が、その後ろへ移った。
エルネ。
セイル。
アーシェ。
彼らも黙ってヴァルターを見る。
初めて会う。
だが、互いに相手の存在だけは知っていた。
ヴァルターはゆっくり玄関の外へ出た。
「レイブン」
「うん?」
「紹介してくれ」
レイブンは父の横へ立った。
「エルネ。向こうで最初の頃から俺たちと一緒にいた」
エルネが頭を下げる。
「エルネ……です」
「セイル。生存の仕方も、あっちの土地のことも色々教えてくれた」
セイルはまだこちら側の言葉を十分には話せない。レイブンを見てから、ヴァルターへ頭を下げた。
「それからアーシェ。思念伝達を含めて、俺たちが向こうで生きるのを助けてくれた一人」
アーシェも静かに頭を下げる。
「三人とも、俺とルナの仲間だ」
ヴァルターはしばらく三人を見ていた。
軍人が相手を値踏みするような視線ではなかった。
父親の目だった。
「ヴァルター・クロウだ」
低い声で名乗る。
「レイブンとルナの父親だ」
エルネが少し緊張しながら頷いた。
「知って、ます」
「そうか」
ヴァルターは何かを言おうとして、言葉を止めた。
レイブンが父を見る。
「父さん?」
「中へ入る前に、一つだけ言わせろ」
ヴァルターはエルネたちへ向き直った。
そして深く頭を下げた。
レイブンの目が見開かれる。
ルナも動かなかった。
幼い頃から知っている父。
教官として多くの兵士を叱り、戦場から右腕を失って帰ってきても弱音を吐かなかった男。
そのヴァルターが、三人へ頭を下げている。
「ありがとう」
静かな声だった。
「私が行くことのできなかった場所で、息子と娘を生かしてくれた」
エルネの表情が変わった。
「父さん……」
レイブンが声を掛けても、ヴァルターは顔を上げなかった。
「二人がいなくなった時、私は何もできなかった。軍歴があろうが、教官だろうが関係なかった。どこへ行ったのかさえ分からない子供を連れ戻す方法を、私は持っていなかった」
ようやく顔を上げる。
「それでも二人は帰ってきた」
ヴァルターの視線がエルネへ向かう。
「二人だけの力で帰ってきたのではないと、今なら分かる」
エルネが何かを言おうとする。
だが、こちら側の言葉が見つからない。
彼女は胸へ手を置き、ゆっくり首を振った。
「私たちも……助けられた」
ヴァルターが目を細める。
「レイブンと、ルナに?」
「うん」
エルネは異界語を混ぜながら、懸命に言葉を探した。
「一緒。助ける。一緒、生きる。一緒、帰りたい」
ルナの白い猫耳が僅かに伏せる。
エルネは続けた。
「だから……ありがとう、違う」
彼女は少し考え、ヴァルターを見る。
「家族、だった」
レイブンは息を止めた。
セイルが隣で頷いている。
アーシェも同じだった。
ヴァルターは長い間、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「そうか」
その一言には、父親としての安堵が滲んでいた。
「なら、なおさら中へ入れ」
ヴァルターが身体を横へずらす。
「客として立たせておく理由がなくなった」
エルネが意味を理解できず、レイブンを見る。
「入れってさ」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
ルナが横から付け加える。
「父さん、あれでもかなり喜んでる」
「ルナ」
「何?」
「余計な通訳をするな」
「だって分かりにくいんだもん」
ヴァルターが小さくため息をつき、エルネが笑った。
家の中には、すでに食事の用意がされていた。
レイブンはテーブルを見る。
「父さんが作ったの?」
「一部はな」
「大丈夫?」
「どういう意味だ」
「いや、昔の野営食みたいなの出てこないかなって」
「食いたいなら今から作ってやる」
「遠慮します」
ルナが笑い、エルネが「野営食」という単語だけ拾って興味を示した。
「レイブン、昔、料理?」
「その話はしなくていい」
「兄様は料理できるよ。ただ、異界にいた頃は食べられれば何でもよかっただけ」
「ルナ」
「事実でしょ」
ヴァルターが椅子へ座りながら息子を見る。
「お前、向こうで何を食っていた?」
「父さんまで乗らないでくれ」
それをきっかけに、異界での話が少しずつ始まった。
最初は言葉が足りなかった。
エルネがこちら側の言葉で説明し、足りない部分をレイブンとルナが覚えている異界語で補う。セイルが途中で訂正し、アーシェが身振りを加える。
ヴァルターは急かさなかった。
レイブンとルナが異界へ消えた最初の日。
目を覚ました時に見えた紫色の空。
知らない植物。
夜になると聞こえた生物の声。
言葉の通じない者同士が、最初は互いを警戒していたこと。
エルネたちと出会い、少しずつ意思を伝えられるようになったこと。
生きるために移動し、時には戦い、帰る方法を探し続けたこと。
ヴァルターは聞いていた。
途中で何度か質問したが、それは軍事的な詳細を知るためではなかった。
「その夜、二人は眠れたのか」
「食べ物は足りていたのか」
「ルナが熱を出した時、誰がそばにいた」
「レイブンが負傷した時は」
父親が知りたかったのは、戦闘の勝敗ではない。
自分がいなかった場所で、子供たちがどう生きていたのかだった。
レイブンはそれに気づいてから、話し方を変えた。
「最初の頃は、俺が夜中に何度も起きてた」
「兄様、ずっと武器持って寝てたよね」
「安全か分からなかったから」
エルネが頷く。
「レイブン、寝ない」
「寝てたよ」
「少し」
「エルネまで」
「それで?」
ヴァルターが尋ねる。
エルネが自分を指す。
「私、見張る。レイブン、寝る」
セイルも自分を指した。
「セイルも?」
ヴァルターが確認すると、セイルが頷く。
アーシェも手を上げた。
ヴァルターは三人を見た。
「そうか」
それだけだった。
だがレイブンには、その短い言葉に込められたものが分かった。
昼食を終える頃には、最初の緊張はほとんど消えていた。
アーシェは疲労を考えてソファで休み、セイルは窓から外を眺めている。ルナとエルネは古い写真を見つけ、ヴァルターが止めるより早く広げ始めていた。
「これ、兄様?」
「見るな」
ルナが持っているのは、レイブンが幼い頃の写真だった。
黒い猫耳の少年が、明らかに不機嫌そうな顔で写っている。
エルネが写真と現在のレイブンを交互に見る。
「小さい」
「子供なんだから当たり前だろ」
「かわいい」
「返せ」
レイブンが手を伸ばすと、ルナが写真を遠ざける。
「エリシアにも見せよう」
「絶対やめろ」
「もう見てるんじゃない?」
「どこまで見たか分からないだろ」
ヴァルターが何でもない顔で口を挟む。
「複製して渡してある」
「父さん?」
「孫が大きくなった時に必要だろう」
「何に必要なんだよ!」
エルネが笑い、セイルも振り返る。
アーシェまでソファから肩を震わせていた。
レイブンは額を押さえた。
「俺、今日来ない方がよかったんじゃない?」
「お前が連れてきたんだろう」
ヴァルターが淡々と返す。
その声音に、昔の家の空気が戻っていた。
午後になり、エルネたちが帰る時間が近づいた。
玄関へ向かう前、ヴァルターがエルネを呼び止めた。
「エルネ」
「はい」
「こちらで困ったことがあれば、レイブンかルナへ言え」
エルネが頷く。
「でも」
ヴァルターは続けた。
「二人に言いにくいことなら、私に言ってもいい」
レイブンが父を見る。
「父さん」
「何だ」
「それ、俺たちに言わない相談窓口を作ってない?」
「必要だろう」
「何で?」
「お前に相談できないこともある」
「例えば?」
「お前のことで困った時だ」
ルナが笑い出す。
「それ絶対必要」
「お前まで利用するなよ」
「もう使ってる」
「初耳なんだけど」
エルネは兄妹と父を順番に見たあと、笑った。
「ヴァルター」
「何だ」
「また、来る」
「ああ」
「今度……もっと話す」
「聞こう」
エルネは少し迷い、それからヴァルターへ近づいた。
異界での習慣なのか、それとも彼女自身のやり方なのか、胸へ手を当てて頭を下げる。
「レイブンとルナ、家族だった」
ヴァルターは黙って聞いた。
「今も?」
彼女が尋ねる。
ヴァルターの表情が僅かに緩む。
「本人たちが嫌でなければな」
「嫌じゃない」
エルネは即答した。
セイルとアーシェも頷く。
「なら、それでいい」
ヴァルターは答えた。
帰りの車で、エルネはしばらく外を眺めていた。
レイブンが運転席から声を掛ける。
「疲れた?」
「少し」
「父さん、質問多かっただろ」
「ううん」
「大丈夫だった?」
「嬉しい」
「何が?」
エルネは窓の外を見たまま答えた。
「レイブンとルナが、どうして帰りたかったか、分かった」
レイブンは前を向いたまま黙る。
「ヴァルターがいた」
ルナも後部座席から外を見ている。
「母さんもいたよ」
エルネがルナを見る。
「セレナ?」
「うん」
レイブンはハンドルを握る手に僅かに力を込めた。
「母さんにも会わせたかった」
エルネはその言葉の意味を理解した。
「いない?」
「ああ」
「……そう」
しばらく車内に静かな時間が流れた。
レイブンはそれを無理に埋めなかった。
やがてエルネが静かに言う。
「会いたい」
「母さんに?」
「うん」
「墓なら案内できる」
「行く」
ルナが頷いた。
「じゃあ次は一緒に行こう」
エルネは窓の向こうに流れる景色を見ながら、小さく返事をした。
レイブンもそれ以上は話さなかった。
異界から戻ってきた者たちに必要なのは、新しい世界を見ることだけではない。
自分たちが離れていた間に何が生まれ、何が失われ、誰が待ち続け、誰がもう待つことのできない場所へ行ったのか。それを少しずつ知り、自分たちの時間とこちら側の時間を結び直していく必要がある。
その日の夕方、ヴァルターは一人になった家で、古い写真を片づけていた。
幼いレイブン。
まだ小さかったルナ。
セレナ。
そして自分。
家族全員が同じ一枚に収まっている写真の前で、彼の手が止まる。
「帰ってきたぞ」
誰もいない部屋で、ヴァルターは静かに言った。
「二人を生かしてくれた連中が」
返事はない。
それでも、写真の中のセレナへ語りかける。
「ちゃんと礼は言った」
ヴァルターは写真を元の場所へ戻した。
その表情には、長く胸の奥へ残っていたものが、ようやく一つだけほどけたような穏やかさがあった。
レイブンとルナが帰還したあの日から、父として伝えられなかった感謝。
それは今日、ようやく届く相手へ届いたのだった。




