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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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154/189

Season 8「継ぐ者、見守る者」 #154

第154話「父が待っていた人たち」

 エルネたちがヴァルターを訪ねる日、空は朝からよく晴れていた。

 異界門を巡る一連の騒動が終わってから、フェルガリア周辺では非常態勢が段階的に解除されていた。海底遺構については遠隔監視だけが継続されているものの、異界へ通じていた空間反応は再検出されていない。帰還者たちも医療施設の中だけで過ごす段階を終え、生活支援を受けながら少しずつこちらの世界へ触れ始めている。

 その中で、レイブンが以前から約束していた訪問の日が来た。

「父さんの前で変な話するなよ」

 車を降りる前、レイブンが念を押すと、隣に座っていたルナが露骨に眉を寄せた。

「変な話って何?」

「昔の俺の話」

「それのどこが変なの?」

「お前は分かってて言ってるだろ」

「父さんだって兄様の昔は知ってるよ」

「異界にいた頃は知らない」

「だから聞きたいんじゃない?」

 レイブンは反論しかけたが、後部座席からエルネの笑い声が聞こえてきたため諦めた。

 今日はエルネ、セイル、アーシェの三人が同行している。アーシェはまだ長距離を自由に歩ける状態ではないものの、医療側から短時間の外出許可は下りていた。体調が変わればすぐ戻れるように予定にも余裕を持たせている。

 エルネは窓の向こうにある家を見つめた。

「ここ?」

「ああ」

「レイブンとルナの……父?」

「ヴァルター・クロウ」

 ルナが答える。

「ちょっと怖い顔してるけど、怖くないよ」

「余計な説明をするな」

「でも教官だったでしょ?」

「だったじゃなくて、今でも教官みたいなこと言うだろ」

「それはそう」

 兄妹の会話を聞きながら、エルネは少し緊張したように自分の服を整えた。

 レイブンはそれに気づく。

「そんなに構えなくていい」

「でも、父」

「俺たちの父さんだぞ」

「だから」

 エルネの返事を聞いて、レイブンはようやく彼女が何を気にしているのか理解した。

 エルネたちは、異界でレイブンとルナを助けた。

 だが同時に、二人がどれほど危険な日々を送っていたかも知っている。親の立場から見れば、聞きたいこともあるだろうし、知らなかった出来事を知れば感情を揺さぶられることもある。

「怒られないよ」

 レイブンが言った。

「たぶん」

「兄様」

「冗談だよ」

 ルナに睨まれ、レイブンは車を降りた。

 玄関へ向かう途中で扉が開いた。

 ヴァルターが立っていた。

 以前より身体は細くなっている。失った右腕を魔力で再構築した名残もあり、歩き方には若い頃のような力強さはない。それでも背筋は伸びており、長年軍人と教官として生きた男の立ち姿は変わっていなかった。

「父さん」

「遅い」

 レイブンが腕時計を見る。

「予定より五分早いけど」

「ならもっと早く来られただろう」

「何だよそれ」

「父さん、おはよう」

 ルナが割って入る。

「ああ。よく来た」

 ヴァルターの視線が、その後ろへ移った。

 エルネ。

 セイル。

 アーシェ。

 彼らも黙ってヴァルターを見る。

 初めて会う。

 だが、互いに相手の存在だけは知っていた。

 ヴァルターはゆっくり玄関の外へ出た。

「レイブン」

「うん?」

「紹介してくれ」

 レイブンは父の横へ立った。

「エルネ。向こうで最初の頃から俺たちと一緒にいた」

 エルネが頭を下げる。

「エルネ……です」

「セイル。生存の仕方も、あっちの土地のことも色々教えてくれた」

 セイルはまだこちら側の言葉を十分には話せない。レイブンを見てから、ヴァルターへ頭を下げた。

「それからアーシェ。思念伝達を含めて、俺たちが向こうで生きるのを助けてくれた一人」

 アーシェも静かに頭を下げる。

「三人とも、俺とルナの仲間だ」

 ヴァルターはしばらく三人を見ていた。

 軍人が相手を値踏みするような視線ではなかった。

 父親の目だった。

「ヴァルター・クロウだ」

 低い声で名乗る。

「レイブンとルナの父親だ」

 エルネが少し緊張しながら頷いた。

「知って、ます」

「そうか」

 ヴァルターは何かを言おうとして、言葉を止めた。

 レイブンが父を見る。

「父さん?」

「中へ入る前に、一つだけ言わせろ」

 ヴァルターはエルネたちへ向き直った。

 そして深く頭を下げた。

 レイブンの目が見開かれる。

 ルナも動かなかった。

 幼い頃から知っている父。

 教官として多くの兵士を叱り、戦場から右腕を失って帰ってきても弱音を吐かなかった男。

 そのヴァルターが、三人へ頭を下げている。

「ありがとう」

 静かな声だった。

「私が行くことのできなかった場所で、息子と娘を生かしてくれた」

 エルネの表情が変わった。

「父さん……」

 レイブンが声を掛けても、ヴァルターは顔を上げなかった。

「二人がいなくなった時、私は何もできなかった。軍歴があろうが、教官だろうが関係なかった。どこへ行ったのかさえ分からない子供を連れ戻す方法を、私は持っていなかった」

 ようやく顔を上げる。

「それでも二人は帰ってきた」

 ヴァルターの視線がエルネへ向かう。

「二人だけの力で帰ってきたのではないと、今なら分かる」

 エルネが何かを言おうとする。

 だが、こちら側の言葉が見つからない。

 彼女は胸へ手を置き、ゆっくり首を振った。

「私たちも……助けられた」

 ヴァルターが目を細める。

「レイブンと、ルナに?」

「うん」

 エルネは異界語を混ぜながら、懸命に言葉を探した。

「一緒。助ける。一緒、生きる。一緒、帰りたい」

 ルナの白い猫耳が僅かに伏せる。

 エルネは続けた。

「だから……ありがとう、違う」

 彼女は少し考え、ヴァルターを見る。

「家族、だった」

 レイブンは息を止めた。

 セイルが隣で頷いている。

 アーシェも同じだった。

 ヴァルターは長い間、何も言わなかった。

 やがて小さく息を吐く。

「そうか」

 その一言には、父親としての安堵が滲んでいた。

「なら、なおさら中へ入れ」

 ヴァルターが身体を横へずらす。

「客として立たせておく理由がなくなった」

 エルネが意味を理解できず、レイブンを見る。

「入れってさ」

「怒ってない?」

「怒ってないよ」

 ルナが横から付け加える。

「父さん、あれでもかなり喜んでる」

「ルナ」

「何?」

「余計な通訳をするな」

「だって分かりにくいんだもん」

 ヴァルターが小さくため息をつき、エルネが笑った。

 家の中には、すでに食事の用意がされていた。

 レイブンはテーブルを見る。

「父さんが作ったの?」

「一部はな」

「大丈夫?」

「どういう意味だ」

「いや、昔の野営食みたいなの出てこないかなって」

「食いたいなら今から作ってやる」

「遠慮します」

 ルナが笑い、エルネが「野営食」という単語だけ拾って興味を示した。

「レイブン、昔、料理?」

「その話はしなくていい」

「兄様は料理できるよ。ただ、異界にいた頃は食べられれば何でもよかっただけ」

「ルナ」

「事実でしょ」

 ヴァルターが椅子へ座りながら息子を見る。

「お前、向こうで何を食っていた?」

「父さんまで乗らないでくれ」

 それをきっかけに、異界での話が少しずつ始まった。

 最初は言葉が足りなかった。

 エルネがこちら側の言葉で説明し、足りない部分をレイブンとルナが覚えている異界語で補う。セイルが途中で訂正し、アーシェが身振りを加える。

 ヴァルターは急かさなかった。

 レイブンとルナが異界へ消えた最初の日。

 目を覚ました時に見えた紫色の空。

 知らない植物。

 夜になると聞こえた生物の声。

 言葉の通じない者同士が、最初は互いを警戒していたこと。

 エルネたちと出会い、少しずつ意思を伝えられるようになったこと。

 生きるために移動し、時には戦い、帰る方法を探し続けたこと。

 ヴァルターは聞いていた。

 途中で何度か質問したが、それは軍事的な詳細を知るためではなかった。

「その夜、二人は眠れたのか」

「食べ物は足りていたのか」

「ルナが熱を出した時、誰がそばにいた」

「レイブンが負傷した時は」

 父親が知りたかったのは、戦闘の勝敗ではない。

 自分がいなかった場所で、子供たちがどう生きていたのかだった。

 レイブンはそれに気づいてから、話し方を変えた。

「最初の頃は、俺が夜中に何度も起きてた」

「兄様、ずっと武器持って寝てたよね」

「安全か分からなかったから」

 エルネが頷く。

「レイブン、寝ない」

「寝てたよ」

「少し」

「エルネまで」

「それで?」

 ヴァルターが尋ねる。

 エルネが自分を指す。

「私、見張る。レイブン、寝る」

 セイルも自分を指した。

「セイルも?」

 ヴァルターが確認すると、セイルが頷く。

 アーシェも手を上げた。

 ヴァルターは三人を見た。

「そうか」

 それだけだった。

 だがレイブンには、その短い言葉に込められたものが分かった。

 昼食を終える頃には、最初の緊張はほとんど消えていた。

 アーシェは疲労を考えてソファで休み、セイルは窓から外を眺めている。ルナとエルネは古い写真を見つけ、ヴァルターが止めるより早く広げ始めていた。

「これ、兄様?」

「見るな」

 ルナが持っているのは、レイブンが幼い頃の写真だった。

 黒い猫耳の少年が、明らかに不機嫌そうな顔で写っている。

 エルネが写真と現在のレイブンを交互に見る。

「小さい」

「子供なんだから当たり前だろ」

「かわいい」

「返せ」

 レイブンが手を伸ばすと、ルナが写真を遠ざける。

「エリシアにも見せよう」

「絶対やめろ」

「もう見てるんじゃない?」

「どこまで見たか分からないだろ」

 ヴァルターが何でもない顔で口を挟む。

「複製して渡してある」

「父さん?」

「孫が大きくなった時に必要だろう」

「何に必要なんだよ!」

 エルネが笑い、セイルも振り返る。

 アーシェまでソファから肩を震わせていた。

 レイブンは額を押さえた。

「俺、今日来ない方がよかったんじゃない?」

「お前が連れてきたんだろう」

 ヴァルターが淡々と返す。

 その声音に、昔の家の空気が戻っていた。

 午後になり、エルネたちが帰る時間が近づいた。

 玄関へ向かう前、ヴァルターがエルネを呼び止めた。

「エルネ」

「はい」

「こちらで困ったことがあれば、レイブンかルナへ言え」

 エルネが頷く。

「でも」

 ヴァルターは続けた。

「二人に言いにくいことなら、私に言ってもいい」

 レイブンが父を見る。

「父さん」

「何だ」

「それ、俺たちに言わない相談窓口を作ってない?」

「必要だろう」

「何で?」

「お前に相談できないこともある」

「例えば?」

「お前のことで困った時だ」

 ルナが笑い出す。

「それ絶対必要」

「お前まで利用するなよ」

「もう使ってる」

「初耳なんだけど」

 エルネは兄妹と父を順番に見たあと、笑った。

「ヴァルター」

「何だ」

「また、来る」

「ああ」

「今度……もっと話す」

「聞こう」

 エルネは少し迷い、それからヴァルターへ近づいた。

 異界での習慣なのか、それとも彼女自身のやり方なのか、胸へ手を当てて頭を下げる。

「レイブンとルナ、家族だった」

 ヴァルターは黙って聞いた。

「今も?」

 彼女が尋ねる。

 ヴァルターの表情が僅かに緩む。

「本人たちが嫌でなければな」

「嫌じゃない」

 エルネは即答した。

 セイルとアーシェも頷く。

「なら、それでいい」

 ヴァルターは答えた。

 帰りの車で、エルネはしばらく外を眺めていた。

 レイブンが運転席から声を掛ける。

「疲れた?」

「少し」

「父さん、質問多かっただろ」

「ううん」

「大丈夫だった?」

「嬉しい」

「何が?」

 エルネは窓の外を見たまま答えた。

「レイブンとルナが、どうして帰りたかったか、分かった」

 レイブンは前を向いたまま黙る。

「ヴァルターがいた」

 ルナも後部座席から外を見ている。

「母さんもいたよ」

 エルネがルナを見る。

「セレナ?」

「うん」

 レイブンはハンドルを握る手に僅かに力を込めた。

「母さんにも会わせたかった」

 エルネはその言葉の意味を理解した。

「いない?」

「ああ」

「……そう」

 しばらく車内に静かな時間が流れた。

 レイブンはそれを無理に埋めなかった。

 やがてエルネが静かに言う。

「会いたい」

「母さんに?」

「うん」

「墓なら案内できる」

「行く」

 ルナが頷いた。

「じゃあ次は一緒に行こう」

 エルネは窓の向こうに流れる景色を見ながら、小さく返事をした。

 レイブンもそれ以上は話さなかった。

 異界から戻ってきた者たちに必要なのは、新しい世界を見ることだけではない。

 自分たちが離れていた間に何が生まれ、何が失われ、誰が待ち続け、誰がもう待つことのできない場所へ行ったのか。それを少しずつ知り、自分たちの時間とこちら側の時間を結び直していく必要がある。

 その日の夕方、ヴァルターは一人になった家で、古い写真を片づけていた。

 幼いレイブン。

 まだ小さかったルナ。

 セレナ。

 そして自分。

 家族全員が同じ一枚に収まっている写真の前で、彼の手が止まる。

「帰ってきたぞ」

 誰もいない部屋で、ヴァルターは静かに言った。

「二人を生かしてくれた連中が」

 返事はない。

 それでも、写真の中のセレナへ語りかける。

「ちゃんと礼は言った」

 ヴァルターは写真を元の場所へ戻した。

 その表情には、長く胸の奥へ残っていたものが、ようやく一つだけほどけたような穏やかさがあった。

 レイブンとルナが帰還したあの日から、父として伝えられなかった感謝。

 それは今日、ようやく届く相手へ届いたのだった。

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