Season 8「継ぐ者、見守る者」 #153
第153話「新しい家族へ」
異界からの帰還者たちに外出許可が下りたのは、門の崩壊から十日ほど経った頃だった。
アーシェはまだ長時間の歩行を避ける必要があったものの、生命状態は安定し、セイルとエルネにも異界由来の感染症や危険な魔力汚染は確認されていない。他の帰還者たちもフェルガリア側の生活環境へ少しずつ順応し始め、医療施設の中だけで過ごしていた日々から、街の空気に触れる段階へ移っていた。
その最初の訪問先として、エルネが希望した場所は観光地でもフェルガリアの中心街でもなかった。
「本当にうちでいいの?」
医療施設の玄関前でレイブンが尋ねると、エルネは迷うことなく頷いた。
「家族、会う」
「街とか見たくない?」
「あと」
「分かった」
レイブンはそれ以上勧めなかった。
今日はエルネ、セイル、アーシェの三人だけが同行する。他の帰還者たちは、それぞれの体調や希望に合わせて別の日程で外出することになっていた。アーシェについてはSageから長時間連れ回さないよう念を押されているため、途中で体調が変われば即座に戻る予定だった。
そして、もう一人。
「兄様、車そっちじゃないよ」
少し離れた場所からルナが呼んでいる。
「分かってる」
「今、反対行こうとしてた」
「考え事してただけ」
「緊張してる?」
「してない」
即答したレイブンを、ルナがじっと見る。
「してるね」
「お前は何で来たんだよ」
「私も家族だから」
「それは分かってるけど」
「それにエルネたちを案内できる人が必要でしょ」
「俺がいるだろ」
「兄様が緊張してるから」
「してないって」
そのやり取りを聞いていたエルネが笑っていた。
レイブンはそれに気づいて黙る。
「何?」
「同じ」
「何が?」
「レイブンとルナ」
「昔と?」
エルネは頷いた。
「変わった。でも、同じ」
ルナが得意そうに笑う。
「ほら」
「何でお前が勝った顔するんだよ」
久しぶりに聞く三人のやり取りを、セイルは半分呆れながら眺め、アーシェは小さく笑っていた。
車がフェルガリアを離れると、エルネたちは窓から外を見続けた。
道路を走る車。
遠くに見える列車。
送電設備。
住宅地。
店の看板。
信号が変わるたびに規則正しく動き出す人々。
戦場ではない。
避難路でもない。
誰かから逃げているわけでもない。
ただ、人が暮らしている。
エルネが窓へ顔を近づける。
「あれ、何?」
「信号」
「信号?」
「道を渡っていいか、車が進んでいいかを色で知らせるもの」
「魔法?」
「違う」
「SmartAR?」
「もっと違う」
後ろからルナが笑う。
「エルネ、何でも魔法にしちゃ駄目だよ」
「ルナも昔、こっちへ帰ってきた直後に自動ドアへ警戒してただろ」
「兄様!」
レイブンが笑う。
「武器構えかけたよな」
「構えてない!」
「腰に手を――」
「忘れて!」
エルネが楽しそうに二人を見る。
「自動ドア?」
「あとで教える」
「兄様!」
車内に笑い声が広がった。
セイルもアーシェも、詳しい意味は分からないまま笑っている。
レイブンはハンドルを握りながら、バックミラー越しにその光景を見た。
紫色の空の下では、こんな時間を想像できなかった。
当時は明日を生きるだけで精一杯だった。安全な場所を探し、食べるものを確保し、帰還の手掛かりを追い、危険があれば戦った。
今、同じ者たちが車の中で信号機について話している。
その違いが、妙に嬉しかった。
やがて車が住宅地へ入る。
「もうすぐ」
レイブンが告げると、エルネの姿勢が少し変わった。
「レイブンの家?」
「ああ」
「エリシア?」
「いる」
「子供?」
「いるよ」
エルネが急に黙った。
ルナが横を見る。
「緊張してる?」
「してない」
今度はレイブンが笑った。
「それ、さっき俺が言ったやつ」
エルネが困った顔をする。
車が止まる。
レイブンは降りて、三人が無理なく移動できることを確認してから玄関へ向かった。
鍵を開ける必要はなかった。
扉が先に開く。
「おかえりなさい」
エリシアが立っていた。
普段着姿だった。
Valkyrieとして戦場に立つ時の装備もなければ、EINHERJARの指揮官として見せる鋭さもない。家で夫を迎える時の、ごく自然な表情だった。
「ただいま」
レイブンが答える。
それから少し横へずれた。
「エリシア」
「ええ」
「紹介する」
エルネたちが玄関前で立ち止まっている。
レイブンはまずエルネを見る。
「エルネ。俺とルナが向こうにいた時、一緒に生きてた仲間」
続いてセイルとアーシェを紹介する。
エリシアは三人の顔を一人ずつ見たあと、ゆっくり頭を下げた。
「エリシア・L・クロウです」
エルネが覚えてきたこちら側の言葉を慎重に探す。
「エリシア……レイブンの、妻?」
「はい」
エルネがレイブンを見る。
レイブンは嫌な予感がした。
「何?」
「本当に?」
「本当にって何だよ」
ルナが吹き出した。
エリシアも笑いを堪えている。
「何で誰も信じないんだよ」
「レイブン、昔……」
エルネが言葉を探す。
「女の人、話す、苦手」
今度はエリシアが完全に笑った。
「エルネ」
「本当」
「それは今言わなくていいだろ」
「聞きたい」
エリシアがすぐに答える。
「エリシアまで乗るなよ」
「昔のあなたを知っている人なんでしょう?」
「そうだけど」
「だったら聞く権利くらいあると思う」
「何の権利だよ……」
ルナまで頷いている。
完全に味方がいない。
セイルとアーシェは会話を理解しきれていないが、レイブンが困っていることだけは分かったらしく笑っていた。
その時、家の奥から小さな声が聞こえた。
エルネの表情が変わる。
「子供?」
「ああ」
エリシアが振り返る。
「起きたみたい」
居間へ入る。
リリアとルークはそれぞれ安全な場所で横になっていた。
まだ幼い双子。
エルネは入口で止まった。
セイルもアーシェも、その後ろから覗き込む。
レイブンは双子のそばへ行くと、まずリリアを抱き上げた。
戦場で銃を扱う時とはまるで違う手つきだった。
「こっちがリリア」
エルネが瞬きをする。
「娘?」
「ああ。姉の方」
エリシアがルークを抱き上げる。
「こちらがルーク。弟です」
「双子」
「そう」
エルネはレイブンと子供を交互に見る。
何度見ても結びつかないらしい。
「レイブンが……父」
「まだ言う?」
ルナが笑う。
「私も最初ちょっと変な感じだったから分かるよ」
「お前まで何言ってるんだ」
「だって兄様だよ?」
「どういう意味?」
エリシアが笑いながら、ルークをあやしている。
エルネは少しずつリリアへ近づいた。
途中で止まる。
「触る?」
レイブンが尋ねる。
「いい?」
「手、出して」
エルネがおそるおそる手を差し出す。
レイブンはリリアを抱いたまま、その小さな手がエルネの指へ届く位置まで近づけた。
リリアの指が動く。
エルネの人差し指を握った。
エルネの身体が固まった。
「握った」
「握ったな」
「強い」
「意外とな」
エルネは動かない。
小さな指に掴まれたまま、ただリリアを見ている。
その目に涙が浮かんだ。
「どうした?」
レイブンが尋ねる。
エルネは首を振る。
「分からない」
「怖い?」
「違う」
少し考えてから、彼女は胸へ手を当てた。
「嬉しい」
レイブンは何も言わなかった。
エルネがこちらを見る。
「レイブン、生きた」
「ああ」
「帰って……生きた」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
異界から帰った。
それだけではない。
その後も生きた。
誰かを愛し、家族を持ち、子供が生まれた。
エルネが知らなかった時間の中で、レイブンの人生は続いていた。
「そうだな」
レイブンは静かに答えた。
「生きてたよ」
エルネは涙を拭いながら笑う。
「良かった」
少し離れたところで、セイルがルークを見ていた。
エリシアが気づく。
「抱いてみますか?」
言葉が通じず、セイルは首を傾げる。
ルナが身振りを交えながら説明する。
意味を理解した瞬間、セイルは猛烈な勢いで首を振った。
「怖い?」
ルナが聞く。
セイルは何度も頷く。
「壊す」
片言の一言に、全員が笑った。
「壊れないよ」
レイブンが言う。
「いや、お前が言うと説得力ないな」
Houndならそう言うだろうと考え、レイブンは自分で少し笑った。
エリシアは無理に渡そうとはしなかった。
「見るだけでも十分ですよ」
声の柔らかさが伝わったのか、セイルは安心したように頷いた。
昼食は、想像していた以上に賑やかになった。
エリシアが用意した料理へエルネたちが一つずつ反応し、食器の使い方で迷い、こちら側の調味料を試しては顔を見合わせる。
ルナは途中から完全に案内役を楽しんでいた。
「これは辛くないから大丈夫」
レイブンが横から口を挟む。
「お前の『辛くない』は信用するな」
「兄様よりは信用できるよ」
「俺は何もしてないだろ」
「昔、向こうで赤い実そのまま食べたじゃん」
「あれは食べられるってセイルが言ったから」
名前を呼ばれたセイルが顔を上げる。
エルネが事情を説明すると、彼は笑いながら何かを返した。
「何て?」
レイブンが聞く。
「セイル、『食べられるとは言った。辛くないとは言ってない』」
「今さらそれ言う?」
アーシェまで笑った。
エリシアは夫の知らなかった過去を聞きながら、楽しそうに耳を傾けている。
レイブンにとっては少し居心地が悪い。
それでも嫌ではなかった。
自分の人生の中で、これまで交わることのなかった二つの時間が、同じ食卓へ集まっている。
紫色の空の下で生きた時間。
この世界へ帰り、エリシアと歩いた時間。
その間に壁はもうなかった。
午後になり、アーシェが疲れを見せ始めると、誰も無理に予定を続けようとはしなかった。
帰る準備をする。
玄関前でエルネがエリシアへ向き直った。
「エリシア」
「はい」
「ありがとう」
「何がですか?」
エルネはレイブンを見る。
それから再びエリシアを見る。
「レイブン……一人じゃない」
エリシアの表情が静かに変わる。
エルネはまだ上手く言葉を組み立てられない。それでも伝えたいことは十分に伝わった。
「ええ」
エリシアは答えた。
「一人にはしません」
「私も」
エルネが言う。
「もう、いる」
エリシアは微笑んだ。
「それなら、もっと安心です」
レイブンは少し離れたところで二人を見ていた。
何となく自分の話をされているのが落ち着かない。
「俺本人いるんだけど」
ルナが兄の背中を軽く叩く。
「いいから黙ってて」
「何で?」
「こういう時はそういうものなの」
「意味分からない」
エルネが最後にリリアとルークを見る。
「また、来る?」
レイブンは頷いた。
「いつでも、とはまだ言えないけどな。体調と生活が落ち着いたら」
「来る」
「ああ」
「次、抱く」
エルネがリリアを見る。
「練習してからな」
「練習?」
「いや、どうやって練習するんだろう……」
レイブンが自分で言ってから悩み、エリシアが笑った。
三人を医療施設へ送り届けた帰り道、ルナは途中で自分の勤務先へ戻り、車内にはレイブン一人だけが残った。
静かになった車を走らせながら、レイブンは今日のことを思い返す。
エルネがリリアの指を握った時の顔。
ルークを抱くことを全力で拒否したセイル。
食卓で笑っていたアーシェ。
エリシアとエルネが、自分を挟むことなく話していた姿。
失われた時間は戻らない。
それでも、その続きを作ることはできる。
家へ戻ると、エリシアが双子を寝かしつけたところだった。
「どうだった?」
彼女が尋ねる。
「何が?」
「今日」
レイブンは少し考えた。
「変な感じだった」
「嫌だった?」
「逆」
上着を脱ぎながら、レイブンは居間を見る。
「ずっと別々だったものが、急に同じ場所にある感じ」
「昔の仲間と、今の家族?」
「ああ」
エリシアがレイブンの隣へ立つ。
「なら、そのうち普通になるわね」
「普通に?」
「エルネたちが家に来て、ルナも来て、あなたのお父様まで来て、みんなで食事するの」
レイブンはその光景を想像した。
「騒がしくない?」
「今さらでしょう」
「それもそうか」
双子の眠る場所から、小さな寝息が聞こえている。
レイブンはそちらへ目を向けた。
「父さんにも会わせる約束してる」
「だったら次はお父様ね」
「ああ」
レイブンは静かに頷いた。
ヴァルターには、エルネたちへ伝えたい言葉がある。
自分とルナがいなかった時間を知る父と、自分とルナが帰れなかった時間を知る仲間たち。
その二つが出会えば、今日とはまた違う話になるだろう。
レイブンは窓の外を見る。
夜空には、この世界の星だけがあった。
もう門はない。
異界へ続く道もない。
それでも、向こうで生まれた縁まで消えたわけではなかった。
むしろ門がなくなった今になって、その縁は初めて戦場でも帰還でもない場所へ根を下ろそうとしていた。
次にエルネたちを迎えるのは、異界の境界ではない。
父ヴァルターが待つ、クロウ家のもう一つの場所だった。




