Season 8「継ぐ者、見守る者」 #152
第152話「帰還の、その先へ」
異界へ続いていた門が崩壊してから三日が過ぎた。
フェルガリア沖では、その間もFENRIRによる監視が続いていた。海底に残った石造構造物は大半が崩れ、帰標石と呼ばれていた石板も、枝分かれして再び一つへ戻る紋様を残したまま割れている。魔力反応は観測限界に近いところまで低下し、地理座標の外側から届いていた反応も再び現れてはいない。
海は、何事もなかったかのように穏やかだった。
それでもFENRIRは、騒動が終わったという理由だけで監視を打ち切らなかった。海底の残骸は遠隔観測下に置かれ、旧港湾区にも測定機器が残されている。ただし部隊の規模はすでに縮小され、港湾側の制限区域も段階的に解除され始めていた。
レイブンがその朝に向かったのは沿岸指揮所ではなく、帰還者たちが滞在する医療施設だった。
建物へ入ると、Sageが廊下の奥から歩いてくる。
「ちょうどよかった」
「何かあった?」
「悪い方じゃない」
Sageは端末をレイブンへ見せた。
「アーシェが自力で起きられるようになった。まだ歩行は補助が必要だけど、状態は安定してる。セイルもエルネも順調。他の帰還者についても、今のところこちら側へ持ち込まれた未知の感染症や、危険な魔力汚染は確認されてない」
「全員?」
「全員」
レイブンは小さく息を吐いた。
「よかった」
「ただし、これで検査終了じゃないからね」
「分かってる」
「特にアーシェは消耗が大きかった。本人が動けると言っても止めること」
「俺に言う?」
「似た者同士だから」
「最近その扱い多くない?」
「自覚がないならもっと言う」
Sageはそう言って、次の診察へ向かった。
レイブンはしばらくその背中を見送ってから、帰還者用の居住区画へ進んだ。
以前まで存在していた隔離用の透明な仕切りは、一部が撤去されている。
窓際にはエルネがいた。
彼女はフェルガリアの街を眺めていた。
建物。
道路。
港を行き交う車両。
遠くを飛ぶ航空機。
エルネにとっては、そのすべてが見慣れない。
「おはよう」
レイブンが声を掛ける。
エルネが振り返った。
「レイブン」
「眠れた?」
「うん。でも、音が多い」
「街?」
エルネは頷く。
「夜も明るい。動くもの、多い」
「慣れるまで時間かかるだろうな」
レイブンも窓際へ立った。
フェルガリアは帝国でも連邦共和国でもない。
かつて両者の境界にあった土地は、長い戦争を経て、人と物と文化が行き交う場所になった。
レイブンにとっても、生まれた頃には存在しなかった街だ。
「俺も全部に慣れてるわけじゃないよ」
「レイブン、ここの人」
「今はな」
「昔は?」
「帝国」
エルネが彼を見る。
「帝国?」
「ああ」
レイブンは少し考えた。
「話すと長い」
「聞く」
「本当に長いぞ」
「時間、ある」
その返事に、レイブンは笑った。
「そうだったな」
二人が話しているところへ、セイルが姿を見せた。
まだ身体には疲労が残っているが、昨日より歩き方は安定している。
彼はレイブンを見ると、何かを思い出したように手を上げた。
「レイブン」
「おはよう、セイル」
「……おはよう」
こちら側の言葉を確かめるような発音だった。
エルネが教えたらしい。
「早いな」
レイブンが言うと、セイルは理解できずにエルネを見る。
二人が異界語で話し始める。
レイブンはその音を聞いているうちに、忘れていた単語が少しずつ戻ってくるのを感じた。
「それ、朝から起きてたって言ってる?」
エルネが驚いて振り返る。
「分かる?」
「少しだけ」
セイルが笑う。
そして異界語で何かを言った。
今度は分からない。
「……何て?」
エルネが笑いを堪える。
「昔より、頭悪くなったって」
「セイル」
レイブンが睨む。
言葉は通じなくても名前と表情で意味は伝わったらしく、セイルが声を上げて笑った。
その笑い声を聞きながら、レイブンはようやく実感した。
帰ってきた。
本当に。
記録でも、思念でも、紫色の向こうの影でもない。
ここにいる。
しばらくすると、奥の部屋から補助具を使ったアーシェが現れた。
付き添っていた医療要員がすぐ横にいる。
レイブンが反射的に近づこうとすると、アーシェが片手を上げた。
「……来ない」
「え?」
「自分、歩く」
片言のこちら側の言葉だった。
レイブンは足を止めた。
「無理するなよ」
「レイブン、言わない」
エルネとセイルが同時に笑った。
レイブンは二人を見る。
「何で三日でそこだけ共有されてるんだよ」
アーシェも意味を理解したらしく笑った。
異界にいた頃とは違う。
それでも、この距離感だけは不思議なほど早く戻ってくる。
アーシェが椅子へ座るまで待ってから、レイブンも向かいに腰を下ろした。
「全員帰ってきた」
エルネが静かに言った。
「ああ」
「門も、ない」
「ああ」
「向こう、もう行けない」
「そうなる」
エルネは窓の外を見る。
「寂しい?」
レイブンが尋ねる。
彼女はすぐには答えなかった。
「少し」
「そりゃそうだ」
「でも、怖くない」
「どうして?」
エルネはセイルとアーシェを見る。
「みんないる」
それからレイブンを見る。
「レイブンも。ルナも」
レイブンは頷いた。
「こっちでの生活は、これから考えよう」
「生活?」
「住む場所も必要だし、こっちの言葉も覚えないといけない。制度上の扱いも決める必要がある。向こうで使ってた技術や魔法がこっちでどう扱われるかも確認しないとな」
エルネが少し困った顔になる。
「難しい」
「俺もそう思う」
「レイブン、助ける?」
「ああ。ただし俺一人じゃない」
レイブンはそこで言葉を区切った。
「FENRIRだけでもない。フェルガリアの行政、医療、生活支援、それから必要なら日本側や他の協力機関にも手を借りる。お前たちが兵士になる必要もないし、俺の部隊へ入る必要もない」
エルネが彼を見る。
「戦わない?」
「戦いたい?」
エルネは首を振った。
「なら戦わなくていい」
その答えは迷わなかった。
「帰ってきたんだから、まず生きろ」
エルネはしばらくレイブンを見つめていた。
やがて小さく頷いた。
「生きる」
「ああ」
その日の午後、レイブンは一度自宅へ戻った。
玄関を開けると、いつもより靴が多い。
「ただいま」
「おかえりなさい」
エリシアの声が奥から返ってくる。
居間へ入ったレイブンは、そこにルナがいるのを見つけた。
「何でいるの?」
「休み」
「昨日まで海にいたから?」
「そう。強制休養」
ルナは不満そうに言った。
「兄様は?」
「今日は勤務扱い」
「ずるい」
「何が?」
エリシアが二人の間へ入る。
「兄妹喧嘩を始める前に、手を洗ってきて」
「喧嘩じゃないよ」
「いいから」
レイブンとルナは顔を見合わせ、黙って従った。
戻ってくると、リリアとルークがそれぞれ眠っている。
レイブンは自然に声を落とした。
「二人は?」
「さっき寝たところ」
エリシアが答える。
「エルネたちは?」
「アーシェも起きられるようになった。全員状態は安定してる」
「そう」
エリシアの表情が和らいだ。
「会えるのは?」
「もう少ししたら大丈夫だと思う」
ルナが身を乗り出す。
「エルネに兄様が結婚して子供二人いるって言ったら、すごい顔してたよ」
「お前が一気に言ったからだろ」
「でも事実でしょ」
「順番があるだろ」
エリシアが笑う。
「どんな顔だったの?」
「完全に止まってた」
「ルナ」
「だって本当だもん」
レイブンが呆れている横で、エリシアは楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、会うのが楽しみ」
「エルネも会いたがってる」
「私に?」
「お前と、リリアとルークに」
エリシアは一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、眠っている子供たちへ視線を向けた。
「なら、ちゃんと紹介して」
「ああ」
レイブンは答えた。
「俺が向こうで生きてた時の仲間に、今の家族を紹介したい」
エリシアは静かに頷いた。
夕方になると、ヴァルターから通信が入った。
レイブンは居間の端で応答する。
『終わったそうだな』
「ああ。門は崩壊した。残存反応も今のところない」
『全員は?』
「生きて帰った」
画面の向こうで、ヴァルターがゆっくり息を吐く。
『そうか』
「父さん」
『何だ』
「昔、俺とルナが消えた時、こんな感じだった?」
ヴァルターはしばらく答えなかった。
『もっと悪い』
「もっと?」
『どこにいるのかも、生きているのかも分からなかったからな』
「……そっか」
『今回のお前には、少なくとも待つ場所があった』
「ああ」
『それで十分だ』
レイブンは頷いた。
「今度連れていくよ」
『誰をだ』
「エルネたち。父さんにも会わせたい」
ヴァルターの眉が動いた。
『私に?』
「俺とルナが向こうで生きてた時の仲間だから」
少しの沈黙。
『そうか』
「嫌?」
『馬鹿を言え』
ヴァルターの声が少し低くなる。
『礼を言わなければならん』
「何の?」
『私が行けなかった場所で、息子と娘を生かしてくれた者たちにだ』
レイブンは返事をしなかった。
言葉が出なかった。
ヴァルターも、それ以上は言わない。
『日を決めたら連絡しろ』
「ああ」
『それと、セレナにも報告しておけ』
レイブンの表情が僅かに変わる。
「母さんに?」
『あいつなら聞きたがる』
「……分かった」
通信を終えたあと、レイブンはしばらく端末を持ったまま立っていた。
夜。
家族が眠ったあと、レイブンは一人で家の外へ出た。
空を見上げる。
紫ではない。
この世界の夜空だった。
ポケットには、セレナの墓へ持っていくつもりで用意した小さなメモが入っている。
書いたのは短い報告だけだった。
エルネたちが帰ってきたこと。
ルナも元気であること。
全員を生きて帰すことができたこと。
門を壊し、もう同じ場所へ誰かが迷い込まないようにしたこと。
そして、自分もちゃんと家へ戻ってきたこと。
翌日、レイブンとルナは母の墓を訪れた。
風は穏やかだった。
墓前へ花を置き、二人で並ぶ。
ルナが先に口を開く。
「母さん」
白い猫耳が風に揺れる。
「エルネたち、帰ってきたよ」
レイブンは隣で黙っていた。
「アーシェも生きてる。セイルもいる。向こうに残ってた人も、全員」
ルナは少し笑った。
「私たちが帰ってきた時みたいに、今度はこっちで迎えた」
レイブンは墓前へメモを置いた。
「母さん」
生きている時なら、もっと色々と言われただろう。
無茶をしなかったか。
ちゃんと食べたか。
エリシアを心配させなかったか。
父親なのだから自分の家にも帰ったのか。
そんな声が聞こえる気がした。
「全員帰ったよ」
レイブンは静かに続けた。
「俺も帰った」
ルナが兄を見る。
レイブンは母の墓を見たまま、僅かに笑った。
「だから今回は、怒られなくて済むと思う」
「どうかな」
「おい」
「母さんなら『帰ってくれば全部いいわけじゃありません』って言うよ」
「……言いそう」
二人は笑った。
墓地を抜ける風の中で、その笑い声だけが静かに残った。
異界への門はなくなった。
紫色の空へ戻る道もない。
けれど、それは誰かを失ったという意味ではなかった。
帰還した者たちは、これからこの世界で暮らしていく。
エルネたちには、この世界を知る時間が必要になる。レイブンたちにも、彼らが自分たちのいなかった年月をどう生きてきたのかを知る時間が必要だった。
再会は終着点ではない。
失われていた時間を無理に取り戻すのでもない。
互いに違う時間を生きた者たちが、もう一度同じ場所から歩き始める。
墓地を出る時、ルナが兄へ尋ねた。
「兄様」
「何?」
「次、エルネたちに何見せる?」
レイブンは少し考えた。
「まず家かな」
「兄様の?」
「ああ」
「エリシアとリリアとルーク?」
「そう」
ルナが笑った。
「エルネ、また固まりそう」
「だから今度は順番に紹介するんだよ」
「でも最初に『妻です』って言うんでしょ?」
「当たり前だろ」
「その次に双子」
「双子って言う前に名前から――」
兄妹の声が遠ざかっていく。
その先には、帰る家があった。
そして今度はそこへ、新しく「おかえり」と言える者たちを迎える時間が待っていた。




