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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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151/189

Season 8「継ぐ者、見守る者」 #151

第151話「最後の帰還者」

 閉じたはずの道が、再び反応を示したのは翌朝だった。

 夜を通してフェルガリア沖の海底石造構造物は沈黙に近い状態を保っていた。帰標石と推定されている石板の光は肉眼ではほとんど分からないほど弱まり、旧港湾区に現れた紫色の境界も消えている。それでも観測装置だけは、地理座標へ置くことのできない場所から届く微弱な反応を捉え続けていた。

 その反応が午前六時を過ぎた頃から、ゆっくりと強くなり始めた。

 緊急連絡を受けたレイブンが沿岸指揮所へ到着すると、すでにルナ、Cipher、Hawk、Sageが集まっていた。Houndは旧港湾区へ向かい、GrizzlyとLynxも周辺配置の確認に入っている。EINHERJARはエリシアの指揮下で第二線を担当し、海上ではルナの舟艇隊が交代要員による監視を続けていた。

「エルネたちは?」

 レイブンが最初に尋ねた。

「アーシェは治療継続中。生命状態は安定してる」

 Sageが答えた。

「エルネとセイル、それから昨日帰還した人たちも大きな異常は確認されてない。ただし隔離観察は継続する」

「話せる状態?」

「エルネなら」

「あとで聞く」

 レイブンは中央表示へ向き直った。

「まず向こうだ」

 Cipherが観測記録を開く。

「昨夜、経路が閉じた後も地理座標外反応は消失していませんでした。今朝から反応強度が上昇し、それに同期して海底側の魔力線が再活性化しています」

「こっちから何かした?」

「何も」

「旧港湾区は?」

「まだ反応なしです」

 ルナが画面を見る。

「向こうから繋ごうとしてる?」

「可能性はある」

 レイブンは答えた。

「でも決めつけない」

 以前なら、ここで焦っていた。

 向こうには取り残された者がいる。

 昨夜、道が閉じる直前まで帰ろうとしていた者たちだ。

 だからこそ急ぎたい。

 しかし一度の帰還で分かったこともある。

 道は無理に開くものではない。

 両側が互いの場所を見失わず、帰標石らしきものがその間を支えた時にだけ、二つの場所が近づいていく。

「昨日と同じ条件を再現しようとするな」

 レイブンが言った。

「自然に起きている反応を観測する。こっちから出力を加えるのは、向こうがこちらを見失ったと判断できる時だけだ」

 Cipherが頷いた。

「了解」

 午前七時十三分。

 海底の石板に光が戻った。

 その直後、旧港湾区でも弱い空間反応が検出された。

 レイブンたちは昨日と同じ配置へ移ったが、今回はエルネも医療側の許可を得て、接触地点から離れた観測区画へ入った。直接境界へ近づける状態ではない。それでも彼女がいれば、向こう側から来る者へ言葉を伝えられる可能性がある。

 旧港湾区へ到着したレイブンが振り返ると、エルネは防護区画の内側から海を見ていた。

「無理するなよ」

「大丈夫」

「昨日帰ってきたばかりだろ」

 エルネは少し笑う。

「レイブンに言われたくない」

 レイブンは言葉に詰まった。

 隣にいたHoundが肩を震わせる。

「笑うな」

「いや、異世界でも同じ扱いだったんだなと思って」

「黙れ」

 エルネは二人のやり取りを完全には理解できていないはずなのに、昔と同じように笑っていた。

 午前八時を過ぎると、旧港湾区の空気へ再び乾いた匂いが混じり始めた。

 潮風の向こうへ紫色が滲む。

 昨日と同じ場所。

 だが像は安定しない。

 紫色の空が見えたかと思えば消え、乾いた大地の輪郭だけが残る。

「向こう側反応、複数」

 Cipherが通信越しに報告する。

「接近しています」

「経路は?」

『形成中。昨日より変動が大きいです』

「エルネ」

 レイブンが振り返る。

「向こうに呼びかけられる?」

「できる」

「急がせないでくれ。出口があることだけ伝えて」

 エルネは頷いた。

 彼女が異界の言葉で呼びかける。

 最初は返事がない。

 それでも繰り返す。

 声が境界を越えて届いているのかは分からない。

 やがてレイブンの胸へ、弱い思念が触れた。

 見つけた。

 まだある。

 行く。

「届いてる」

 レイブンが言った。

 エルネの表情が明るくなる。

「来る?」

「ああ。たぶん」

 紫色の向こうに影が現れた。

 昨日より多い。

 互いを支えながら進んでいる。

 先頭にいる者が何度も後ろを振り返り、遅れている者を待っていることも分かった。

 レイブンはその姿を見ながら、無線を開いた。

「医療班、複数受け入れを維持。帰還した順番で確認する。ただし後続がいる間は接触地点を塞がない」

『了解』

「Hound、動線」

「確保済み。帰還者は右側へ流す。観測線には入れない」

「了解」

「Valkyrie」

『こちら』

「外周は?」

『問題なし。EINHERJARが維持してる』

「ありがとう」

『NoX』

「何?」

『最後まで迎えてきて』

 レイブンは境界を見る。

「ああ」

 午前九時過ぎ、最初の帰還者が姿を現した。

 昨日と同じように、身体の一部がフェルガリア側へ現れ、やがて全身が通常空間へ移る。倒れかけたところを医療要員が受け止め、確認を終えると速やかに後方へ移した。

 続いて次の者が来る。

 さらにその後ろからも。

 レイブンは人数を数えるより、向こう側の反応を見ていた。

 誰かが帰ってくるたびに喜びたい。

 だが、残っている者がいる間は終われない。

 昼を過ぎても帰還は続いた。

 道は何度か不安定になったが、そのたびにこちら側は余計な干渉を避け、向こう側も歩みを止めて安定を待った。必要な時だけエルネが呼びかけ、レイブンたちは出口が維持されていることを最小限の反応で知らせた。

 ルナは最後まで海上側の監視を離れなかった。

『兄様』

「どうした?」

『海底側の反応、また弱くなってる』

「速度は?」

『昨日よりゆっくり。でも確実に落ちてる』

「向こう側の残存反応は?」

 Cipherが答える。

『減少しています。帰還数の増加と対応しているように見えます』

 レイブンはその意味を考えた。

 向こう側に残っている者が減っている。

 もしその解釈が正しいなら、終わりは近い。

「最後が分かる?」

『今のところは』

 数秒の確認。

『一つ、残っています』

 旧港湾区が静かになった。

 エルネも紫色の向こうを見る。

「一人?」

「観測上は」

 レイブンは答えた。

 最後の影は遠かった。

 歩いている。

 だが遅い。

 誰にも支えられていない。

 レイブンの胸へ、疲労が伝わる。

 それでも諦めてはいない。

 エルネが境界へ呼びかける。

 返事がある。

 彼女の表情が強張った。

「知ってる人?」

 レイブンが尋ねる。

 エルネは頷いた。

「最後まで……みんな、押した」

「自分が最後に残った?」

「うん」

 レイブンは紫色の向こうを見る。

「なら今度はそいつの番だ」

 夕方が近づく。

 海底の魔力反応は弱まり続けている。

 境界も薄くなり始めた。

 最後の帰還者はまだ経路内部にいた。

 レイブンは一度も向こうへ踏み込まなかった。

 助けに行けば早いかもしれないという考えは消えていない。それでも、こちら側に出口を残す者が必要だった。

「反応低下」

 Cipherが報告する。

「終端が不安定化しています」

「最後の対象は?」

『接近継続』

「信号を一度だけ」

『内容は?』

「ここにいる。それだけ」

 短い存在応答が送られる。

 返ってきたのは、弱い安堵だった。

 それから数分後。

 紫色の境界から腕が現れた。

 身体が続く。

 最後の帰還者は足を踏み出した直後、その場へ倒れ込んだ。

 医療要員が駆け寄る。

 Sage自身も前へ出て状態を確認した。

「呼吸あり。意識反応あり」

 レイブンは通信を開く。

「Cipher。向こう側反応」

 返事まで数秒かかった。

『確認中です』

 誰も喋らない。

 エルネは両手を握り締めている。

 ルナも通信の向こうで待っている。

 やがてCipherが答えた。

『地理座標外に存在していた人的反応とみられる信号……確認できません』

 レイブンは目を閉じる。

「見落としは?」

『再走査します』

 さらに待つ。

『ありません。現時点の観測範囲では、経路内にも向こう側にも、これまで追跡していた残存反応はありません』

 レイブンはエルネを見る。

「全員?」

 エルネも帰還者たちの情報を確かめていた。

 長い時間をかけて、彼女は頷いた。

「みんな……いる」

 レイブンの肩から力が抜けた。

「ルナ」

『聞いてる』

「全員帰った」

 通信の向こうで、しばらく返事がなかった。

 やがてルナの声が震える。

『……そっか』

「ああ」

『今度は、全員帰せたんだね』

「ああ」

 レイブンは紫色の境界を見る。

 もう向こうへ行く必要はない。

 少なくとも、取り残された者を迎えに行く理由はなくなった。

 そして同時に、次にやるべきことも明確になった。

「この道を閉じる」

 Houndが振り向く。

「完全に?」

「ああ」

 レイブンは境界の向こうを見る。

「もう誰も、偶然あそこへ迷い込まないようにする」

 その日の夜、FENRIRの合同会議が開かれた。

 目的は単純だった。

 異界への道を利用することではない。

 研究資源として残すことでもない。

 フェルガリア沖の海底遺構と帰標石候補、そして旧港湾区へ形成された空間経路が再び人を飲み込む危険をなくすこと。

 異界からの帰還者が全員生存していることを確認した上で、FJTFは現象の恒久停止を決定した。

 WOLF PACKだけの任務にはしなかった。

 EINHERJARが陸上側の安全確保を担当し、STYXを含むルナの水上戦力が海域を管理する。HUGINNとHEIMDALLは観測情報を統合し、DVERGRは構造物の安全評価へ回る。必要な各専門部隊がそれぞれの役割を担い、一つの部隊や一人の英雄に判断を集中させない。

 作戦の目的を聞いたエルネは、医療区画の中でしばらく黙っていた。

「壊す?」

「ああ」

 レイブンは透明な仕切り越しに答えた。

「嫌か?」

 エルネは首を振った。

「昔……あれで、いなくなった人、いた」

 レイブンは黙って聞く。

「帰れない人も」

「ああ」

「みんな、こっち来た」

「確認した」

 エルネは小さく息を吐いた。

「なら、いい」

「本当に?」

「道は……帰るために使った」

 彼女はレイブンを見る。

「もう、帰った」

 それだけで十分だった。

 翌朝。

 FENRIR合同による異界経路恒久停止作戦が開始された。

 レイブンは沿岸指揮所にいた。

 ルナは海上側。

 エリシアは旧港湾区。

 WOLF PACKは観測と現場統制を分担し、他のFENRIR部隊もそれぞれの専門領域から作戦へ参加している。

 目的は海底遺跡そのものを無差別に破壊することではなかった。

 空間経路を成立させていると判断された魔力的連続性を停止させ、再び同じ現象が起きない状態へ移す。

 具体的な手順は技術班が管理し、レイブンは全体の判断だけを担った。

「向こう側反応は?」

『なし』

「帰還者?」

 Sageが答える。

「全員確認済み。治療中を含め、生存」

「海域?」

 ルナの声。

『退避完了。民間船なし』

「旧港湾区?」

 エリシアが続く。

『人員退避完了』

「各部隊?」

 返答が重なる。

 準備完了。

 レイブンは一度だけ海を見る。

 あの向こうに紫色の世界があるわけではない。

 距離では測れない場所。

 かつて自分とルナが迷い込み、生き延び、帰ってきた世界。

 そこから今度はエルネたちが帰ってきた。

 もう十分だった。

「開始」

 作戦が動く。

 海底の帰標石候補を中心として残っていた魔力線が、一つずつ反応を失っていく。

 空間測定値が変化する。

 地理座標外へ伸びていた細い異常が縮小し始めた。

「経路反応低下」

「旧港湾区、異常なし」

「海底構造物、魔力反応減衰」

 レイブンは表示を見続けた。

 途中で止める必要がある変化はない。

 暴走もない。

 新たな門も形成されない。

 やがて海底石板の光が消えた。

 完全に。

「帰標反応、消失」

 Cipherが告げる。

 その直後だった。

 石造構造物全体に細かな亀裂が走る。

「構造変化!」

「全員退避状態を維持!」

 レイブンが命じる。

 海底映像の中で、長い時間形を保っていた石が崩れ始めた。

 大きな爆発ではない。

 内部を支えていた何かを失ったように、古い石材が自重へ従って沈み、魔力線のあった溝から光が消えていく。

 帰標石候補にも亀裂が入った。

 枝分かれし、再び一つへ戻る線が割れる。

 最後に残った淡い光が一度だけ揺らいだ。

 そして消えた。

「空間反応?」

 レイブンが尋ねる。

 Cipherが測定結果を確認する。

「低下中」

 待つ。

「地理座標外反応、消失」

 さらに確認が続く。

「既知の門形成反応なし。旧港湾区側の空間異常も消失しました」

 ルナから報告が入る。

『海上異常なし』

 エリシアも続いた。

『旧港湾区、異常なし』

 レイブンは中央表示を見た。

 そこに映っているのは、ただの海底だった。

 崩れた古い石。

 砂。

 暗い海水。

 紫色の空はない。

 誰かの声も届かない。

 地図にない場所からの反応もない。

「終わった?」

 Houndが尋ねた。

 レイブンはすぐには答えなかった。

 すべての観測系をもう一度確認する。

 向こう側に残された者はいない。

 帰還者は全員生存。

 経路反応は消失。

 再形成の兆候もない。

「……ああ」

 ようやくレイブンは頷いた。

「終わった」

 その日の夕方。

 レイブンは医療区画を訪れた。

 アーシェはまだ治療中だったが、意識を取り戻していた。セイルも休んでいる。異界から来た他の者たちも、それぞれ検査と治療を受けながら新しい世界の夜を迎えようとしていた。

 エルネは窓の近くにいた。

 レイブンが入ると、彼女は外を見る。

 フェルガリアの空。

 紫色ではない。

「なくなった?」

「ああ」

「もう、行けない?」

「たぶんな」

 エルネはしばらく空を見ていた。

 悲しくないはずはない。

 向こうには彼女たちが生きた土地がある。

 思い出もある。

 失った者たちの記憶もある。

 帰還できたからといって、それまでの人生が消えるわけではなかった。

「後悔してる?」

 レイブンが尋ねた。

 エルネは首を振る。

「帰りたかった」

「ああ」

「みんな、生きてる」

「ああ」

「なら、いい」

 レイブンも窓の外を見る。

 しばらくすると扉が開き、ルナが入ってきた。

「エルネ」

 今度は隔離用の仕切りがない。

 必要な初期確認を終え、限定的な接触が許可されていた。

 ルナは途中まで歩き、少しだけ迷った。

 エルネも立ち上がる。

 次の瞬間、ルナが彼女を抱き締めた。

「おかえり」

 エルネの腕が、ゆっくりとルナの背へ回る。

「ただいま」

 レイブンはその光景を見ていた。

 やがてエルネが片腕を伸ばす。

 レイブンへ。

「レイブンも」

「俺も?」

「来る」

「命令?」

 エルネは昔と変わらない顔で頷いた。

「命令」

 レイブンは苦笑し、二人のところへ歩いた。

 ルナが兄の腕を引く。

 三人が抱き合う。

 長い時間があった。

 戦争があった。

 別の人生があった。

 もう会えないと思ったこともあった。

 それでも全員が生きている。

 しばらくしてレイブンが身体を離すと、エルネが尋ねた。

「レイブン、家族いる?」

「ああ」

「会える?」

 レイブンは少し笑った。

「会わせたいと思ってた」

 ルナが横から口を挟む。

「エリシアに会ったら驚くよ。兄様の奥さん」

 エルネの目が大きくなる。

「奥さん?」

「そこから?」

 レイブンが言う。

 ルナが楽しそうに続けた。

「子供も二人いるよ」

「子供?」

 エルネが完全に固まった。

 レイブンは額へ手を当てる。

「ルナ、一気に言うなよ」

「どうせ分かるでしょ」

 エルネがレイブンを見る。

「……レイブンが?」

「何だよ、その反応」

「父?」

「ああ」

 エルネは数秒黙り、やがて笑い出した。

 今までで一番、昔の彼女に近い笑い方だった。

 レイブンも笑う。

 ルナも笑っている。

 窓の外では、フェルガリアの夕陽が海へ沈んでいく。

 もう紫色の空は重ならない。

 海底から光が届くこともない。

 境界の向こうから誰かが助けを求めることもない。

 道はなくなった。

 だが、道を通って帰ってきた者たちはここにいる。

 レイブンはその事実だけを確かめるように、エルネとルナを見た。

 かつて異界から帰還した黒猫は、今度は向こう側に残された者たちを迎える側に立ち、誰一人として置き去りにしなかった。

 そして最後の一人が帰ったあと、二つの世界を結んでいた古い門は役目を終えた。

 フェルガリアの海には、いつもの波音だけが残っていた。

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