Season 8「継ぐ者、見守る者」 #150
第150話「おかえりの続き」
エルネへ「おかえり」と告げた直後も、レイブンは境界から目を離さなかった。
再会したいという気持ちは、胸の奥で抑えきれないほど膨らんでいる。掠れた声で自分の名を呼んだエルネも、境界を越えた直後に倒れかけたセイルも、意識を失ったまま医療班へ引き渡されたアーシェも、かつて紫色の空の下でレイブンとルナが生き延びるために時間をともにした者たちだった。
だが、異界側にはまだ人影が残っている。
フェルガリアの夕空と紫色の空が重なる境界は安定しているように見えても、いつまで維持されるのか分からない。レイブンは再会の喜びを後回しにし、いま帰ろうとしている者を迎えることへ意識を戻した。
「Cipher、向こう側の反応は?」
『複数継続しています。ただし個体数は確定できません。経路内部にも重なった反応があります』
「路そのものは?」
『現状維持です。ただ……』
Cipherが一度言葉を切った。
「何?」
『海底側の帰標石候補、その魔力反応が僅かに低下しています』
レイブンの視線が鋭くなる。
「旧港湾区側は?」
『まだ安定しています。すぐに崩れる兆候ではありません』
「でも永続する保証もない」
『はい』
レイブンは紫色の向こうを見た。
急がせることはできない。
しかし、時間が無限にあるとも考えられない。
「こちらから出力は加えない。今の状態を崩す方が危険だ」
『了解』
その横を、アーシェを乗せた搬送器材が通過していく。
Sageが付き添っていた。
「Sage」
呼び止めると、彼女は歩調を緩めた。
「アーシェは?」
「意識はない。でも呼吸と循環は維持できてる。外傷だけじゃなく、脱水と消耗がかなり強い。詳しいことは検査してから」
「助かる?」
Sageは曖昧に安心させることをしなかった。
「助けるために今から診る」
レイブンは頷いた。
「頼む」
「任せて。あなたはそっちをお願い」
Sageはそのまま医療班とともに移動した。
セイルも別の要員に支えられている。自力で立ってはいるが、足元は安定していない。それでもアーシェが運ばれていく方向から目を離そうとしなかった。
エルネが彼の肩へ触れる。
二人の間で何か短い言葉が交わされた。
異界の言葉。
レイブンは完全には聞き取れなかった。
かつて覚えたはずの語彙も、長い時間の中で失われている。意味を推測できる音はいくつかあったが、記憶だけで補うことはしなかった。
「言葉も忘れるもんだな」
レイブンが呟くと、エルネがこちらを見た。
「……レイブン?」
「いや、何でもない」
エルネは少し首を傾げ、それから疲れた顔で笑った。
その表情だけは、言葉を忘れていても分かった。
後方からHoundが近づいてくる。
「NoX。医療側への経路は確保した。EINHERJARが外周を引き継いでる」
「Valkyrieは?」
「第二線。必要ならすぐ来られる」
「了解」
「あとNyxから」
「ルナ?」
「海底側はまだ安定してるって。それと――」
Houndの口元が僅かに動いた。
「何?」
「『兄様だけ先に再会するのずるい』」
レイブンは数秒黙った。
「……あいつ本当に言った?」
「だいたいそんな感じ」
「だいたいって何だよ」
「正確には『こっちは海見てるのに兄様だけエルネと話してる』だったかな」
「ほぼ同じだろ」
レイブンは通信を開いた。
「Nyx」
『聞いてる』
「配置は?」
『異常なし。海底側の魔力反応は少し落ちてるけど、急変なし』
「そのまま頼む」
『了解』
少し沈黙したあと、ルナが続けた。
『……エルネ、大丈夫?』
今度は部隊長ではなく、妹の声だった。
「疲れてる。でも立ってる」
『セイルは?』
「消耗してる。Sageたちが見る」
『アーシェ』
「意識はない。でも生きてる」
通信の向こうで、ルナが長く息を吐いた。
『そっか』
「ああ」
『会いたいな』
レイブンはエルネを見る。
彼女も何となく会話の意味を察したらしく、こちらを見ていた。
「エルネ」
レイブンは端末を少し持ち上げた。
「ルナ」
その名前を聞いた瞬間、エルネの表情が変わった。
「ル……ナ?」
『エルネ?』
通信機からルナの声が流れる。
エルネが目を見開く。
「ルナ……!」
『エルネ!』
言葉の壁など、その二つの名前には関係なかった。
エルネが何かを続けて話す。レイブンには半分も理解できない。ルナも同じらしく、返す言葉は途切れ途切れだった。
それでも二人とも笑っていた。
途中からエルネは泣いていた。
ルナの声も震えていた。
レイブンは割り込まなかった。
ほんの短い時間だけ、部隊長同士ではない二人に任せた。
やがてルナが自分から声を整えた。
『兄様』
「何?」
『私、まだこっちにいる』
「ああ」
『行きたいけど、行かない』
レイブンは少しだけ笑った。
「了解、Nyx」
『海は任せて』
「任せる」
通信が終わる。
エルネが端末とレイブンを交互に見た。
「ルナ……強く、なった」
「昔から強かったよ」
エルネが首を振る。
「違う」
片言になったこちら側の言葉を探しながら、彼女は胸へ手を置いた。
「ここ」
レイブンはその仕草を見る。
「そうだな」
「レイブンも」
「俺も?」
「違う」
「みんなそれ言うんだけど」
エルネは意味が分からなかったのか首を傾げた。
Houndが横で笑う。
「こっちでも言われてるって教えてやれよ」
「お前は黙ってろ」
その時、境界が大きく揺れた。
レイブンの表情から笑みが消える。
『NoX、経路内部反応が接近!』
Cipherの報告とほぼ同時に、紫色の景色の奥で影が大きくなる。
「全員、配置維持。接触地点へ詰めるな」
レイブンはエルネを見る。
「まだ仲間?」
問いが伝わったのか、彼女は強く頷いた。
「仲間」
「何人?」
エルネは紫色の向こうを見た。
指を使いかけ、途中で止める。
「……分からない」
レイブンは眉を寄せた。
「分からない?」
「途中……別れた。来る。来ない……分からない」
その言葉だけで十分だった。
道へ入った者すべてが同じ速度で進んでいるわけではない。
あるいは、途中で別の経路へ入った者がいる。
何が起きたのかは、今ここで聞き出すべきことではなかった。
「後でいい」
レイブンは言った。
「今は来た奴を迎える」
エルネが頷く。
紫色の向こうから、二つの影が近づいてきた。
先ほどまでより歩みが遅い。
一方が何度も振り返っている。
レイブンの胸へ思念が触れた。
警戒。
恐怖。
そして迷い。
「止まった」
Houndが言う。
影は境界の向こうで動かなくなった。
こちら側には武装した者たちがいる。
見慣れない建造物。
知らない空。
知らない装備。
向こうから見れば、ここが安全な場所である保証など何もない。
「武器を下げさせる?」
Houndが尋ねる。
「外周はそのまま。接触線だけ姿勢を緩める」
「了解」
銃を捨てる必要はない。
だが構える必要もない。
レイブン自身も両手が見える位置へ置いた。
「エルネ」
「うん?」
「あいつらに、ここは安全だって伝えられる?」
完全には伝わらなかった。
レイブンは言い方を変える。
「敵、いない。撃たない」
エルネは理解した。
境界へ向き直り、異界の言葉で呼びかける。
返事がある。
短い。
強い声。
エルネも返す。
何度かやり取りしたあと、影が再び動き始めた。
レイブンはその光景を見ながら、自分たちが向こう側へ何も示してこなかったことの意味を初めて別の角度から理解した。
こちらは慎重だった。
だが向こうから見れば、沈黙は恐怖にもなる。
自分たちが何者なのか。
武器を持つ者たちがなぜ待っているのか。
それを知らないまま、世界の境界を越えろと言われている。
「Cipher」
『はい』
「今後、向こう側へ視覚的に安全を示す方法を検討して。現象への能動干渉は増やさない」
『了解。表示方法だけ検討します』
最初の影が経路内部へ入る。
続いて二人目。
姿が消える。
レイブンたちは待った。
数分後、旧港湾区側の空間が揺らぐ。
最初に現れたのは、小柄な人物だった。
耳の形が人間とは違う。
レイブンの知る種族ではない。
境界から出た瞬間、その人物は地面へ手をつき、激しく咳き込んだ。
Sageの代わりに残っていた医療要員がレイブンを見る。
「接触許可」
測定担当が頷く。
「周辺値、許容範囲」
「行って」
医療要員が近づく。
異界から来た人物は怯えたように後退しかけたが、エルネが声を掛けると動きを止めた。
次の人物も境界を越える。
こちらは比較的しっかり歩いていた。
最初の人物へ駆け寄り、庇うように前へ出る。
レイブンは距離を保ったまま、武器へ手を伸ばさない。
「エルネ。説明できる?」
「する」
彼女が二人のところへ向かった。
会話が始まる。
レイブンには分からない言葉。
だが少しずつ、二人の緊張が下がっていく。
「知らない人たちだな」
Houndが小声で言った。
「ああ」
「お前が向こうにいた時の仲間じゃない?」
「少なくとも俺は知らない」
「じゃあ、お前たちが帰った後にエルネたちと一緒になった奴らか」
「可能性はある」
レイブンは二人を見る。
自分たちが帰還した後も、向こう側の時間は続いていた。
当たり前のことだった。
だが目の前で知らない顔を見ると、その事実が急に現実になる。
自分がいなかった時間。
ルナがいなかった時間。
エルネたちは、その世界で生き続けていた。
レイブンが家族を持ち、戦場へ戻り、父となったように。
彼らにも、レイブンの知らない年月がある。
夕陽が沈んだ。
照明が旧港湾区を照らし始める。
異界側にはまだ紫色の明るさが残っており、境界を挟んで時間帯すら違って見えた。
エルネと新たに到着した二人は、医療確認のため後方へ移される。
レイブンは残った。
Houndもいる。
交代要員が入り、EINHERJARとの配置調整も進んでいる。
午後七時二十一分。
海底側の魔力反応がさらに低下した。
『NoX』
Cipherの声には緊張があった。
『帰標石候補の反応、発見時から比較して明確に低下しています』
「経路は?」
『まだ維持。ただし揺らぎが増えています』
「向こうの反応は?」
『残っています』
「接近中は?」
『少なくとも一つ』
レイブンは紫色の向こうを見る。
遠くに影がある。
だが動きが遅い。
「間に合う?」
『判断できません』
Houndがレイブンを見る。
「どうする?」
以前なら、答えは決まっていたかもしれない。
向こうへ行く。
連れてくる。
自分が間に合えばいい。
だが今は、その選択が本当に相手を救うのか分からない。
こちら側から経路へ入れば、現象そのものを乱す可能性がある。
しかもレイブンが向こうへ取り残されれば、救助対象が一人増える。
「行かない」
レイブンは答えた。
「でも何もしないわけじゃない」
「何ができる?」
「相手に、出口がまだあるって知らせる」
Cipherが聞いていた。
『昨日の存在応答と同程度なら可能です』
「意味を増やせる?」
『安全化層を通すなら、ごく単純なものだけです』
「何を送る?」
Houndが尋ねる。
レイブンは考えた。
急げ。
それでは恐怖を増やすかもしれない。
走れ。
相手が負傷しているなら逆効果になる。
待っている。
それだけでは足りない。
レイブンは紫色の向こうにある影を見る。
「道はまだある」
Cipherが確認する。
『存在と継続の意味だけに落とします』
「それでいい。一回だけ」
『了解』
弱い応答が送られる。
空間は急変しない。
魔力線にも異常はない。
向こうの影が止まった。
数秒後。
胸へ思念が返ってくる。
恐怖。
疲労。
それでも、その奥に意志があった。
行く。
レイブンは息を吐いた。
「届いたかもしれない」
Houndが聞く。
「何て?」
「来るつもりだ」
「なら待つか」
「ああ」
影が再び進み始める。
遅い。
何度も止まる。
そのたびにレイブンは動きたくなる。
だが動かない。
こちら側に立ち続ける。
午後八時を過ぎる。
帰標石の反応はさらに弱くなった。
紫色の景色にも乱れが増える。
影はまだ経路内部。
レイブンの胸へ、断続的に疲労と恐怖が届く。
それでも反応は少しずつ近づいていた。
午後八時三十八分。
旧港湾区側の空間が大きく揺れた。
「終端接近!」
Cipherが報告する。
「帰標反応?」
『低下継続!』
「あとどれくらい保つ?」
『分かりません!』
「出力追加は?」
『現状では勧めません。経路がどう反応するか不明です!』
「分かった。触らない」
レイブンは境界を見る。
「来い」
声だけが出た。
「もう少しだ」
紫色の向こうで影が揺れる。
消える。
再び見える。
そして、終端の空間に手が現れた。
地面を探すように伸びてくる。
「接触許可はまだ!」
医療担当が叫ぶ。
「分かってる!」
レイブンはその場を動かない。
手。
腕。
肩。
身体。
一人の人物が境界から転がり出るようにフェルガリア側へ倒れ込んだ。
同時に紫色の景色が大きく歪んだ。
「対象、通常空間へ移行!」
「経路反応急低下!」
「他の反応は?」
『待ってください――』
Cipherの声が途切れる。
数秒後。
『向こう側に残っています』
レイブンの顔が上がる。
「何人?」
『判別不能。ただ、反応はあります』
「経路は?」
『縮小しています』
倒れ込んだ人物へ医療班が向かう。
レイブンは境界を見る。
まだ紫色は残っている。
しかし狭い。
薄い。
向こう側に何かが動いている。
「もう一回信号を――」
Houndが言いかける。
「待て」
レイブンは止めた。
「今は経路自体が不安定だ」
「でも向こうに残ってる」
「分かってる」
レイブンの声にも焦りが滲んだ。
それでも命令は変えなかった。
「こっちから壊すな」
紫色の像がさらに薄れる。
胸へ思念が届いた。
複数なのか、一つなのか分からない。
恐怖。
諦めたくないという感情。
そして。
待って。
レイブンの拳が握られる。
「待ってる」
返事を送ったわけではない。
ただ声にする。
「ここにいる」
紫色の像が細くなる。
最後に向こう側の空が見えた。
誰かの影も見えた。
それから境界は閉じた。
爆発も衝撃もなかった。
乾いた風が止まり、旧港湾区には潮の匂いだけが残る。
誰もすぐには喋らなかった。
「Cipher」
レイブンが呼ぶ。
『……海底側の魔力線、急速に低下しています』
「向こう側反応は?」
数秒。
『消えてはいません』
レイブンが顔を上げる。
「本当?」
『弱いですが残っています。地理座標外反応を継続観測中』
「なら終わってない」
Houndがレイブンを見る。
「道が閉じただけ?」
「分からない」
レイブンは静かに答えた。
「でも、向こうはまだいる」
倒れた最後の帰還者が医療班によって搬送される。
旧港湾区には、異界から帰還した者たちの足跡だけが残った。
エルネ。
セイル。
アーシェ。
そしてレイブンたちが知らなかった者たち。
何人かは帰ってきた。
だが全員ではない。
午後九時過ぎ。
レイブンは医療区画へ向かった。
隔離措置のため、エルネたちへ直接触れることはまだできない。透明な仕切りの向こうで、エルネは毛布を肩へ掛けて座っていた。
彼女がレイブンを見る。
「閉じた?」
「ああ」
エルネは目を伏せる。
「向こう……まだ、いる」
「観測できてる」
エルネが顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
レイブンは頷いた。
「反応は残ってる」
「じゃあ……」
「まだ終わってない」
エルネの目に、僅かに力が戻った。
「レイブン」
「何?」
「また、行く?」
昔なら、その問いに迷わず頷いたかもしれない。
自分が向こうへ行き、連れて帰る。
それが最も早いと考えただろう。
今のレイブンは首を振った。
「まず、もう一度道を繋ぐ方法を探す」
「レイブンは?」
「こっちにいる」
エルネは驚いたように彼を見る。
「帰る場所があるから」
レイブンは続けた。
「でも向こうに残ってる奴らも、帰れるようにする」
エルネはしばらく黙っていた。
やがて小さく笑った。
「やっぱり、変わった」
「それ、今日だけで何回言われるんだろうな」
「いい、変わった」
「なら受け取っとく」
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいた。
レイブンが振り返る。
ルナだった。
舟艇隊の任務を引き継いできたらしく、まだ装備の一部を身につけたままだった。
走ってきた彼女は隔離区画の手前で急停止する。
透明な仕切り。
その向こうにエルネ。
二人の視線が合った。
ルナは何も言えなかった。
エルネも同じだった。
しばらく見つめ合ったあと、ルナの目から涙が落ちた。
「……遅いよ」
エルネも泣きながら笑う。
「ルナ」
「本当に……エルネなんだ」
ルナは仕切りへ近づき、触れる直前で止まった。
まだ接触できない。
それでも十分だった。
「おかえり」
エルネは何度も頷いた。
「ただいま」
レイブンは少し離れた場所から二人を見ていた。
やがてルナが兄を見る。
「兄様」
「何?」
「まだ向こうにいるんだよね」
「ああ」
ルナは涙を拭った。
その顔が、Nyxへ戻っていく。
「じゃあ、次も迎えよう」
レイブンは頷いた。
「ああ」
海底の帰標石は、ほとんど光を失っていた。
それでも完全には消えていない。
地図に存在しない場所から届く反応も、微弱ながら残り続けている。
最初の帰還は成功した。
同時に、道が永遠に開いているわけではないことも分かった。
向こう側には、まだ帰りたい者がいる。
こちら側には、それを知った者たちがいる。
レイブンはもう、自分一人で境界を越えようとはしなかった。
次に必要なのは、英雄が向こうへ走ることではない。
帰還線をもう一度繋ぎ、そこを通る者が最後まで帰れるように、こちら側から道を支えることだった。




