Season 8「継ぐ者、見守る者」 #149
第149話「二つの空の境界で」
フェルガリア旧港湾区の空は、ゆっくりと夜へ近づいていた。
西の水平線には夕陽の赤が残っている。その色を受けた古い倉庫の壁は鈍く輝き、長く使われていない岸壁には海からの風が吹き抜けていた。
その景色の一角だけが、世界の法則から外れている。
レイブンの正面では、フェルガリアの夕空へ紫色の空が重なっていた。
境界は扉のように明確な形を持っていない。古い岸壁の上に別の場所の景色が滲み、潮風に混じって乾いた土の匂いが漂ってくる。こちら側の石畳と向こう側の荒れた大地が同時に存在しているように見え、どこからが異界なのかを目だけで判断することはできなかった。
その向こうに、エルネが立っている。
顔を確認できた。
思念伝達の特徴も過去記録との類似を示した。
そして何より、レイブンとルナしか知らない記憶の像が返ってきた。
それでもエルネは境界を越えようとはしなかった。
後ろにいる者たちを待っている。
「後方の反応は?」
レイブンが携行端末へ尋ねると、沿岸指揮所に残るCipherの声が返ってきた。
『接近を継続しています。先頭――エルネ暫定本人確認対象との距離は縮小しています。ただし通常距離への換算はできません』
「経路は?」
『安定。海底側の魔力線も維持されています』
「旧港湾区側は?」
『空間反応に急変なし。現在の重なりを維持しています』
「了解」
通信を切らず、レイブンはエルネを見る。
彼女もこちらを見ていた。
昔と同じではない。
それは当然だった。
レイブン自身も同じではない。
異界から帰還し、戦争を経験し、エリシアと出会い、家族を持った。長い年月を生きても記憶は完全ではなく、身体が老いなくても人間は変わっていく。
エルネの頬には疲労が見えた。
衣服にも長い移動を思わせる傷みがある。
それでも、こちらを見る表情には覚えがあった。
言葉がなくても、何かを言いたそうな時の顔だった。
レイブンの胸へ弱い思念が触れる。
待って。
「ああ」
レイブンは小さく答えた。
「待ってる」
隣にいるSageが境界と測定端末を交互に確認する。
「身体に変化は?」
「ない」
「頭痛も?」
「ない」
「ならそのまま。近づかないで」
「分かってる」
「本当に?」
レイブンは彼女を見る。
「今日何回目だよ」
「あなたが境界の向こうに知人を見つけた回数よりは少ない」
「比較がおかしいだろ」
Sageの口元が僅かに緩む。
緊張を解くための会話だと分かっていた。
レイブンもそれ以上は言わなかった。
境界から十分な距離を置いた場所には医療要員が待機している。さらに後方にはHoundが現場統制を担当し、WOLF PACKとEINHERJARの要員が周囲の安全を確保していた。
武器はある。
だが誰もエルネへ照準を向けていない。
未知の世界から何者かが現れようとしている以上、警戒を捨てることはできない。しかし再会したいという感情だけで相手を味方と決めつけないのと同じように、未知であるという理由だけで敵として扱うこともしなかった。
その均衡を崩さないことが、今のレイブンの仕事だった。
「NoX」
後方からHoundが近づいてくる。
「周辺確認終わった。旧港湾区の外側に異常なし。見物人も入れてない」
「ありがとう」
「海側はNyxが見てる」
「ああ」
Houndは境界を見る。
「本当にいたんだな」
「エルネはな」
「後ろは?」
「まだ分からない」
「セイルとアーシェだったら?」
レイブンは少し黙った。
「嬉しい」
「それだけ?」
「それ以上、今言っても仕方ないだろ」
「まあな」
Houndはレイブンの横顔を見る。
「落ち着いてるな」
「そう見える?」
「外からは」
「なら隊長としては合格だな」
「中は?」
「うるさい」
Houndが笑った。
「そっちの方が安心した」
境界の向こうで、エルネが振り返った。
レイブンとHoundの視線もそちらへ動く。
紫色の荒野の奥から、影が近づいてくる。
一つ。
その隣にもう一つ。
距離が縮まるにつれ、一方がもう一方の身体を支えていることが分かった。
「Sage」
「見えてる」
彼女の声から軽さが消えた。
「医療班、受け入れ準備を再確認。境界通過後もこちらから接触許可を出すまで近づかないで」
後方から了解が返る。
レイブンは動かなかった。
助けに行きたい。
だが、まだ境界の性質が分からない。
こちら側の人間が踏み込むことで安定している経路を乱す可能性もある。
数分をかけて、二つの影がエルネの近くまで来た。
輪郭が見える。
レイブンの金と黒の瞳が僅かに見開かれた。
記憶が先に名前を呼ぼうとする。
だが口には出さない。
「Cipher」
『確認しています』
「特徴照合」
『過去資料を使用。画像補完は行いません』
待つ。
エルネが支えている二人へ近づいた。
そのうち自力で歩いている方が顔を上げる。
レイブンの胸へ思念が届いた。
驚き。
安堵。
そして、懐かしさ。
同時に像が浮かぶ。
紫色の空の下で火を囲んだ夜。
ルナが何かを食べて顔をしかめている。
その横でレイブンが笑っている。
この記憶には覚えがあった。
レイブンだけではない。
その場にいた者が共有していた時間だった。
『NoX』
Cipherの声がする。
『過去記録との高い類似性を確認。セイルの記録と複数特徴が一致します。ただし映像だけでの確定はできません』
「了解」
ほぼ同時に、ルナの通信が入った。
『兄様』
「見えてる?」
『海底側の観測経由で見てる。今の……セイルだよね』
「可能性は高い」
『思念も来た』
「何を見た?」
『焚き火。私が変な顔してる』
レイブンの口元が僅かに動いた。
「俺も同じ」
『あれ、エルネが作ったやつだったよね』
境界の向こうでエルネが不満そうな顔をしたように見えた。
その瞬間、レイブンとルナの胸へ同じ感情が届く。
抗議。
Houndがレイブンを見る。
「どうした?」
「……たぶん、エルネに聞こえてる」
「何が?」
「昔の飯の話」
Houndが境界の向こうを見る。
「何食わせられたんだよ」
「今それ聞く?」
緊張していた現場に、ごく短い笑いが生まれた。
その空気を切り替えたのはSageだった。
「もう一人の状態が良くない」
支えられている影。
頭が下がっている。
片足を引きずっているようにも見える。
衣服の一部には暗い染みがあった。
「負傷時期は分からない。でも自力歩行が難しい可能性が高い」
レイブンは境界を見る。
「こちらから行けない?」
「今は駄目」
Sageは即答した。
「助けたいのは私も同じ。でも境界内でこちらの身体に何が起こるか分からない」
「分かってる」
「向こうがここまで連れてくるしかない」
レイブンは拳を握り、それから力を抜いた。
エルネとセイルらしき人物が、負傷者を支え直す。
少しずつ。
境界へ。
フェルガリア側の空間反応が僅かに上昇する。
『NoX』
Cipherの声。
『経路終端と旧港湾区側の重なりが増しています』
「急変?」
『ありません』
「門形成は?」
『既知形式の門は形成されていません』
「環境交換は?」
『ごく微量。旧港湾区側で乾燥した空気成分を検出していますが、大規模な気流移動はありません』
「そのまま監視」
紫色の景色がさらに鮮明になる。
レイブンは、自分の頬を乾いた風が撫でたのを感じた。
潮風ではない。
知っている風だった。
長い間、記憶の奥にしかなかった世界の空気。
ルナも通信の向こうで息を呑む。
『兄様』
「ああ」
『匂いまで覚えてたんだね』
「俺も今思った」
不老不死であっても、すべてを覚えているわけではない。
忘れたと思っていた。
それでも身体のどこかには残っていた。
レイブンは目を閉じず、境界を見続けた。
エルネが一歩進む。
境界の像が揺れた。
足元が紫色の大地から消える。
だが、まだこちらの石畳には現れない。
経路の中間。
昨日レイブンたちが観測していた、通常座標では表せない場所へ入ったのだろう。
続いてセイルらしき人物と負傷者も進む。
三人の姿が歪む。
消えかける。
レイブンの胸へ恐怖が流れ込んだ。
エルネのものか。
セイルのものか。
負傷者のものか。
分からない。
「帰標反応は?」
『安定!』
「余計な出力は加えるな」
『了解!』
「旧港湾区側は?」
『終端維持!』
レイブンは一歩も動かなかった。
「ここにいる」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
「見えてる。だから来い」
思念として送ってはいない。
ただ声にした。
数十秒。
長く感じる。
紫色の像が揺れる。
エルネの姿が消える。
セイルも見えない。
負傷者も消えた。
残っているのは二つの空だけだった。
「反応は?」
『経路内部に三つ――』
Cipherが一瞬言葉を止める。
『訂正。三つの独立反応らしきものを確認。ただし個体数とは断定しません』
「こっちへ動いてる?」
『はい』
レイブンは息を吐く。
「なら待つ」
境界の手前へ近づきそうになるHoundを、今度はレイブンが手で止めた。
「ここから先はまだ駄目だ」
「分かってる」
「救護班もそのまま」
Sageが頷く。
「了解」
時間が過ぎる。
やがて旧港湾区側の空間が大きく歪んだ。
紫色の空が消えかける。
代わりに、乾いた風が強くなる。
「接近!」
Cipherの声が響いた。
「終端直前!」
レイブンの耳が前を向く。
誰も銃を構えない。
それでも全員が動ける状態にある。
最初に現れたのは手だった。
半透明の像ではない。
こちら側の夕陽を受けた、生身の手。
空中から突然生えたように見えたそれが、すぐに腕へ変わる。
肩。
髪。
そして顔。
エルネだった。
彼女は境界から一歩を踏み出し、古い岸壁の石畳へ足を置いた。
その瞬間、周囲の空気が震えた。
「空間値上昇!」
「急変ではない!」
「対象、通常空間側へ移行!」
エルネの身体が完全にこちらへ出る。
彼女は数歩進んだ。
そして膝をついた。
レイブンの身体が反射的に動く。
「待って」
Sageの声で止まる。
彼女が携行測定器を確認する。
数秒。
「周辺魔力汚染、現時点で危険値なし。未知病原体はここでは判定できない。防護手順を維持して接触許可」
その言葉を聞いて、レイブンは歩き出した。
走らない。
エルネの前まで行き、数歩離れた位置で止まる。
彼女が顔を上げる。
長い時間が二人の間にあった。
レイブンは昔のままに見える。
身体だけなら。
だが、エルネの目に映っている男は、あの頃のレイブンではない。
レイブンの目に映るエルネもまた、記憶の中だけにいる彼女ではなかった。
エルネの唇が動く。
最初は声にならない。
咳き込む。
Sageが動こうとするが、エルネは片手を上げた。
そして掠れた声を出した。
「……レイ、ブン」
思念ではない。
耳から聞こえた。
レイブンの表情が崩れた。
「久しぶり」
他に言葉が見つからなかった。
エルネは目を細める。
「ほん、とに……?」
「ああ」
レイブンは自分の胸へ手を当てた。
「本物だよ」
エルネが笑った。
その目に涙が浮かぶ。
レイブンも笑った。
その直後、境界が再び揺れる。
「NoX!」
Sageの声。
レイブンは振り返った。
「後ろが来る!」
エルネも身体を起こそうとする。
「セイル……アーシェ……」
名前が出た。
レイブンの目が変わる。
「負傷者はアーシェ?」
エルネが頷いた。
それだけで十分だった。
「Sage!」
「聞いた。医療班、受け入れ準備!」
レイブンはエルネへ手を伸ばしかけ、止める。
彼女の身体状態もまだ確認が必要だ。
エルネはその動きを見て、疲れた顔のまま少し笑った。
「変わった……」
「何が?」
「昔なら……もう、向こうに入ってる」
レイブンは苦笑した。
「最近みんなそれ言うんだよ」
「良かった」
「何が?」
「ちゃんと……帰る人に、なった」
その言葉に、レイブンは答えられなかった。
境界から二人目の手が現れる。
セイルだった。
彼は自分の身体よりも、隣で支えているアーシェを先にこちらへ押し出そうとしている。
「受ける!」
Sageと医療要員が前へ出る。
レイブンも許可された範囲まで近づく。
セイルが境界を越える。
続いてアーシェの身体がこちら側へ出た。
彼女は意識を失っていた。
医療班がすぐに受け止める。
「呼吸あり。脈拍確認。搬送する!」
Sageがアーシェの状態を確認しながら指示を飛ばす。
セイルはその場へ崩れそうになり、Houndが支えた。
「おっと」
セイルが反射的に身構える。
「大丈夫だ。味方……って言いたいけど、まずは知らない奴でいい。倒れるなら支える」
言葉が通じたのかは分からない。
だが敵意がないことは伝わったらしい。
セイルは抵抗を止めた。
レイブンは境界を見る。
「他には?」
エルネの表情が変わった。
安堵だけではない。
後ろを気にしている。
「まだいる?」
エルネは頷いた。
「……いる」
レイブンの胸が再び緊張する。
「何人?」
エルネは答えようとして、首を振った。
「みんな……来られるか、分からない」
レイブンは紫色の向こうを見る。
まだ道は消えていない。
空の色も残っている。
奥には、新しい影があった。
それを見た瞬間、レイブンは自分の役割を理解した。
再会は終わっていない。
エルネたち三人が帰ってきたからといって、ここで抱き合って喜んでいるだけでは駄目だった。
まだ向こう側にいる。
帰ろうとしている者が。
「Hound」
「聞いてる」
「現場維持」
「了解」
「Sage、アーシェを頼む。エルネとセイルも順次確認」
「任せて」
「Cipher」
『はい』
「経路を見続けて。異常があればすぐ知らせて」
『了解』
レイブンは境界から十分な距離を保ったまま、その正面へ立った。
エルネが医療要員に支えられながら彼を見る。
「レイブン」
「何?」
彼女は掠れた声で、ゆっくりと言った。
「帰って……きた」
レイブンは一瞬だけ目を閉じた。
長い時間の向こうで、自分も同じことを言いたかった日があった。
だから今度は迷わなかった。
「おかえり、エルネ」
エルネの目から涙が落ちた。
その背後では、フェルガリアの赤い夕空と異界の紫色の空が、まだ同じ境界の上で重なっている。
レイブンは再びその向こうへ視線を戻した。
今夜、ここで迎えるべき者は、まだ残っていた。




