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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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146/189

Season 8「継ぐ者、見守る者」 #146

第146話「帰還線」

 レイブンが目を覚ました時、寝室はまだ暗かった。

 窓の外に朝の気配はなく、隣ではエリシアが静かな寝息を立てている。少し離れた場所ではリリアとルークも眠っており、家の中に異常を知らせる音はなかった。

 それでも目が覚めた。

 胸の奥に残った感覚が原因だった。

 こちら側を認識している。

 そして、近づこうとしている。

 それ以上の意味を与えないように、レイブンは枕元の端末へ時刻と自分が感じた範囲だけを記録した。ルナへ連絡しようとはしなかった。前日から決めている通り、互いの印象を先に共有すれば、それだけで記録の独立性が失われる。

 端末を伏せると、隣から声がした。

「また?」

 レイブンが振り向く。

 エリシアは目を閉じたままだった。

「起こした?」

「あなたが夜中に起きる時、静かすぎるのよ」

「普通は逆じゃない?」

「昔からそうでしょう。音を立てないようにすると、余計に分かる」

 エリシアが目を開く。

「海?」

「たぶん」

「何を感じたの?」

「こっちへ近づこうとしてる感じ」

 エリシアはすぐに起き上がらなかった。

「誰が?」

「分からない」

「なら、今すぐ行く必要は?」

「ない」

「警報は?」

「鳴ってない」

「だったら、もう少し寝なさい」

 レイブンは端末を見る。

 観測網から緊急通知は来ていない。

「……そうする」

「珍しい」

「寝ろって言ったのはそっちだろ」

「本当に寝ると思わなかっただけ」

 エリシアの声に笑いが混じった。

 レイブンは再び横になった。

 かつてなら、感覚を受け取った時点で装備を掴んでいたかもしれない。何が起きているかを自分の目で確かめるために、まだ誰からも呼ばれていない場所へ向かっていた。

 だが今は、海底を監視している者がいる。

 夜間の解析担当がいる。

 ルナにはルナの部隊があり、エリシアにはEINHERJARがある。

 自分が眠っている数時間だけ世界が止まるわけではない。

 その事実を受け入れられるようになったことを考えながら、レイブンはもう一度目を閉じた。

 次に起きた時、窓の向こうには朝の光があった。

 フェルガリアの解析施設へ到着したのは、通常勤務が始まる少し前だった。

 中央表示には昨夜の記録がすでに整理されている。Cipherは夜勤ではなく朝からの担当で、Hawkとともに引き継ぎを受けているところだった。

「おはよう」

 レイブンが言う。

「おはようございます」

 Cipherが振り返る。

「夜中に起きました?」

「何で分かる」

「Nyxからも主観記録が入っています」

「もう照合した?」

「まだです。NoX側の記録も到着していますが、双方とも閲覧制限を維持しています」

「じゃあ先に観測値から」

「了解」

 昨夜、海底側では二つの光が同時に存在していた。

 一つは石板。

 もう一つは紫色の揺らぎが現れていた地点。

 発光が続いた時間、空間的な隔たりは僅かに縮小した。しかし速度は遅く、急激な接続や局所的な魔力集中は確認されていない。

「こちらから送った信号の残留?」

「その可能性も検討しましたが、送信終了から時間が離れすぎています。また発光時の波形も送信波形とは一致しません」

「模倣?」

「それも判断できません」

「向こう側の反応は?」

「継続しています。昨夜の二点同時発光とほぼ同じ時間に強度が上昇しました」

 レイブンは頷いた。

「主観記録を開こう」

 二つの記録が表示される。

 レイブンの記録。

 こちら側を認識している感覚。

 待機ではない。

 接近の意図を想起。

 ルナの記録。

 帰る場所は見つかった。

 今度は、そこへ向かおうとしている。

 文章は違う。

 だが方向性は近かった。

「発生時刻は?」

「十四秒差です」

「海底反応との時間差?」

「両者とも二点同時発光の継続中です」

 そこへルナが入ってきた。

「おはよう」

「おはよう」

 兄妹は互いの顔を見た。

「見た?」

 ルナが尋ねる。

「ああ」

「似てたね」

「ああ。でも同じじゃない」

「分かってる」

 ルナは自分の席へ座った。

「兄様は『接近』って感じたんだ」

「お前は『向かう』」

「どっちにしても、昨日までとは変わったね」

「そうだな」

 レイブンは海底画像へ目を戻す。

「ただ、誰かが実際に移動してる証拠はない」

「うん」

「空間そのものが近づいてるだけかもしれない」

「うん」

「俺たちが昨日応答したから、そう感じやすくなってる可能性もある」

「うん」

 ルナは三度頷いたあと、兄を横目で見る。

「今日はずいぶん先回りするね」

「お前が言いそうなことを潰してる」

「私、そんなに慎重だった?」

「俺よりは」

「昔の兄様と比べたら、たいていの人が慎重だよ」

「朝から刺してくるな」

 その時、Houndが入ってきた。

「何の話?」

「昔の兄様がすぐ前へ出てたって話」

「ああ、それなら資料いらねえな」

「お前まで乗るな」

 解析室に短い笑いが広がった。

 だが、その空気はCipherの声で変わった。

「NoX、少し気になるものがあります」

「何?」

「昨夜の空間測定です」

 表示が切り替わる。

 これまでは、フェルガリア沖と地理座標へ置けないもう一つの反応との隔たりを、便宜的に一つの数値として追っていた。

 昨夜から、その変化に偏りが出ている。

「隔たりが均一に縮んでいません」

 Cipherが説明した。

「どういうこと?」

「一つの面全体が近づいているのではなく、特定の部分だけが先に接近しています」

 Lunaが画面を見る。

「細長い」

「はい」

 異常域は円でも球でもなかった。

 海底石板から、紫色の揺らぎが生じた地点を経由し、その先の測定不能な方向へ向かって細く伸びている。

 レイブンは眉を寄せた。

「門なら?」

「通常は接続点へ歪みが集中します。今回は違います」

「路なら?」

 Cipherは少し考える。

「もしヴァルグラントの古文書にある『路』を文字通り空間的な経路と解釈するなら、こちらの方が説明しやすいかもしれません」

「かもしれない、だな」

「はい」

 Hawkが表示へ近づいた。

「幅は?」

「現時点では数値化に意味がありません。通常空間の幅として測れていないので」

「何かが通れるかも分からない?」

「分かりません」

 レイブンは細長い異常を見た。

 道。

 その言葉が、以前とは違う重さを持ち始めていた。

 門なら、一点を越える。

 だが道なら、二つの場所の間に距離がある。

 その距離を誰かが進んでいるのだとしたら。

「向こう側の反応位置は?」

「変わっていません。ただし、こちらとの間に連続性らしきものが出始めています」

「らしきもの?」

「完全には繋がっていません。途中に観測不能な区間があります」

 Houndが腕を組む。

「橋が途中まで伸びてるみたいな?」

「比喩としては近いです」

「渡ってる奴がいたら?」

「途中がどうなっているのか分からない以上、何とも言えません」

 ルナの表情が僅かに硬くなった。

「帰れなくなるかもしれない」

 レイブンは妹を見る。

 それは、彼女が舟艇隊を率いる理由にも繋がる言葉だった。

 帰りたい者を帰す。

 帰還するための水路を開く。

「だから、こっちから入らない」

 レイブンが言った。

「道が完成してるかも分からない状態で迎えに行けば、二重遭難になる」

「うん」

「向こうに誰かいるとしても、まず向こうがどこまで来られるのかを見る」

 ルナはゆっくり頷いた。

「了解」

 午前十時、ヴァルグラントとの通信が繋がった。

 ゲルハルトは細長く変化した空間異常の図を見るなり、しばらく黙った。

『これは……』

「知ってる?」

『実物は知らん』

「じゃあ何?」

『古文書の表現に似ている』

「どんな?」

 ゲルハルトは資料を呼び出した。

『我々が“路”と訳している記述の中に、接続時の状態を表したらしい一節がある。“門は場所を割り、路は隔たりを細くする”』

 レイブンはその文章を頭の中で反芻した。

「隔たりを消すんじゃない?」

『古語の解釈が正しければな』

「細くする……」

 ルナが呟く。

 ゲルハルトが続けた。

『もう一つある。“帰る者は標を見失わず、路の終わりまで歩け”』

「歩く?」

『そう書いてある』

「転移じゃないのか」

『少なくとも、その文章だけなら瞬間移動とは読めない』

 解析室が静かになった。

 Houndが画面を見る。

「じゃあ昨日見えた影が本当に誰かだったとして、そいつは……」

「今、こっちへ向かってる可能性がある」

 レイブンが続けた。

「可能性だけどな」

 ゲルハルトが頷く。

『そして、もし古文書が正しいなら、途中で標を失わせるべきではない』

「四つ目の光」

 Cipherが言った。

「こちら側の帰標石が、経路の終端を示している可能性があります」

 レイブンの視線が鋭くなる。

「つまり、下手に止めると?」

「分かりません」

 Cipherは即答した。

「現象が自然消失するだけかもしれません。逆に、もし本当に何者かが移動中なら、その経路へ影響する可能性も否定できません」

「触らない方がいいな」

『私もそう思う』

 ゲルハルトが答える。

『今はな』

「同意する」

 昼前、FENRIR側では対応段階が一つ引き上げられた。

 ただし、それは戦闘態勢への移行ではない。

 海底現象が何らかの形で地上または海上へ影響した場合に備え、救難、医療、観測、避難誘導の連携を確認するためのものだった。

 武装部隊も待機する。

 だが銃口を未知の一点へ集中させるような配置は取らない。

 相手が敵である証拠はない。

 同時に、友軍である証拠もない。

「EINHERJARは沿岸側の第二線へ置くわ」

 エリシアが通信で告げた。

「接触地点の正面には出さない。何かが来ても、まず観測と救護側に任せる」

「了解」

『WOLF PACKは?』

「必要最小限だけ現地待機。残りは通常任務を維持する」

『あなたは?』

 レイブンは少し考えた。

「沿岸指揮所」

『海には?』

「出ない」

 エリシアが一瞬黙った。

『聞き間違いじゃないわよね?』

「最近みんな失礼じゃない?」

『成長を確認してるの』

「父さんみたいなこと言うな」

『いい先生でしょう?』

 否定できなかった。

 午後一時。

 細長い空間異常はさらに伸びた。

 正確には、通常空間の中を移動したわけではない。観測不能だった区間が少しずつ減り、フェルガリア側と地理座標外の反応との間に連続した変化が増えている。

 そして、その頃からレイブンとルナが感じるものも変わった。

 これまでのように断続的ではない。

 弱い。

 しかし長い。

 誰かの感情というより、そこに何かが存在しているという感覚だけが続いている。

「負担は?」

 沿岸指揮所へ来ていたSageがレイブンへ尋ねる。

「ない」

「頭痛?」

「ない」

「吐き気、耳鳴り、視覚異常?」

「ない」

「魔力消耗?」

「自覚なし」

 Sageは測定値を確認する。

「今のところ異常なし。でも変化があったらすぐ言って」

「ああ」

「我慢してから言うのは禁止」

「分かってる」

「本当に?」

「最近そればっかりだな」

「信用を積み上げてる途中だから」

 レイブンは苦笑した。

 午後二時三十六分。

 海底の四つ目の光が強くなった。

 紫色の揺らぎが現れる。

 今回は昨日より大きい。

 それでも人が通れるほどの開口部が生じたわけではない。そもそも物理的な穴は存在していない。

 海底の像へ、別の場所の景色が重なる。

 紫色。

 乾いた地面。

 低い岩。

 そして、風に揺れる何か。

「映像確認」

 Cipherの声が通信へ入る。

『複数観測点で一致。補正前映像です』

 レイブンは画面を見る。

 水中にあるはずなのに、向こう側では風が吹いている。

 砂のようなものが地面を走っている。

 海水が流れ込む様子はない。

 二つの場所が重なって見えているだけで、物理的な接続はまだ成立していないらしい。

「影は?」

『現在確認できません』

 ルナから通信が入る。

『兄様』

「感じた?」

『うん。近い』

「俺もだ」

『昨日よりずっと』

「先に記録」

『了解』

 レイブンは端末へ入力する。

 乾いた空気。

 風。

 接近感。

 敵意なし。

 疲労を想起する感覚あり。

 最後の項目で手が止まった。

 疲れている。

 それは自分の疲労ではない。

 歩き続けた者が休みたいと感じるような、重い感覚。

 記録する。

 照合結果が届いた。

 ルナも似た内容を書いていた。

 ただし彼女は、もう一つ付け加えていた。

 「一人ではない気がする」

「ルナ」

『人数は分からない』

「何でそう思った?」

『一つの感情じゃない感じがしただけ』

「波形は?」

 Cipherが確認する。

『複数成分があります。ただし第六反応の時と同様、複数の発信主体を意味するとは限りません』

「了解。人数は未確定のまま」

 その時、紫色の揺らぎの奥で何かが動いた。

 昨日より遠い。

 しかし今度は一つではない。

 低い影。

 その後ろに、もう一つ。

 さらに離れた場所にも何かがある。

「人型判定するな」

『了解』

 レイブンは先に釘を刺した。

 影はゆっくり動いている。

 こちらへ向かっているようにも見える。

 だが距離感が分からない。

 数分経っても大きさはほとんど変わらない。

「路の中を進んでる?」

 Houndの声が聞こえる。

「向こう側の普通の地面を歩いてるだけかもしれない」

 レイブンが答える。

「何にしても、待つ」

 午後三時十二分。

 変化が起きた。

 紫色の像が一度大きく揺れる。

 同時に海底側の魔力線が弱まった。

「反応低下!」

「空間隔たり、変動!」

 Cipherの声が鋭くなる。

「増えた?」

『一時的に増加!』

「影は?」

『映像不安定、確認できません!』

 レイブンの胸の奥へ、突然強い感覚が流れ込んだ。

 恐怖。

 足元が崩れるような不安。

 離れたくないという焦り。

「Sage」

「測定してる。あなた自身は安定してる」

「ルナは?」

『Nyx側も身体状態は安定』

 通信の向こうでルナの呼吸が少し速い。

『兄様……』

「いる」

『今の、向こうの誰かだと思う』

「断定するな」

『うん。分かってる。でも……』

「記録しろ。感じたことだけ」

『了解』

 レイブンも端末へ入力する。

 恐怖。

 不安定感。

 離脱への恐怖を想起。

 敵意なし。

 数秒後。

 海底魔力線が持ち直した。

「隔たり、再び減少!」

 Cipherが報告する。

「四つ目の光?」

『維持!』

「こちらからは何もするな」

『了解!』

 レイブンは画面を見る。

 助けたいという衝動がある。

 もし向こうに誰かがいて、本当に不安定な道を歩いているなら、手を伸ばしたくなる。

 だが何をすれば助けになるのか分からない。

 下手な介入が道を壊すかもしれない。

 だから、動かない。

 それが今できる支援だった。

 数分後、紫色の像が安定した。

 影も再び現れる。

 今度は少し近い。

 その中の一つが立ち止まっている。

 別の影が、その影のそばへ戻るように動いた。

 レイブンは息を吐いた。

「負傷者?」

 Houndが呟く。

「分からない」

「でも置いていかなかったな」

「そう見える」

 それ以上は言わなかった。

 午後四時を過ぎても、影は完全には近づいてこなかった。

 紫色の揺らぎも断続的に薄くなり、そのたびに観測できなくなる。

 路が本当に存在するのなら、その移動は瞬間的な転移ではない。

 時間がかかっている。

 疲労もあるのかもしれない。

 何かの障害もあるのかもしれない。

 レイブンは夕方の引き継ぎで、夜間の監視条件を確認した。

「変化がなければ俺を呼ばなくていい」

 Cipherが振り返る。

「いいんですか?」

「何で?」

「いえ」

「緊急なら呼べ。通常観測なら朝見る」

「了解」

 Houndが横から言う。

「本当に帰るんだな」

「帰るよ」

「成長したなあ」

「お前、最近それ言いたいだけだろ」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「本当にそう思ってる」

 レイブンは一瞬黙った。

「……そうか」

 それだけ言って解析室を出た。

 帰宅すると、ヴァルターが来ていた。

 居間の椅子へ腰掛け、ルークを抱くエリシアと話している。リリアは別の寝台で眠っていた。

「父さん」

「おかえり」

 レイブンはまず父の足元を見る。

「今日は?」

「車だ」

「ならいい」

「毎回確認するのか」

「する」

 ヴァルターが笑った。

「お前も随分うるさくなったな」

「誰に似たんだろうな」

「母さんじゃないか?」

 一瞬だけ、静かな間が生まれた。

 セレナの姿はもうそこにはない。

 だが名前を口にすることを、家族は避けていなかった。

「そうかもな」

 レイブンは答え、手を洗ってから居間へ戻った。

 今日起きたことを父とエリシアへ話す。

 細く伸びる空間異常。

 古文書に残された「路」。

 向こう側に複数あるように見えた影。

 途中で起きた不安定化。

 そして、こちらから何もせずに観測を続けたこと。

 ヴァルターは黙って聞いたあと、尋ねた。

「助けに行きたかったか?」

「ああ」

「行かなかった」

「ああ」

「怖かったか?」

 レイブンは少し考えた。

「向こうにいるかもしれない奴らが、途中で消えるのは怖かった」

「自分が行くのは?」

「それも怖いよ」

 ヴァルターの眉が僅かに上がった。

「言うようになったな」

「怖くないふりしても何も変わらないからな」

 エリシアが微笑む。

「それ、子供たちが大きくなっても覚えておいてね」

「何で?」

「父親が怖いって言えるの、大事でしょう?」

 レイブンは眠っているリリアを見る。

 そして父の腕にいるルークへ目を向けた。

「そうだな」

 ヴァルターが息子を見る。

「帰ってくる奴を待つのは、戦うより難しい時がある」

「経験ある?」

「ある」

「いつ?」

 父は少し笑った。

「お前とルナがいなくなった時だ」

 レイブンは何も言えなくなった。

「探しに行けるなら行きたかった。だが、どこへ行けばいいかも分からなかった。軍人としてできることも、父親としてできることも少なかった」

 ヴァルターはルークを見下ろす。

「だから待った」

「……そうだったな」

「お前は今、あの時の俺と同じ場所にいるのかもしれん」

 レイブンは海の向こうではなく、もっと遠い場所にいる何者かを思った。

「待つしかない?」

「違う」

 ヴァルターは首を振った。

「待つと決めるんだ」

 その言葉を、レイブンはしばらく黙って受け止めた。

 夜。

 フェルガリア沖の観測は続いていた。

 レイブンは自宅にいる。

 ルナも海へ出ていない。

 海底へ人間も亜人も近づいていない。

 午後に不安定化した魔力線は再び落ち着き、四つ目の光も維持されている。

 午後十一時十八分。

 紫色の揺らぎが再び現れた。

 夜間担当者が記録を開始する。

 向こう側には影が見えた。

 昼間より少し近い。

 その中の一つは、別の影に支えられているように見える。

 人数は判別できない。

 種族も分からない。

 誰なのかも分からない。

 それでも影は止まらず、ゆっくりとこちらへ向かっていた。

 そして観測網は、初めて別の変化を捉えた。

 これまで地理座標を持たなかった細長い空間異常の終端が、ほんの僅かにフェルガリア側の通常空間へ重なり始めた。

 門は形成されていない。

 穴も開いていない。

 だが、帰る場所を示す光と、そこへ続こうとしている細い空間の連なりが、初めて同じ測定系の中へ収まり始めていた。

 夜間担当者は、決められた条件に従って緊急連絡を送った。

 自宅で端末が振動する。

 レイブンは目を開いた。

 隣ではエリシアも同時に身体を起こしていた。

「呼ばれた?」

「ああ」

「行くの?」

 レイブンは通知内容を読み、数秒だけ考えた。

「まず聞く」

 通信を開く。

『NoX、空間異常の終端が通常空間側へ重なり始めました。急激な拡大はありません』

「海面への影響は?」

『なし』

「魔力線?」

『安定』

「向こうの影は?」

『確認継続中。接近傾向です』

「緊急の有人対応は?」

『現時点では必要なしと判断しています』

「了解。観測継続。変化が加速したらもう一度呼んで」

『了解』

 通信を切る。

 エリシアが夫を見る。

「行かないのね」

「まだ俺が行く理由がない」

「そう」

「でも明日は早く出る」

「それはいいわ」

 レイブンは端末を置いた。

 向こう側に誰がいるのか。

 明日、何が起こるのか。

 答えはない。

 それでも、自分が今いるべき場所は分かっていた。

 再び横になると、エリシアの手が彼の手へ触れた。

 レイブンはその手を握る。

 フェルガリア沖の暗い海底では、帰標石と呼ばれていたかもしれない古い石が、弱い光を保ち続けている。

 そして、その光を目指しているように見える影は、長い隔たりの向こうから、少しずつこちらへ近づき続けていた。

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