Season 8「継ぐ者、見守る者」 #144
第144話「道の向こう側」
海底石造構造物に現れた三つの光点は、夜が明けても消えていなかった。
フェルガリア沖に朝日が差し始めても、海面からその変化を見ることはできない。漁船も港湾作業船も通常の航路を進み、岸壁ではいつも通り荷役作業が始まっていた。海鳥の声が港の上を横切り、前夜まで続いた緊張など知らないように街は動き始めている。
その日常から離れた海底で、三つの光だけが静かに残っていた。
レイブンが解析室へ入った時、すでにCipherとHawkが夜間記録を確認していた。中央表示には石板そのものではなく、昨夜新たに発光した三点と、その周囲にある石材の位置関係が映されている。
「変化は?」
「発光強度が少し下がりました。ただ、消失はしていません」
Cipherが答えながら夜間の推移を表示した。
「空間測定値は安定しています。昨日観測された、地理座標へ置けない側の反応も残っています」
「隔たりは?」
「ほぼ変化なしです」
「門形成は?」
「確認できません」
いつもの確認を終えたレイブンは椅子へ座った。
「三点の意味は?」
「分かりません。ただし、配置について一つ気になることがあります」
Hawkが海底地形を拡大した。
三つの光点をそのまま見れば、単に斜めへ並んでいるようにしか見えない。しかし海底構造物全体の向きと、昨日までに確認された魔力線を重ねると、その並びには偏りがあった。
「魔力線が集まっている場所を基準にすると、この三点はそこから外へ向いてる」
Hawkが説明した。
「昨日は道を示しているように見えた」
「そうだ」
「でも逆かもしれない」
レイブンが画面を見る。
「外からここへ入る方向?」
「可能性としては」
Cipherが別の表示を加えた。
「昨夜の空間反応を時間順に重ねると、地理座標へ置けない側の変動が先に起き、その後で三つの光点が順番に発光しています。時間差は小さいですが、海底側から外へ伸びたというより、反対側からこちらへ何かが伝わったようにも見えます」
「見えるだけだな」
「はい」
「なら、その表現で残して」
「了解」
レイブンは表示された三点を見続けた。
昨日までは、こちら側が向こうを探しているという意識が強かった。
海底に何があるのか。
紫色の揺らぎは何だったのか。
エルネたちはいるのか。
だが、もしHawkとCipherの見方が正しいなら、現象の向きは逆かもしれない。
向こう側も、こちらを探している。
昨夜ルナが感じた「ここを覚えている」という印象が、頭の中へ戻ってきた。
「兄様、おはよう」
解析室へ入ってきたルナが声をかけた。
「おはよう」
「今日はちゃんと言えたね」
「昨日言われたからな」
白い猫耳が楽しそうに動いた。
「学習してる」
「俺を何だと思ってるんだ」
「兄様」
「それ答えになってないだろ」
Hawkが視線を逸らしながら僅かに笑う。
ルナはレイブンの隣へ来ると、中央表示へ目を向けた。
「まだ残ってるんだ」
「ああ。体調は?」
「問題なし。感覚も今はないよ」
「Sageには?」
「もう確認してもらった。兄様より先に来られたから」
「俺も後で行く」
「自分から言うようになった」
「……そこまで珍しいか?」
誰も答えなかった。
「おい」
Cipherだけは画面へ集中していたが、口元が僅かに動いている。
レイブンは追及を諦めた。
ルナにも夜間解析の内容が共有される。
彼女は三つの光点が外へ向かう道標ではなく、こちら側へ到達するための印である可能性を聞いても、すぐには反応しなかった。
「だったら、昨日の感じとも合うね」
「何が?」
「帰る場所を見つけた感じ」
ルナは画面を指した。
「向こうから見た帰る場所が、こっちだったとしたら」
「可能性はある」
「エルネたちかな」
その名前が出ても、レイブンは否定しなかった。
「そうだったらいいと思ってる」
「兄様が?」
「ああ」
ルナが少し驚いたように兄を見る。
「でも、それと事実は別だ」
「うん」
「だから確かめる」
「うん」
ルナは微笑んだ。
「それでいいと思う」
午前中、昨日発見された古い記録と海底構造物の比較が続けられた。
エルネが描いたとされる枝分かれした線。
かつて「遠くへ行く道」と説明された石造遺構。
ヴァルグラントの古文書に残された「路」と「帰標石」に近い概念。
それぞれには共通点がある。
だが、同じ起源を持つものなのか、それとも似た目的から似た形になっただけなのかは分からない。
昼前になると、日本側の解析担当から新しい結果が届いた。
昨夜、一瞬だけ紫色に見えた海底の揺らぎについて、複数の観測機器に共通して同じ色域の変化が記録されている。単純な一台のカメラ異常では説明しづらいものの、水中での光の散乱や魔力干渉が関係している可能性は残っており、異界の風景が映ったと判断できる段階ではない。
レイブンは報告を読み終えると、隣のLynxへ端末を渡した。
「どう思う?」
「紫だったのは事実に近づいた。でも紫の世界だった証拠にはならない」
「同意見」
「珍しいわね。もっと疑うかと思った」
「疑うのと、見えたものまで否定するのは違う」
Lynxは少し笑った。
「最近、隊長らしくなった」
「前から隊長だよ」
「そういう意味じゃない」
詳しく聞こうとした時、Houndが解析室へ入ってきた。
「NoX、昼だぞ」
「知ってる」
「飯」
「あとで」
「Valkyrieから連絡来てる」
レイブンが止まった。
「何て?」
「『昼食を忘れてたら食べさせて』」
「何でお前に頼むんだ」
「俺が一番遠慮なく言えるからじゃね?」
「Cipherでもいいだろ」
「Cipherも同じこと言われてる」
レイブンが振り返る。
Cipherは無言で視線を逸らした。
「お前……」
「命令系統外です」
「そういう時だけ正論使うな」
結局、解析は一度止められた。
食堂で簡単な昼食を取っている間も海底観測は交代要員が続けており、誰か一人が画面を見続けなければ成立しない体制ではなくなっている。
レイブンは食事を終えるとすぐ戻ろうとしたが、Houndが席を立たない。
「何?」
「五分くらい座ってろ」
「何で?」
「食った直後だろ」
「俺は老人じゃない」
「不老不死の奴に年齢の話されても困るんだけど」
レイブンは言葉に詰まった。
向かいにいたLynxが笑う。
「一本取られたわね」
「お前ら最近遠慮なくなったな」
「昔からよ」
それを聞きながら、レイブンはふと父のことを思い出した。
ヴァルターなら、きっと同じように座っていろと言う。
エリシアも言う。
Sageも言う。
ルナも言う。
以前なら煩わしいと感じたかもしれない。
今は少し違った。
「五分だけな」
「はいはい、隊長」
午後一時四十二分。
海底の三つの光点が同時に消えた。
警告音が鳴る。
解析室へ戻っていたレイブンは中央表示を見た。
「魔力線は?」
「維持しています」
「空間異常?」
「変化なし」
「地理座標外の反応は?」
Cipherが確認する。
「……上昇しています」
光が消えたのに、向こう側と推定される反応は強くなっている。
「全観測点、受動維持」
レイブンが命じた。
「こちらから何も送るな」
「了解」
海底映像に変化はない。
一分。
二分。
誰も口を開かない。
三分を過ぎた頃、ルナから通信が入った。
『兄様』
「感じた?」
『まだ。でも、何か変』
「身体?」
『違う。静かすぎる感じ』
「意味は?」
『分からない』
「それでいい」
レイブン自身には何も届いていない。
〔殺気看破〕も反応しない。
敵意がないのか、そもそも敵意という概念で捉えられる対象ではないのか、それすら判断できなかった。
やがてCipherが画面を拡大する。
「NoX、空間隔たりが変化」
「減少?」
「はい。ただし非常に遅いです」
「昨日より?」
「さらに遅い」
Lynxが尋ねる。
「近づいてるのに、遅くなってる?」
「そう見えます」
「何かを探してる段階が終わった?」
Houndが言った。
レイブンはその言葉を否定せず、しかし肯定もしなかった。
「観測を続ける」
午後二時十一分。
紫色の揺らぎが再び現れた。
今度は一瞬ではなかった。
海底石造構造物の中央付近で、水が薄く歪み、その向こう側の色が変わる。
十数秒。
映像が揺れる。
石が透けているわけではない。
海底が消えたわけでもない。
二つの像が同じ場所へ重なろうとして、どちらも完全には現れないような不安定な見え方だった。
「門形成反応なし!」
「空間歪曲は?」
「局所上昇。ただし既知の門より大幅に低い!」
「映像、複数点で確認!」
報告が続く。
レイブンは立ったまま画面を見る。
紫色。
そして、その向こうに何かがある。
「止めて」
Cipherが映像を一時停止した。
揺らぎの中に黒い影が見える。
生物か。
岩か。
建造物か。
まだ分からない。
「補正しすぎるな」
「はい」
SmartARによる推定輪郭表示を切る。
元映像だけが残る。
影は曖昧になった。
それでいい。
見えないものは、見えないまま扱う。
「動いてる?」
Hawkが尋ねる。
数秒分を連続再生する。
影の位置が僅かに変わっている。
だが揺らぎそのものが動いているため、対象の移動とは断定できない。
「生物判定は保留」
レイブンが言った。
「人型にもするな」
「了解」
その時、胸の奥へ感覚が触れた。
昨日より強い。
レイブンは即座に端末へ手を伸ばした。
言葉を探す前に、自分が感じたものだけを記録する。
暗さはない。
遠さも薄い。
代わりに、空気の感触のようなものがあった。
乾いている。
冷たい。
そして、頭上に広い空間がある。
そこまで記録したところで、一つの像が浮かんだ。
紫。
レイブンは入力する手を止めた。
これは今見ている映像に引っ張られた可能性がある。
記録には入れなかった。
「ルナは?」
「Nyx側から記録受信」
Cipherが答える。
「照合して」
二つが並ぶ。
レイブンの記録には、乾燥、低温、開けた上方空間。
ルナの記録にも、冷たい空気と広い空という表現があった。
しかし彼女は紫色について書いていない。
代わりに一つ、別の印象を残していた。
「風がある」
レイブンは目を閉じた。
異界の記憶が蘇る。
紫色の空の下を吹いていた乾いた風。
岩と土の匂い。
遠くまで遮るものの少ない荒れた土地。
「NoX」
Cipherの声がする。
「映像に変化」
レイブンは目を開いた。
紫色の揺らぎの向こうで、影が再び動いた。
今度は前より分かる。
何かがこちらへ近づいているように見える。
Houndの表情が変わった。
「人か?」
「まだ言うな」
レイブンは画面から目を離さない。
影は止まった。
揺らぎの向こう側。
こちらから見れば海底のはずの場所に、細長い何かが立っている。
輪郭だけなら、人型に近い。
だが、それ以上は分からない。
「こちらから信号は?」
Cipherが尋ねる。
「送らない」
「了解」
「相手が何かするまで待つ」
数秒が過ぎた。
影は動かない。
レイブンの耳には何も聞こえない。
殺気もない。
胸の奥へ届いていた感覚も弱くなっている。
やがて影が動いた。
腕に見える部分が持ち上がる。
Houndが息を呑む。
レイブンは反射的に身構えかけ、それを止めた。
敵意はない。
ただし安全でもない。
「全員、警戒だけ維持」
影の腕が上がる。
そして、石造構造物の方向へ伸びた。
触れたのかどうかは分からない。
その瞬間、海底の魔力線が一斉に明るくなった。
「反応上昇!」
「隔たり減少!」
「速度は?」
「上がっています!」
「門形成は?」
「まだありません!」
レイブンの視線は影から動かなかった。
次の瞬間。
声ではない何かが届いた。
昨日までの曖昧な印象より、明確だった。
それでも文章ではない。
焦り。
安堵。
恐怖。
そして何かを確かめた時の、強い感情。
レイブンは息を呑んだ。
通信の向こうでルナも声を失っている。
「記録」
レイブンは自分へ言い聞かせた。
感情だけを書く。
安堵。
緊張。
恐怖。
対象確認を想起。
発信主体不明。
送信する。
ルナの記録が届く。
ほぼ同じだった。
ただし最後に、彼女は一つだけ加えている。
「やっと見つけた」
レイブンの胸が強く鳴った。
影が誰なのかは分からない。
エルネかもしれない。
まったく知らない誰かかもしれない。
人ですらない可能性もある。
だが、そこに何かがいる可能性は、昨日までより確実に高くなっていた。
「NoX」
Houndが尋ねる。
「どうする?」
レイブンは画面を見る。
今ならこちらから応答できるかもしれない。
基準信号を送ることもできる。
思念伝達の原理を応用し、何かを返す方法を検討することもできる。
けれど、それは観測から接触へ踏み出すことを意味する。
「今日は返さない」
Houndが少し驚いた。
「いいのか?」
「分からない相手へ、分からない仕組みを使って即答する方が危ない」
「向こうが助けを求めてたら?」
「だから記録する。消えるまで見る」
レイブンはそこで言葉を切り、通信をルナへ向けた。
「Nyx」
『聞いてる』
「水上側の判断は?」
数秒の間。
『接近しない。舟艇は待機。現象が海面側へ出た場合だけ退避経路を確保する』
「了解」
レイブンは頷いた。
「それでいこう」
影はさらに一分ほどその場に留まった。
こちらへ手を伸ばしているようにも見えた。
しかし、やがて紫色の揺らぎが弱まり始める。
影も薄くなる。
最後まで顔は見えなかった。
姿も分からなかった。
そして完全に消える直前。
レイブンの胸へ、最後の感覚が届いた。
短い。
弱い。
けれど今までで最も単純だった。
待つ。
それだけだった。
紫色の揺らぎが消える。
海底には石造構造物だけが残った。
魔力線は消えていない。
空間的な隔たりも元には戻らない。
だが、接続は成立しなかった。
「記録保存」
レイブンが言った。
「推測と観測値を分けろ。人型という表現も暫定。エルネの名前は結論欄へ入れるな」
「了解」
Cipherが応じる。
Houndは画面を見たまま、静かに尋ねた。
「でも隊長」
「何?」
「お前、誰だと思った?」
レイブンは少し黙った。
「エルネだったらいいと思った」
「そっか」
「でも、分からない」
「それでいいんじゃねえか」
Houndはそれ以上何も言わなかった。
その日の夕方、レイブンはエリシアへ連絡を入れてから帰宅した。
玄関を開けると、家の中から子供の声が聞こえる。
戦場から帰還した時とは違う。
異界から生還した時とも違う。
それでも、扉を開けて誰かの声が聞こえる瞬間に胸の奥が緩む感覚だけは、昔から変わらなかった。
「ただいま」
「おかえり」
エリシアが答える。
レイブンは居間へ入り、眠りかけているルークを見てから、その隣でまだ目を開けているリリアへ視線を向けた。
「見えたの?」
エリシアが尋ねた。
「ああ」
「誰だった?」
「分からない」
「そう」
彼女はそれ以上急かさなかった。
レイブンは今日の記録を順番に説明した。
向こう側らしき反応。
紫色の揺らぎ。
人型に見える影。
同時に感じた感情。
そして、こちらからは応答しなかったこと。
「返したかった?」
「ああ」
「何て?」
レイブンは考えた。
「たぶん……こっちは見えてるって」
「それだけ?」
「それだけでいい」
エリシアは頷いた。
「なら、次に返す時はそれを伝えればいいんじゃない?」
「次があればな」
「あると思ってるでしょう?」
「期待はしてる」
「それでいいわ」
レイブンはリリアを抱き上げた。
娘の身体はまだ小さい。
腕の中で簡単に支えられるほど軽い。
それでも以前より少しずつ重くなっている。
成長している。
昨日と同じではない。
海底の現象もそうだった。
待つことは、何もしないことではない。
相手を見て、自分を確かめ、帰る場所を失わないまま次の一歩を選ぶための時間だった。
夜が深くなった頃。
フェルガリア沖の海底では、三つの光点が再び灯った。
最初の一点。
次に二点目。
そして三点目。
そこまでは昨夜と同じだった。
だが今回は、その先に四つ目の光が現れた。
昨日、紫色の揺らぎが生じた場所だった。
四点はしばらく淡く輝き、やがて最初の一点から順に消えていく。
最後に残ったのは、揺らぎの場所に現れた四つ目だけだった。
観測網はその変化を記録し続ける。
こちらからは、まだ何も送っていない。
それでも四つ目の光は、誰かが向こう側から同じ場所をもう一度探し当てたように、暗い海底で静かに残り続けていた。




