Season 8「継ぐ者、見守る者」 #140
第140話「帰還を求めるもの」
翌朝、レイブンは海へ出なかった。
前日にルナの舟艇から取得した記録を再確認するため、フェルガリア沖への有人観測は一時的に停止されていた。海底石造構造物周辺では夜間にも微弱な魔力反応が続いていたが、門の形成や大型生物の移動を示す兆候はなく、海底地形にも急激な変化は認められていない。だからこそ、人を近づけて新しい変数を増やすより、すでに得た情報を精査することが優先された。
フェルガリアの解析施設へ入ったレイブンを待っていたのは、徹夜明けのCipherだった。
机には空になった飲料容器が置かれ、端末上には昨日の観測記録が開かれている。人間種である彼には猫耳のような分かりやすい疲労の表れ方はないが、目の下に残った影だけで十分だった。
「寝た?」
レイブンが尋ねると、Cipherは画面から顔を上げた。
「少し」
「何時間?」
「質問を変えませんか」
「変えない」
「二時間弱です」
「寝ろ」
「NoXに言われたくありません」
返答が早かった。
レイブンは眉を寄せたものの、反論する言葉がすぐには出てこなかった。
「……俺は昨日帰った」
「知っています。Houndから聞きました」
「何であいつが報告してるんだ」
「隊長がちゃんと帰宅した、と」
「俺は子供か」
「少なくとも睡眠管理については、部隊内の信用が高くありません」
Cipherは淡々と言い切った。
レイブンは溜息をつき、空の容器を指で示す。
「解析結果を説明したら休め。続きは別の要員へ渡せ」
「ですが」
「俺も帰った。お前も帰れ」
そこでCipherが黙った。
レイブンは自分が口にした言葉を聞き返すように一瞬だけ止まり、それから何事もなかったように隣の席へ座った。
「それで、何が分かった?」
「確定したことは多くありません」
「それが一番信用できる報告だな」
Cipherが昨日の記録を表示する。
舟艇から取得した音響情報と魔力変動、潮流の変化、陸上観測所の記録が時間軸上で重ねられていた。SmartARによる統合表示はそれぞれの関連を視覚的に示しているが、線で結ばれているからといって因果関係まで証明されたわけではない。
「昨日、NoXとNyxが異常を感じた時間帯です」
Cipherが一部分を拡大した。
「魔力反応が上昇しています。音響反応もほぼ同じ時間帯に強くなっていますが、数秒単位のずれがあります」
「海中を伝わる時間?」
「その可能性もあります。しかし測定地点が異なりますから、単純比較はできません」
「俺たちが感じたものは?」
「機器上では、それに直接対応すると断定できる信号はありません」
レイブンは頷いた。
「なら昨日と同じだな」
「ただ、一つ追加があります」
別の記録が表示された。
「舟艇が観測区域から離れ始めた後です。魔力波形の変化が、舟艇の距離とある程度対応しています」
「弱くなった?」
「はい。ただし、NoXたちが感じたものと同じように、現象そのものが同時に弱まっただけかもしれません」
「俺たちを追っていた証拠にはならない」
「なりません」
レイブンは椅子へ深く座った。
「じゃあ、まだ海底に何かがいるとも言えない」
「はい」
「でも、いないとも言えない」
「その通りです」
扉が開いた。
「朝から難しい顔してんな」
Houndが入ってくる。
その後ろにはLynxとSageもいた。
「何で全員来るんだ」
「隊長がまた一人で海に行かねえか見張りに来た」
「行かないよ」
「昨日も最初はそう言ってた気がする」
「昨日は必要になったから行ったんだ」
「ほら、それだよ」
Houndが笑う。
SageはCipherを見るなり表情を変えた。
「あなた、寝てないでしょう」
「二時間弱」
レイブンが先に答えた。
「NoX」
「何?」
「それを知っていて解析させてるの?」
「今、説明が終わったら休ませるところ」
「ならいい」
Cipherが小さく息を吐く。
「私の意思は?」
Sageは微笑んだ。
「医療判断の参考にはするわ」
「決定権は?」
「今のあなたにはない」
HoundがCipherの肩へ手を置く。
「諦めろ。俺たちはもう包囲されてる」
「誰にです?」
「SageとValkyrieと家族持ちになったNoXに」
「俺をそこへ入れるな」
レイブンが言うと、Lynxが笑った。
緊張の続く解析室に、短い笑いが広がった。
やがてCipherが休憩へ下がり、解析担当が交代したところで、ルナから通信が入った。
『兄様、今いい?』
「大丈夫」
『こっちでも昨日の記録を見直した。少し気になることがある』
「何?」
『私たちが離れた後の潮流』
ルナから送られてきたデータをLynxが中央表示へ回す。
昨日、舟艇が観測区域から離れた後、海底構造物周辺の潮流が僅かに変化していた。変化そのものは小さく、航行に影響を及ぼすほどではない。
問題は方向だった。
「岸側へ寄ってる?」
Houndが画面を見る。
『正確にはフェルガリアそのものじゃない。私たちが通った航路の方』
ルナが答えた。
レイブンは眉を寄せる。
「舟艇の航跡の影響は?」
『最初に疑った。でも時間が離れすぎてるし、位置も少し深い。だからって追跡だとは言わないよ』
「分かってる」
『ただ、記録には残した方がいいと思う』
「ああ」
レイブンは海図を拡大した。
点として見れば意味のない変化でも、数日分を重ねると別の姿を見せ始めている。
反復する魔力。
低い音。
微細な潮流変化。
こちらから送った基準信号の後に生じた反応。
そして昨日、レイブンとルナが同時に感じた、言葉になる前の何か。
それらを一つの物語へまとめるのは簡単だった。
海底に誰かが閉じ込められ、助けを求めている。
だが、簡単に説明できるからこそ危うい。
「今日は近づかない」
レイブンが言った。
『うん』
「無人観測だけ継続する。昨日の航路周辺にも観測点を増やせる?」
『既存の装置を移すならできる。新しく海底へ下ろす必要はないよ』
「それで頼む」
『了解』
通信を終えようとした時、ルナが呼び止めた。
『兄様』
「何?」
『昨日のこと、エリシアには話した?』
「全部」
『そっか』
「何で?」
『私たち二人だけで抱えない方がいいと思って』
レイブンは一瞬黙った。
「分かってる」
『ならいい』
「ルナ」
『何?』
「お前もだぞ」
今度は向こうが黙った。
「俺だけに言うな。お前も部隊の連中に任せろ」
『……兄様に言われると複雑』
「俺も今そう思った」
ルナが笑う。
『了解。じゃあまた後で』
通信が切れた。
昼前、ヴァルグラント側から追加資料が届いた。
そこには、彼らが人為的な異界門技術を確立する以前に記録していた自然発生型空間異常の事例が含まれていた。多くは短時間で消失し、物質や生物の移動を伴ったかどうかすら不明だったが、ごく少数の記録には、異常発生地点周辺で「反復する魔力振動」が観測されたという記述が残されていた。
Hawkが資料を読み込む。
「今回と同じ?」
「そこまでは言えない」
レイブンが答えた。
「観測方法も年代も違う」
Lynxが別の部分を指した。
「でも、これ」
記録の一つには、山岳地帯で発生した空間異常の直前、周囲の動物が一方向へ注意を向け続けたという証言があった。
科学的な記録ではない。
当時の巡回兵が残した現場報告にすぎない。
「感覚が鋭い種族や動物が先に気づいた?」
Houndが自分の犬耳へ触れる。
「可能性はある」
Sageが答えた。
「でも、だからといってNoXとNyxが感じたものと同じとは限らないわ。二人には異界滞在経験もあるし、不老不死化に至った経緯にも未知の部分が残ってる」
「要因が多すぎるな」
レイブンが呟く。
「だから一個ずつ分けるの」
Sageはそう言って、レイブンを見る。
「あなた、自分を観測機器扱いし始めないでよ」
「してない」
「ならいいけど」
「俺の信用どうなってるんだ」
「戦場では高いわ」
「それ以外は?」
Sageは答えなかった。
Houndが笑い出した。
午後になると、日本側の海洋観測担当からも解析結果が届いた。
自然潮流だけでは説明しづらい変化が一部にあるものの、海底地形の急激な変動や熱源、通常の地震活動との明確な関連は確認できないという。つまり、自然現象を完全に排除できない一方で、既知の自然現象だけで説明することも難しくなりつつあった。
レイブンは報告を読み終えると、窓の向こうに広がる海を見た。
晴れ間が戻っている。
昨日まで灰色だった水面には薄い青が混じり、遠くでは民間船が航路を進んでいた。
平和な景色だった。
戦場のように敵味方が分かれていないからこそ、判断は難しい。
「NoX」
Hawkが呼んだ。
「何?」
「海底観測網に変化」
レイブンが振り返る。
中央表示へ新しい波形が出る。
魔力反応だった。
六度目。
だが今回は、これまでより明確に異なる。
「強い?」
Houndが尋ねる。
「強度は大きく変わりません」
交代した解析要員が答える。
「ただ、継続時間が長いです」
波形は消えない。
弱いまま、一定の範囲で揺れ続けている。
「音響は?」
「現在照合中」
数秒後、別の表示が立ち上がる。
低周波音が検出されていた。
レイブンの黒い猫耳が無意識に前を向く。
施設内では直接聞こえない。
それでも昨日の感覚を身体が思い出していた。
「ルナへ繋いで」
『もう見てる』
通信が開くなり妹の声が返った。
「早いな」
『こっちにも警告が来たから。兄様、これ……』
「まだ決めるな」
『分かってる。でも昨日より長い』
「ああ」
その時、解析要員が声を上げた。
「波形に変化」
魔力反応が二つに分かれる。
昨日と同じだった。
片方が先に上昇し、もう片方が僅かに遅れて追う。
重なった後に離れ、再び近づく。
だが今回はそこで終わらなかった。
二つの波形の間に、細い第三の変動が現れた。
「三つ?」
Houndの声から冗談が消えた。
「発生源の数とは限らない」
レイブンは即座に答えた。
「位置推定は?」
「同一範囲内です。分離できません」
「なら数として扱うな」
「了解」
レイブンは画面へ近づいた。
波形が変わる。
三本が同時に上昇する。
落ちる。
しばらく止まり、再び上がる。
その間隔を見た時、Lynxが何かに気づいた。
「これ、昨日の基準信号に近くない?」
解析要員が比較を始める。
完全一致ではない。
しかし、一部の間隔が以前より明らかに近づいていた。
Houndが低く呟く。
「真似してる?」
「そう見えるだけかもしれない」
レイブンは答えたものの、視線を外せなかった。
こちらから送ったもの。
海底から返ってきたもの。
それが偶然似ているだけなら、まだ説明はできる。
だが繰り返すたびに似ていくのなら、意味は変わる。
「もう一度基準信号を送る?」
Lynxが尋ねる。
レイブンは首を横に振った。
「今は送らない」
「理由は?」
「向こうが動いてる時に、こっちから重ねたら何に反応したか分からなくなる」
Hawkが頷く。
「観測に徹する?」
「ああ」
誰も操作しなかった。
海底から来る変化だけを待つ。
数十秒後、三つの波形が再び動いた。
今度は短い。
長い。
短い。
間が空く。
もう一度、同じ変化が繰り返される。
レイブンは呼吸を浅くした。
意味を探すな。
頭の中で自分へ言い聞かせる。
だが、反復そのものは事実だった。
「同じ並び?」
「誤差はありますが、非常に近いです」
解析要員が答える。
「記録継続」
レイブンはそれだけを命じた。
すると、通信の向こうでルナが息を呑んだ。
『兄様』
「どうした?」
『また感じる』
レイブンには何もない。
施設は海から離れている。
「昨日と同じ?」
『近い。でも……』
ルナの声が揺れる。
「無理に言葉にするな」
『分かってる』
「身体に異常は?」
『ない』
「なら、そのまま感じたことだけ話して」
しばらく沈黙が続いた。
『遠い』
昨日と同じだった。
『暗い。でも昨日より……近い』
「近い?」
『距離じゃないと思う。うまく言えない』
レイブンは急かさなかった。
ルナ自身が意味を探そうとしている。
やがて妹が続けた。
『見つけた、みたいな……』
解析室が静まった。
レイブンは目を閉じる。
「誰が?」
『分からない』
「何を?」
『それも分からない』
「なら、そこまででいい」
『兄様』
「何?」
『怖い?』
レイブンは海の見える窓へ目を向けた。
「少しな」
『私も』
「怖いなら、それも記録しろ」
『感情まで?』
「昨日の『帰りたい』と同じだ。俺たちの感情と向こうから来たものを混ぜないために必要だろ」
ルナは短く息を吐いた。
『了解』
反応は三分ほど続き、やがて弱くなった。
完全に消えた後も、誰もすぐには動かなかった。
最初に口を開いたのはHoundだった。
「どうする?」
レイブンは答える前に周囲を見る。
自分だけではない。
Hawkがいる。
Lynxがいる。
Sageがいる。
別室には解析担当者がいる。
海の向こうにはルナと舟艇隊がいる。
さらにヴァルグラントと日本側の観測担当も同じ記録を見ている。
「意見を聞く」
Houndが少し驚いた顔をした。
「俺に?」
「全員に」
レイブンは中央表示を消さなかった。
「接近調査を進めるべきか、このまま遠隔観測を続けるべきか。根拠込みで出してくれ」
Hawkが最初に答えた。
「私は遠隔継続。反応がこちらへ危害を与えていない以上、観測期間を延ばせます。急ぐ根拠がありません」
Lynxは少し考える。
「私は限定的に前進。人を海底へ入れるのは反対だけど、無人観測の距離は詰めたい。今の位置精度だと情報が足りなさすぎる」
Sageは医療側から口を開いた。
「有人接近には反対。NoXとNyxにだけ感覚反応が出る理由が不明なまま二人を近づけるのも反対」
Houndは腕を組んだ。
「俺はLynx寄りだな。こっちから喧嘩を売らず、人も入れず、見る目だけ少し前へ出す。何かあったら捨てて逃げられるやつで」
レイブンは一つずつ聞いた。
否定しない。
すぐに自分の答えも言わない。
「Nyxは?」
通信の向こうでルナが考える。
『私も無人観測を一段だけ近づける。昨日は自分で行ったけど、次は行かない』
「理由は?」
『私が感じること自体が観測へ影響する可能性を切れないから。まず私がいない状態を比較したい』
レイブンは小さく頷いた。
「俺も同意する」
決定はそれで固まった。
人間も亜人も近づけない。
既存の無人観測設備を、安全に回収可能な範囲で一段だけ前へ移す。
石造構造物への接触はしない。
能動的な魔力信号も送らない。
相手が存在するなら、次に何をするのかを見る。
夕方、レイブンが帰宅すると、玄関には見慣れた靴があった。
「父さん?」
居間へ入る。
ヴァルターがいた。
今日は子供を抱いていない。
椅子に座り、ルークの眠る小さな寝台を眺めている。エリシアはリリアを抱きながら、レイブンへ「おかえり」と声をかけた。
「ただいま」
レイブンは父を見る。
「今日は歩いてきてないよな?」
「開口一番それか」
「大事だろ」
「送ってもらった」
「ならいい」
ヴァルターが呆れたように息を吐く。
「お前は俺の父親か」
「息子だよ」
「だったらもう少し息子らしくしろ」
「どうやって?」
「知らん」
エリシアが笑った。
レイブンは装備を外し、リリアを受け取る。
娘は眠りかけていた。
「海は?」
ヴァルターが尋ねる。
「今日は行ってない」
「ほう」
「何だよ」
「お前が自分から行かなかったのが珍しいと思ってな」
「みんな同じこと言うな」
「みんな正しいんだろ」
レイブンは反論せず、今日の反応について話した。
三つに分かれた波形。
反復。
ルナが感じた「見つけた」という印象。
そして、次は無人観測だけを前へ出すこと。
ヴァルターは静かに聞いた。
「お前は何を感じた?」
「今日は何も。俺は海から離れてた」
「残念だったか?」
レイブンは娘を見た。
「少し」
「なら、それを忘れるな」
「どういう意味?」
「行きたい理由が任務なのか、自分が答えを知りたいだけなのか、混ざることがある」
レイブンは父を見る。
「教官に戻ってる」
「今のは父親だ」
「違いが分からない」
「俺もだ」
ヴァルターが笑った。
その時、ルークが目を覚まして小さな声を上げた。
ヴァルターは反射的に立ち上がろうとする。
「父さん、そのまま」
レイブンが言った。
「俺が行く」
「抱くくらいできる」
「できるのと、やる必要があるのは別だろ」
ヴァルターが口を閉じた。
エリシアが思わず笑う。
「それ、今日あなたが言われたこと?」
「似たようなことは」
レイブンはリリアをエリシアへ戻し、ルークを抱き上げた。
父は椅子に座ったまま、その様子を見ている。
「変わったな」
ヴァルターが言った。
「何が?」
「お前だ」
「そう?」
「昔のお前なら、全部自分でやると言っていた」
「今も結構やってる」
「だから変わったと言ってるんだ。別人になったとは言ってない」
レイブンはルークの背をゆっくり撫でた。
「不老不死でも?」
「身体が歳を取らないことと、人間が変わらないことは別だろう」
レイブンは黙った。
エリシアが静かに頷いている。
「この子たちも同じね」
彼女がリリアを見る。
「成長する。選ぶ。変わる。私たちが長く生きるからって、同じ形のままでいる必要なんてない」
「ああ」
レイブンは腕の中のルークを見る。
「変わっていい」
ヴァルターが息子を見る。
「その言葉、自分にも使えよ」
「……努力する」
「了解、じゃないんだな」
「家では禁止されてるから」
「誰に?」
「全員」
ヴァルターが声を立てて笑った。
その夜、父が帰り、子供たちが眠った後だった。
レイブンとエリシアが居間で話していると、任務端末が一度だけ振動した。
レイブンはすぐに手を伸ばさなかった。
「見ていいわよ」
エリシアが言う。
「緊急なら音が違う」
「でも気になるでしょう?」
「……気になる」
端末を開く。
Cipherからだった。
休息を取った後、再び解析へ戻ったらしい。
表示された文章を読んだレイブンの表情が変わる。
「何?」
エリシアが尋ねる。
「今日の六回目の反応を、ヴァルグラントの古い自然発生型空間異常記録と照合した」
「似てた?」
「一部だけ」
レイブンは続きを読む。
完全一致ではない。
同一現象と断定する根拠もない。
ただし、過去に空間異常が発生する直前に観測された反復魔力振動との間に、無視できない類似がある。
そしてCipherは最後に、さらに慎重な一文を添えていた。
現時点で異界門形成と判断することはできない。
だが、石造構造物周辺で何らかの空間的変化が進行している可能性を、従来より高く評価する必要がある。
エリシアも画面を読む。
「門が開く?」
「分からない」
「そう」
「でも明日の観測は少し変える必要がある」
「行くの?」
レイブンはすぐに答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
海はここから見えない。
それでも、その先にフェルガリアがあり、さらに沖合の暗い海底に、まだ正体の分からない石造構造物が眠っている。
「まずルナたちと話す」
「それから?」
「必要なら行く」
エリシアは頷いた。
「帰ってくる?」
レイブンは妻を見る。
「帰ってくる」
「なら、ちゃんと相談して決めて」
「ああ」
端末へ新しい通知が入った。
今度は自動観測網からだった。
レイブンが開く。
海底の魔力値が、再び上昇している。
七度目。
だが数値を見た瞬間、レイブンは違和感を覚えた。
これまでのような短い反復ではない。
弱い反応が途切れず、一定の幅を保ったまま継続している。
そして発生範囲が、僅かに広がっていた。
レイブンはすぐCipherへ通信を入れる。
「見てる?」
『はい』
「門形成?」
『まだ判断できません。ただ――』
Cipherが一度言葉を切った。
『空間測定値にも変化が出始めました』
レイブンの黒い猫耳が前を向く。
「誤差は?」
『再確認中です』
「ルナには?」
『同時に送っています』
数秒後、別回線が開いた。
『兄様』
ルナだった。
「見た?」
『うん』
妹の声は落ち着いていた。
だが、次の言葉だけは僅かに低くなった。
『今度は私も海から離れてるのに、感じる』
レイブンは立ち上がった。
「何を?」
短い沈黙。
『昨日と同じ。でも、もっとはっきりしてる』
ルナが息を吸う。
『帰りたい、じゃない』
「じゃあ?」
レイブンは端末を強く握らなかった。
無意識に力が入ろうとした指を、自分で緩めた。
ルナは、自分が受け取った感覚を言葉へ置き換えることに慎重になっていた。
それでも最後には、静かに答えた。
『帰る場所を、探してる』
レイブンは何も言わなかった。
エリシアも隣で聞いている。
海底から届いているものが意思なのか、それとも未知の現象へクロウ兄妹の記憶が意味を与えているだけなのか、まだ誰にも証明できない。
だからこそ、レイブンは答えを急がなかった。
「記録しておいて」
『うん』
「俺たちがそう感じた、というところまでだ」
『分かってる』
通信を切った後も、七度目の反応は続いていた。
海底で何が起きているのかは、まだ見えない。
けれど翌日の観測は、もはや昨日までと同じ条件では行えなかった。




