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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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139/189

Season 8「継ぐ者、見守る者」 #139

第139話「届くかもしれない声」

 出航予定時刻の一時間前、フェルガリアの空にはまだ夜の色が残っていた。

 前夜の雨は止んでいたものの、港には湿った冷気が沈み、防波堤の向こうでは低い波が絶え間なく護岸を叩いていた。東の空だけが薄い灰色へ変わり始め、係留された船の輪郭や岸壁を歩く作業員の姿が、港湾灯の光から少しずつ朝の景色へ戻りつつある。

 レイブンは河川特別舟艇隊の係留区画へ入ると、まず桟橋の先に並ぶ舟艇ではなく、そこへ至る経路と周囲の人員配置へ視線を向けた。

 燃料や整備機材を扱う区画は整理され、乗員以外の立ち入りは制限されている。海面は昨夜より穏やかだが、沖へ出れば条件が同じとは限らない。Smart-Visorには風向、潮流、味方位置、観測区域が重ねられていたものの、レイブンは表示を確認した後で海面を自分の目でも見た。黒い猫耳には機関の低い振動音、係留索が軋む音、遠くで動き始めた港湾車両の音まで届いている。

「早いね、兄様」

 声の方向へ振り返ると、ルナが桟橋を歩いてきた。

 白い猫耳の動きを妨げないようUAESの頭部装備は調整され、身体には水上任務向けに構成された装具が収まっている。外見だけなら普段の妹と変わらない。しかし、歩きながら乗員の配置と舟艇の状態へ視線を配る姿には、河川特別舟艇隊を率いる指揮官としての習慣が染みついていた。

「そっちも早いだろ」

「私は指揮官だから」

「俺も指揮官だよ」

「今日は違う」

 ルナは立ち止まり、兄を見上げた。

「昨日言ったでしょう。水の上では私の指示に従って」

「覚えてる」

「本当に?」

「昨日から何回確認するんだ」

「兄様だから」

 レイブンは反論しかけてやめた。

「……了解、Nyx」

「よろしい、NoX」

 二人は並んで舟艇へ向かった。

 今回の目的は海底石造構造物への接触ではない。過去数日にわたって繰り返された魔力変動と音響反応を、水上から異なる距離と角度で観測することにある。前日に送った低出力の基準信号と、その後に現れた反応との関連も確認するが、現象を刺激するために出力を上げることはしない。

 何より、石造構造物そのものへ近づきすぎない。

 分からないものを、分からないまま扱う。

 それが今回の航行におけるもっとも重要な前提だった。

「兄様の装備、確認していい?」

「ああ」

 ルナはレイブンのUAESを一通り見た。

 海上での行動を考慮して携行重量は陸上任務より抑えられている。モジュラー・ハーネスは黒い尾の動きを妨げず、装備の重心も舟艇上で姿勢を崩しにくい位置へ調整されていた。Smart-VisorとUAESは連携しているが、通信が切れても最低限の防護と携行機能は残る。

 ルナは最後にレイブンの火器へ目を向けた。

「使わないで済むといいね」

「ああ」

「でも持っていく」

「何があるか分からないからな」

「そこは兄様らしい」

「お前も持ってるだろ」

「私は隊長だから」

「またそれ?」

 ルナは少し笑い、舟艇へ乗り込んだ。

 レイブンも続く。

 乗員たちはすでに最終確認を進めていた。誰も今回の任務を戦闘出撃とは考えていない。それでも海上では、単純な機関故障や転落、急激な天候変化だけでも命に関わる。未知の魔力現象が加わるなら、警戒を緩める理由はさらに少なかった。

 レイブンが乗員の一人へ視線を向けると、相手は僅かに緊張した。

「俺を気にしなくていい」

「ですが、NoXが乗っているとなると……」

「今日は俺の舟じゃない」

 レイブンはルナを顎で示した。

「見るなら指揮官を見ろ」

 乗員がルナを見る。

 妹は満足そうに頷いた。

「そういうこと。いつも通りやるよ」

 機関の音が低く変わった。

 係留が解かれる。

 舟艇は岸壁からゆっくり離れ、港内を進み始めた。

 レイブンは後方へ遠ざかっていくフェルガリアの灯りを見た。陸上にはWOLF PACKが残っている。Houndが現場側の連絡を引き受け、Cipherが観測情報を統合し、HawkとLynxも沿岸側から補助する。GrizzlyとSageも必要時に動ける状態にある。

 以前なら、自分の部隊を丸ごと連れてきたかもしれない。

 だが、それでは今回の任務に必要な能力よりも、自分が安心するための人数を増やすことになる。

 レイブンはその違いを、以前より明確に理解していた。

『NoX、聞こえるか?』

 Houndの声が通信へ入った。

「聞こえてる」

『ちゃんとNyxの言うこと聞いてる?』

「お前までそれを言うのか」

『大事だからな』

「陸側の状況は?」

『異常なし。港も通常運用。Cipherは朝っぱらから数字と喧嘩してる』

『喧嘩してません』

 別回線からCipherが割り込んだ。

『解析しています』

『同じようなもんだろ』

『違います』

 レイブンは小さく息を吐いた。

「朝から元気だな」

『双子に起こされてない奴は元気なんだよ』

「帰ったら覚えてろ」

『怖い怖い』

 通信の向こうでLynxが笑う声が混じった。

 ルナが兄を見る。

「WOLF PACKっていつもあんな感じ?」

「平時はな」

「兄様も?」

「俺は違う」

『聞こえてるぞ』

 Houndの声が即座に返ってきた。

 通信が一瞬だけ賑やかになったが、外洋へ近づくにつれて自然に会話は減っていった。

 港を出る。

 防波堤の外では波の高さが少し増していた。

 舟艇が波を越えるたび船体へ衝撃が伝わり、レイブンは膝と腰で揺れを受け流した。UAESが姿勢変化を追い、装具の荷重が一方向へ偏りすぎないよう支える。それでも甲板そのものが動く感覚は消えず、陸上とは違う足場が身体へ絶えず修正を要求してきた。

 ルナはほとんど姿勢を崩さない。

「慣れてるな」

「何年やってると思ってるの」

「昔は船酔いしてたのに」

 ルナが振り返った。

「それ言う?」

「事実だろ」

「兄様だって子供の頃、高いところから降りられなくなったことあったじゃない」

「いつの話だよ」

「覚えてる」

「忘れろ」

「不老不死の妹にそれを要求する?」

 レイブンは黙った。

 ルナが勝ち誇ったように笑う。

 だが次の波を越えたところで、その表情から笑みが消えた。

「観測区域まであと十五分」

 指揮官へ戻る。

「速度を落とす。ここから先、海面と通信状態の変化を全部拾って」

 乗員たちの返答が重なった。

 レイブンもSmart-Visorを確認する。

 海図上に、海底石造構造物を中心とした接近制限範囲が示されている。自分たちの舟艇はその外側を弧状に進み、異なる方位から観測する予定だった。

 近づかない。

 だが遠すぎもしない。

 その境界を保つこと自体が、今日の仕事だった。

 最初の観測点では何も起こらなかった。

 海面は灰色の空を映し、低い波が続いている。魔力観測値も背景範囲を越えず、音響系にも特筆すべき反応はない。

 ルナは焦らなかった。

「次へ移動」

 舟艇が向きを変える。

 レイブンは妹の指揮を見ながら、自分が口を挟む必要がないことを確かめた。

 ルナは潮流を読み、波の入り方を見て速度を調整し、乗員の報告を短く受け取って次の指示へ繋げている。そこには兄の庇護を必要としていた幼い妹の姿はない。

 当然だった。

 ルナもまた、長い戦場を生きてきた。

 レイブンと同じように失い、迷い、帰る方法を探し続け、自分の部隊を率いるところまで来た。

「何?」

 ルナが突然尋ねた。

「いや」

「見てたでしょう」

「指揮を」

「採点してた?」

「してない」

「教官の顔だった」

「癖だよ」

「お父さんそっくり」

「今日二人目だぞ、それ言うの」

「誰が先に言ったの?」

「エリシア」

「じゃあ三人目もいると思う」

「誰だよ」

「お父さん本人」

 レイブンが顔をしかめたところで、観測員が声を上げた。

「魔力値、変化します」

 兄妹の意識が同時に海へ戻った。

 Smart-Visorの表示が更新される。

 小さい。

 だが確かに背景値を越えている。

「位置は?」

 ルナが尋ねる。

「石造構造物周辺。推定誤差あり」

「距離維持。そのまま進路を変えない」

 レイブンは口を挟まなかった。

 海面を見る。

 何も見えない。

 〔殺気看破(アタック・シールド)〕にも明確な敵意は触れない。

 だが、それは安全を意味しない。

 敵意のない自然現象でも人は死ぬ。

 殺意を持たない生物でも脅威にはなる。

 感知できないものが存在しないわけでもない。

「NoX」

 ルナが呼んだ。

「感じる?」

「殺気はない」

「それ以外」

 レイブンは答える前に、海へ意識を向けた。

 潮の匂い。

 機関の振動。

 風。

 船体へ当たる波。

 そのすべての下に、昨日録音されたものと似た低い音が混じっている気がした。

「機関出力、少し落とせる?」

 ルナが操船員へ指示する。

 機関音が弱くなる。

 完全に止めれば海況への対応力を失うため、最低限の推進は残す。

 周囲の音が少し明瞭になった。

 レイブンの黒い猫耳が前を向く。

 ルナの白い耳も同じ方向を捉えていた。

 低い。

 遠い。

 水の中から伝わるため輪郭が崩れている。

 それでも、確かに何かがある。

「録れてる?」

「はい」

 観測員が答える。

「陸側にも送信中です」

『受信しています』

 Cipherの声が通信へ入った。

『昨日の記録と比較します』

 音が一度弱くなる。

 レイブンは海面を見つめた。

 波しかない。

 数秒後、再び音が来た。

 今度は少し長い。

 ルナが息を呑んだのが聞こえた。

「兄様」

「ああ」

 音そのものに意味はない。

 少なくとも、言語としては聞き取れない。

 それでも二人の中に、同じ記憶が浮かび上がっていた。

 紫色の空。

 異界の石。

 言葉ではなく、意思の輪郭だけが先に届いた感覚。

 レイブンはすぐにその記憶を現在の現象から切り離そうとした。

「Cipher」

『はい』

「俺たちの反応を根拠に解析を寄せるな」

『了解しています。音響と魔力波形だけで比較します』

「頼む」

 ルナが海を見たまま言う。

「でも、似てる」

「分かってる」

「昨日より」

「ああ」

「エルネだったら?」

 レイブンは妹を見る。

「まだその名前で呼ばない」

 ルナの耳が僅かに下がる。

「分かってる」

「期待するなとは言わない」

「兄様もしてる?」

 答えるまで少し時間がかかった。

「してるから、気をつけてる」

 ルナは小さく頷いた。

 その時、海面が変わった。

 大きな波ではない。

 舟艇から数十メートル離れた場所で、波紋が円形に広がった。

「右舷前方」

 観測員が報告する。

「確認」

 ルナは即座に速度を上げさせることも、近づけさせることもしなかった。

「距離維持。光学記録」

 レイブンも見る。

 波紋が広がる。

 一つ。

 続いて少し離れた場所に二つ目。

 海面下に巨大な影は見えない。

 泡もない。

 何かが浮上する兆候もない。

 Hawkの声が陸上から届く。

『沿岸側でも位置確認。今のところ水面変化のみ』

「魔力は?」

 レイブンが尋ねる。

『波紋とほぼ同時に上がってる』

 Cipherが答えた。

『ただし因果関係は未確認です』

「了解」

 ルナがレイブンを見る。

「基準信号を送る?」

「俺に聞く?」

「意見を聞いてる」

 レイブンは海を見る。

 昨日はこちら側から弱い刺激を送り、その後に反応があった。

 今日の現象がそれと関係している保証はない。

 だが今、自分たちは昨日より近い位置にいる。

「送るなら昨日と同じ範囲を超えない」

「私も同意」

 ルナが陸側へ確認を求める。

 Cipherが観測条件を照合し、日本側とヴァルグラント側の共同監視担当からも異論がないことを確認した。

『実施可能です』

 レイブンは最後に周囲を見る。

 舟艇。

 乗員。

 海。

 退避方向。

 通信状態。

 何かが変われば、すぐ離脱できる。

「Nyx」

「実施する」

 決定したのはルナだった。

 低出力の基準信号が送られる。

 目に見える変化はない。

 昨日と同じだった。

 送信が終わる。

 ルナは時計を見る。

 レイブンは見なかった。

 時間を数える代わりに海面を見続けた。

 一分。

 何もない。

 二分。

 舟艇が波に揺れる。

 二分半を越えた頃、観測員が身体を前へ乗り出した。

「反応」

 魔力値が上がる。

「位置?」

「昨日と同じ海域です」

「潮流変化」

 別の乗員が続ける。

「微弱。接近する流れではありません」

 レイブンの耳が音を拾った。

 低い音。

 昨日より近い。

 その直後、Smart-Visorの表示が一瞬だけ乱れた。

 位置共有の線がずれ、味方舟艇の表示が海図上で数メートル跳ぶ。

「表示誤差」

 レイブンが言った。

「視認を優先」

「了解」

 ルナも迷わない。

 誰もAR上の誤った位置へ身体を合わせようとはしなかった。

 表示は数秒で復帰した。

 しかし音は続いている。

 低く、途切れながら。

 レイブンは眉を寄せた。

「……待って」

 ルナが兄を見る。

「何?」

「音じゃない」

「え?」

「いや、音もある。でも……」

 レイブンは胸の奥に奇妙な圧迫感を覚えていた。

 痛みではない。

 敵意でもない。

 言葉でもない。

 以前、異界で思念伝達に初めて触れた時、意味を理解するより先に相手がそこにいることだけを感じた。その感覚に近い。

「ルナ?」

 妹は返事をしなかった。

 白い猫耳が完全に前を向いている。

「私も」

「同じ?」

「たぶん」

 レイブンは通信を開いた。

「Cipher、こっちの魔力曝露量は?」

『安全範囲内です。急激な上昇なし』

「乗員の状態確認」

 ルナが指示する。

 一人ずつ返答が来る。

 頭痛なし。

 吐き気なし。

 視覚異常なし。

 異常な感情変化も報告されない。

 レイブンとルナだけが、何かを感じている。

「兄妹だから、って説明じゃ弱いよね」

 ルナが言った。

「ああ」

「不老不死?」

「分からない」

「異界に行った経験?」

「それも分からない」

 レイブンは決めつけなかった。

「今は俺たち二人に共通する何かが反応してる。それだけ記録して」

『了解』

 Cipherが答える。

 その直後だった。

 思念のような感覚が、僅かに強くなった。

 レイブンの呼吸が止まりかける。

 意味がある。

 完全な文章ではない。

 声でもない。

 それでも、何かがこちらへ向けられている。

 方向を持った意思。

 感情。

 断片。

 ルナが手すりを握る。

「兄様……」

「ああ」

 レイブンの脳裏に浮かんだものと、妹が感じているものが同じかは分からない。

 だから彼は先に言わなかった。

「何を感じた?」

 ルナは目を閉じた。

「遠い」

 レイブンの背筋に冷たいものが走る。

「他には?」

「暗い。狭い……それから」

 ルナが目を開く。

「帰りたい」

 レイブンは何も言えなかった。

 自分が受け取ったものも、ほとんど同じだった。

 暗さ。

 距離。

 隔たり。

 そして帰還を求める、強い方向性。

 だが、そこから先の意味を自分の記憶が補っている可能性を否定できない。

「Cipher」

『聞いていました』

「記録には俺たちの主観として残せ。信号内容として確定するな」

『了解』

 ルナが兄を見る。

「兄様」

「まだエルネとは呼ばない」

「……うん」

「でも」

 レイブンは海を見た。

「誰かがいる可能性は、昨日より高く見ていい」

 ルナの表情が変わった。

 期待だけではない。

 指揮官としての緊張が混じる。

「接近する?」

「いや」

「私も反対」

「今日はここまでだ」

 レイブンの返答は早かった。

 Houndの声が陸側から聞こえる。

『意外だな』

「何が?」

『今のお前なら行くと思った』

「だから行かない」

『どういう意味だよ』

「行きたいからだ」

 通信が静かになる。

 レイブンは海から目を離さない。

「俺が行きたいと思ってる時ほど、判断を俺一人に寄せるべきじゃない」

 Houndは少し間を置いて答えた。

『了解、隊長』

 ルナが小さく笑った。

「成長したね、兄様」

「妹に言われたくない」

「お父さんには言われたい?」

「もっと嫌だ」

 それでも緊張は消えない。

 ルナは撤収を命じた。

 舟艇がゆっくり旋回する。

 石造構造物へ近づくのではなく、フェルガリアへ向けて進路を取る。

 レイブンは後方の海を見ていた。

 離れるにつれて、胸の奥にあった感覚が薄れていく。

 距離に関係しているのか。

 それとも現象そのものが弱まっているのか。

 まだ分からない。

 やがて何も感じなくなった。

「消えた?」

 ルナが尋ねる。

「ああ」

「私も」

「距離を記録して」

「もうしてる」

「さすが」

「隊長だから」

 ルナは前を向いた。

 帰路では誰も多くを話さなかった。

 恐怖ではない。

 興奮とも違う。

 海底に何かが存在する可能性が、数値ではなく二人の感覚へ触れたことで、現象が急に近くなった。

 しかし、それがもっとも危険な瞬間でもある。

 人間は意味を求める。

 意味が足りなければ、自分の経験で空白を埋める。

 レイブンはそれを戦場で何度も見てきた。

 だから、自分だけは同じことをしてはいけない。

 フェルガリアへ戻ると、解析室ではCipherたちがすでに記録の照合を始めていた。

 Houndがレイブンを迎える。

「おかえり、NoX」

「ただいま」

「海に飛び込まなかったな」

「ルナに沈められる」

「それは怖い」

 ルナが後ろから言った。

「聞こえてるよ」

「猫耳って便利だな」

「Houndも耳いいでしょう」

「俺は都合の悪い時だけ悪くなる」

 Sageが近づいてきた。

「二人とも座って」

「何で?」

 レイブンが尋ねる。

「未知の魔力現象を直接感じた人間が健康確認を拒否する理由を説明して」

「猫系亜人」

「今そこ?」

「……座ります」

 ルナが笑いながら隣へ座る。

 Sageは身体状態を確認したが、明らかな異常は見つからなかった。

「だから大丈夫だって」

 レイブンが言う。

「結果を見てから言うの」

「ヴァルター教官みたい」

 Houndが呟いた。

 Sageが振り返る。

「何か言った?」

「何も」

 その日の解析では、レイブンとルナが感じた内容を客観的な信号へ変換することはできなかった。

 音響記録には低周波の反復がある。

 魔力波形にも変動がある。

 こちらから送った基準信号の後に反応が発生した。

 しかし、そのどれにも「遠い」「暗い」「帰りたい」という意味を直接示す情報は確認できない。

 それでよかった。

 少なくともレイブンはそう考えた。

 分からない部分を、分からないまま残せている。

 夕方、彼は帰宅した。

 玄関を開けると、家の奥からリリアの泣き声が聞こえた。

「ただいま」

「おかえり。手を洗ってから来て」

 エリシアの声が返る。

「分かってる」

 洗面を済ませて居間へ入ると、エリシアがリリアを抱き、ヴァルターがルークを抱いていた。

 レイブンは足を止める。

「父さん、来てたの?」

「来ちゃ悪いか」

「無理して歩いてない?」

「家に入って最初に言うことがそれか」

「他に何を言えばいいんだよ」

「ただいま、でいいだろう」

 レイブンは少し黙った。

「……ただいま」

「おかえり」

 ヴァルターは満足そうに頷いた。

 その腕の中でルークが眠っている。

「海はどうだった」

「何で知ってる?」

「ルナから聞いた」

「情報が早いな」

「娘だからな」

「俺には?」

「お前はどうせ帰ったら自分で話す」

 レイブンは装備を外しながら、今日起きたことを話した。

 魔力反応。

 音。

 自分とルナだけが感じたもの。

 そして、それをまだ事実とは扱っていないこと。

 ヴァルターは途中で口を挟まなかった。

 最後まで聞いてから、ルークの背をゆっくり撫でる。

「帰りたい、か」

「ああ」

「昔のお前たちみたいだな」

 レイブンが父を見る。

「だから気をつけてる」

「何に?」

「助けたいと思いすぎることに」

 ヴァルターの目が少し細くなる。

「それで戻ってきたのか」

「今日はな」

「ならいい」

「それだけ?」

「何を期待してる」

「教官ならもっと何か言うかと思った」

「今は祖父だ」

 ヴァルターはルークを見る。

「それに、お前はもう俺が全部教える歳じゃない」

 レイブンは返事をしなかった。

 エリシアが微笑む。

「珍しく素直に聞いてる」

「聞いてるだけだ」

「昔からそれを素直って言うのよ」

 リリアの泣き声が少し大きくなった。

 レイブンは自然に手を伸ばす。

「代わる」

「お願い」

 娘を抱く。

 リリアはすぐには泣き止まなかった。

 戦場なら、問題には原因がある。

 射線が悪い。

 弾薬が足りない。

 敵がいる。

 地形が不利。

 だが子供は、理由を説明してくれない。

 レイブンは娘を抱きながら、部屋をゆっくり歩いた。

「今日な」

 リリアへ向けて、小さく話す。

「海の向こうで、帰りたいって言ってるかもしれない奴がいた」

 エリシアが聞いている。

 ヴァルターも何も言わない。

「本当にそう言ったのかは、まだ分からない。でも、もしそうなら……」

 レイブンはそこで言葉を止めた。

 リリアの小さな耳が動く。

「ちゃんと確かめてから迎えに行く」

 娘が少しずつ泣き止んでいく。

 ヴァルターが鼻で笑った。

「誰に説明してるんだ」

「リリア」

「分かるのか?」

「分からなくてもいい」

 レイブンは娘を見た。

「聞いてるから」

 ヴァルターは何も言わなかった。

 ただ、その表情にはわずかな笑みが残った。

 夜になり、ヴァルターが帰った後、レイブンは任務端末を一度だけ開いた。

 Cipherから解析途中の報告が届いている。

 海上で取得された魔力波形と音響反応の一部に、昨日送信した基準信号との弱い相関が認められる。

 ただし偶然、環境反射、未知の自然現象を排除できない。

 そして最後に、短い追記があった。

 海上班が撤収した後も、同じ海域から微弱な反応が一度だけ記録された。

 レイブンは返信する。

「継続観測。明日は接近しない。今日の全データを各観測班と再照合」

 送信する。

 端末を閉じようとして、もう一つの通知に気づいた。

 ルナからだった。

 文章は短い。

「兄様。あれが誰かはまだ分からない。でも、私にはやっぱり『帰りたい』って聞こえた」

 レイブンはしばらく画面を見ていた。

 それから返した。

「俺もだ。だから急がない」

 送信した後、端末を閉じる。

 寝室ではエリシアが待っていた。

「仕事終わり?」

「ああ」

「今日は本当に?」

「本当に」

 レイブンは隣へ横になった。

 暗い部屋の中で、リリアとルークの寝息が聞こえる。

 帰る場所がある者は、その場所へ戻ろうとする。

 レイブン自身、それを知っていた。

 ルナも知っている。

 だからこそ、海の底から届いたものへ、自分たちの記憶を勝手に重ねてはいけない。

 助けを求める声なら、見つけなければならない。

 危険なら、止めなければならない。

 そのどちらでもないのなら、それも受け入れなければならない。

 今はまだ、答えを決める時ではなかった。

 同じ頃、フェルガリア沖では無人の観測設備が暗い海を見張り続けていた。

 海底の石造構造物周辺で、微弱な魔力反応がゆっくりと上昇する。

 観測装置はそれを記録し、陸上へ送る。

 その波形は、昼間のものよりも整っていた。

 強弱を繰り返した後、一度だけ長く伸び、静かに背景値へ沈んでいった。

 意味は、まだ誰にも読めなかった。

 それでも今度の反応は、こちらから何も送っていない時間に始まっていた。

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