Season 8「継ぐ者、見守る者」 #138
第138話「海へ伸ばす手」
五度目の反応は、夜明けを待たなかった。
港湾自由都市フェルガリアの沖合では夜半から細かな雨が降り始め、海面を覆う雲が月明かりを隠していた。防波堤の灯火が濡れた水面へ細長く伸び、風に押された波が護岸へぶつかるたび、低い音を残して砕けていく。前日まで穏やかだった風向きも少しずつ変わり、港の観測所では潮流と視界の悪化を見越して監視態勢の調整が始まっていた。
午前三時を少し回った頃、海底観測網の一つが魔力反応を捉えた。
前四回よりも長い。
強度そのものは警戒基準を大きく下回っていたが、今回は数秒で消えず、弱い変動を繰り返しながら一分近く続いた。さらに、これまでとは異なる観測所でも同じ時間帯に微弱な反応が記録され、単一機器の誤差という可能性が一段と低くなった。
FENRIRの夜間監視要員は警報を発する代わりに記録範囲を広げた。
市街地は眠ったままだった。
その静けさの中で、クロウ家の任務端末が震えた。
レイブンは一度目の振動で目を開いた。
身体を起こすより先に黒い猫耳が動き、端末の位置を捉える。隣ではエリシアが眠っており、少し離れたところからはリリアとルークの穏やかな寝息が聞こえていた。
レイブンは音を立てずに寝台を離れた。
端末を手に取って廊下へ出る。
表示されていたのはCipherからの緊急度を抑えた連絡だった。
五度目の反応。
複数観測点で同時検出。
継続時間の増加。
そして海底石造構造物周辺における、ごく小規模な潮流変化。
レイブンの目から眠気が消えた。
「Cipher」
『起こしましたか』
「その質問、昨日も聞いた」
『では省略します。五度目です』
「見てる。誤検知の可能性は?」
『昨日より下がりました。ただし原因は不明です』
「門の形成兆候は?」
『既知のものとは一致しません』
「大型生物?」
『それを示す移動反応はありません』
「海底地震は?」
『日本側の観測班にも照会しましたが、現時点では説明できる地震活動は確認されていません』
レイブンは壁へ背を預けた。
原因を一つずつ消していくことはできる。
だが、消した先に答えが残るとは限らない。
「前回の反復波形は?」
『今回もあります。それと……』
Cipherの声が少し止まった。
「何?」
『反復の間隔が変わりました』
「どう変わった?」
『短くなっています』
レイブンは画面を拡大した。
前日までの記録と今回の反応が重ねられる。
一定ではない。
通信規格のような整然とした周期もない。
それでも、反応と反応の間が少しずつ短くなっていることだけは見て取れた。
「急かしてるように見えるな」
『そう見えます』
「見えるだけだ」
『はい』
「そこを忘れるな」
『了解』
通信を切ろうとした時、背後から声がした。
「行くの?」
レイブンが振り返る。
寝室の入口にエリシアが立っていた。
「起こした?」
「あなたがいなくなれば分かるわよ」
「まだ行くとは決めてない」
「顔はもう仕事に行ってるけど」
レイブンは否定しなかった。
エリシアは彼の端末へ視線を落とす。
「また海?」
「五回目。少し長くなった」
「危険度は?」
「分からない」
「なら、確認するのね」
「まず観測所へ行く」
レイブンが寝室へ視線を戻した。
リリアもルークも眠っている。
ほんの数か月前までなら、その光景を見ても出発を迷うことはなかったかもしれない。家族を大切にしていなかったわけではない。危険を確認することこそ家族を守る行為だと考え、自分が最初に危険へ近づくことを当然としていた。
だが今は、そこにもう一つの判断が加わっていた。
自分が行く必要があるのか。
行くなら、いつなのか。
誰へ任せられるのか。
エリシアはその迷いを見抜いたらしい。
「レイブン」
「何?」
「行かない理由を家族にしなくていいわ」
レイブンが妻を見る。
「でも、行く理由にもするなって言うんだろ?」
「分かってきたじゃない」
エリシアは小さく笑った。
「必要だから行くなら行って。必要じゃないなら、誰かに任せる。それだけよ」
「ああ」
「それから、帰ってきて」
レイブンの表情がわずかに緩んだ。
「そこは昔から変わらないな」
「変える必要がないものもあるの」
出発前、レイブンはUAES装備を整えた。
バイオ・タクティカル・ウェアの上からモジュラー・ハーネスを合わせると、腰から背部にかけての支持位置が彼の体格へ馴染んでいく。前回の評価で尾の付け根へ干渉した箇所には調整が入り、身体を捻っても以前のような圧迫感はない。スマート・セル・ヘルメットを装着しても黒い猫耳の動きは保たれ、廊下の奥から聞こえる子供たちの小さな寝息まで拾うことができた。
Smart-Visorを起動すると、装備状態とフェルガリア周辺の観測情報が視界端へ表示される。
レイブンは一度だけ通信接続を切った。
地図情報が消える。
共有情報も消える。
それでも装備そのものは身体へ合わせた状態を維持している。
再接続する。
「まだやってるのね」
エリシアが呆れたように言った。
「毎回じゃない」
「昨日もやってたでしょう?」
「昨日とは装備構成が違う」
「そういうところ、お義父様そっくり」
「父さんまで持ち出すなよ」
玄関を出る直前、レイブンはもう一度振り返った。
エリシアが立っている。
「いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
雨の中を走る車両から見たフェルガリアは、夜明け前にもかかわらず港湾部だけが動き始めていた。
貨物取扱区域では早番の作業員が防水装備を着込み、沖合では航路標識が一定の間隔で明滅している。異常を知っている者はごく少数であり、それ以外の人々にとっては雨が降るだけの普通の朝だった。
FENRIRの臨時解析室へ入ると、CipherのほかにHawkとLynxがいた。
「Houndは?」
レイブンが尋ねる。
「呼んでません」
Cipherが答える。
「どうせ来るだろ」
Lynxが言った。
「来ると思います」
Hawkも頷いた。
「何で全員あいつの行動だけ読めるんだ」
レイブンが呟いた直後、扉が開いた。
「おい、何で俺だけ呼ばれてねえんだよ」
Houndだった。
Lynxが笑いを噛み殺す。
「ほら」
「何がほらだ」
Houndは濡れた犬耳を振って水滴を落とし、レイブンを見る。
「で?」
「五回目だ」
「それは聞いた。海へ出るのか?」
「まだ決めてない」
レイブンは中央卓へ近づいた。
海図には石造構造物周辺の推定範囲と、複数観測所から得られた情報が重ねられている。SmartARは最も可能性の高い発生地点を示しているものの、その境界はぼやけていた。
「この表示、信用度は?」
「位置推定だけなら中程度です」
Cipherが答える。
「ただし海中魔力反射のモデルが不完全です。表示中心に現象源がある保証はありません」
「なら中心点を目標扱いするな。範囲として共有して」
「了解」
Hawkが別の資料を示した。
「港湾監視の光学系では海面に異常なし。夜間映像にも大型浮遊物はありません。雨で視程は落ちていますが、少なくとも水面上に何かが出た形跡は見えません」
「水中は?」
「そこが見えません」
「分かった」
レイブンは地図を見た。
見えない。
その事実は弱点だが、無理に埋めるべき空白ではない。
見えていないなら、見えていないものとして判断する。
しばらくして、ルナから通信が入った。
『兄様、聞こえる?』
「聞こえてる」
『水上側の準備はできた』
「出した?」
『まだ。待てって言ったの兄様でしょう』
「確認しただけ」
『信用ないなあ』
「あるから任せてる」
向こうが少し静かになる。
『そういうこと普通に言うようになったね』
「今そこ?」
『違う。海ね』
ルナの声が指揮官のものへ変わる。
『沿岸側から無人観測装置を追加した。石造構造物には寄せてない。雨で水面ノイズが増えてるけど、潮流変化はやっぱり出てる』
「大きさは?」
『昨日より少しだけ強い。でも舟艇が危険になるほどじゃない』
「潜航調査は?」
『今の情報だけなら、私はまだ反対』
レイブンの耳が僅かに動いた。
「理由は?」
『下に何があるか分からないから。視界も悪いし、魔力反応の原因も不明。人を入れる意味がまだ薄い』
「同意する」
『じゃあどうする?』
レイブンは海図を見た。
「近づかずに、こっちから反応を返せないか考える」
室内の視線が彼へ集まった。
Cipherが最初に口を開く。
「送信ですか?」
「思念伝達そのものじゃなくていい。相手が反応してるなら、こちらから観測可能な小さい刺激を送って変化を見る。ただし生物や構造物を傷つけるものは使わない」
「魔力波?」
「候補の一つ。ただし勝手に照射するな。既存設備で安全にできる範囲を確認して、ヴァルグラント側と日本側にも意見を聞く」
Houndが腕を組んだ。
「ノックするわけか」
「返事があるかは分からない」
「ドアかどうかも分からねえしな」
「ああ」
レイブンは海図から目を離さなかった。
「だから蹴破らない」
午前中いっぱいを使い、各陣営の観測担当者との協議が続いた。
ヴァルグラント側からは、自然発生型の空間異常へ強い魔力刺激を与えることに反対意見が出た。過去の研究では、外部刺激によって一時的に異常が増幅した例があるという。ただし、その記録は条件が異なり、今回の現象へそのまま当てはめることはできない。
日本側は、魔力現象とは別に海洋観測の観点から、まず既存の低出力機器を利用し、周辺環境へ与える影響を最小限に抑えるべきだとした。
FENRIR側でも意見は割れた。
反応を返せば何かが分かるかもしれない。
同時に、こちらの存在を相手へ知らせることにもなる。
相手がいるのなら。
昼を過ぎた頃、レイブンは会議室の窓際に立っていた。
雨は弱くなっている。
遠くに海が見える。
「迷ってます?」
Cipherが隣へ来た。
「迷ってる」
「珍しいですね」
「迷わない方が怖いだろ」
「NoXでも?」
「NoXだからだよ」
レイブンは腕を組んだ。
「撃つか撃たないかなら、敵が見えてる分まだ判断材料がある。今回は相手がいるかどうかすら分からない」
「それでも反応はあります」
「現象かもしれない」
「はい」
「誰かかもしれない」
「はい」
「だから困る」
Cipherは少し考えてから言った。
「SmartARの原型を思い出しますね」
「思念伝達?」
「最初から通信技術だったわけではありません。観測して、意味があるか確かめて、誤解して、また試して、それを繰り返して今の形になった」
「今回も同じだと言いたい?」
「いいえ」
Cipherは首を振った。
「同じだと決めないことが、あの経験から学んだことだと思っています」
レイブンは彼を見る。
「それ、俺が言いそうな台詞だな」
「指揮官の影響でしょうか」
「嫌だな」
「何でです?」
「全員俺みたいになったら面倒だろ」
Cipherが珍しく笑った。
「それは同意します」
「そこは否定しろよ」
午後二時過ぎ、試験方法が決まった。
新しい装置を作るわけではない。
港湾観測施設に既存配備されている魔力測定用校正設備を使用し、通常の試験範囲を超えないごく弱い基準信号を発する。それを海底へ向けた通信として扱うのではなく、周辺現象が外部刺激に反応するかを確認するための観測試験として実施する。
強度は低く抑えられ、異常が増大した場合は即座に停止する。
誰も海底へ近づかない。
ルナの舟艇隊も安全距離を維持する。
レイブン自身も陸上の観測所に残った。
「本当に乗らないの?」
通信越しにルナが尋ねた。
「何で?」
『兄様なら私の舟艇に勝手に乗ってくると思ってた』
「勝手には乗らない」
『前に乗った』
「あれは必要だった」
『兄様はいつもそう言う』
「今日は必要ない」
ルナの笑い声が返ってくる。
『了解。じゃあ、こっちは海面を見る』
「任せる」
観測室にはHound、Cipher、Hawk、Lynxが残り、GrizzlyとSageは別区画で待機していた。戦闘を前提とした配置ではないが、状況が変わった場合に人員を安全に退避させられる最低限の態勢だけは整えてある。
レイブンはSmart-Visor越しに観測情報を確認した。
ただし視界に表示させる項目は絞っている。
発信強度。
周辺魔力。
潮流。
味方位置。
それだけだった。
「開始します」
Cipherが告げる。
低出力の基準信号が発せられた。
観測室では何も起こらない。
音もない。
海も見た目には変わらない。
数値だけがわずかに動く。
レイブンは画面を見るのではなく、一度窓の向こうへ視線を向けた。
雨が海面へ落ちている。
Houndの犬耳が前を向き、Hawkは光学観測を続け、Lynxは沿岸監視情報へ目を走らせている。
「送信終了」
Cipherが言った。
基準信号が止まる。
待つ。
三十秒。
一分。
何も起きない。
Houndが小さく息を吐いた。
「留守か?」
「家だと決まってない」
レイブンが答える。
二分。
反応なし。
三分が過ぎた頃、Cipherが眉を寄せた。
「待ってください」
レイブンが画面を見る。
「何?」
「海底側で変動」
微弱だった。
前回までの反応よりもさらに小さい。
だが発生地点は同じ海域だった。
「自然変動の範囲?」
「まだ分かりません」
「時間差は?」
「二分四十七秒」
Hawkが尋ねる。
「反射にしては遅い?」
「単純な反射なら遅すぎます。ただし海中魔力伝播の条件が分からないので、意味のある遅延かどうかも判断できません」
「ルナ」
レイブンが通信を開く。
『見てる。潮が少し動いた』
「海面は?」
『異常なし』
「音響は?」
『目立ったものなし』
「了解。そのまま距離を保て」
『了解』
変動は一度だけ上がり、消えた。
観測室の誰も、それを返事とは呼ばなかった。
レイブンも呼ばなかった。
「もう一回やる?」
Houndが尋ねる。
「すぐにはやらない」
「何で?」
「一回目の影響が残ってる可能性がある。間隔を空ける」
「了解」
それから一時間近く、何も起きなかった。
レイブンは途中で椅子へ座り、Sageから渡された飲み物を口にした。
「寝不足?」
Sageが尋ねる。
「少し」
「少しって言う人ほど寝てない」
「子供が二人いるんだ」
「知ってる。だから言ってるの」
「勤務中だぞ」
「私は救護担当」
「強いな」
「Valkyrieにも頼まれてるから」
レイブンが止まる。
「何を?」
「あなたが無理してたら止めてって」
「いつ?」
「内緒」
「それは指揮系統を越えてない?」
「家庭の指揮系統じゃない?」
Houndが横から笑った。
「NoX、包囲されてんな」
「黙れ」
その軽いやり取りの途中で、観測装置が再び反応した。
今度は誰もすぐには口を開かなかった。
基準信号を送ってから一時間近く経っている。
先ほどの反応とは時間が離れすぎている。
レイブンは立ち上がった。
「記録」
「しています」
Cipherの指が端末上を動く。
魔力反応がゆっくり上昇した。
これまでのように強弱を繰り返す。
しかし今回は、途中で形が変わった。
「前と違う」
Lynxが言った。
「ああ」
レイブンも見ていた。
波形が二つに分かれている。
片方が上がる。
少し遅れて、もう片方が上がる。
重なる。
離れる。
また重なる。
「二つの発生源?」
Hawkが尋ねた。
「位置精度が足りません」
Cipherが答える。
「同じ場所から異なる波形が出ている可能性もあります」
レイブンの耳がわずかに伏せられた。
二つ。
その数だけで意味を作ってはいけない。
自分とルナ。
リリアとルーク。
エルネたち。
記憶はいくらでも勝手な関連を作る。
「意味づけするな」
レイブンが言った。
それは仲間へ向けた言葉であると同時に、自分自身への戒めでもあった。
「観測した事実だけ残せ」
「了解」
その時、ルナから通信が入った。
『兄様』
「何?」
声が硬い。
『水上側で音を拾った』
レイブンの背筋が僅かに伸びる。
「どんな音?」
『分からない。生物の鳴き声にも、構造物の摩擦音にも聞こえる』
「位置は?」
『石造構造物の方向。ただ、反響があるから確定できない』
「録音できた?」
『できた。送る』
音声が解析室へ転送される。
Cipherが再生した。
最初に聞こえたのは水の低い唸りだった。
その奥に、ごく微かな音が混じっている。
石同士を擦ったようにも聞こえる。
遠くで何かが鳴いているようにも聞こえる。
レイブンの猫耳が音源へ向き、再生が終わった後もその姿勢を保った。
「もう一度」
Cipherが再生する。
今度は雑音を除去しすぎない原音に近い状態だった。
海水の音。
船体へ当たる雨。
遠くの機関音。
その下に、確かに別の何かがある。
ルナの声が通信から聞こえた。
『兄様、聞こえた?』
「ああ」
『似てると思う?』
レイブンは目を閉じた。
紫色の空の下で聞いた声を思い出そうとした。
エルネ。
セイル。
アーシェ。
彼らと共有した思念は、普通の音声ではなかった。だから今の音と直接比較すること自体が正しいのかも分からない。
「分からない」
レイブンは答えた。
『そっか』
「でも記録する価値はある」
『うん』
「近づくなよ」
『分かってる』
そこで通信が一度乱れた。
レイブンが目を開く。
「ルナ?」
『聞こえてる』
「今のは?」
『こっちでも通信が一瞬落ちた』
CipherがSmartARネットワークを確認する。
「沿岸側でも瞬間的な同期遅延が出ました」
「原因は?」
「不明です。通常通信自体は回復しています」
レイブンはSmart-Visorの表示を確認した。
味方位置が一度だけ更新を止め、すぐに戻る。
UAES側に異常はない。
彼は反射的にVisorを外した。
視界から情報表示が消える。
それでも海はそこにある。
仲間の声も聞こえる。
装備も機能している。
「全員、ARが落ちても継続できる状態を維持」
Houndが頷いた。
「了解」
「ルナも」
『分かってる。こっちは元々そのつもり』
レイブンはVisorを再装着した。
情報が戻る。
便利だ。
だが、依存する理由にはならない。
海底の反応は数十秒後に消えた。
音も再び拾えなくなった。
その後二時間、何も起きなかった。
日が傾き始める頃、FENRIRは観測結果を整理した。
危機と断定できる情報はない。
門の形成も確認されていない。
敵対行動もない。
しかし、自然現象だけで説明するには不明点が増えた。
レイブンはルナとCipherを交えた通信会議で、次の判断を口にした。
「明日、条件が許せば水上から観測範囲を一段だけ近づける」
ルナが兄を見る。
『人員は?』
「必要最小限。石造構造物へ直接接近はしない」
『WOLF PACKは?』
「全部は出さない」
『兄様は?』
レイブンは一度黙った。
Houndが横から見ている。
Cipherも何も言わない。
「行く」
ルナの白い猫耳が少し動く。
『今度は必要?』
「ああ」
「理由は?」
『私が聞こうと思ったのに』
レイブンは小さく息を吐いた。
「俺とお前だけが、紫の空の世界で直接あの思念伝達を経験してる。似ているかどうかを機械だけに判断させるより、現場で比較できる人間が一人いた方がいい」
『亜人だけど』
「そこ突っ込む?」
『兄様が言ったから』
「……経験者が一人いた方がいい」
『なら納得』
「ただし、俺が指揮を奪うつもりはない。水上ではお前が指揮官だ」
ルナの表情が変わった。
兄ではなく、一人の部隊指揮官を見る顔になる。
『了解。乗るなら私の指示に従って』
「ああ」
『勝手に飛び込まない』
「飛び込まない」
『異常を感じても一人で動かない』
「分かった」
『本当に?』
「信用ないな」
『あるから確認してるの』
どこかで聞いたような言葉だった。
レイブンは苦笑する。
「了解、Nyx」
『了解、NoX』
その夜、レイブンが帰宅した時、リリアはエリシアの腕の中で眠り、ルークはまだ起きていた。
玄関で靴を脱ぎながら、レイブンはいつものように室内の音を拾った。窓は閉じている。異音はない。父ヴァルターから届いていた短い連絡が端末に残っている以外、家の中にはいつもの静かな時間が流れていた。
「ただいま」
「おかえり」
エリシアはレイブンの顔を見ただけで察した。
「明日、海へ出るのね」
「分かる?」
「妻だから、って昨日も言ったでしょう」
「そうだった」
レイブンは手を洗い、ルークを抱き上げる。
息子の黒い猫耳が父の胸元へ触れた。
「ルナの舟艇?」
「ああ。水上指揮はルナ。俺は観測と判断補助」
「WOLF PACK全部を連れていく?」
「必要ない。Houndたちは陸側に残す。Cipherは観測系との連携を担当してもらう」
「あなた一人だけ前へ?」
「舟艇隊がいる」
「そういう意味じゃないわ」
エリシアは静かにレイブンを見る。
「分かってる」
レイブンはルークを抱いたまま椅子へ腰を下ろした。
「前なら、自分の部隊ごと動かしてたかもしれない。でも今回は水の上だ。ルナの領分だよ」
「それを本人に言った?」
「言った」
「喜んだでしょう」
「顔には出してなかった」
「ルナは出るわよ」
「そうかな」
「兄妹なのに分からないの?」
「妹は難しい」
「子供たちはもっと難しくなるわよ」
レイブンは腕の中のルークを見る。
「今でも十分難しい」
エリシアが笑った。
少しして、リリアが目を覚ました。
小さな声を上げる娘をエリシアが抱き直し、レイブンはルークを胸元へ寄せる。
明日になれば海へ出る。
何が待っているのかは分からない。
敵かもしれないという証拠もなく、味方かもしれないという保証もない。
それでも、分からないものへ銃口を向ける前に、まず見ようとすることはできる。
聞こうとすることもできる。
そして、必要なら引き返すこともできる。
「レイブン」
「何?」
「明日、何も分からなくても焦らないでね」
「ああ」
「何も起きなくても、それは失敗じゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
レイブンは少し考えた。
「……分かろうとしてる」
「それならいいわ」
エリシアはそれ以上言わなかった。
夜が更け、家族が眠った後、レイブンは翌日の装備を最後に一度だけ確認した。
海上任務に必要な防護。
Smart-Visor。
通信装備。
UAESの身体適合状態。
携行する火器も点検したが、目的は戦うことではない。
使わずに帰れるなら、それが一番いい。
装備確認を終えると、レイブンは任務端末を閉じた。
窓の外では雨が止み始めていた。
遠いフェルガリア沖では、ルナの部下たちが翌日の観測航行に備え、舟艇の機関と通信系を確認している。陸上ではCipherたちが観測データを整理し、ヴァルグラントと日本側の担当者もそれぞれの記録を照合していた。
誰か一人が答えを持っているわけではない。
だから、それぞれが見えるものを持ち寄る。
レイブンは寝室へ戻った。
リリアとルークの寝息を聞き、エリシアの隣へ横になる。
黒い猫耳が家の外を通る風を拾ったが、今夜はそれ以上の音を探そうとはしなかった。
その頃、フェルガリア沖の海底では、石造構造物周辺の観測値がもう一度だけわずかに揺れた。
これまでの反応より弱く、観測所の自動判定なら背景変動へ埋もれていた程度のものだった。
しかし記録された波形には、昼間こちら側から送った低出力の基準信号と、ごく一部だけ似た間隔が含まれていた。
偶然なのか。
海底環境による反射なのか。
それとも、別の何かなのか。
海は答えを示さないまま、翌朝を待っていた。




