Season 8「継ぐ者、見守る者」 #137
第137話「海底から届く声」
フェルガリア沖で観測された小さな魔力変動は、一度きりでは終わらなかった。
最初の記録から六時間後、沖合の観測設備が二度目の変動を拾った。強度は前回とほとんど変わらず、海面には目立った異常がなく、潮流にも説明できないほどの変化はない。さらに夜が明ける直前、三度目の反応が記録されたことで、それまで単発の誤差として扱われていた数値に一定の規則性が見え始めた。
クロウ家では、まだ外が暗いうちからルークが目を覚ましていた。
レイブンは泣き声が大きくなる前に気づき、隣で眠っているエリシアを起こさないよう静かに寝台を離れた。黒い猫耳が音の方向を捉え、暗い室内でも金色と黒のオッドアイは家具の輪郭を見失わない。足元に置かれたものがないことを確かめながら子供たちのところまで歩き、眠っているリリアを起こさないようルークを抱き上げた。
「どうした」
胸元へ抱くと、ルークの小さな黒い猫耳が父の声へ反応して動いた。
「腹か。それとも眠れないだけか」
答えはない。
「分からないな」
「ようやく諦めた?」
背後からエリシアの声がした。
レイブンが振り返る。
「起こした?」
「ルークに起こされたの。あなたじゃないわ」
「ならいい」
「何がいいのよ」
エリシアは笑いながら起き上がった。以前より動作は滑らかになっているものの、レイブンは無意識に妻の足元へ視線を向け、立ち上がる時にふらついていないかを確認している。
「見なくても大丈夫」
「何が?」
「今、足元を確認したでしょう」
「してない」
「したわ」
「……癖だよ」
「知ってる」
エリシアが近づき、ルークの頬へ指先で触れた。
「熱はなさそうね」
「ああ」
「お腹は?」
「たぶん違う」
「じゃあ少し抱いてれば落ち着くかも」
レイブンは頷き、ゆっくり室内を歩いた。
その時、居間に置いていた任務端末が短く振動した。
音量は落としてある。
それでもレイブンの耳は拾った。
足が止まる。
「行って見てきて」
エリシアが言った。
「でも」
「ルークは私が抱くから」
「無理するなよ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「あなたが重いの」
レイブンはルークを妻へ渡し、居間へ向かった。
端末を開く。
Cipherからの連絡だった。
画面にはフェルガリア沖観測網の記録が表示されている。
最初の反応。
二度目。
そして三度目。
完全な等間隔ではない。それでも単なる観測ノイズと切り捨てるには、発生方向と魔力波形の類似が揃いすぎていた。
レイブンは数値を追った。
海底の石造構造物周辺。
以前、異界側の建築様式との類似が確認された場所。
その近傍から、弱い魔力変動が繰り返されている。
文章で添えられたCipherの所見は慎重だった。
現段階で門の形成兆候とは判断できない。
大型魔獣の活動を示す証拠もない。
海底地形の変動も検出されていない。
だが、既知の自然変動とも一致していない。
レイブンは通信を開いた。
「Cipher」
『起きてましたか』
「今起きた」
『すみません』
「送る必要があると判断したんだろ?」
『はい』
「なら謝るな。三回目まで同じ方向?」
『誤差範囲を含めれば、同一地点群と見ていいと思います』
「思います?」
『断定できる精度ではありません』
「それでいい。分からないなら分からないままでいい」
レイブンは椅子へ座った。
「Smart ARの統合結果は?」
『観測所ごとに微妙な差があります。現時点では推定中心点を出していますが、海底の魔力反射が混じっている可能性があります』
「表示だけで位置を決めるな」
『そのつもりです』
「ルナには?」
『まだです』
「俺から話す」
『了解』
通信を切る。
レイブンはすぐにルナへ連絡しようとして、指を止めた。
時刻を見る。
早い。
しかし妹も指揮官であり、水上作戦を専門とする。
家族だから起こすのではない。
必要な担当者だから連絡する。
そう考えて通信を入れると、三回目の呼び出し音で繋がった。
『……兄様?』
「起こした?」
『起きた』
「嘘つけ」
『今起きたから、起きてる』
「それは起こしたって言うんだよ」
向こうで布が擦れる音がした。
『何かあった?』
「海の反応が繰り返した」
ルナの声から眠気が消えた。
『何回?』
「合計三回。場所は前とほぼ同じ」
『石造構造物?』
「周辺。まだ断定はできない」
数秒、沈黙が続く。
『舟艇を出す?』
「まだ出さない」
『分かった』
返答は早かった。
レイブンが少し意外に思う。
「反対しないんだな」
『兄様が止める理由は分かるもの。水面が平穏でも、下で何が起きてるか分からない状態で近づけたくないんでしょう?』
「ああ。それに前回の構造物との関係も確定してない」
『じゃあ陸側の観測を増やす?』
「可能なら。あと舟艇隊の過去記録で似た波形がないか確認してほしい」
『やってみる』
「無理に結論を出す必要はない」
『分かってる』
少し間を置いて、ルナが続けた。
『兄様』
「何?」
『エルネの時と似てると思ってる?』
レイブンはすぐに答えなかった。
紫色の空。
冷たい石。
知らない世界。
帰りたいという思い。
言葉より先に届いた感覚。
自分とルナが経験した異界での記憶は、年月を経ても輪郭を失っていない。
「似ている部分があるかもしれない」
レイブンは慎重に言った。
「でも、それだけだ」
『うん』
「期待で観測結果を変えたくない」
『私も』
「だからエルネだとは考えない。少なくとも、今は」
『分かった』
通信を終える。
レイブンはしばらく暗い画面を見つめた。
後ろから足音がした。
振り返ると、エリシアがルークを抱いて立っている。
「聞いてた?」
「最後の方だけ」
「ルークは?」
「落ち着いたわ」
レイブンは立ち上がり、妻の腕の中を見る。
ルークは目を閉じている。
「海?」
「ああ。三回目が出た」
「行くの?」
「まだ分からない」
「あなたはどうしたい?」
レイブンは窓の外を見る。
夜明け前の空が、わずかに青み始めていた。
「見に行きたい」
「そうでしょうね」
「でも、俺が直接行く理由はまだない」
エリシアは少し笑った。
「それも言えるようになったのね」
「俺が行けば何でも分かるわけじゃないからな」
「昔なら?」
「たぶん、先に装備を準備してた」
「たぶんじゃないわ」
「……そうだな」
レイブンはルークの頭へ触れた。
「今は観測する。必要になったら動く」
「それでいいと思う」
夜が明ける頃、フェルガリアの観測体制は静かに強化された。
警報は出されなかった。
港も閉鎖されない。
市民生活を止める根拠はまだなかった。
商船は予定通り入港し、復興資材を積んだ車両が埠頭を離れ、朝の市場では店が開き始める。その日常の外側で、FENRIRの観測要員だけが沖合へ向ける目を増やしていた。
レイブンが施設へ到着した時、Cipherはすでに解析室にいた。
机の上には複数の観測結果が並び、Smart AR上には海岸線と沖合の推定位置が重ねられている。
Houndもいた。
「お前まで?」
レイブンが尋ねる。
「呼ばれてねえ」
「じゃあ何でいる」
「朝飯食ってたらCipherが走ってたからついてきた」
「犬か」
「犬系だよ」
「自分で言うな」
Houndは肩をすくめた。
「で、海底で何が踊ってんだ?」
「分からない」
「珍しく即答だな」
「分からないものを分かったふりしても仕方ないだろ」
レイブンは表示を見る。
「Cipher、重ねて」
「はい」
複数地点から得られた観測結果が一つの地図へ統合される。
Smart ARは各センサーの情報を組み合わせ、もっとも可能性の高い位置を半透明の範囲として示している。
円ではない。
海流と魔力反射の影響を受け、細長く歪んでいる。
「ここ全部が候補?」
「現状では」
「広いな」
「水中ですから。陸上より観測条件が悪いです」
Houndが腕を組む。
「海ってのは面倒だな」
「だからルナたちがいる」
レイブンが答えた時、通信が入った。
ルナだった。
『過去記録、少し見つけた』
「似たものが?」
『完全一致じゃない。でも第二次異界大戦末期、旧ヴァルナ沖で似た低強度反応が何度か記録されてる』
レイブンの耳が前を向く。
「当時はどう処理された?」
『海中魔力鉱脈の揺らぎ。戦時中だったから詳しい調査はされてない』
Cipherが別の端末を操作する。
「記録を送ってください」
『今送る』
古いデータが届いた。
解像度は低い。
観測機器も現在ほど精密ではない。
それでも波形の一部に似た特徴がある。
レイブンは画面へ顔を近づけた。
「場所は?」
ルナが座標を読み上げる。
Cipherが地図へ重ねる。
表示された地点を見た瞬間、解析室が静かになった。
完全に同じ場所ではない。
だが遠くもない。
現在の石造構造物が確認された海域を囲むように、古い反応地点が点在している。
「これ……」
Houndが声を低くする。
「構造物が見つかる前から反応してたってことか?」
「可能性はある」
Cipherが答える。
「ただし当時の観測精度が低すぎます。同一現象とは断定できません」
「構造物そのものが最近できたとも限らない」
レイブンが言った。
Cipherが頷く。
「海底堆積物の推定だけでは、正確な出現時期は決められていません」
レイブンは地図を見る。
第二次異界大戦。
異界門。
ヴァルグラント。
海底の石造構造物。
そして、さらに以前から存在した可能性のある弱い魔力反応。
単純に敵が門を開いた結果だと決めつければ、見落とすものがある。
「ヴァルグラントにも照会しよう」
Houndが眉を上げる。
「昨日まで敵だった連中に?」
「だから聞くんだ」
「信用する?」
「全部はしない」
レイブンはHoundを見る。
「向こうも俺たちを全部信用してないだろ」
「まあな」
「それでも、持ってる記録が違うなら比べる価値はある」
Cipherが通信経路を確認する。
「フェルガリアの共同窓口を通せます」
「軍事機密まで要求するな。海底異常と門観測に関係する範囲だけでいい」
「了解」
レイブンはさらに日本側の共同研究班にも共有可能な観測データを回すよう求めた。異界由来の現象であっても、海底地質や地震、潮流など自然現象の可能性を排除してはいけない。魔力反応を検出したからといって、原因まで魔法だと決める理由はなかった。
昼前、最初の返答がヴァルグラント側から届いた。
資料そのものは断片的だった。
彼らにも答えはない。
しかし、添付された古い記録の中に、レイブンの目を止めるものがあった。
異界門を人為的に開く技術が確立する以前から、一部地域では自然発生的な空間異常が知られていた。
海上。
地下。
山岳部。
発生地点に規則性はなく、長時間維持されるものも少なかった。
ヴァルグラント側はそれらを後の門技術研究へ利用したが、自分たちがすべての異界門現象を生み出したわけではない。
以前ゲルハルトから聞いた話とも一致する。
「やっぱりか」
レイブンが呟いた。
Houndが横から資料を見る。
「じゃあ、この海の下も自然発生?」
「まだ分からない」
「またそれか」
「今はそれでいい」
レイブンは画面を閉じなかった。
「人為的じゃない可能性が上がっただけだ」
午後になると、ルナ本人が解析室へ現れた。
白い猫耳の先には、海風で少し乱れた毛が残っている。
「舟艇で来た?」
「途中まで」
「近づいてないよな」
「兄様、私を何だと思ってるの」
「妹」
「指揮官でもあるんだけど」
「知ってる」
ルナは兄の隣へ立ち、海図を見る。
「この辺り、潮が変なの」
「今?」
「大きくは変わってない。でも水上班の記録を見てたら、ほんの少しだけ周期がずれる時間がある」
Cipherが反応する。
「観測時刻は?」
ルナが端末を差し出す。
照合する。
一回目の魔力変動。
潮流の微小な変化。
二回目。
また僅かなずれ。
三回目にも似た傾向があった。
完全同期ではない。
だが無関係とも言い切れない。
「水が動かされてる?」
Houndが尋ねる。
ルナは首を横に振る。
「そこまで強くない。何か大きなものが動いてるなら、もっとはっきり出る」
「じゃあ?」
「分からない」
ルナが兄を見る。
レイブンの口元が少し動いた。
「それでいい」
「兄様の真似じゃないからね」
「言ってない」
解析を続けていたCipherが突然顔を上げた。
「待ってください」
室内の視線が集まる。
「どうした?」
「波形の比較方法を変えます」
画面上で魔力変動の表示が拡大される。
強度ではなく時間変化だけが抽出される。
最初の反応。
弱く上がり、落ちる。
少し間が空く。
再び上がる。
その繰り返しには、自然な揺らぎとは少し異なる偏りがあった。
Cipherが過去記録を重ねる。
「周期そのものは一定ではありません。ただ……」
「ただ?」
「強弱の順序に似た形があります」
レイブンは画面を見る。
強い。
弱い。
弱い。
間。
強い。
完全な信号には見えない。
しかし、ただ乱れているだけにも見えなくなっていた。
ルナの白い猫耳がゆっくり前を向く。
「……これ」
「何か分かる?」
Houndが尋ねた。
ルナはすぐには答えない。
レイブンも同じだった。
胸の奥に、古い記憶が触れる。
紫色の空の下。
言葉を知らなかった者同士が、言葉になる前の意図を送り合った。
思念伝達。
後にSmartARへ繋がる技術の原型となった現象。
けれど、今目の前にあるものを同じだと断定するには証拠が足りない。
「Cipher」
レイブンが言う。
「思念伝達の初期記録と比較できる?」
「できます。ただし媒体が違いすぎます。あちらは直接的な魔力信号、こちらは海水と海底を通過した観測値です」
「それでいい。似てるかどうかだけ見る」
「了解」
解析が始まる。
待つ間、レイブンは窓の外へ目を向けた。
海は静かだった。
遠くを貨物船が進んでいる。
市民は普段通り生活している。
この程度の情報で港を止めれば、物流も復興も生活も傷つく。逆に、平穏に見えるからと無視すれば、異常が本物だった時に時間を失う。
その間に立つのが自分たちの仕事だった。
「兄様」
ルナが小さな声で呼ぶ。
「何?」
「もし、本当に向こうから誰かが呼んでたら?」
レイブンは海を見たまま答える。
「まず確認する」
「それから?」
「帰りたい奴なら、帰れる方法を探す」
ルナの表情がわずかに和らいだ。
「兄様らしい」
「お前もだろ」
「私は水路を開く」
「知ってる」
ルナは海図へ視線を戻した。
「じゃあ、見つけないとね」
「ああ。ただし急がない」
「うん」
解析には時間がかかった。
夕方が近づいた頃、Cipherがようやく結果を表示した。
「一致ではありません」
最初にそう言った。
レイブンは頷く。
「続けて」
「既知の思念伝達信号と同じ構造とは言えません。ただ、完全な自然変動として扱うには、繰り返し部分が多いです」
「人工信号?」
「それも断定できません」
「なら分類は?」
Cipherは少し考えた。
「未確認反復魔力現象。今は、それ以上に呼ばない方が安全です」
「それでいこう」
Houndが頭を掻く。
「地味な名前だな」
「地味でいい」
レイブンは言った。
「名前を派手にすると、名前に判断を引っ張られる」
「お前らしいな」
その時、観測端末から短い警告音が鳴った。
全員が画面を見る。
四度目。
海底から魔力変動が上がる。
強度はこれまでと同程度。
だが今回は少し長い。
Cipherが記録を開始する。
「観測継続。補正前データも保存します」
「潮流は?」
レイブンが尋ねる。
ルナが自分の端末を見る。
「変化あり。小さいけど出てる」
「位置は?」
「前と同じ海域です」
レイブンは画面を見つめた。
強度が上がる。
下がる。
また上がる。
その時だった。
Smart ARの解析補助が、一部の波形を別の形式へ変換した。
音ではない。
言葉でもない。
ただ、レイブンの視界に表示された波形を見た瞬間、身体の奥に説明しにくい感覚が走った。
懐かしいわけではない。
同じものでもない。
それでも、何かを思い出させる。
レイブンの黒い猫耳が動きを止めた。
「兄様?」
ルナも画面を見ていた。
彼女の表情も変わっている。
「感じた?」
レイブンが尋ねる。
「……少し」
Houndが二人を見る。
「俺には何も分からねえぞ」
「それでいい」
レイブンはすぐに言った。
「俺とルナの記憶が勝手に結びつけてる可能性がある」
Cipherが二人の反応を記録する。
「何を連想しました?」
レイブンとルナが一瞬だけ顔を見合わせた。
答えたのはルナだった。
「石」
「石?」
「紫の空の世界にあった石。エルネたちがいた場所の」
レイブンも頷く。
「俺も同じだ。ただし、これがエルネと関係あるとは判断しない」
「了解」
Cipherはその言葉をそのまま記録した。
四度目の反応が消える。
解析室へ静けさが戻った。
レイブンはしばらく画面を見た後、通信端末を取る。
「観測体制を一段上げる。ただし警報は出さない。海域への不用意な接近も禁止。KRAKENを直接動かす段階じゃない。ルナ、水上観測の範囲を広げられる?」
「できる。石造構造物には寄せない」
「頼む」
「了解」
「Cipher、ヴァルグラントと日本側へ共有可能な範囲を整理。思念伝達との類似は可能性としても断定するな」
「了解しました」
「Hound」
「俺は?」
レイブンは少し考える。
「夕飯食って帰れ」
「俺だけ扱い雑じゃねえ?」
ルナが吹き出した。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
レイブンも息を吐いた。
まだ戦闘ではない。
敵もいない。
誰かが助けを求めていると決まったわけでもない。
だから銃を持って海へ走る必要はなかった。
その夜、帰宅したレイブンは玄関を開ける前に一度だけ周囲を確認した。
通りに異常はない。
家の窓から灯りが漏れている。
中からリリアの声が聞こえる。
鍵を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
エリシアが答える。
居間へ入ると、彼女はリリアを抱いていた。
「遅かったわね」
「海の方で四回目が出た」
エリシアの表情が変わる。
「危険?」
「分からない。でも観測は強化した」
「ルナは?」
「水上側を見る。直接近づかせてない」
「そう」
レイブンは手を洗い、戻ってくる。
ルークが目を覚ましていた。
黒い猫耳が父の足音へ向く。
レイブンは息子を抱き上げた。
「今日は起きてたか」
「あなたが帰る少し前にね」
エリシアはレイブンの顔を見る。
「何か気になることがあるでしょう」
「分かる?」
「妻だから」
「便利だな」
「Smart ARより?」
「比較するなよ」
エリシアが笑った。
「それで?」
レイブンは少し迷ってから答えた。
「今日の反応を見た時、俺とルナが同じものを思い出した」
「エルネ?」
「ああ」
エリシアはすぐに結論を出さなかった。
「同じ信号だった?」
「違う。少なくともCipherは一致しないと言ってる」
「なら、まだ分からないわね」
「うん」
レイブンはルークを抱いたまま椅子へ座った。
「昔の俺なら、たぶん確かめに行ってた」
「今は?」
「待つ」
「怖い?」
問いかけに、レイブンは少しだけ考えた。
「怖いというより、間違えたくない」
「何を?」
「助けを求めてるものを危険だと思って攻撃することも、危険なものを助けだと思って近づくことも」
エリシアは黙って聞いている。
「どっちもやりたくない。だから見る。聞く。比べる。それから決める」
「それでいいんじゃない?」
レイブンは腕の中のルークを見る。
「遅すぎるかもしれない」
「早すぎて間違えることもあるわ」
レイブンが妻を見る。
「あなた一人で決めることでもないでしょう?」
「ああ」
「ルナがいる。Cipherがいる。Houndたちもいる。ヴァルグラントにも日本にも、それぞれ違う知識を持つ人がいる」
エリシアはリリアを抱き直した。
「違うものを持ってるから、一緒に見る意味があるんでしょう?」
UAESの共同評価で何度も向き合った言葉が、別の形で返ってきた。
違う身体を一つの形へ押し込めない。
違う国の観測結果を一つの答えへ無理に合わせない。
違う経験を持つ者が、それぞれ見えたものを持ち寄る。
「……そうだな」
レイブンは静かに頷いた。
夜が深くなり、リリアとルークが眠った後も、レイブンは任務端末を開かなかった。
海では観測班が勤務している。
Cipherが解析を続けている。
ルナの水上部隊も警戒範囲を広げている。
自分が画面を見続けたところで、観測精度が上がるわけではない。
レイブンは寝台へ横になった。
エリシアが隣にいる。
少し離れたところから二人の子供の寝息が聞こえる。
黒い猫耳がその音を拾う。
しばらくして、別の音が鳴った。
任務端末ではない。
家の外を風が通り抜けただけだった。
レイブンは目を閉じる。
海の底に何があるのかは、まだ分からない。
それでも今は、分からないことを恐れて答えを作る必要はなかった。
フェルガリア沖では観測装置が暗い海へ感覚を伸ばし続け、海底の石造構造物周辺からは、それまでよりさらに弱い魔力の揺らぎが一度だけ浮かび上がった。
解析装置が拾うには小さすぎる変化だった。
だが波形は完全には消えず、海水の向こうで、ごく短い間だけ重なった。
強く。
弱く。
そして、もう一度だけ強く。
誰かがそれを言葉として聞いたわけではない。
答えも、まだ返されてはいなかった。




