Season 8「継ぐ者、見守る者」 #136
第136話「境界を越える装備」
港湾自由都市フェルガリアの朝は、海から吹き込む湿った風とともに始まった。
かつて軍用車両と補給物資ばかりが行き交っていた埠頭には、いまでは商船の荷役を待つ作業員や復興資材を運ぶ車両の姿が増えている。それでも港湾区画の一角にはFENRIRが管理する施設が残り、異界門を越えて持ち込まれた技術と、この世界で積み重ねられてきた工学や魔導技術を結びつける研究が続けられていた。
レイブン・S・クロウは、その施設へ向かう輸送車の後部座席でSmart-Visorを膝の上に置いていた。
隣にはノア・ヴェルナー《Cipher》がいる。向かい側ではガイル・ベッカー《Hound》が腕を組み、窓の外を流れる港の景色を眺めていた。
「朝から技術会議ってのは、どうにも性に合わねえな」
「寝るなよ」
「寝てねえ」
「目を閉じてただろ」
「考えてたんだよ」
レイブンの黒い猫耳が、わずかにHoundへ向く。
「何を?」
「昼飯」
「寝てた方がまだましだったな」
「ひでえ指揮官だ」
二人のやり取りを聞き流しながら、Cipherは手元の端末へ視線を落としていた。
「本日の参加者一覧が更新されました」
レイブンの表情が仕事のものへ戻る。
「変更?」
「ヴァルグラント側が二名追加。日本側は救助装備研究班に加えて、消防・災害医療系の技術評価要員が参加します」
「軍だけじゃないのか」
「日本側からの要望です。UAESの身体適応技術を、瓦礫下救助や特殊体型の要救助者への対応へ応用できる可能性を検討したい、と」
Houndが目を開けた。
「俺たちの装備を消防に使うのか?」
「そのまま渡すわけじゃない」
レイブンが答える。
「軍用の防護や携行機能まで必要とは限らない。使える考え方があるなら、必要な部分だけ見るんだろ」
「なるほどな」
Houndは窓の外へ視線を戻した。
「戦争で作ったもんが、人助けに回るなら悪くねえ」
レイブンは答えなかった。ただ、その言葉を否定する理由もなかった。
輸送車が研究施設へ入り、ゲートを通過すると、Smart-Visorを装着したCipherの端末へ施設内案内が表示された。レイブンもVisorを装着するが、すぐに情報量を方位、施設地図、同行者の位置だけへ絞り込む。必要な情報を増やしすぎれば、視界そのものが騒がしくなることを彼は知っていた。
建物へ入ると、すでに複数の言語が飛び交っていた。
帝国と連邦共和国、ヴァルグラント王政連合、日本。それぞれ異なる文化と技術体系を持つ者たちが同じ廊下を行き交い、そこには猫耳のある技術者もいれば人間種もいる。少し先では角を持つヴァルグラント兵が大型ケースを運び、その隣を翼のある技術要員が歩いていた。
レイブンの視線が翼の基部へ向く。
装備は干渉していない。少なくとも歩行状態では、翼本来の動きを邪魔している様子はなかった。
「もう見てる」
Houndが言った。
「何を?」
「装備」
「見るだろ」
「会議室に着く前から?」
「現場にいるなら見る」
「親父さんの血だな」
「最近そればっかり言うな」
会議室へ入ると、中央には人間種を基準とした固定式の椅子だけではなく、背部形状や尾、翼、体格差へ対応できる複数種類の座席が用意されていた。
レイブンはそれを見て、ほんの一瞬だけ足を止める。
「どうしました?」
Cipherが尋ねた。
「いや。こういうところからなんだろうなと思っただけだ」
軍用装備だけを可変化しても、社会の側が一つの身体だけを基準にしたままなら不便は残る。UAESが解決できるのは、その一部に過ぎないのだと、レイブンは自分の椅子へ腰を下ろしながら考えた。
協議が始まると、最初に共有されたのは多種族混成評価で確認された問題だった。翼を持つ兵士では着地時の荷重移動が遅れ、多腕型兵士では装備配置に改善の余地があり、大型骨格に対応する支持フレームでは一部へ応力が集中した。耳や角の基部には長時間装着による負担が生じる可能性があり、救護時には装備だけでなく、身体構造そのものへの知識も必要になる。
説明を聞きながら、レイブンは資料だけではなく参加者の表情も見ていた。
問題を欠陥と捉える者もいれば、調整すべき項目と見る者もいる。その違いは、これから装備がどちらへ進むかを左右する。
やがてヴァルグラント側の技術士官が口を開いた。
「一つ確認したい。共通化を進めるなら、ある程度の身体規格を設定した方が効率的ではないか?」
室内が静かになった。
レイブンは相手を見る。
「身体規格?」
「装備が対応すべき範囲を定めるという意味だ。たとえば体格、腕数、翼幅、角形状などについて標準範囲を設定し、その外側は専用品とする。全個体への完全対応を目指せば、装備が複雑になりすぎる」
指摘そのものは間違っていない。
UAESにも限界がある。利用できる素材量も、重量も、電力も魔力も有限であり、変形速度や整備性まで考えれば、あらゆる身体構造へ単一の装備だけで対応することは現実的ではない。
レイブンは腕を組んだ。
「対応範囲を決めること自体には反対しない」
技術士官が頷く。
「では――」
「ただし、順番は逆にしないでほしい。装備が対応できない身体を『規格外』として切り捨てるんじゃない。既存のUAESで対応できないなら、専用モジュールか別構成を用意する。そのための区分なら必要だ」
「結果として同じでは?」
「違う」
レイブンの声は静かだった。
「装備に合わないから兵士を任務から外すのと、その兵士が能力を発揮できる装備を別に用意するのは同じじゃない」
「コストは増える」
「増える」
「整備体系も複雑になる」
「なる」
「補給にも負担が出る」
「それも分かってる」
レイブンは相手の懸念を否定しなかった。
「だから何でも個別装備にしろとは言ってない。共通化できるところは共通化する。ただ、共通化するために兵士の身体を邪魔者扱いするなってことだ」
少し離れた席で、日本側の技術評価員が資料へ何かを書き込んだ。
別の参加者が口を開く。
「ではUAESの共通部分と、個体適応部分を明確に分ける必要がありますね」
Cipherが反応する。
「その方が整備面でも合理的です。共通基盤まで個別化すると補給体系が破綻します。一方、身体接触部や装備配置まで固定すればUAESの意味が薄れます」
「つまり骨格は共通、接点は可変?」
「概念的には近いですが、種族によっては骨格側そのものを変更する必要があります」
そこから議論は整備、補給、医療、防護、魔力消費、電子・魔導妨害、そして実際に装備を着用する兵士の感覚へと広がっていった。
理想だけを押し通せば戦場で使えない装備になる。効率だけを追えば、UAESが生まれた意味そのものが消える。
午前の協議を終えた参加者たちは実験区画へ移動した。
そこには複数のUAES評価装備が並んでいたが、どれも展示用の完成品のように整ってはいない。表面には擦れた跡が残り、支持材には調整痕があり、同じ設計から始まったはずの装備も実使用者へ合わせて輪郭が少しずつ変わっていた。
Houndが自分用の装備を見つける。
「俺のまで持ってきたのか」
技術員が答えた。
「耳基部の放熱不足を確認した個体です」
「蒸れるって書いただけなのに大事になったな」
「着けてみろ」
「はいはい」
Houndがバイオ・タクティカル・ウェアの上から装備を着用すると、スマート・セル・ヘルメットが犬系の頭部形状へ合わせて落ち着き、耳の周囲には以前より広い空間が残された。
Houndの耳が左右へ動く。
「どう?」
「悪くねえ」
「音は?」
レイブンが右後方へ回って指を鳴らすと、Houndの右耳が音へ向き、続いて左前方から同じ音を出せば左耳が反応した。
「前より自然だな」
「蒸れは?」
「今すぐ分かるかよ」
「長時間試験だな」
「それが一番嫌なんだが」
「自分で報告した」
「分かってるって」
その隣では、翼を持つヴァルグラント兵が改修型ハーネスを装着していた。
以前問題になった腰部への荷重集中を減らすため、携行品の一部が脚部と胸部側面へ移されている。ただし翼の動線には入っていない。
兵士が翼を開くと、羽毛が空気を押す音が実験区画へ広がった。レイブンの猫耳がその方向へ向く。
翼を閉じ、再び開く。
「圧迫は?」
「ない。ただ、右胸が少し重い」
「左右差?」
「そうだ」
技術員が端末を見る。
Smart AR上では荷重は許容範囲と表示されていた。
レイブンが横から画面を確認する。
「本人が重いと言ってるなら、許容範囲の方を疑った方がいい」
「数値上は――」
「数値は本人の身体じゃない」
技術員は一瞬止まり、すぐに頷いた。
「再調整します」
翼を持つ兵士がレイブンを見る。
「毎回そう言うのか?」
「何を?」
「装備より身体を優先しろと」
「必要なら」
「面倒な指揮官だな」
「よく言われる」
離れた場所からHoundの声が飛んできた。
「そいつ、家庭でも細けえらしいぞ!」
「Hound」
「聞こえてたか」
「耳を塞いでないからな」
周囲に笑いが起き、その空気が残っているうちに、日本側の評価班が一つの装備を持ち込んだ。
軍用のモーフィング・アーマーではない。防護材は薄く、武器携行を前提とした配置もない。代わりに身体へ沿う支持帯と、小型の可変フレームが組み込まれている。
「これは?」
「救助活動への応用試作です」
日本側の技術者が答えた。
「瓦礫内では狭い姿勢を長時間維持する場合があります。救助者の身体に合わせて支持位置を変えられれば、負担を減らせるのではないかと考えています」
「軍用UAESをそのまま使ってるわけじゃない?」
「設計思想と一部素材だけです。必要な機能が違いますから」
レイブンの口元がわずかに緩んだ。
「その方がいい」
「意外ですね。もっと共通化を求めるかと思いました」
「必要のない機能まで載せる方が邪魔になる」
「兵士が装備に合わせるな、でしたか」
「それだけじゃない。任務も装備に合わせる必要はない」
技術者は静かに頷いた。
午後には実際の動作評価が始まった。
戦闘を想定した競争ではなく、走り、屈み、身体を捻り、物を持ち、狭い空間を通り、負傷者役を支える一連の動作を繰り返しながら、装備と身体の間に生じる違和感を拾っていく。
鳥系は翼を展開し、猫系は低い姿勢から素早く方向を変え、犬狼系は頭部を大きく動かして聴覚と視覚の両方で周囲を確認する。装備はそれぞれの動きへ追従するが、完全ではなかった。
猫系の一人が急な方向転換をした時には腰部装備が尾へ触れ、犬狼系の兵士では頸部支持が強すぎて上方を見た際に動きが制限された。翼型では着地時の荷重問題が改善した一方、長時間飛行によって胸部側面へ疲労が集中する。
どの問題も、兵士へ我慢を求めて終わりにはしなかった。
動作を止め、本人の感覚を聞き、記録し、必要なら装備を外して再調整する。
レイブン自身も例外ではない。
低い姿勢から立ち上がった瞬間、背部の支持材が尾の付け根へ一度だけ圧力をかけた。
「停止。背中の支持材が尾の基部に当たった」
Houndが振り返る。
「動ける?」
「動ける。でも直す」
技術員が近づき、接触位置を確認した。
「現状でも運用可能な範囲ではあります」
「短時間ならな。長時間なら集中を削られる」
レイブンは装備を外した。
指揮官だから我慢するという選択をすれば、他の兵士へ違和感を報告しろと求めた言葉そのものが軽くなる。十五分ほどの再調整が始まる間も試験全体は止まらず、Houndが現場の一部を引き継ぎ、Cipherがデータ管理を続けた。
レイブンはその様子を黙って見ていた。
自分が一時的に抜けてもWOLF PACKは動く。
家を離れている間、エリシアが一人ですべてを背負う必要がないように、部隊でも誰か一人がすべてを抱える必要はない。
任せることは、役目を捨てることではなかった。
夕方、評価が終わった頃には、フェルガリアの港へ橙色の光が落ち、海面に長い反射を作っていた。
施設の外へ出たレイブンはSmart-Visorを外す。黒い猫耳へ波の音や荷役機械の駆動音、遠くの船が鳴らす汽笛が直接流れ込み、その中から背後へ近づいてくるHoundの足音を拾った。
「帰るか?」
「ああ」
「今日は残らねえの?」
「ログはCipherがまとめてくれる」
「変わったなあ」
「悪い?」
「いや。前のお前なら全部自分で確認してから帰ってた」
「今も確認するよ。明日」
「家で双子が待ってるから?」
レイブンは少し考えてから答えた。
「それもある」
「他は?」
「任せられる奴がいるから」
Houndは一瞬だけ黙った。
「……そういうこと急に言うなよ」
「何で?」
「気持ち悪い」
「返せ」
「何を?」
「今の言葉」
「無理」
Houndの笑い声を背に、レイブンは帰路についた。
クロウ家の玄関を開けた瞬間、料理の匂いとともに家族の声が聞こえてくる。
「ただいま」
「おかえり」
エリシアの声に続いて、聞き慣れた声が重なった。
「遅いぞ、兄様」
レイブンの耳が動く。
「ルナ?」
居間へ入ると、白い猫耳を持つ妹が床へ座り、その腕にはリリアがいた。ルークはエリシアのそばで眠っている。
「いつ来た?」
「少し前。今日は早く終わったから」
「舟艇隊は?」
「副長に任せてきた」
「珍しい」
「兄様にだけは言われたくない」
レイブンが言葉を詰まらせると、エリシアが笑った。
「お互い様ね」
手を洗い、任務用の上着を脱いで戻ると、ルナがリリアを抱いたまま兄を見る。
「今日も装備の試験?」
「ああ」
「どうだった?」
「問題だらけ」
「順調ってこと?」
レイブンは妹を見た。
「父さんと同じこと言うな」
「え?」
「この前、父さんにも言われた」
「じゃあクロウ家ではそういう意味なんじゃない?」
「嫌な家だな」
「今さら?」
ルナは笑いながら腕の中のリリアへ視線を落とした。
「この子たちが大きくなる頃には、もっといろんなものが変わってるんでしょうね」
「たぶん」
「兄様たちは変わらないけど」
レイブンの表情が少しだけ静かになる。
レイブンもエリシアもルナも、そしてリリアとルークも不老不死性を持つ。しかし、長く存在し続けることと、時間の中で何も変わらないことは同じではない。子供たちはこれから成長し、自分の足で歩き、自分の言葉を覚え、やがて自分自身の選択を重ねていく。
「変わらないわけじゃない」
レイブンが言った。
ルナが顔を上げる。
「身体のこと?」
「それもある。でも俺たち自身も変わるだろ」
「不老不死でも?」
「父親になって分かった。年を取らなくても、昨日と同じ自分ではいられない」
レイブンは眠っているルークへ視線を落とした。
「守るものも、考えることも増える。覚えることも増える。失うことだってある。身体が老いないからって、時間が止まるわけじゃない」
ルナはしばらく黙っていた。
「……母様が聞いたら、笑うかな」
「どうだろう」
「『ようやく分かったのですか』って言いそう」
レイブンの口元が少し緩んだ。
「言いそうだな」
セレナの姿はもうここにはない。それでも家族が彼女の声や仕草を覚えている限り、思い出は日常の会話へ自然に戻ってくる。
ルナがリリアの小さな手を見る。
「この子たちにも話すんでしょう?」
「何を?」
「母様のこと。祖母様のこと。戦争のこと。兄様たちが異界で何を見たのかも」
「いつかは」
「全部?」
「全部を一度には話さない。聞きたいと思った時に、分かる範囲で話す。俺の記憶が絶対に正しいとも言わない」
「生き続ける博物館?」
「ああ」
エリシアがルークを抱き上げる。
「でも博物館なら、戦争だけじゃ足りないわね」
「分かってる」
「今日の夕食も?」
「残す必要ある?」
「そういう普通の日を残せって、お義父様は言ったんじゃない?」
レイブンは食卓を見た。
銃声のない夜に妹が遊びに来て、妻が夕食を用意し、二人の子供が同じ部屋で家族の声を聞いている。軍歴にも戦史にも刻まれない時間だったが、いつかリリアやルークが自分たちの家族を知りたいと思った時には、戦場の記録よりもこうした日の方が家族の姿を正確に伝えるのかもしれない。
「じゃあ覚えておく」
「記録しないの?」
「何でも端末に残したら、覚える努力をしなくなる」
「兄様らしい」
ルナが笑った。
夕食の途中で、レイブンの任務端末が一度だけ震えた。
Cipherからの報告だった。
共同評価結果の整理が進み、ヴァルグラント王政連合と日本側へ共有可能な範囲の資料が準備されたという。その通知に続いて、フェルガリア沖の観測設備が短時間の魔力変動を記録したという情報が表示された。
異常値は小さく、警戒基準には達していない。
海底地形の変化も確認されていない。
ただ、その方向は以前観測された海底の石造構造物周辺と一致していた。
レイブンの金色と黒のオッドアイが画面へ止まる。
「兄様?」
ルナが気づいた。
「何かあった?」
「今のところは何も」
レイブンは端末を妹へ見せた。
白い猫耳がわずかに前へ向き、ルナの表情から笑みが薄れる。
「海の方……」
「ああ」
「STYXに確認させる?」
「まだ動かさない」
「どうして?」
「一回の小さな変動だけだ。以前の構造物との関係も確定してない。観測を続けてもらう。変動が繰り返すか、別の兆候が出たら、その時に判断する」
ルナは数秒ほど画面を見つめてから頷いた。
「分かった」
エリシアも判断を急かさなかった。
異常を検知したことと、危機が始まったことは同じではない。分からないものを分からないまま観測し、情報が足りない段階で結論へ飛びつかないことも、長い戦場経験の中で身につけた判断の一つだった。
レイブンは端末を伏せる。
「食べよう」
「冷めるわよ」
エリシアが言った。
「そうだな」
食卓へ意識を戻して間もなく、リリアが小さく声を上げた。ルナが腕の中であやし始めると、それにつられたようにルークも身じろぎし、レイブンが椅子から立ち上がる。
「兄様、そっちお願い」
「ああ」
レイブンは息子を抱き上げた。
窓の向こうにはフェルガリアの夜が広がっている。
港の灯りのさらに先には黒い海があり、その深い場所では、まだ誰にも答えを与えていない石造構造物が沈黙を保っていた。一方の陸上では、かつて敵だった国々の技術者たちが同じ机を囲み、人間種とも多様な亜人種とも異なる身体へ装備を合わせる方法を議論している。
戦争によって刻まれた国家の境界も、種族の身体に存在する違いも、世界そのものを隔てる境界も消えてはいない。
それでも、境界を越えるための方法は、銃を手に前進することだけではなくなっていた。
レイブンは腕の中で落ち着き始めたルークの黒い猫耳を見つめ、それからエリシアとルナ、リリアのいる食卓へ視線を戻した。
海で起きた小さな異変には観測を続ける者がいる。今日集めたUAESの記録には解析を続ける仲間がいる。自分がすべてを同時に抱え込む必要はなかった。
ルークの小さな身体を抱き直すと、息子の耳が父の胸元から伝わる声へ反応して微かに動いた。
「大丈夫だ。今日はここにいる」
エリシアがその声を聞いて微笑む。
レイブンは食卓へ戻った。
家族の会話が再び始まり、港の灯りは窓の向こうで静かに揺れている。そのさらに遠い海底では、観測装置だけが、ごく小さな魔力の揺らぎを拾い続けていた。




