Season 8「継ぐ者、見守る者」 #132
第132話「帰る場所に増えた声」
リリアとルークが生まれてから、クロウ家では一日の始まりを時計だけで知ることがなくなった。
まだ夜が明けきらない時間、レイブンは小さな泣き声に目を覚ました。身体を起こすより先に黒い猫耳が音の方向を捉え、隣で眠っているエリシアへ視線を向ける。出産から日が浅く、医師からも十分に身体を休めるよう言われていたため、レイブンは妻を起こさないよう静かに寝台を離れた。
廊下へ出る前に足元を確かめ、扉を開けながら無意識に家の中へ視線を走らせる。玄関までの動線、窓の施錠、昨夜消した照明、置かれている荷物の位置まで確認してから、ようやく自分が毎朝似たようなことをしていると気づいた。
軍人として身についた癖は、父親になったからといって簡単には消えないらしい。
ただし今朝、その警戒の先にいるのは敵ではなかった。
「……ルークか」
小さな寝床を覗き込むと、黒い髪を持つ息子が身体を動かしていた。隣ではリリアがまだ眠っている。
レイブンはルークを抱き上げた。
「どうした」
当然ながら返事はない。
「腹減ったか。それとも――」
泣き声が少し大きくなる。
「分かった。分かってないけど、何とかする」
「それ、分かってない人の台詞よ」
背後から声がした。
振り返るとエリシアが立っていた。
「起こした?」
「この子がね」
「寝ててよかったのに」
「あなた一人に任せて寝ていられると思う?」
「俺、そこまで信用ない?」
「父親としては訓練中でしょう?」
「Valkyrieに言われると教官評価みたいに聞こえる」
「今はValkyrieじゃないわ」
エリシアは近づきながら、夫の腕の中を覗き込んだ。
「この家では母親よ」
レイブンは少しだけ笑った。
「じゃあ俺もNoXじゃないな」
「そういうこと」
戦場で呼ばれてきた二つの名は、この部屋では必要なかった。ここにいるのはレイブンとエリシアであり、リリアとルークの父と母だった。
ほどなくしてリリアまで目を覚ましたため、静かだった家の中に二人分の声が重なった。レイブンがルークを、エリシアがリリアを抱き、互いにまだ慣れきらない動作で子供たちをあやしているうちに、窓の向こうの空が少しずつ明るくなっていった。
戦場で迎えた夜明けとは違う。
警戒線の向こうから何かが来るわけでもなく、無線から負傷者の報告が飛び込んでくるわけでもない。それでもレイブンは、この朝を軽いものだとは思わなかった。
守りたいものが、また増えたのだから。
数日後、エリシアと双子には正式な退院許可が下りた。
病院を出る前からレイブンは必要な荷物を確認し、子供たちの衣服を確かめ、次回の診察予定が記録されていることまで見直した。それでも玄関へ向かう途中で一度立ち止まり、病室へ振り返る。
「レイブン」
「何?」
「三回目よ」
「何が?」
「荷物の確認」
「……そうだっけ」
「病室を出る前に二回やったわ」
「足りないよりいい」
「この子たちまで置き忘れないようにね」
レイブンは腕の中のルークを見る。
「それは絶対ない」
「そうでしょうね」
エリシアの声には笑いが混じっていた。
病院の外にはルナが迎えに来ていた。
白い猫耳を立てて二人の姿を見つけた瞬間、駆け寄ろうとして途中で速度を落とす。
「兄様、エリシア姉様」
「おはよう、ルナ」
「退院、おめでとうございます」
ルナはそう言ってから、エリシアに抱かれているリリアを見る。
「リリア、お外ですよ」
「まだ分からないと思うぞ」
「いいんです。叔母なので話しかけます」
「叔母って便利だな」
「兄様も父親の権利を使えばいいでしょう?」
「父親の権利って何だよ」
「私に聞かないでください」
レイブンは苦笑した。
以前なら、こうしたやり取りの途中でも任務のことを考えていたかもしれない。だが今日はSmart-Visorもケースへ収めたままだった。緊急連絡だけは携帯端末で受信できる。それで十分だった。
WOLF PACKにはHoundがいる。
EINHERJARにもエリシア不在時の指揮系統がある。
組織は誰か一人が欠けただけで止まるようには作られていない。それを作ってきたのは、自分たち自身だった。
車でクロウ家へ向かう途中、街にはすでに朝の人波が生まれていた。
Smart-Visorを装着している者も珍しくない。FENRIRの隊員だけではなく、帝国や連邦共和国の制服を着た者、ヴァルグラント王政連合から来た技術要員、日本側の協力要員もいる。軍務だけでなく、港湾管理や災害対応、復興現場でもSmart ARは使われ始めていた。
その人波の中を、訓練区画へ向かうらしい一団が横切った。
レイブンの視線が自然にそこへ向く。
人間種の隊員と猫系亜人、犬系亜人が同じ隊列を歩いている。それ自体はFENRIRでは珍しい光景ではない。しかし以前と違うのは、彼らの装備が共通した設計思想を持ちながら、それぞれの身体へ異なる形で沿っていることだった。
猫系隊員の頭部装備は耳を押し込めず、外殻が基部を避ける形へ分かれている。犬系隊員のものは頭部とマズルの形状に合わせて前方構造が変わり、携行装具も人間種と同じ位置へ無理に固定されてはいない。それでいて弾薬や通信機器、救急用品の規格そのものは共通している。
レイブン自身も試験に関わってきた新しい装備体系だった。
Universal Adaptive Equipment System――UAES。
兵士が装備へ身体を合わせるのではなく、装備が兵士の身体へ合わせる。
Smart ARが異なる者たちの情報と認識を繋ぎ、RCAが弾薬と補給の違いを越えるための橋になったのなら、UAESは種族ごとに異なる身体と装備の間へ橋を架けるために生まれた。
ただし、身体の違いそのものを消す技術ではない。
猫系亜人の耳を人間と同じ頭部装備へ押し込むのでもなければ、鳥系亜人の翼を邪魔者として扱うものでもない。それぞれが持っている身体をそのまま活かしながら、同じ部隊で同じ任務へ参加できるよう装備側を変える。
訓練へ向かう猫系隊員が首を動かすと、頭部装備の外殻は耳の可動域を残したまま固定されていた。その横では犬系隊員のハーネスが体格に合わせて荷重を分散し、歩行のたびに装備が暴れないよう身体へ沿っている。
「兄様?」
ルナの声で、レイブンは窓から視線を戻した。
「どうしました?」
「UAESの装備を見てた」
「兄様、Smart-Visorの時もそうでしたけど、新しい装備を見ると仕事の顔になりますね」
「仕方ないだろ。現場に出すなら気になる」
「今日は休みです」
「見ただけだよ」
エリシアが前の席から振り返る。
「本当に?」
「本当に」
「帰ったら仕様書を開いたりしない?」
「……明日見る」
「少し間があったわね」
ルナが笑った。
レイブンは再び窓の外を見る。
「でも、一年で随分変わったなと思って」
「Smart ARですか?」
「それもある」
レイブンは腕の中のルークへ視線を落とした。
「一年前は、こいつらがいることすら知らなかった」
「エリシア姉様の妊娠が分かったのも、その頃でしたね」
「ああ」
「兄様、ものすごく慌ててました」
「お前、見てないだろ」
「エリシア姉様から聞きました」
「余計なことを」
「病院で立ったり座ったりしてたって」
「それくらい普通だろ」
「今回もやったんでしょう?」
「……やった」
ルナが笑った。
「やっぱり兄様ですね」
「何だよ、それ」
「安心しました」
レイブンは妹を見る。
ルナは窓の外へ視線を移した。
「兄様が変わっても、全部が変わるわけじゃないんだなって」
「俺、そんなに変わった?」
「変わりましたよ。昔なら、何でも自分でやろうとしてました」
レイブンは黙る。
「今はHoundさんに部隊を任せて、ちゃんと家族のところにいるでしょう?」
「それは……」
「いい変化だと思います。部隊長がいないと動けない部隊なら、兄様が今まで育ててきた意味がありませんから」
「言うようになったな」
「私も部隊長です」
「そうだった」
「忘れないでください」
「忘れてないよ」
ルナは少し得意そうに白い猫耳を動かした。
その耳を見ながら、レイブンは先ほどのUAES装備を思い出す。
かつては種族ごとに装具を作り直すことが当たり前だった。猫系なら猫系、犬系なら犬系、さらに個人差が大きければ専用品が必要になる。装備を共通化しようとすれば身体の側に無理を強い、身体を優先すれば補給や整備が複雑になる。
多種族、多国家で構成されるFENRIRが拡大するほど、その問題は無視できなくなっていた。
UAESはそれを一度に消してしまう魔法ではない。
大きく異なる体格には専用モジュールが必要になる。損傷すれば整備も必要であり、変形に使える素材も電力も魔力も有限だ。Smart ARとの連携が途切れれば高度な最適化は制限される。それでも最低限の防護と携行能力を失わないよう、装備そのものにも独立した機構が残されている。
完全ではないからこそ、現場で使える。
レイブンはそう考えていた。
完璧な技術など、戦場では最初から信用しない。
クロウ家へ着くと、玄関の前にヴァルターが立っていた。
「父さん、外で待ってたの?」
「今出たところだ」
「嘘ですね」
ルナが即座に言う。
「十分くらい前から待ってました」
「ルナ」
「お父様、寒いんですから中で待ってくださいと言ったでしょう?」
「孫が初めて帰ってくるんだぞ」
「だからって身体冷やしてどうするんだよ」
レイブンが呆れながら近づく。
「心臓と肺が弱ってるって言われてるだろ」
「分かっている」
「分かってる人は雪の残ってる日に外で待たない」
「もうほとんど解けている」
「そういう問題じゃない」
ヴァルターは息子の小言を聞き流し、レイブンの腕の中を見る。
「ルークは寝ているのか」
「ああ」
次にエリシアを見る。
「リリアも?」
「さっき少し起きましたけど、また眠りました」
「そうか」
ヴァルターの顔が緩む。
その変化を見て、レイブンは小さく笑った。
「父さん」
「何だ」
「完全に爺さんの顔になってる」
「お前は完全に父親の顔になったな」
「……そう?」
「自覚がないなら鏡を見ろ」
レイブンが何か言い返そうとしたところで、エリシアが先に家へ向かった。
「続きは中でやりましょう。リリアとルークを冷やしたくないわ」
「はい」
レイブンとヴァルターが同時に答える。
ルナが吹き出した。
玄関が開く。
レイブンはそこで足を止めた。
何度帰ってきたか分からない家だった。
少年だった頃も、志願兵になってからも、戦場からも、異界からも、何度もこの扉をくぐった。母の最期を見送るためにも、この家へ帰ってきた。
今日も同じ玄関なのに、腕の中にはこれまでいなかった存在がいる。
「レイブン?」
エリシアが振り返る。
「何でもない」
レイブンは一歩踏み込んだ。
「ただいま」
奥へ入っていたヴァルターが振り返る。
「おかえり」
ルナも続いた。
「おかえりなさい」
レイブンは腕の中のルークを見てから、エリシアに抱かれているリリアを見る。
「二人も、ただいまだな」
「あなたが言うの?」
「まだ喋れないだろ」
「なら今だけ代わりに言ってあげて」
「そうする」
家へ入った。
セレナの声はもう聞こえない。
その事実は変わらない。
居間には今も彼女の写真があり、ヘレーネの姿も家族写真の中に残っている。しかし、その隣には新しい写真を置くための場所が空けられていた。
レイブンはそこへ目を留めた。
「父さん、これ」
「今日撮る」
「今日?」
「全員揃っている」
「エリシア、退院したばかりなんだけど」
「座って撮ればいい」
「そういうところだけ準備いいな」
「教官を何年やったと思っている」
「家族写真と教官歴は関係ないだろ」
ヴァルターは答えず、古い写真機を持ってきた。
Smart-Visorでも携帯端末でも撮影できる時代に、わざわざ古い機械を選んだ理由をレイブンは聞かなかった。
父にとっては、それがよかったのだろう。
それだけで十分だった。
撮影までには思った以上に時間がかかった。
リリアが目を覚ませばルークが眠り、ルークを抱き直したところでリリアが声を上げる。ルナが姪をあやし、ヴァルターが孫を抱こうとしてレイブンから「無理するな」と止められ、エリシアが夫へ「あなたが一番慌てている」と笑ううちに、最初に決めた配置は完全に崩れていた。
最後には整列すること自体を諦めた。
エリシアが椅子へ座ってリリアを抱き、レイブンがその隣でルークを支える。ルナはエリシアの側へ立ち、ヴァルターはレイブンの隣へ並んだ。
「父さん、ちゃんと入ってる?」
「入ってる」
「確認した?」
「した」
「前もそれで端が切れてたことなかった?」
「いつの話だ」
「俺が子供の頃」
「覚えていたのか」
「写真残ってるだろ」
エリシアが笑う。
「二人とも、撮る直前くらい喧嘩をやめて」
「喧嘩じゃない」
また親子の声が重なった。
ルナが肩を震わせる。
写真機のタイマーが進んでいることに気づいたヴァルターが慌てて前を向き、レイブンもつられて顔を上げた。
その瞬間にシャッターが切れた。
完璧な写真ではなかった。
ルナはまだ少し笑っており、ヴァルターは姿勢を直しきれていない。レイブンも正面を向いたばかりで、エリシアだけが最初から落ち着いて笑っていた。リリアとルークに至ってはカメラなど気にもしていない。
それでも、ヴァルターは出来上がった一枚を長く見つめた。
「これでいい」
レイブンが横から覗く。
「撮り直さない?」
「必要ない」
「父さん、ちょっと動いてるぞ」
「だからいい」
ヴァルターは写真から目を離さなかった。
「家族なんて、こんなものだ」
レイブンは父の横顔を見る。
やがて何も言わず、もう一度写真へ視線を戻した。
セレナがいた頃の写真を外す必要はない。
ヘレーネの写真も残しておけばいい。
その隣へ、この一枚を置けばいいのだ。
失った家族を消して新しい家族へ置き換えるのではなく、生きた時間を一枚ずつ増やしていく。
父の言った「生き続ける博物館」とは、こういうことも含んでいたのかもしれない。
夕方になると、家の中はこれまでになかったほど騒がしくなった。
先に泣いたのはリリアだった。
エリシアが様子を見ようとしたが、レイブンが先に立つ。
「休んでろ。俺が見る」
「分かる?」
「分からなかったら聞く」
「それなら任せる」
レイブンは娘を抱き上げた。
数日前よりは手つきが安定している。それでも緊張がなくなったわけではない。
「リリア、どうした」
娘が泣く。
「それじゃ分からないな」
「兄様、赤ちゃんに状況報告を求めないでください」
「分かってるよ」
ルナが笑いながら近づいた時、今度はルークが声を上げた。
レイブンの猫耳が反対側へ向く。
「二人同時か」
「双子なんだから、そういう日もあるでしょう」
エリシアが言う。
「片方頼む」
「私がルークを」
ルナが動こうとしたところで、ヴァルターが先に立った。
「俺がやる」
「父さん、大丈夫?」
「孫を抱くくらいで倒れるか」
「その台詞が心配なんだよ」
「なら横で見ていろ」
ヴァルターはルークを抱く。
長い年月が経っていても、身体は覚えているらしい。ぎこちなさはありながら、レイブンより落ち着いている。
やがてルークの泣き声が弱くなった。
レイブンはまだ泣いているリリアと父を交互に見る。
「……なんで父さんの方が早いんだ」
「経験だ」
「何十年前の?」
「経験に期限はない」
「納得いかない」
エリシアとルナが同時に笑った。
レイブンは娘を抱きながら父へ近づく。
「教えて」
ヴァルターが一瞬だけ動きを止めた。
「何を」
「どうやった?」
「お前が俺に聞くのか」
「父親としては父さんの方が先輩だろ」
ヴァルターは息子を見る。
軍人だった頃、レイブンが射撃や装備の扱いを尋ねたことは何度もあった。教官となった父から、戦場で生き残るための考え方を教わったこともある。
だが今、息子が求めているのは兵士としての技術ではない。
「分かった」
ヴァルターは静かに答えた。
「教える」
「うん」
「ただし、この子たちはお前やルナとは違う。昔と同じ方法が全部通用すると思うな」
「了解」
「返事だけ軍人に戻るな」
「癖だよ」
レイブンは笑った。
その夜、二人の子供が眠った後も、家の中には小さな生活音が残っていた。
エリシアは身体を休め、ルナは翌日の勤務に備えて帰り、ヴァルターも早めに寝室へ入った。
レイブンだけが居間に残っている。
机の上にはSmart-Visor。
その横には、FENRIRから届いた装備評価用の薄い端末が置かれていた。
画面にはSmart ARの共同運用記録とともに、UAESの初期運用報告が並んでいる。
猫系隊員からは耳周辺の防護と聴覚維持について追加調整の要求があり、犬狼系では頭部形状と頸部可動域への個体差が予想以上に大きいという報告がある。翼を持つ隊員向けの装具では背部を開放したことで別の位置へ移した装備重量が腰へ集中し、長時間運用時の負担が課題になっていた。
レイブンは数行読んだところで指を止めた。
問題がある。
だから改良する。
それでいい。
兵士の身体を装備に合わせて我慢させるのではなく、装備の側を直す。その原則だけは変えてはいけない。
隣の部屋から小さな寝息が聞こえた。
黒い猫耳がそちらへ向く。
レイブンは端末へ短く返信した。
『受領。個体差を不具合扱いするな。装備側の調整余地を再確認。詳細は明日見る』
送信する。
端末を閉じた。
「珍しいわね」
エリシアが廊下に立っていた。
「起きてたの?」
「水を飲みに来ただけ。仕事は?」
「明日でいい」
「NoXが?」
「今はレイブンだろ」
エリシアは少し驚き、それから笑った。
「覚えてたのね」
「朝言われたからな」
レイブンは立ち上がる。
エリシアの横を通り、子供たちが眠る場所を覗いた。
リリアとルークは静かに眠っている。
「なあ、エリシア」
「何?」
「俺たち、ちゃんと親になれると思う?」
エリシアはすぐには答えなかった。
「もうなってるでしょう?」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
エリシアは夫の隣へ立った。
「失敗すると思うわ」
「そこから?」
「当然でしょう。私たちだって初めてなんだから」
レイブンが苦笑する。
「でも、間違えたら考える。分からなかったら聞く。この子たちが大きくなって、自分の意見を持つようになったら、それも聞く。それでいいんじゃない?」
「軍人になりたいって言ったら?」
「理由を聞く」
「なりたくないって言ったら?」
「好きなことを探させる」
「俺たちと違う道へ行くって言ったら?」
エリシアは眠っている二人を見る。
「見送る」
その答えには迷いがなかった。
「帰ってきたら?」
「おかえりって言う」
レイブンは静かに笑った。
「それでいいな」
「ええ」
彼はもう一度、二人の子供を見る。
リリアとルークには、両親から受け継いだ不老不死性がある。
それでも二人の時間が、今の姿のまま止まるわけではない。これから泣き方が変わり、言葉を覚え、歩き、自分の意思で家の外へ出ていく。身体も心も成長した先で、両親やルナと同じように、通常の寿命とは異なる長い時間と向き合うことになる。
だからこそレイブンは、二人の未来を親の望みだけで固めたくなかった。
長く生きるなら、なおさら自分で選ばなければならない。
何を学ぶのか。
誰と生きるのか。
どこを帰る場所と呼ぶのか。
軍服を着るのか、それとも戦場とはまったく違う道を歩くのか。
親が長い時間を隣で生き続けるからといって、子供たちを永遠に親の影へ置いていい理由にはならない。
「レイブン?」
「ちょっと先のことを考えてた」
「また?」
「ああ」
「この子たち、まだ自分で寝返りもできないわよ」
「分かってる」
「なら今日は今日の心配をして」
「今日の心配?」
「次にどっちが先に泣くか」
レイブンは二人を見る。
「ルーク」
「どうして?」
「さっきから耳が少し動いてる」
「観察しすぎよ」
エリシアがそう言った直後だった。
ルークが小さく声を上げた。
レイブンが妻を見る。
「ほら」
「嬉しそうに言わないの」
エリシアは笑いながら夫の肩を軽く叩いた。
レイブンはルークを抱き上げる。
その動きに反応したのか、今度はリリアも目を覚まし始めた。
「二人ともか」
「今度は私がリリアを見るわ」
「無理するなよ」
「あなたもね」
二人はそれぞれの子供を抱いた。
窓の外には、静かな夜の街が広がっている。
かつてレイブンにとって「帰る」という言葉は、戦場で生き残るための目標だった。仲間を連れて帰ること、負傷しても帰還線を切らせないこと、異界へ落とされても元の世界へ戻ること。その意味は今も変わらない。
ただ、その先が増えた。
帰ってきた後に、誰と朝を迎えるのか。
誰の声に起こされるのか。
誰の成長を見守りながら、自分も変わっていくのか。
レイブンは腕の中のルークを見つめ、それからエリシアに抱かれたリリアへ視線を移した。
その日の朝まで、クロウ家に帰ってくる者は大人たちだけだった。
今は違う。
帰還を繰り返してきた家に、これから成長し、自分たちの意思で外の世界へ歩き出す二人が加わった。
いつかリリアとルークにも、親の手を離れて進む日が来る。
その時にレイブンができることは、行き先を決めることではない。
帰ってきた時に開く扉を残しておくことだった。
夜のクロウ家には、しばらく二人分の泣き声が響いていた。
レイブンとエリシアはその声を聞きながら、それぞれ一人ずつを抱いて歩いた。
セレナとヘレーネの写真が見守る部屋で、ヴァルターが眠り、やがてまたルナが帰ってくる家で、リリアとルークの新しい日常が始まっている。
そして机の上では、閉じられたSmart-VisorとUAESの運用端末が、明日になれば再び動き出す世界を待っていた。
家族の時間とFENRIRの時間は、どちらか一方だけを選ぶものではない。
レイブンはようやく、その二つの間を行き来しながら生きることを覚え始めていた。




