Season 8「継ぐ者、見守る者」 #131
第131話「二つの名前」
雪の夜から数日が過ぎた。
病院の窓から見えていた白一色の街には少しずつ日常の色が戻り、主要道路では除雪された路面が姿を現していた。港湾自由都市フェルガリアでも積雪は残っていたが、港そのものが眠ることはなく、復興資材を積んだ輸送船が入港し、日本、帝国、連邦共和国、ヴァルグラント王政連合から集まった人々が、それぞれ異なる制服や作業着のまま同じ岸壁を行き交っている。
第二次異界大戦の終結によって生まれた平和は、もはや会議室の署名だけに存在するものではなかった。戦争によって壊れた土地を直し、異なる国の技術者が同じ設備を整備し、かつて敵だった兵士同士がSmart ARを通して情報を共有する。そうした何気ない光景の一つ一つが、戦争の終わった世界を形にし始めていた。
しかし、レイブン・S・クロウにとって、その数日間に限れば世界情勢より重大な問題があった。
「……決まらない」
病室の椅子に腰を下ろしたレイブンは、手元の紙を見ながら深く息を吐いた。
ベッドではエリシアが双子の片方を抱いている。出産直後に比べれば顔色も戻りつつあったが、まだ身体には疲労が残っている。それでも夫が真剣な表情で紙を睨み続けている姿が面白いのか、銀白の猫耳をわずかに動かしながら笑っていた。
「戦場ではあんなに決断が早いのに」
「比較するなよ。戦場の判断は後で修正できることもあるけど、名前は一生残るんだぞ」
「改名という手段はあるけど?」
「生まれて数日でそれを前提にする親がいるか」
「少なくとも、ここに一人は名前を決められない父親がいるわね」
「二人で決めるって言っただろ」
「そうだったわね」
エリシアは腕の中の娘へ視線を落とした。
小さな顔が少し動き、銀白とも黒ともまだ判別しにくい柔らかな髪が揺れる。その隣では弟が眠っており、ときおり小さな指を握ったり開いたりしていた。
双子。
同じ日に生まれた姉と弟。
それでも、当然ながら同じ人間ではない。
レイブンは数日間そばにいるだけで、その違いを少しずつ感じ始めていた。姉の方は弟より声を上げることが多く、何か気に入らないことがあるとすぐに周囲へ訴える。弟は比較的静かだったが、いったん泣き始めると姉より長い。もちろん生まれたばかりで、それを性格と呼ぶには早すぎる。それでも父親になったレイブンには、二人がすでにそれぞれ別の人生を始めているように感じられた。
「母さんの名前を入れる案も考えた」
レイブンが言った。
「セレナ?」
「ああ。でも、やめた」
「どうして?」
「母さんの代わりにしたくない」
エリシアは少しだけ目を細めた。
レイブンは紙を机へ置いた。
「母さんを忘れたくないから名前を残す、っていう気持ちは分かる。でも、この子は母さんじゃない。母さんが亡くなった後に生まれたからって、その穴を埋めるための人生を背負わせるのは違うと思う」
「私もそう思う」
エリシアは娘の頬へ指を近づけた。
「セレナさんのことは、名前じゃなくても伝えられるもの」
「ああ。俺たちが話せばいい」
「ヘレーネさんのこともね」
「父さんの昔話は長くなりそうだけどな」
「あなたも長くなるでしょう?」
「俺は簡潔に話す」
「絶対に無理」
「なんで断言するんだよ」
「自分の装備の話になったら一時間は止まらない人でしょう」
「それは必要な説明が――」
「ほら」
レイブンは口を閉じた。
エリシアが笑う。
その声を聞いた娘が小さく身じろぎし、レイブンは反射的にそちらを見る。
「起こした?」
「大丈夫。まだ眠ってる」
「そうか」
「レイブン」
「何?」
「あなた、最近どんな音よりこの子たちの声に反応するわね」
「猫だからな」
「私も猫系亜人よ」
「父親になったからって言えばいい?」
「最初からそう言いなさい」
今度は二人で笑った。
戦場では決して見せなかった表情だった。
レイブン自身、そのことにはまだ気づいていなかった。
◇
昼を過ぎた頃、ルナが病室へやってきた。
腕には小さな袋を抱えている。
「何持ってきた?」
「プレゼントです」
「また?」
「叔母には権利があります」
「その権利、誰が決めたんだよ」
「私です」
「最強だな」
ルナは当然のように答え、袋から二つの小さな布製品を取り出した。白猫を模したものと黒猫を模したもので、手のひらより少し大きい。
「ぬいぐるみ?」
「そうです。もう少し大きくなったら使えるように」
エリシアが受け取る。
「ありがとう、ルナ」
「どちらにどちらを渡すかは決めてません。本人たちに選んでもらいます」
レイブンが妹を見る。
「いいな、それ」
「でしょう?」
「姉だから白、弟だから黒とか決めないんだな」
「この子たちの物ですから」
その考え方は、レイブンが子供たちに望んでいるものとよく似ていた。
クロウ家だから。
父がNoXだから。
母がValkyrieだから。
祖父が帝国軍人だから。
そうした理由で、二人の人生を最初から決めるつもりはない。
家族から何かを受け継ぐことと、家族と同じ道を歩くことは別だった。
「それで兄様」
「何?」
「名前は?」
レイブンは黙った。
ルナがエリシアを見る。
エリシアも黙る。
「……まだ決まってないんですか?」
「候補は決まってる」
「昨日も聞きました」
「最終確認中」
「一昨日も聞きました」
「慎重なんだよ」
「兄様が?」
「俺だって慎重になる時はある」
「戦場では?」
「慎重だよ」
「紫空の世界では?」
「……あれは状況が状況だった」
「第二次異界大戦では?」
「俺を何だと思ってる」
「考える前に危ない場所へ行く兄です」
「風評被害だ」
「実績です」
エリシアが耐えきれずに笑った。
「ルナ、もう少し言ってあげて」
「お前どっちの味方なんだよ」
「子供たち」
「昨日から家族全員それ言うな」
レイブンが頭を抱える。
ルナは楽しそうだったが、やがて机に置かれた候補表へ目を向けた。
「でも、本当に大切ですよね」
「ああ」
「私の名前は、お父様とお母様が決めてくれました」
ルナは自分の白い猫耳へ軽く触れた。
「兄様の名前もそうでしょう?」
「そうだな」
「なら今度は兄様たちの番です」
レイブンは返事をせず、妹の言葉を胸の中で繰り返した。
今度は自分たちの番。
父と母から受け取ったものを、そのまま複製するのではなく、次へ渡す番だった。
◇
その日の午後、病室を訪れたヴァルターは、孫を見る前に息子へ尋ねた。
「まだ決めてないのか」
「父さんまでそれかよ」
「何日経った」
「数日」
「十分だろう」
「名前だぞ」
「だから何だ」
「一生使うんだよ」
ヴァルターは椅子へ座りながら鼻を鳴らした。
「名前だけで人生は決まらん」
レイブンが黙る。
「どれだけ立派な名前を付けても、本人がどう生きるかまでは決められない。逆も同じだ。親ができるのは、最初に呼ぶ言葉を選んでやるくらいだ」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから、考えたんだろう」
ヴァルターは双子を見る。
「なら最後は呼んでみろ」
「呼ぶ?」
「そうだ。本人を見て名前を呼べ。それでお前たちが、この子の名前だと思えるなら十分だ」
レイブンは父を見た。
「俺の時もそうした?」
「ああ」
「ルナも?」
「もちろんだ」
ヴァルターは少し笑った。
「お前の時はセレナと散々揉めた」
「初耳なんだけど」
「言ってないからな」
「何で?」
「面白くない話だからだ」
「気になるだろ」
「候補の一つが俺の名前だった」
レイブンが固まった。
「……ヴァルター?」
「セレナが却下した」
「母さん、ありがとう」
「どういう意味だ」
ルナが笑いを堪えきれなくなり、エリシアも顔を背けて肩を震わせる。
「いや、父さんが嫌いとかじゃないけど、ヴァルター・S・クロウは違うだろ」
「俺もそう思った」
「父さんも反対だったのかよ」
「親父と息子が同じ名前だと呼びにくい」
「理由そこ?」
病室に笑い声が広がった。
双子が少し動いたため、四人はほぼ同時に声を落とした。
その様子を見て、ヴァルターが静かに笑った。
「それでいい」
「何が?」
「お前たちが、この子たちを見ながら笑えているならな」
レイブンは父を見る。
ヴァルターの身体は、一年前よりさらに細くなっていた。顔には年齢が刻まれ、呼吸も若い頃ほど深くない。それでも、孫を見る目には確かな力が残っている。
「名前が決まったら、最初に教えろ」
「分かった」
「セレナにも報告してくる」
レイブンは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
◇
夕方になり、ルナとヴァルターが帰ったあと、レイブンとエリシアはもう一度二人だけで候補を見直した。
長女。
母親に似た銀白の色が少しずつ髪に現れ始めている。
人の声がすると反応し、目を開けようとすることが多い。
長男。
姉より黒い髪が目立ち始めている。
比較的静かだが、父親に抱かれると妙に服を掴む。
「性格まで決めつけるのは早いわよ」
「分かってる」
「さっきからずっと観察してるでしょう」
「癖を覚えてるだけ」
「もう教官みたい」
「子供に訓練はしない」
「本当に?」
「本人がやりたいって言うまではな」
エリシアは安心したように微笑んだ。
「私も同じ」
そして長女を見る。
「この子には、人との繋がりを大切にしてほしい」
「うん」
「私たちが戦争で失いかけたものを、当たり前に持っていられる人になってほしい」
レイブンは頷いた。
「未来を怖がらない子になってほしいな」
「それなら――」
エリシアが一つの名前を口にした。
レイブンは娘を見る。
そして、ゆっくりその名前を呼んだ。
「――リリア」
小さな身体が動いた。
もちろん、名前を理解したわけではない。
偶然だ。
それでもレイブンとエリシアは顔を見合わせた。
「もう一回」
エリシアが言う。
レイブンは少し照れながら、娘へ呼びかけた。
「リリア」
不思議だった。
紙の上に書いていた時とは違う。
候補ではなく、目の前にいる子供の名前として聞こえた。
「リリア・L・クロウ」
エリシアが続ける。
レイブンは妻を見る。
「L?」
「私のミドルイニシャル」
エリシア・L・クロウ。
結婚前はエリシア・L・ヴォルハラム。
「この子に私と同じ人生を歩んでほしいわけじゃない。でも、母から娘へ何か一つ残すなら、これくらいはいいでしょう?」
「ああ」
レイブンは娘を見る。
「リリア・L・クロウ」
今度は迷わなかった。
「いい名前だ」
エリシアが笑う。
「ありがとう」
そして二人の視線が、もう一つの小さなベッドへ移る。
「次はこいつだな」
「こいつって言わないの」
「まだ名前ないし」
「もう候補はあるでしょう?」
「ああ」
レイブンは息子を見る。
父ヴァルターの名前をそのまま与えるつもりはなかった。
自分の名前も同じだった。
だが、母方のヴォルハラムという家がこの子へ繋がっていることは残したかった。
「エリシア」
「うん」
「やっぱり、これがいいと思う」
レイブンは息子へ視線を向けた。
「ルーク」
エリシアが静かに繰り返す。
「ルーク……」
「どう?」
「好きよ」
「じゃあ、ミドルは――」
「V」
二人の声が重なった。
レイブンが笑う。
「考えてた?」
「あなたもでしょう?」
「ああ」
ヴォルハラム。
エリシアがクロウ姓となったことで、家名としては子供たちへ直接継がれない母方の名。
それを息子へ背負わせるためではなく、自分がどこから繋がっているのかを知る小さな印として残す。
「ルーク・V・クロウ」
レイブンが呼んだ。
眠っていた息子の手が動き、父の指を掴んだ。
「……反応した」
「偶然よ」
「分かってる」
「嬉しそうね」
「そりゃ嬉しいだろ」
レイブンは指を握られたまま動かなかった。
反対側ではエリシアがリリアを抱いている。
「決まりね」
「ああ」
レイブンは二人を順番に見た。
「姉がリリア・L・クロウ」
エリシアが続ける。
「弟がルーク・V・クロウ」
二人の名前が、初めて同じ部屋で並んだ。
◇
ヴァルターへの連絡は、その日のうちに入れた。
『決まったか』
「ああ」
通信越しでも父が少し身を起こしたのが分かった。
「女の子はリリア。リリア・L・クロウ」
『リリア』
「Lはエリシアから」
少しの沈黙。
『いい名前だ』
「男の子はルーク・V・クロウ」
『Vは?』
「ヴォルハラム」
ヴァルターはすぐに理解した。
『母方も残したか』
「ああ。クロウだけで囲いたくなかった」
『それでいい』
「反対しないんだな」
『なぜ俺が反対する』
「もっと帝国っぽい名前にしろとか言うかと思った」
『お前は俺を何だと思っている』
「帝国軍教官」
『元、を付けろ』
「まだ教官やってるだろ」
ヴァルターが笑う。
その後、声が少し静かになった。
『リリアとルークか』
「ああ」
『セレナに教えてくる』
「父さん」
『何だ』
「……ありがとう」
『俺は何もしていない』
「それでも」
短い沈黙のあと、ヴァルターは穏やかに答えた。
『なら、どういたしましてだ』
通信が終わる。
レイブンは端末を下ろした。
◇
翌朝、二人の名前は正式に記録された。
**第一子、長女――リリア・L・クロウ。**
**第二子、長男――ルーク・V・クロウ。**
だが、レイブンにとって重要なのは記録上の文字ではなかった。
「リリア」
呼ぶ。
娘が小さく動く。
「ルーク」
もう一度呼ぶ。
息子が眠ったまま指を握る。
昨日まで「双子」だった二人が、それぞれの名前を持った。
レイブンはエリシアの隣に座り、二人の寝顔を見つめた。
リリアのLは母エリシアから受け継いだ。
ルークのVは母方ヴォルハラム家へ繋がっている。
そして二人とも、クロウという家名を持つ。
けれど、それは人生の行き先を示す命令ではない。
どこから来たのかを知るための、小さな道標に過ぎなかった。
「この子たちが大きくなったら」
エリシアが静かに言った。
「うん」
「自分の名前、好きになってくれるかしら」
「分からない」
「そこは『きっと好きになる』って言うところじゃない?」
「本人たちが決めることだからな」
エリシアは少し驚いたあと、微笑んだ。
「そうね」
「嫌なら文句を聞く」
「改名したいって言ったら?」
「理由を聞く」
「それでも変えたいって?」
「本人の人生だ」
レイブンは二人を見る。
「名前を付けるところまでは俺たちの役目だけど、その名前でどう生きるかは二人のものだろ」
エリシアは夫の肩へ寄りかかった。
「父親らしくなったわね」
「数日で?」
「少なくとも昨日よりは」
「じゃあ明日はもう少しマシになるかな」
「ゆっくりでいいんじゃない?」
「ああ」
レイブンは頷いた。
不老不死となった自分には、途方もない時間が残されているのかもしれない。
だがリリアとルークを前にすると、長い時間を持っているという感覚より、今日という一日を取りこぼしたくないという思いの方が強かった。
初めて名前を呼んだ朝も、初めて抱いた雪夜も、祖父ヴァルターが孫を前に言葉を失った顔も、叔母になったルナが二つのぬいぐるみを抱えて病室へ入ってきたことも、いつか子供たちへ話せるように覚えていたかった。
父が言った「生き続ける博物館」という言葉の意味は、また少し変わっていた。
戦争だけを保存する場所ではない。
失った者だけを記憶する場所でもない。
生まれた命も、家族の笑い声も、平和になって初めて過ごせた何でもない朝も、自分の中に残していく。
その記憶をいつか子供たちへ渡した時、何を受け取り、何を残し、何を自分たちの代で終わらせるのかは、リリアとルーク自身が選べばいい。
窓の外では、雪解けの水が屋根から落ちていた。
港では今日も船が動き、フェルガリアでは異なる国から来た人々が同じ街を歩き、Smart ARを装着したFENRIR隊員たちが新しい時代の任務へ向かっている。
世界は、レイブンが幼かった頃とはもう違う。
そして、これからリリアとルークが見る世界は、さらに違うものになるだろう。
それでよかった。
レイブンは二人の名前を、もう一度ゆっくりと呼んだ。
「リリア。ルーク」
エリシアが隣で微笑む。
二つの小さな寝息は変わらず続いていた。
クロウ家から受け継いだものと、ヴォルハラム家から受け継いだものを携えながら、それでも誰の続きでもない二人自身の人生が、ようやく名前とともに歩き始めていた。




