Season 7「停戦線」 #130
第130話「家族になる朝」
雪は夜明けまで降り続けていた。
病院の窓から見える街は白く染まり、昨夜まで道路を走っていた車両の跡も、新しく積もった雪によって輪郭を失いつつあった。第二次異界大戦が終わり、港湾自由都市フェルガリアではSmart ARの実用化が始まり、かつて敵だった国々まで同じ技術体系の一部を共有するようになった。それほど大きく世界が変わっているというのに、レイブン・S・クロウにとって今朝もっとも重要なのは、腕の中に収まってしまうほど小さな二つの命だった。
昨夜生まれた双子は、母親であるエリシアとともに無事だった。
レイブンはほとんど眠っていない。
眠れなかったという方が正しい。
エリシアからは何度も休めと言われたが、少し眠ろうと椅子へ座るたびに双子のどちらかが小さく動き、そのたびに黒い猫耳が反応して目を開けてしまう。
「レイブン」
「起きてる」
「知ってるわよ」
ベッドの上からエリシアが呆れたように夫を見る。
「だから寝なさいって言ってるの」
「寝ようとはした」
「五分くらいでしょう?」
「十分はあった」
「七分よ」
「測ってたの?」
「暇だったから」
「出産したばかりの人が夫の睡眠時間を測るなよ」
「出産したばかりの妻に心配される夫にならないで」
返す言葉がなかった。
レイブンは椅子の背もたれへ身体を預けた。
すぐ近くには二人の子供がいる。
一人は女の子。
もう一人は男の子。
昨夜までは「双子」という一つの言葉で考えていた。
しかし、実際に生まれてみれば当然ながら別々の人間だった。眠るタイミングも違えば、泣き方にも微妙な違いがある。ほんの僅かな時間しか一緒にいないのに、レイブンの耳はすでに二つの声を別々に覚え始めていた。
「不思議ね」
エリシアが呟いた。
「何が?」
「昨日まで、お腹の中にいたのよ」
「ああ」
「今はそこにいる」
二人で子供たちを見る。
レイブンは少し笑った。
「俺もまだ実感がない」
「昨日からずっとそれ言ってるわね」
「だって、本当に俺たちの子なんだよな」
「そこから確認する?」
「確認じゃなくて……」
レイブンは言葉を探した。
「嬉しいんだけど、怖い」
エリシアは笑わなかった。
「私もよ」
「守れるかな」
「全部から?」
「……それは無理だな」
口にしてから、自分で気づいた。
以前の自分なら、何があっても守ると言ったかもしれない。
だが母セレナは遺書に残していた。
守るということは、誰も死なせない魔法を持つことではない。
父ヴァルターも、自分の記憶だけを絶対の真実にするなと教えた。
子供を守ることも同じなのだろう。
危険をすべて消すことなどできない。
代わりに、生きる方法を教えることはできる。
帰ってこられる場所を作ることもできる。
「この子たちが自分で歩けるようになるまでは、俺たちが支える」
「歩けるようになったら?」
「転んだ時に帰ってこられる場所になる」
エリシアが微笑んだ。
「それなら賛成」
レイブンも頷いた。
戦場の指揮官としてではなく、一人の父親として初めて決めた方針だった。
◇
朝になって最初に病室へやって来たのはルナだった。
扉を開ける前から足音で分かった。
「兄様、エリシア姉様、おはようござい――」
「静かに」
レイブンとエリシアが同時に言った。
ルナが固まる。
「……おはようございます」
今度は小声だった。
「おはよう」
レイブンが答える。
ルナは慎重に中へ入り、双子を見る。
青い瞳が一瞬で柔らかくなった。
「昨日より小さく見えます」
「一晩で縮んでない」
「分かってます」
ルナは女の子の方を見て、それから男の子を見る。
「どちらがお姉ちゃんですか?」
エリシアが答える。
「女の子」
「じゃあ長女ですね」
「そうなるな」
「弟君は長男」
その言葉を聞いた瞬間、レイブンは妙な感覚を覚えた。
長女。
長男。
昨日までは「女の子と男の子」だった。
そこへ家族としての位置が生まれていく。
兄。
妹。
夫。
妻。
父。
母。
叔母。
祖父。
祖母。
家族とは、そうやって人と人との間に名前が増えていくものなのかもしれない。
「兄様」
「何?」
「名前」
「……今考えてる」
「まだですか」
「昨日生まれたばっかりだぞ」
「一年ありました」
「それ父さんにも言われそうだから先に言うな」
ルナが笑う。
エリシアも笑った。
「候補は絞ったの?」
「ああ」
レイブンは答える。
「二人とも、俺たちのどちらかだけに寄せる名前にはしたくない」
エリシアが頷く。
「クロウ家の子だけど、ヴォルハラム家からも繋がってるものね」
「そう」
ルナが双子を見る。
「それに、この子たちは兄様たちとは違う時代に生まれたんですよね」
レイブンが妹を見る。
「どういう意味?」
「第一次異界大戦の後でも、第二次異界大戦の途中でもない。終戦した後です」
その言葉に、病室が少し静かになった。
「帝国と連邦共和国が戦っていた頃でもありません。ヴァルグラント王政連合とも、今は条約があります。日本とも繋がっています。フェルガリアもある」
ルナは優しく続ける。
「この子たちにとって、それが最初からある世界なんですよ」
レイブンは窓の外を見る。
雪に覆われた街。
自分が幼い頃とは違う世界だ。
父ヴァルターの背中を見ながら、帝国と連邦共和国の冷戦を感じていた少年時代。
異界門。
戦争。
失踪。
帰還。
再び始まった戦争。
それらを経験した自分にとって、平和とは勝ち取った後にようやく現れたものだった。
だが、この子たちは違う。
少なくとも今は、平和の中から人生を始められる。
「そうだな」
レイブンが呟く。
「俺たちの続きをやらせる必要はない」
エリシアが夫を見る。
「ええ」
「戦争を引き継がせない」
父ヴァルターも同じことを言っていた。
子供たちが軍人になる必要はない。
クロウ家に生まれたから銃を持たなければならない理由などない。
「この子たちは、この子たちで決めればいい」
レイブンは双子を見る。
「何になるかも、どこへ行くかも」
◇
昼前になって、ヴァルターが再び病院へやって来た。
昨日より歩く速度は遅かった。
レイブンはそれに気づいたが、すぐに手を貸そうとはしなかった。
父はまだ自分で歩ける。
必要になるまでは、その意思を尊重したかった。
「父さん」
「起きてるか」
「俺?」
「孫だ」
「寝てる」
「そうか」
ヴァルターは急に声を小さくした。
昨夜までの帝国軍教官とは思えない。
ベッドへ近づく。
双子を見る。
そして止まった。
「……小さいな」
「俺も最初にそれ言った」
「お前もこれくらいだった」
「本当に?」
「少し大きかったかもしれん」
「覚えてるんだ」
「当然だ」
ヴァルターは女の子を見る。
次に男の子を見る。
「抱く?」
レイブンが尋ねる。
「俺が?」
「祖父だろ」
「分かっている」
「怖い?」
「馬鹿を言え」
即答したわりに、腕の出し方がぎこちない。
レイブンは笑いそうになるのを堪えた。
「父さん、緊張してる?」
「していない」
「してるだろ」
「黙れ」
看護師に教えられながら、ヴァルターは孫娘を抱いた。
その瞬間、表情が変わった。
レイブンは見たことのない父の顔だった。
軍人でもない。
教官でもない。
父親とも少し違う。
「……軽い」
「赤ちゃんだから」
「分かっている」
小さな手が動き、ヴァルターの指へ触れた。
父は息を止めた。
「セレナにも」
その先は言わなかった。
レイブンも続けなかった。
言わなくても分かる。
見せたかった。
抱かせたかった。
祖母ヘレーネにも。
失った人を思い出すたび、嬉しい日に悲しみが混じる。
だが、以前とは少し違った。
その悲しみが喜びを壊すわけではない。
二つは同時に存在できる。
「父さん」
「何だ」
「母さんなら、絶対泣いてたな」
「ああ」
「祖母ちゃんは?」
「勝手に変な愛称を付ける」
「やっぱり?」
「間違いない」
二人は笑った。
ヴァルターの腕の中で、孫娘は何も知らず眠っていた。
◇
午後にはエリシアの母も訪れた。
娘の顔を見るなり、まず身体の具合を確認し、それから双子へ向かう。
彼女が孫を抱く姿を、レイブンは少し離れたところから見ていた。
ヴォルハラム家。
クロウ家。
二つの家族の血が、この子たちへ流れている。
その事実を考えながら、レイブンは一年前に父から言われた言葉を思い出した。
兄としてクロウ家を引っ張り続けろ。
当時は、自分とルナ、それにエリシアを守り続けろという意味だと思っていた。
今は違う。
クロウ家そのものが、次の世代へ進み始めた。
自分はもう息子であるだけではない。
兄だけでもない。
夫だけでもない。
父親になった。
守られる側だった子供が、次の子供を迎える側になった。
不老不死であっても、時間が止まっているわけではない。
身体が老いなくても、人生は変わる。
関係が増える。
責任も増える。
記憶も増える。
それこそが母の言っていた「生きる」ということなのかもしれなかった。
◇
夕方。
家族が帰ったあと、病室にはレイブンとエリシア、そして双子だけが残った。
雪は止み始めている。
雲の向こうから薄い夕陽が差し、白い街を淡く照らしていた。
「ねえ」
エリシアが言った。
「うん」
「そろそろ本当に決めましょう」
「名前?」
「いつまでも『女の子』『男の子』じゃかわいそうでしょう」
「分かってる」
レイブンは椅子をベッドへ寄せた。
二人で候補を確認する。
母方から受け継ぐもの。
父方から受け継ぐもの。
響き。
意味。
将来、本人たちが名乗る時に重すぎないこと。
軍人の子だからといって戦争を背負わせないこと。
誰かの代わりとしてではなく、その子自身の名前であること。
二人は何度も話した。
途中でエリシアが一つの候補を出し、レイブンが考える。
今度はレイブンが別の案を出し、エリシアが首を傾げる。
笑う。
悩む。
また子供たちを見る。
その時間そのものが、二人が父と母になっていく最初の過程だった。
「レイブン」
「何?」
「この子たちには、幸せになってほしい」
「ああ」
「普通のことを言ってるでしょう?」
「普通でいい」
レイブンは答えた。
「普通が一番難しかったからな、俺たち」
エリシアが静かに笑う。
「そうね」
「だから、最初から英雄になんてしなくていい」
「うん」
「クロウ家だから強くなれとも言わない」
「うん」
「ただ、帰ってこられる人になってほしい」
エリシアは夫の手を握った。
「それは、あなたらしいわね」
「父さん譲りだよ」
「なら、三代目ね」
「三代目?」
「ヴァルターさんからあなたへ。あなたから、この子たちへ」
レイブンは双子を見る。
帰る。
たった一つの言葉が、クロウ家では何度も形を変えて受け継がれてきた。
戦場から帰る。
異界から帰る。
家族のもとへ帰る。
そして帰ってきた後に、生きる。
その意味を、子供たちが理解する日はずっと先でいい。
今はただ、眠っていればいい。
◇
翌朝。
雪は止んでいた。
白く積もった雪に朝日が反射し、病室の中まで柔らかな光が入ってくる。
レイブンは窓辺に立っていた。
Smart-Visorは机の上に置かれている。
端末にはフェルガリアからいくつか連絡が届いていたが、緊急ではない。
Houndからは短い文章だけだった。
こちらは問題なし。父親をやれ。
Cipherからは実証試験の結果。
ルナからは今日も来るという連絡。
ゲルハルトからは、少し不自然な共通語で祝福の文章が届いていた。
世界は動いている。
自分が一日現場へ出なくても、FENRIRは動く。
Smart ARの研究も止まらない。
フェルガリアの復興も続く。
それは少し前のレイブンなら不安に感じたかもしれない。
今は違った。
自分一人がいなくても続くものを作ることこそ、組織を残すということなのだろう。
そして家族も同じだった。
ヴァルターからレイブンへ。
セレナからレイブンとルナへ。
ヴォルハラム家からエリシアへ。
そしてレイブンとエリシアから、次の二人へ。
命も記憶も、誰か一人で抱えるものではない。
「レイブン」
振り返る。
エリシアが起きていた。
「決めた?」
レイブンは少し笑う。
「ああ」
「私も」
二人は顔を見合わせた。
その視線の先には、雪夜に生まれた双子が眠っている。
クロウ家の次の世代。
戦争が終わった後の世界で生まれた、最初の朝を迎えている。
レイブンは二人のそばへ歩いていった。
この子たちがどんな人間になるのか、まだ誰にも分からない。
軍人になるかもしれない。
ならないかもしれない。
海へ出るかもしれない。
空を選ぶかもしれない。
研究者になるかもしれない。
フェルガリアを離れ、親たちの知らない土地で生きるかもしれない。
それでいい。
未来は受け継がせるものであって、決めてしまうものではない。
レイブンは、父から受け取った訓示を思い出した。
生きる伝説ではなく、生き続ける博物館として生きろ。
ならば自分が保存すべきものは、戦争の記憶だけではない。
この雪の朝も。
エリシアの笑顔も。
祖父になったヴァルターが初めて孫を抱いた時の顔も。
ルナが叔母になったことを喜んだ声も。
そして、まだ名前を呼ばれる前の二人が静かに眠っている、この何でもない時間も。
すべてクロウ家の歴史だった。
レイブンは妻の隣に立つ。
エリシアが彼の肩へ頭を預けた。
二人はしばらく言葉を交わさず、朝の光の中で眠る子供たちを見つめていた。
ほんの少し前まで、レイブンたちが願っていたのは、戦場から仲間とともに生きて帰ることだった。やがて銃声は止み、敵だった者たちと言葉を交わし、国境を越えて復興を支え合える場所としてフェルガリアが生まれた。そして今、その先にある未来が、二人の目の前で静かな寝息を立てている。
レイブンはエリシアの手を握りながら、もう一度双子へ目を向けた。自分たちが守ろうとしてきたものは、戦争を終わらせることだけではなかったのだろう。その後に誰かが生まれ、家族に愛され、自分の人生を選びながら生きていける世界を残すことまで含めて、ようやく「帰る」という言葉は意味を持つ。
雪の止んだ朝、クロウ家に加わった二つの小さな寝息は、レイブンたちが戦いの果てにたどり着いた平和が、確かに次の世代へ受け渡されたことを静かに告げていた。




