Season 7「停戦線」 #127
第127話「受け継ぐ者たち」
母セレナと祖母ヘレーネを見送ってから、クロウ家には以前とは違う静けさが残るようになった。
朝になればヴァルターが起き、台所から食器の触れ合う音がする。レイブンが泊まっている日は、その音を聞いて目を覚ますこともあったし、ルナが先に起きて朝食を用意していることもあった。エリシアはセレナが使っていた茶葉の置き場所を覚えていたため、いつの間にか家族全員の分を淹れる役目を引き受けていた。
生活そのものは続いている。
ただ、何かの拍子に一人分の食器を多く出しかけたり、居間の奥から母の声が聞こえた気がして振り返ったりすることがあった。
レイブンは、そうした瞬間を無理に消そうとはしなくなった。
忘れることが前へ進むことではない。
祖母が最後に教えたように、人は死んだ瞬間だけで記憶されるものではなかった。
そして母が遺した訓示にもある。
死なないことと、生きることは同じではない。
ならば、自分は生きなければならない。
問題は、その「生きる」という言葉が、レイブンにとって途方もなく長い意味を持ち始めていることだった。
「朝から難しい顔をするな」
ヴァルターの声がして、レイブンは窓から視線を戻した。
「普通の顔だよ」
「セレナもよくそう言っていた」
「母さんと一緒にするな」
「親子だから似る」
ヴァルターはそう言って席についた。
以前ならそこで一言二言、余計な皮肉が続いただろう。
だが今朝の父は、椅子へ腰を下ろしてから小さく息を整えていた。
レイブンの黒い猫耳が、その僅かな変化を拾った。
「父さん」
「何だ」
「また苦しい?」
「歳だ」
「その言葉で全部済ませるのやめろよ」
「便利なんだ」
「病院行くぞ」
「昨日行った」
「何で言わない」
「検査しただけだ」
レイブンは父を見つめた。
ヴァルターは視線を逸らさない。
「結果は?」
「すぐ死ぬような話ではない」
「それ、答えになってない」
「心臓と肺が弱っている。昔の負傷も影響しているらしい。だが医者は、薬を飲んで無茶をしなければ生活できると言っている」
「教官は?」
「減らせと言われた」
「減らす?」
「辞めろとは言われていない」
「そこだけ都合よく聞くなよ」
ヴァルターが鼻を鳴らした。
「俺から軍を取ったら何が残る」
レイブンは一瞬だけ黙った。
以前なら、その問いに何と答えただろう。
帝国軍人。
教官。
異界戦争の経験者。
右腕を失い、それでも戦場へ戻った男。
自分へ銃器の扱い方だけでなく、帰還する意味を教えた人物。
しかし今のレイブンは、それだけではないと知っていた。
「父親」
ヴァルターが目を瞬いた。
「夫だった人」
「だった、は余計だ」
「今でもだろ?」
ヴァルターは答えなかった。
「それから、爺さんになる可能性だってある」
「……何?」
「例えばの話だよ」
「お前とエリシアに何かあるのか」
「なんで急に食いつくんだよ」
ヴァルターが身を乗り出した。
「重要事項だろうが」
「ない。今のところ何もない」
「今のところ?」
「言葉尻を拾うな!」
久しぶりに、ヴァルターが声を上げて笑った。
レイブンも呆れながら笑う。
その笑いが収まったあと、父は穏やかな顔で息子を見た。
「そうだな」
「何が?」
「軍人じゃなくても、残るものはあるらしい」
「ああ」
「それを忘れるところだった」
レイブンは返事をせず、冷めかけた茶を飲んだ。
母がいた頃と同じ味にはならない。
それでも悪くなかった。
◇
レイブンがフェルガリアへ戻ったのは、その日の午後だった。
港湾自由都市フェルガリアは、第二次異界大戦の終戦によって軍事拠点としての役割を失ったわけではない。むしろ帝国、連邦共和国、旧抵抗軍系諸勢力、FENRIR、そしてヴァルグラント王政連合を結ぶ場所となったことで、その役割は以前より複雑になっていた。
ただし、港を歩く人々の姿は変わっている。
武器を持つ兵士より、工具を運ぶ技術者や復興資材を確認する作業員の方が目につく区域が増えた。ヴァルグラント側の制服も珍しいものではなくなり、共同区域では異なる軍服の人間が同じ掲示板を眺めている。
レイブンがFENRIR区画へ入ると、見慣れた大柄な男が待っていた。
「遅いぞ、NoX」
Houndだった。
「俺は休暇扱いだぞ」
「知ってる」
「じゃあ遅くないだろ」
「俺が待ってた」
「知らん」
「冷たいな」
二人は並んで歩き始めた。
Houndはすぐに家族のことを聞かなかった。
レイブンも自分から話さなかった。
そのまま研究区画へ向かい、途中でHoundがようやく口を開いた。
「大丈夫か?」
「何が」
「そういう返しする時点で大丈夫じゃないな」
レイブンは歩きながら息を吐いた。
「大丈夫って何なんだろうな」
「知らん」
「聞いたのお前だろ」
「俺は医者じゃない」
Houndは前を見たまま続けた。
「飯食えて、眠れて、話せて、時々笑えるなら、とりあえず今日を生きる分には十分じゃないか」
「お前、最近まともなこと言いすぎじゃない?」
「失礼だな」
「別人じゃないよな」
「殴るぞ」
「それなら本人だ」
Houndの拳がレイブンの肩へ軽く当たった。
戦場ではなくなったからこそ許される程度の力だった。
レイブンは少しだけ笑った。
「ありがとう」
「何が?」
「何でもない」
「気持ち悪いな」
「お前が言うな」
研究区画の扉が開く。
中では別の意味での戦いが続いていた。
「だから、この信号を位置情報として直接処理すると意味が変わると言っている!」
「意味ではなく方向情報を抽出すればいい!」
「思念には感情情報が混ざる! 単純な座標ではない!」
「だから分離するんだ!」
帝国側技術者とヴァルグラント側技術士官が、机を挟んで言い争っている。
Cipherはその中央で頭を抱えていた。
レイブンはHoundを見る。
「帰っていい?」
「俺も今そう思った」
「NoX!」
Cipherに見つかった。
「……逃げるぞ」
「遅い」
「二人とも来い!」
レイブンは諦めて中へ入った。
◇
思念伝達を基礎とするSmart AR研究は、最初の実験段階から少しずつ進み始めていた。
もっとも、完成品には程遠い。
人の意図を魔導信号として検出するところまでは、ヴァルグラント側が戦争中から持っていた技術で可能だった。しかし、それを機械側が誤解の少ない情報として処理し、視覚表示へ変換する段階になると問題が一気に増えた。
人間は「右に危険がいる」と思う時、方角だけを考えているわけではない。
相手の姿。
距離感。
恐怖。
音。
過去の記憶。
逃げたいという感情。
様々なものが一緒に浮かぶ。
思念伝達では、送り手が意識して情報を絞らなければ、それらが混ざることがある。
だからこそ、完成したSmartARが読心装置になってはならないという方針は、研究開始時点から厳しく維持されていた。
「つまり、送信者が共有すると決めた情報だけを拾う?」
レイブンが尋ねる。
Cipherが頷いた。
「理想はな。勝手に頭の中を見る装置なんて誰も着けたくないだろ」
「俺は絶対嫌だ」
Houndが即答する。
「お前は大したこと考えてないだろ」
「失礼すぎるぞ、NoX」
ヴァルグラント側技術士官が二人を見て笑った。
以前なら通訳が必要だったが、今では簡単な会話なら双方とも相手の言葉を理解できる。
その急速な言語習得そのものが、思念伝達研究の重要な資料になっていた。
「試験するぞ」
Cipherが言った。
「誰が?」
「NoX」
「なんで俺」
「異界で実際に思念伝達を経験してるから」
「Nyx呼べよ」
「今日はSTYXの任務」
「Valkyrie」
「会議」
「Hound」
「経験なし」
「ゲルハルト」
「技術班との協議で別棟」
レイブンは周囲を見る。
「逃げ道を全部塞いでから聞いたな?」
「教官に習った」
「誰だよ」
「お前」
レイブンは額を押さえた。
「……何すればいい」
実験は単純だった。
装置の前に立ち、共有すると意識した情報だけを思い浮かべる。
機械がどの程度それを拾えるか確認する。
レイブンは部屋の端を見る。
一つの箱が置かれている。
「対象、あの箱」
「了解」
目を閉じる。
場所。
形。
そこにある。
それだけを伝えるよう意識する。
紫空の世界でアーシェたちが使っていた思念伝達を思い出す。
言葉ではない。
押しつけるのでもない。
相手へ見せるものを、自分で選ぶ。
装置が微かに鳴った。
表示板に光点が現れる。
今度は壁の中ではなかった。
「お」
Houndが声を上げる。
実物より少しずれている。
だが同じ部屋の中だ。
Cipherが数値を確認する。
「誤差縮小」
「成功?」
「成功って言った瞬間に壊れそうだから言わない」
「技術者って大変だな」
「誰のせいだと思ってる」
「俺じゃないだろ」
次の瞬間、表示が消えた。
「ほら」
Cipherがため息をつく。
Houndが笑う。
レイブンもつられて笑った。
小さな進歩だった。
戦争なら何の役にも立たないほど小さい。
それでも今は、それでよかった。
◇
夕方、研究区画を出たレイブンの前にエリシアがいた。
「終わった?」
「今日の人体実験は」
「言い方」
「位置表示は少し良くなった」
「壁から出られた?」
「ああ」
「大進歩ね」
二人はフェルガリアの港を歩き始めた。
夕陽が海面へ長く伸びている。
復興用の輸送船が接岸し、その向こうではヴァルグラントの船が荷役を受けていた。
「お義父様は?」
エリシアが聞いた。
「心臓と肺が弱ってるらしい」
エリシアの表情が曇る。
「でも、すぐどうこうって話じゃない。無茶しなければ生活できるって」
「教官は?」
「減らせって」
「本人は?」
「辞める気なし」
「でしょうね」
「即答か」
「ヴァルターさんだもの」
レイブンは苦笑した。
しばらく二人で歩く。
「エリシア」
「なに?」
「母さんの手紙、覚えてる?」
「全部」
「死なないことと、生きることを同じにするなって」
「ええ」
「父さんにも似たようなこと言われた」
レイブンは立ち止まり、海を見る。
「生き続ける博物館になれって」
エリシアが少しだけ笑った。
「独特ね」
「だろ?」
「でも、ヴァルターさんらしい」
「俺は博物館らしいぞ」
「じゃあ私も展示物?」
「多分」
「ルナも?」
「特別展示」
「怒られるわよ」
二人は笑った。
だがレイブンはすぐに静かになった。
「怖いんだ」
エリシアは笑うのをやめた。
「父さんまでいなくなるのが?」
「ああ。それもある」
レイブンは自分の手を見る。
「その後もだ」
エリシアは何も言わずに待った。
「母さんと祖母ちゃんで、やっと分かった。俺たちが本当に老いないなら、これから何度も同じことが来る」
WOLF PACKの仲間たち。
FENRIRの兵士たち。
フェルガリアで知り合った人々。
今は若い者も、いつか老いる。
自分たちだけが変わらないのなら、見送る側に残る。
「誰かと親しくなるたび、いつかいなくなる」
「そうね」
エリシアは否定しなかった。
「だったら最初から距離を置いた方が楽なんじゃないかって……一瞬だけ思った」
「それで?」
「母さんに怒られる」
「私にも怒られるわよ」
「ルナにも」
「多分一番怒るわね」
レイブンが小さく笑う。
エリシアはその手を握った。
「レイブン。私も怖い」
彼が妻を見る。
「私だって、これから誰を見送ることになるのか分からない。でも、別れる日が来るから出会わないなんて選び方をしたら、それこそ私たちは生きているんじゃなくて、時間の中に残っているだけになる」
母の言葉と重なる。
レイブンは妻の手を握り返した。
「長いな」
「何が?」
「俺たちの人生」
「今さら?」
「今さら実感した」
「じゃあ、ゆっくり考えましょう」
「どれくらい?」
「私たちには時間があるでしょう?」
その言葉を、以前のレイブンなら祝福のように受け取ったかもしれない。
今は違う。
時間があるということには、重さがある。
だが同時に、可能性もある。
「……そうだな」
◇
その夜。
レイブン、エリシア、ルナは再びクロウ家へ戻った。
ヴァルターは居間で古い箱を開いていた。
「何してるの?」
レイブンが覗き込む。
「整理だ」
「また?」
「俺が生きてるうちに、どれが何か説明しておいた方がいいだろ」
「縁起悪い」
「事実だ」
箱の中には古い軍用品が入っていた。
階級章。
部隊章。
古い認識票。
写真。
紙の地図。
教官時代の記録。
そして、使い込まれた小さな整備道具。
「これ」
レイブンが一枚の写真を取った。
若いヴァルターが写っている。
まだ右腕がある。
隣には軍服姿の仲間たち。
「第一次異界大戦より前?」
「ああ」
「誰?」
ヴァルターは一人ずつ名前を言った。
生きている者。
戦死した者。
病気で亡くなった者。
軍を辞めて農業を始めた者。
行方が分からなくなった者。
レイブンは黙って聞いた。
「覚えられるか?」
「一回じゃ無理」
「それでいい」
ヴァルターは次の写真を出す。
「何度でも話す」
ルナも床へ座った。
「私も聞きます」
エリシアも隣へ腰を下ろす。
四人で古い写真を見る。
そこには、教科書には載らない人々がいた。
英雄ではない。
有名な将軍でもない。
ただヴァルターと一緒に笑い、訓練し、戦い、生きた人々だった。
「父さん」
「何だ」
「これが言ってた博物館?」
ヴァルターは少し考えた。
「半分はな」
「残り半分は?」
「お前自身が見たものだ」
レイブンは父を見る。
「俺の記憶をそのまま受け取るんじゃない。俺の話を覚えたうえで、お前が自分の目で見たものと分けて残せ」
「違ってたら?」
「違ってて当然だ」
ヴァルターは古い写真を指で撫でた。
「同じ戦場にいたって、人間は同じものを見ちゃいない」
それは軍人としての教えであり、歴史を残す者への教えでもあった。
「だから、自分の記憶を絶対の真実だと思うな。記録と比べろ。他人の話を聞け。敵だった奴の話も聞け」
「ヴァルグラントも?」
「特にだ」
ヴァルターは頷いた。
「戦争が終わったなら、今度は向こうが何を見ていたのか聞けるだろう」
レイブンは少し驚いた。
「父さんからそれ言うんだ」
「俺を何だと思ってる」
「頑固な帝国軍人」
「否定はせん」
ルナが笑う。
「でも、お父様らしいです」
「どういう意味だ」
「兄様に自分で考えろって、ずっと言ってましたから」
ヴァルターは答えず、次の写真を取り出した。
その横顔を、レイブンは見つめた。
父は自分が長くないかもしれないと知っている。
だから急いでいるのだろう。
財産を渡すためではない。
武器を残すためでもない。
記憶を手渡そうとしている。
ただし、自分の記憶を息子へそのまま押しつけるのではなく、確かめ、疑い、他者の記憶と照らし合わせて残せと教えている。
生き続ける博物館。
昨日まで、少し奇妙な父らしい言い回しだと思っていた。
今は、その意味が少し違って聞こえた。
レイブンは古い写真を一枚手に取った。
「この人、もう一回名前教えて」
「さっき言っただろ」
「覚えろって言ったの父さんだろ」
ヴァルターは呆れたように息を吐いた。
それでも、もう一度名前を教えた。
レイブンは聞いた。
ルナも聞いた。
エリシアも聞いた。
夜が深くなっても、四人は箱を閉じなかった。
セレナとヘレーネの死によって空いた場所を、誰か別の人間で埋めることはできない。
埋める必要もないのだろう。
空いた場所を残したまま、それでも家族は増え、記憶も増えていく。
そしてレイブンたち三人には、それを普通の人間よりはるかに長く抱えていく時間がある。
いつかヴァルターの声を直接聞けなくなる日が来ても、この夜に聞いた話は残る。
だから今は、まだ父がいるうちに聞けばいい。
何度でも。
忘れたら、もう一度。
分からなければ、本人に尋ねればいい。
レイブンは次の写真へ手を伸ばした。
戦場から生還する方法を教えた父は、今度は自分がいなくなった後も息子が生き続けるための方法を、少しずつ教え始めていた。




