↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
PR
126/189

Season 7「停戦線」 #126

第126話「先に行く者、残り続ける者」


 セレナ・クロウに残された時間は、家族が願っていたよりも短かった。


 余命を告げられてから数日後の朝、彼女は病院ではなく自宅にいた。医師からは入院を続ける選択肢も提示されていたが、セレナ自身が家へ戻ることを望んだためだった。


 治る見込みがないのなら、最後まで病室の天井を眺めていたくない。


 それが彼女の意思だった。


 ヴァルターは最初こそ反対したが、最後には妻の望みを受け入れた。必要な医療支援を受けられるよう手配し、何かあればすぐ医療班へ連絡できるようにしたうえで、長年家族が暮らしてきた家へ連れて帰った。


 レイブンもフェルガリアでの任務を一時的に副官たちへ任せた。


 ルナもSTYXから離れた。


 エリシアもEINHERJARの指揮を引き継がせた。


 誰も、それを職務放棄とは言わなかった。


 第二次異界大戦を戦い抜いた三人が、今度は家族のそばにいるために任務を離れる。


 WOLF PACKも、EINHERJARも、STYXも、それを当然のこととして受け入れた。


 そして、セレナが家へ戻った二日後。


 朝から降っていた細い雨が昼過ぎに止み、窓の外から雲の切れ間を通した淡い光が差し込んだ頃だった。


 セレナの呼吸が、少しずつ浅くなった。


     ◇


「レイブン」


 呼ばれた時、レイブンは母のベッドのすぐ横にいた。


「ここにいる」


「ルナは?」


「います、お母様」


 反対側からルナが母の手を握る。


 エリシアもいた。


 そしてヴァルターは、妻の最も近くに座っていた。


 戦場で右腕を失った時も、帝国と連邦共和国が再び戦争寸前まで進んだ時も、異界軍との戦いが始まった時も、ヴァルターは家族の前でほとんど弱音を見せなかった。


 その父が今は、セレナの手を両手で包んでいた。


「あなた」


「ああ」


「そんな顔をしないで」


「どんな顔だ」


「昔から、悲しい時ほど怖い顔になるでしょう」


「お前が笑いすぎなんだ」


「そうだったかしら」


「ああ」


 セレナが微笑んだ。


 声は弱い。


 それでも、いつもの母だった。


「レイブン」


「何?」


「近くへ」


 レイブンは椅子をさらに寄せた。


 セレナの白い猫耳はもうほとんど動いていない。


 その手がゆっくり上がる。


 レイブンは自分から頭を下げた。


 母の指先が、黒い猫耳へ触れた。


「小さい頃は、触るとすぐ怒ったのに」


「子供だったから」


「今は?」


「……好きにして」


「大人になったわね」


「何歳だと思ってるんだよ」


 セレナは笑おうとした。


 しかし途中で呼吸が乱れ、エリシアがそっと身体を支えた。


「お義母様、無理に話さなくても」


「話したいの」


 セレナはエリシアを見る。


「エリシア」


「はい」


「この子をお願いね」


 レイブンが顔を上げる。


「母さん」


「あなたは黙ってなさい」


「……はい」


 幼い頃と同じ調子だった。


 エリシアは涙を堪えながら頷いた。


「はい。何度でも連れて帰ります」


「それなら安心」


 セレナは次にルナを見る。


「ルナ」


「はい……」


「泣いていいのよ」


 その一言で、ルナの目から涙が落ちた。


「お母様……」


「でも、ちゃんと笑うことも忘れないで」


「はい」


「あなたは優しい子だから、人の悲しみまで全部自分で背負おうとするでしょう」


 ルナは母の手を握ったまま、何度も頷いた。


「兄様が無茶をしたら止めます」


「それは絶対にお願い」


「母さんまで何でそうなるんだよ」


 レイブンが言うと、セレナは目を細めた。


「だって、あなたは昔からそうでしょう?」


「否定は……しない」


「少しはしなさいよ」


 小さな笑いが部屋に生まれた。


 それが、セレナが家族と一緒に笑った最後だった。


 しばらくして、彼女はヴァルターを見る。


「あなた」


「いる」


「ありがとう」


「何がだ」


「全部」


 ヴァルターの喉が動いた。


「……俺の方だ」


「そう?」


「ああ」


「なら、おあいこね」


 ヴァルターは何も返せなかった。


 セレナの手を握る力だけが強くなった。


 やがて彼女は目を閉じた。


 眠るのだと、最初は誰もが思った。


 呼吸が少しずつ長い間隔になる。


 レイブンの黒い猫耳には、それが嫌になるほど鮮明に聞こえていた。


 一度。


 浅く息を吸う。


 長く吐く。


 間が空く。


 もう一度。


 レイブンは戦場で何度も人の最期を見ている。


 だから分かってしまった。


 分かりたくなかった。


「母さん」


 返事はない。


「母さん」


 セレナの胸が、小さく上下した。


 そして――止まった。


 レイブンは動かなかった。


 ルナが母の手を握ったまま泣いている。


 エリシアはレイブンの肩へ手を置いた。


 ヴァルターだけは、しばらく妻の顔を見ていた。


「……セレナ」


 声は静かだった。


「待たせるかもしれん」


 妻の白い髪を撫でる。


「少しだけ、先に行ってろ」


 返事はなかった。


 ヴァルターは目を閉じた。


 その時になって初めて、レイブンは父の頬を涙が伝うのを見た。


     ◇


 セレナの葬儀を終えた数日後、今度は病院から連絡が入った。


 ヘレーネ・クロウ。


 レイブンとルナの祖母。


 詳しい検査によって癌が見つかっていた。


 発見された時には進行しており、高齢の身体へ積極的な治療を行うことにも大きな負担が伴う状態だった。


 レイブンが病室を訪れた時、ヘレーネはその話を本人から聞かされていた。


「そんな顔で来るんじゃないよ」


 祖母の第一声だった。


「……最近みんな俺に同じこと言うな」


「昔からあんたの顔が分かりやすいだけさ」


「無表情って言われるんだけど」


「他人にはね」


 ヘレーネは笑った。


 ベッド脇には、かつて彼女がレイブンへ送った手紙の束が置かれていた。


「セレナが先だったね」


「うん」


「あの子は昔からせっかちだった」


「母さんをそう言えるの、祖母ちゃんくらいだよ」


「私の娘だからね」


 レイブンは椅子へ座った。


「怖くない?」


 自分でも、子供のような質問だと思った。


 ヘレーネはしばらく孫を見ていた。


「怖いよ」


 意外な答えだった。


「怖くないなんて言ったら嘘になる。でもね、レイブン。怖いからって、来るものが来なくなるわけじゃない」


 彼女は皺の増えた手を伸ばし、レイブンの手へ重ねた。


「あんたたちは違うんだろう?」


 レイブンは答えなかった。


 それでも祖母には伝わった。


「長く生きるなら、覚えておきなさい」


「何を?」


「先に行った人間を、死んだ瞬間だけで覚えるんじゃないよ」


 レイブンが祖母を見る。


「生きてた時間の方がずっと長いんだから」


 その言葉は、レイブンの胸に残った。


 ヘレーネの容態が急変したのは、その翌週だった。


 家族が病院へ駆けつけた時には、すでに意識を保つことが難しくなっていた。


 レイブンは最後まで手を握っていた。


 祖母は一度だけ目を開けた。


「……黒猫」


 幼い頃の呼び方だった。


「いるよ、祖母ちゃん」


「そうかい」


 それが最後の会話になった。


 ヘレーネ・クロウは、娘セレナの後を追うように静かに息を引き取った。


     ◇


 二つの葬儀が終わった。


 クロウ家の家は、急に広くなった。


 物の数はほとんど変わっていない。


 家具も同じ場所にある。


 食卓もある。


 セレナが使っていた食器も残っている。


 ヘレーネから送られてきた手紙もある。


 それなのに、人が二人いなくなっただけで家の中に生まれた空白は、どんな物でも埋められそうになかった。


 家族全員で遺品を整理することになった。


 ヴァルター。


 レイブン。


 エリシア。


 ルナ。


 四人で少しずつ片づけていく。


 急ぐ理由はなかった。


「これ、母さんの?」


 レイブンが古い箱を取り出した。


 ヴァルターが見る。


「多分な」


 中には写真や手紙が入っている。


 幼いレイブン。


 まだ小さなルナ。


 若いヴァルターとセレナ。


 軍服姿の父へ抱きつく子供たち。


 学校時代。


 レイブンが初めて軍の訓練へ参加した頃。


 家族が増え、エリシアが加わった後の写真もあった。


「兄様、これ」


 ルナが一通の封筒を見つけた。


 他の手紙とは違う。


 封がされている。


 表には、セレナの字で書かれていた。


『家族へ』


 四人の手が止まった。


「父さん」


 ヴァルターは封筒を見つめた。


「俺も知らん」


 レイブンが慎重に封を開ける。


 中には数枚の便箋があった。


 最初の一行を読んだところで、レイブンの呼吸が止まりそうになった。


 それは遺書だった。


 しかし財産や葬儀について書かれたものではない。


 家族へ向けた手紙だった。


 レイブンは声に出して読み始めた。


「『これを読んでいるなら、私はもう皆と同じ食卓には座れないのでしょう』」


 ルナが俯く。


 エリシアがそっと背中へ触れる。


 レイブンは続けた。


「『だから最後に、母親として少しだけ偉そうなことを書かせてください』」


 そこから先には、一人ずつへの言葉があった。


 ルナへ。


 優しいことと、自分を犠牲にすることを同じにしないでほしい。


 誰かを帰すために自分が帰らない人間にならないでほしい。


 悲しい時には兄を頼り、兄が無茶をした時には遠慮なく叱ってほしい。


 エリシアへ。


 クロウ家へ来てくれてありがとう。


 レイブンを夫として選んでくれたことへの感謝。


 息子が戦場から帰る場所を、一人ではなく二人で作ってくれたことへの感謝。


 そして、レイブンが自分一人で全てを抱えようとしたら、妻として止めてほしい。


 レイブンへ。


 そこで彼は一度、読むのを止めた。


「兄様」


「大丈夫」


 レイブンは便箋を持ち直した。


「『あなたは小さい頃から、誰かを守れなかった時に、自分だけを責める子でした』」


 覚えがありすぎた。


「『でも、守るということは、誰も死なせない魔法を持つことではありません。そんなものを母さんはあなたに教えた覚えはありません』」


 レイブンの指が僅かに震える。


「『あなたは帰ってきなさい。何度でも。エリシアのところへ。ルナのところへ。仲間のところへ。そして、帰ってきたら生きなさい』」


 次の行には、短くこう書かれていた。


 **『死なないことと、生きることを同じにしないでください。』**


 レイブンは読めなくなった。


 エリシアが便箋を受け取ろうとはしなかった。


 代わりに、彼の手を握った。


 しばらくして、レイブンは自分で続きを読んだ。


「『あなたたち三人の身体に何が起きたのか、私は最後まで理解できませんでした。でも、もし本当に長い時間を生きるのなら、長い時間を罰として使わないでください。楽しいことを見つけて、家族を増やして、友達を作って、笑ってください』」


 ルナが声を殺して泣いていた。


 そして最後に、ヴァルターへの文章があった。


 レイブンは父を見る。


「読むぞ」


「ああ」


「『ヴァルターへ』」


 ヴァルターは黙って聞いている。


「『あなたには、最初に謝らなければなりません』」


 父の眉が動いた。


「『私は、自分の身体が悪くなっていることを、あなたが思っているより前から知っていました』」


「……何?」


 ヴァルターの声が低くなった。


 レイブンも思わず手紙を見る。


「『病院へ行けと言われるのが嫌で、黙っていました。あなたなら絶対に連れていくと分かっていたからです』」


 部屋に沈黙が落ちた。


「『ごめんなさい。これは私が悪かったです』」


 ヴァルターが目を閉じる。


「馬鹿が……」


 怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。


「『でも、あなたと過ごした時間を後悔したことは一度もありません。軍人だったあなたを待ったことも、右腕を失って帰ってきたあなたを迎えたことも、子供たちを一緒に育てたことも、全部です』」


 ヴァルターの再構築された右手が震えた。


「『あなたはきっと、私を守れなかったと思うでしょう。でも私は、あなたに守られていました。だから謝らないでください。私も先に黙っていたことだけ謝ります』」


 最後の文章は、家族全員へ向けられていた。


 **『クロウ家の訓示。帰ること。生きること。残された人を一人にしないこと。そして、先に行った人のところへ急がないこと。以上。母さんからの最後の命令です。』**


 レイブンは手紙を下ろした。


 誰もすぐには話さなかった。


 やがてヴァルターが立ち上がった。


 窓際まで歩き、外を見た。


「最後まで……俺に命令しやがる」


 セレナの夫として過ごした男の声だった。


 レイブンは何も言わなかった。


 ヴァルターの肩が僅かに震えているのを、見ないふりをした。


     ◇


 それからしばらく経ったある日。


 ヴァルターがレイブンだけを呼んだ。


 場所は家の裏庭だった。


 幼い頃、レイブンが父から初めて軍人の姿勢を教えられた場所でもある。


「座れ」


「また?」


「いいから座れ」


 レイブンは父の隣へ腰を下ろした。


 ヴァルターは以前より老けて見えた。


 セレナが亡くなってから急に、というだけではない。


 実際に身体が弱っている。


 レイブンには分かっていた。


「レイブン」


「うん」


「今日は父親として話す」


「教官じゃなく?」


「両方だ」


「一番面倒なやつだな」


「黙って聞け」


 レイブンは小さく笑った。


「はい、教官」


 ヴァルターは息子を見る。


「俺たち両親が、お前たちより先に行くのは自然の摂理だ」


 レイブンから笑みが消えた。


「お前とルナは、もう俺たちとは違う時間を生きている。エリシアもだ。これから先、俺には想像もできないほど長く生きるかもしれん」


「父さん」


「最後まで聞け」


 軍人を育ててきた教官の声だった。


 しかし、その奥には父親の温度があった。


「だからこそ言う。自暴自棄になって後を追うなんて考えはやめろ」


 レイブンの金色と黒のオッドアイが父を見る。


「そんなこと――」


「考えていないなら、それでいい。これから先も考えるな」


 ヴァルターは言葉を続ける。


「お前にはエリシアがいる。ルナがいる。二人は、おそらくお前と同じ時間を歩き続ける。WOLF PACKもいる。FENRIRもある。今は敵だった奴とまで一緒に新しい技術を作ってるそうじゃないか」


「ゲルハルトのこと?」


「名前まではどうでもいい」


「本人が聞いたら怒るぞ」


「敵だった男に嫌われるくらい、今さらどうということはない」


 レイブンは僅かに笑った。


 父も少しだけ笑った。


 だが、すぐ真剣な表情へ戻る。


「兄として、クロウ家を引っ張り続けろ」


「……俺が?」


「お前以外に誰がいる」


「ルナの方がしっかりしてる」


「それは知ってる」


「即答するなよ」


「だが長男はお前だ」


 ヴァルターは息子の肩へ手を置いた。


「レイブン。お前は生きる伝説になんてならなくていい」


 その言葉は意外だった。


「英雄扱いされる必要もない。戦史の中で綺麗な名前にされる必要もない。そんなものは後から他人が勝手に決める」


 父の手に力が入る。


「お前は――**生き続ける博物館**になれ」


「……博物館?」


「ああ」


「もう少し格好いい言い方なかったのか」


「黙れ」


 ヴァルターは真顔だった。


「第一次異界大戦を知っている。第二次異界大戦を知っている。帝国と連邦が殺し合っていた時代を知っている。異界軍と戦い、ヴァルグラントと停戦し、フェルガリアが生まれた時代も知っている。これから先、お前はもっと多くのものを見る」


 レイブンは黙って聞く。


「記録は残る。映像も残る。兵器も残る。だが、そこにいた人間が何を考え、何を怖がり、何を間違えたのかは、時間が経つほど綺麗に削られていく」


 ヴァルターの声が低くなる。


「だから覚えていろ」


 父が見ているのは、兵士NoXではない。


 自分の息子だった。


「英雄として語るな。戦争を格好よく語るな。俺たちが正しかったと決めつけるな。敵が全部間違っていたとも言うな。腹が減ったことも、怖かったことも、逃げたかったことも、くだらない冗談で笑ったことも覚えていろ」


 レイブンの喉が詰まる。


「母さんのことも?」


「当然だ」


「祖母ちゃんも?」


「忘れたら俺が化けて出る」


「それは嫌だな」


「なら覚えてろ」


 二人の間に、小さな笑いが生まれた。


 ヴァルターは空を見る。


「俺の残りも、おそらくあまり長くないかもしれん」


「父さん」


「歳は取った。身体も昔みたいには動かん。セレナが先に行って、正直に言えば……堪える」


 初めてだった。


 ヴァルターがそれを認めた。


「だが俺は、自分から終わらせるつもりはない」


 レイブンは父を見る。


「セレナに怒られるからな」


「最後の命令?」


「ああ」


 ヴァルターは苦笑した。


「死んでも命令してくる。とんでもない女と結婚したもんだ」


「幸せだった?」


「馬鹿野郎」


 父は迷わなかった。


「最高だった」


 レイブンは俯いた。


 目元が熱くなる。


 戦場なら抑えただろう。


 だが今は戦場ではない。


「レイブン」


「……何?」


「諦めるな」


 父の声が届く。


「長く生きることを諦めるな。人と関わることを諦めるな。別れが怖いからって、新しい家族や仲間を作ることを諦めるな」


 レイブンは顔を上げた。


「先に行く奴はいる。これから何人もいるだろう。そのたびに辛い。お前は多分、普通の人間より何度もそれを経験する」


 ヴァルターは息子の肩を叩いた。


「それでも生きろ」


 レイブンは何も答えられない。


「聞こえたか、NoX」


 父ではなく、教官の呼び方だった。


 レイブンの背筋が自然に伸びる。


「……聞こえました」


「声が小さい」


「聞こえました、教官」


「よし」


 ヴァルターは満足そうに頷いた。


 レイブンは少し間を置いてから尋ねる。


「父さん」


「何だ」


「これ、最後の訓示みたいに言うなよ」


「最後になるかもしれんから言ってる」


「やめろよ」


「事実から逃げるな」


「分かってる」


 レイブンは拳を握った。


「でも、まだいるだろ」


 ヴァルターを見る。


「母さんに言われたんだ。死ぬ前から死んだみたいに扱うなって」


 ヴァルターが目を見開いた。


 そして笑った。


「……一本取られたな」


「母さんに感謝して」


「そうする」


 二人はしばらく庭に座っていた。


 軍の話はしなかった。


 異界門の話もしなかった。


 Smart ARも、フェルガリアも、ヴァルグラントも、次の任務も話さなかった。


 父と息子として、昔の話をした。


 レイブンが幼い頃、父の軍靴を勝手に履いて転んだこと。


 ルナが初めて兄の後ろをついて歩いた日のこと。


 セレナが怒ると、軍の教官より怖かったこと。


 ヘレーネが孫へ大量の手紙を送りつけてきたこと。


 どれも戦史には残らない。


 軍の公文書にも書かれない。


 英雄譚にもならない。


 けれどヴァルターが言った「生き続ける博物館」に残すべきものとは、きっとそういう記憶なのだとレイブンは思った。


 日が傾き始めた頃、家の中からルナの声がした。


「兄様、お父様! 夕食ですよ!」


 続いてエリシアの声も聞こえる。


「冷める前に入ってきて!」


 ヴァルターが立ち上がる。


「行くぞ」


「父さん」


「何だ」


 レイブンも立った。


「俺、覚えてるよ」


 ヴァルターが振り返る。


「母さんのことも。祖母ちゃんのことも。父さんのことも」


「俺はまだ死んでない」


「知ってる」


「勝手に収蔵品にするな」


 レイブンは思わず笑った。


「生き続ける博物館って言ったの、父さんだろ」


「例え話だ」


「もう遅い」


「まったく……」


 二人は並んで家へ戻った。


 そこにはエリシアがいる。


 ルナがいる。


 セレナが座っていた席だけは空いている。


 その空席を見れば、これからも胸は痛むのだろう。


 けれど、席が空いたからといって、そこで過ごした時間まで消えるわけではなかった。


 レイブンは席についた。


 父も座る。


 ルナが料理を運び、エリシアが食器を並べる。


 四人になった食卓で、ヴァルターが料理を一口食べた。


「薄いな」


「お父様」


 ルナの声が低くなる。


「いや、うまい。非常にうまい」


「遅いです」


 エリシアが笑い、レイブンも笑った。


 母を失った悲しみは消えていない。


 祖母を失った悲しみも消えない。


 そして父との別れも、いつか来る。


 それでもクロウ家の食卓には、まだ笑い声があった。


 死なないことと、生きることは同じではない。


 母が残した言葉の意味を、レイブンは少しずつ理解し始めていた。


 生きるとは、ただ時間の中に残り続けることではない。


 失った者を覚え、それでも残っている者の手を離さず、新しい朝が来るたびにもう一度その日を選ぶことなのだ。


 だからレイブンは、父の最後になるかもしれない訓示を胸の奥へしまった。


 伝説になるためではない。


 戦争を永遠に語り継ぐためでもない。


 父と母と祖母が確かに生きていたことを、いつか彼らを知らない時代が来ても、自分だけは忘れないために。


 そして何より――自分自身が、生きることを諦めないために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。