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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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125/189

Season 7「停戦線」 #125

第125話「残された時間」


 第二次異界大戦が終わってから、港湾自由都市フェルガリアの日々は、それまでとはまるで異なる速度で進み始めていた。


 港では復興資材を積んだ船が絶えず出入りし、かつて敵だったヴァルグラント王政連合の技術者たちは帝国や連邦共和国の技術士官と同じ机を囲むようになった。思念伝達を基礎とするSmart ARの共同研究も、まだ実用化とは程遠いながら、最初の不安定な位置表示から一歩ずつ精度を上げている。


 戦場で次に撃つべき相手を探していた者たちが、今は次に直すべき橋や道路について話していた。


 レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕にとっても、ようやく戦争以外の時間が戻りつつあった。


 だからこそ、その日の通信はあまりにも唐突だった。


 FENRIRの共同研究区画で、レイブンはCipherとヴァルグラント側の技術士官が行っている思念信号の変換試験を眺めていた。試験用の表示装置では、部屋の中にいる人間の位置を示す光点が実際より数メートルずれた場所を動いている。


「前よりはマシだな」


「前は壁の中だったからな」


 Cipherが答えた。


「褒めてる」


「そう聞こえないんだよ」


「実戦で味方を違う部屋に表示したら笑えないぞ」


「だから実戦投入してない」


 ノアが呆れたように返した時、レイブンの携帯端末が鳴った。


 通常の部隊通信とは違う。


 私用回線だった。


 画面に表示された名前を見た瞬間、レイブンの黒い猫耳が僅かに立った。


「……父さん?」


 ヴァルター・クロウ。


 珍しいことではない。


 戦争が終わってからは以前より連絡を取りやすくなり、近況を伝えることもあった。


 しかし、表示されている優先度が違った。


 至急。


 レイブンはすぐ通信を取った。


「父さん、どうした?」


『レイブンか』


「ああ」


 声を聞いただけで分かった。


 何かがおかしい。


 いつものヴァルターなら、息子がどれだけ高位の任務に就こうが、最初の一言で遠慮することはない。戦場帰りなら「生きてるか」と聞き、家へ戻る時なら「遅い」と言うような男だった。


 だが今日は、言葉を選んでいる。


『今、フェルガリアか』


「そうだけど」


『エリシアはいるか』


「別区画。呼べる」


『ルナは』


「STYXの方にいる」


 短い沈黙があった。


『二人を連れて帰ってこい』


 レイブンの表情が変わった。


「何があった?」


『通信では話したくない』


「父さん」


『至急だ』


 その一言で十分だった。


「分かった」


 通信を切る。


 Cipherがこちらを見ていた。


「家?」


「ああ」


「行け」


「まだ何も――」


「至急なんだろ」


 ノアは試験装置へ視線を戻した。


「戦争は終わった。ここには俺たちがいる」


 レイブンは数秒だけ動かなかった。


 戦争中なら、持ち場を離れる理由と影響を先に考えただろう。


 だが今、父が家族三人を呼んでいる。


「……悪い」


「謝る暇があったら行け」


 レイブンは頷いた。


     ◇


 エリシアは事情を聞くと、質問を一つしかしなかった。


「すぐ出られる?」


「ああ」


「じゃあ行きましょう」


 ルナからの返事も同じだった。


『分かりました。STYXの引き継ぎを済ませます』


「急げる?」


『兄様』


「何?」


『お父様が私たち三人を同時に呼ぶなんて、普通じゃありません』


「……ああ」


『私もすぐ行きます』


 三人がフェルガリアを出たのは、それから間もなくのことだった。


 復興作業の続く港湾地区が遠ざかっていく。


 車内でレイブンはほとんど話さなかった。


 隣に座るエリシアも、無理に声を掛けなかった。


 ルナは何度か端末を確認していたが、父から追加の連絡はない。


 レイブンは窓の外を流れる景色を見ていた。


 戦場へ向かう時とは違う。


 敵はいない。


 作戦目標もない。


 地図を見て危険区域を避ける必要もない。


 それなのに、胸の奥にある重さは戦場へ向かう時より大きかった。


「母さんかな」


 気づけば口にしていた。


 ルナが顔を上げる。


「分かりません」


「父さん、自分のことならあんな呼び方しないんだ」


 ヴァルターなら、自分が負傷しても「大したことはない」で済ませる。


 右腕を失って帰還した時ですら、家族へ最初に向けた言葉は弱音ではなかった。


 その父が、通信では話したくないと言った。


 エリシアの手が、レイブンの手へ重なった。


「着いてから聞きましょう」


「ああ」


 レイブンは握り返した。


 それ以上、予想するのをやめた。


 予想したところで、事実は変わらない。


 それは分かっている。


 だが、分かっていることと考えずにいられることは別だった。


     ◇


 家の扉を開けた時、最初に感じたのは匂いだった。


 幼い頃から変わらない家の匂い。


 木材。


 食事。


 母が使っていた茶葉。


 軍施設や艦内では決して感じることのない生活の匂いが、帰ってきた三人を迎えた。


「父さん」


 居間にヴァルター・クロウがいた。


 黒猫系亜人の老兵は椅子に座り、机の上で両手を組んでいた。


 失われた右腕は魔力によって再構築されている。


 何度戦場へ戻っても、何人の新兵を教えても、レイブンにとっては父親だった。


 だが今日は、その背中が小さく見えた。


「来たか」


「母さんは?」


「休んでいる」


 ルナが一歩前へ出る。


「具合が悪いんですか?」


 ヴァルターはすぐには答えなかった。


「座れ」


 レイブンの胸が沈む。


 三人が向かい側へ座る。


 エリシアだけは少し離れるのではなく、当然のようにレイブンの隣へ座った。


 ヴァルターはそれを見てから、ゆっくり息を吐いた。


「昨日、セレナを病院へ連れて行った」


 レイブンは黙って聞く。


「前から体調を崩すことが増えていた。本人は年齢のせいだと言っていた」


「何の病気?」


「一つじゃない」


 ヴァルターの声は静かだった。


「長い時間を生きてきた身体だ。いくつかの臓器が弱っている。治療できるところは治療する。痛みも抑える。だが――」


 そこで言葉が止まった。


 ルナの白い猫耳が伏せられる。


「お父様」


「医者から話があった」


 ヴァルターは子供たちを見る。


「セレナの余命は、長くないそうだ」


 部屋から音が消えたように感じた。


 レイブンは父を見たまま動かなかった。


 意味は理解している。


 言葉も知っている。


 戦場では何度も死を見てきた。


 自分自身も、普通なら死んでいる傷を経験している。


 だが、その言葉と母親が結びつかなかった。


「……どれくらい」


 自分の声が、遠くから聞こえた。


「医者も断定していない。数か月かもしれん。それより短い可能性もある。状態が安定すれば、もう少し長くなることもあるそうだ」


「治せないの?」


 ルナが聞いた。


 声が震えていた。


「できる治療は続ける」


「FENRIRの医療なら? IDUNNなら、異界の治療技術だって――」


「ルナ」


 ヴァルターの声は厳しくなかった。


 それがかえって辛かった。


「もう確認した」


 ルナが黙る。


「フィーナにも相談した。帝国軍病院にも、連邦側の専門医にも資料を見てもらった。異界側の治癒術についても可能性を聞いた」


 ヴァルターは拳を握る。


「治癒魔法は時間を止めるものじゃない」


 レイブンは無意識に自分の手を見る。


 傷ついても戻る身体。


 年齢による変化さえ、ほとんど見せなくなった肉体。


 自分。


 エリシア。


 ルナ。


 三人は老いない。


 少なくとも、現在までの観測ではそうだった。


 母は違う。


「……俺たちは」


 言葉が漏れた。


 ヴァルターが息子を見る。


「俺たちは戻るのに」


 傷が治る。


 身体が基準状態へ戻る。


 歳を取らない。


 どれだけ理屈を並べても、その事実だけが残酷だった。


「なんで母さんは駄目なんだよ」


 ヴァルターは答えなかった。


 答えなどない。


 エリシアがレイブンの手を握る。


 ルナは俯いていた。


 白い猫耳が完全に伏せられている。


「兄様……」


 レイブンは何も言えなかった。


     ◇


「何をそんな顔してるの?」


 奥の部屋から声がした。


 四人が一斉に振り向く。


 セレナ・クロウが立っていた。


「母さん」


「お母様!」


 ルナが立ち上がる。


 セレナは白猫系亜人らしい白い耳を僅かに動かしながら、娘へ笑いかけた。


「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるわよ」


「寝てなくていいの?」


「ずっと寝ていたら余計に身体が悪くなるでしょう」


「でも……」


「ルナ」


 母親の声は昔と変わらなかった。


「座りなさい」


 ルナは従った。


 セレナはヴァルターの横へ腰を下ろす。


「あなた、どうせ必要以上に深刻そうに説明したんでしょう」


「医者に言われた通りだ」


「顔が怖いのよ」


「生まれつきだ」


「レイブンと同じね」


「なんで俺まで」


 反射的に返してしまった。


 セレナが笑う。


 その笑い方も変わらない。


 だから余計に、余命という言葉が現実に思えなかった。


「レイブン」


「何?」


「こっちへ来なさい」


「子供じゃないんだけど」


「私から見ればいつまで経っても子供よ」


 レイブンは立ち上がり、母の近くへ行く。


 セレナが黒い猫耳へ手を伸ばした。


 幼い頃、何度もされた仕草だった。


「本当に変わらないわね」


 レイブンは返せなかった。


「昔より怖い顔にはなったけど」


「教官やってたから」


「お父さんに似たのね」


「不本意だ」


「聞こえてるぞ」


 ヴァルターが低く言う。


 セレナがまた笑う。


 だが、その笑いの途中で小さく咳き込んだ。


 レイブンの身体が即座に反応する。


「母さん」


「大丈夫」


「大丈夫じゃ――」


「レイブン」


 セレナは息子の手を握った。


「私はまだここにいるわ」


 レイブンが止まる。


「余命を聞いたからって、今日死ぬわけじゃないでしょう?」


「……そうだけど」


「だったら、今いる私と話しなさい」


 レイブンは黙った。


「戦場で先のことばかり考えて、目の前を見なくなるように教えられた?」


「違う」


「でしょう?」


 ヴァルターが僅かに視線を落とす。


 どうやら同じことをすでに言われたらしい。


 セレナは今度はルナを見る。


「あなたも」


「はい……」


「泣くのは禁止しないわ。でも私がまだ生きているうちから、お葬式みたいな顔をしないで」


「お母様……」


 ルナはとうとう堪えきれず、母へ抱きついた。


 セレナは娘の背中をゆっくり撫でる。


 レイブンはその光景を見ていた。


 戦場なら、何をすべきか考えられる。


 敵がいれば位置を見る。


 負傷者がいれば救護を呼ぶ。


 撤退路が必要なら確保する。


 弾薬が減れば管理する。


 状況が変われば判断を変える。


 だが、母親の残された時間に対して、彼の戦術合理主義は何一つ答えを出してくれなかった。


     ◇


 その日、レイブンたちはフェルガリアへ戻らなかった。


 EINHERJARの指揮は副官へ。


 STYXも同様に引き継ぎ。


 WOLF PACKについてはHoundとCipherが必要な任務を処理した。


 第二次異界大戦は終わっている。


 緊急出撃を求める警報もない。


 レイブンは久しぶりに、軍人ではなく息子として一日を過ごした。


 夕食はセレナが作ろうとして、家族全員に止められた。


「病人扱いしないでって言ったでしょう」


「余命宣告された人に台所立たせる方が問題だろ」


「レイブン、料理できるの?」


「野戦食なら」


「却下」


「即答かよ」


 結局、エリシアとルナが中心になり、レイブンも手伝わされた。


 ヴァルターは台所へ入ろうとしてセレナ本人から追い出された。


「何で俺だけ駄目なんだ」


「あなたは昔から味付けが極端なのよ」


「食えればいい」


「ほら」


 久しぶりに、家族全員が笑った。


 食卓には戦争の話も出た。


 フェルガリアのこと。


 ヴァルグラント王政連合との終戦協定。


 ゲルハルトという軍人。


 Smart ARの研究。


 ルナが海で経験したこと。


 レイブンとルナが紫空の世界から帰還した時のこと。


 セレナは一つ一つ聞いた。


 時折質問した。


 エリシアの話には楽しそうに笑った。


 レイブンは途中から、母が自分たちの話を聞いているのではなく、覚えようとしているように感じた。


 自分がいなくなった後も、子供たちがどんな世界で生きていくのかを知るために。


 そう考えた瞬間、喉の奥が詰まった。


 だが何も言わなかった。


 セレナも何も言わなかった。


     ◇


 数日後。


 レイブンは再びフェルガリアにいた。


 家族との時間を増やすため、任務調整も始めていた。


 WOLF PACKの指揮官だからといって、全てを自分で抱える必要はない。


 むしろ部隊とは、指揮官一人が不在になっただけで止まるようではならない。


 かつて自分が教官として何度も教えてきたことを、今度は自分自身が受け入れる番だった。


「NoX」


 共同研究区画から出たところでHoundに呼び止められた。


「何?」


「顔色悪いぞ」


「寝てる」


「何時間?」


「……四時間くらい」


「それを寝てるとは言わない」


「戦場よりマシだ」


「戦争終わったんだぞ」


 Houndが腕を組む。


「平時に戦時基準持ち込むな」


 レイブンは返す言葉を失った。


「お前、本当にたまに正論言うな」


「たまに余計だ」


 そこで端末が鳴った。


 レイブンは反射的に画面を見る。


 家からではない。


 病院だった。


 それだけで嫌な予感がした。


「もしもし」


『レイブン・S・クロウさんでしょうか』


「はい」


『ご家族のヘレーネ・クロウさんについてご連絡があります』


 レイブンの表情が止まる。


「祖母が?」


『本日、体調を崩されて搬送されました。現在は入院されています』


 周囲の音が遠のいた。


 母。


 今度は祖母。


「状態は?」


『意識はあります。現在、詳しい検査を行っています。ただ、ご高齢ですので――』


「分かりました」


 声だけは冷静だった。


「すぐ行きます」


 通信を切る。


 Houndは何も聞かなかった。


 レイブンの顔を見ただけで察したらしい。


「行け」


「でも今日、ヴァルグラント側との――」


「NoX」


 Houndの声から冗談が消えた。


「行け」


 レイブンは彼を見る。


「こっちは俺たちがいる」


 数日前、Cipherにも同じことを言われた。


 レイブンは目を閉じ、短く息を吐いた。


「……頼む」


「任せろ」


     ◇


 病院へ向かう車内で、レイブンはエリシアとルナへ連絡した。


 ルナはしばらく何も言わなかった。


『お母様の次に……お祖母様まで?』


「まだ検査中だ。決めつけるな」


『はい』


 そう言いながら、自分自身にも言い聞かせていることに気づいた。


 決めつけるな。


 まだ生きている。


 母も。


 祖母も。


 何も終わっていない。


 セレナに言われたばかりだった。


 余命を聞いたからといって、今日死ぬわけではない。


 今いる自分と話せ。


 レイブンは窓の外を見る。


 街には復興工事の音が響いている。


 第二次異界大戦が終わり、人々は失われた時間を取り戻そうとしている。


 道路が直る。


 建物が建つ。


 国境が開く。


 敵だった国と条約が結ばれる。


 新しい技術が生まれ始める。


 世界は先へ進んでいた。


 だが家族に残された時間だけは、同じ方向へ進んでくれない。


 レイブンは自分の手を見る。


 若いままの手だった。


 傷を負っても、時間が経てば元の状態へ戻る。


 隣にいるエリシアも。


 妹のルナも。


 自分たちは、老いから取り残されている。


 それを長い命と呼ぶことはできる。


 不老不死と呼ぶこともできる。


 だがその意味を、レイブンはようやく別の形で理解し始めていた。


 死なないということは、失わないということではない。


 むしろ逆なのかもしれない。


 自分が残り続けるからこそ、先に歩き終える者を見送らなければならない。


 その最初の時が、少しずつ近づいていた。


 レイブンは拳を握った。


 戦うためではない。


 恐怖を押し殺すためでもない。


 母がまだいる。


 祖母もまだいる。


 ならば、今できることは一つだった。


 残された時間を、終わる前から失ったものとして扱わない。


 それだけは、戦場で何度も「帰る」ことを選んできた自分にもできるはずだった。

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