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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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124/189

Season 7「停戦線」 #124

第124話「平和に名を与える日」

 東部戦線から銃声が消えてからの日数を、レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕は数えなくなっていた。

 最初の数日は、一日が終わるたびに「今日も撃たなかった」と確認していた。停戦線を挟んで武器を持つ者同士が向かい合い、どちらか一人の恐怖や誤解が再び戦争を始めるかもしれないという緊張があったからだ。

 だが、今は違う。

 道路中央に設けられた境界標識の前では、連邦共和国軍の兵士と異界軍兵士が身振りを交えながら言葉を教え合っている。互いの陣地へ自由に出入りできるわけではないものの、負傷者の移送や行方不明者の捜索では事前に連絡員を通せば境界を越えられるようになった。

 昨日まで敵だった者の姿を見ても、即座に安全装置へ指を伸ばす者は減った。

 代わりに、聞き慣れない言葉を耳にして首を傾げる兵士が増えた。

 戦争はまだ法的には終わっていない。

 しかし戦場は、すでに戦争を続けるための場所ではなくなりつつあった。

 そして、その朝。

 ついに終わりへ名前を与えるための文書が届いた。

     ◇

「全代表団、最終文面に合意」

 Cipherの声が前進指揮所に響いた。

 ノア・ヴェルナー〔Cipher〕は通信端末の前に座ったまま、受信した文書を何度も確認していた。

「異界軍側の国家代表、帝国、連邦共和国、旧抵抗軍陣営の各代表、FENRIR側連絡代表。修正文面を含めて受理された。軍事部門だけじゃない。各政府側も承認手続きに入ってる」

 窓際に立っていたレイブンが振り返る。

「条件付き?」

「もちろん」

「だろうな」

 レイブンは驚かなかった。

 無条件で昨日までの戦争を忘れられるほど、誰も楽観的ではない。

 領土。

 捕虜。

 行方不明者。

 避難民。

 門。

 撤退する部隊。

 戦争で破壊された都市。

 海上に残る危険区域。

 互いに持ち去った装備や資料。

 そして何より、再び門を軍事侵攻へ利用しないための取り決め。

 話し合うべき問題はいくらでもあった。

「異界軍側の正式な国名は?」

 レイブンが尋ねる。

 Cipherが文書を確認した。

「向こうの言語から直訳すると意味がずれるらしい。ゲルハルトたちと通訳班が最終調整した結果、対外正式名称は――」

 ノアは一度、発音を確認した。

「ヴァルグラント王政連合」

「王政連合?」

「単一王国じゃない。複数の王領、自治領、都市圏、それに軍事共同体が一つの連合体を構成してる。こっちの『国家』概念に完全一致するわけじゃないらしいけど、外交上はこれを正式名として使うことで合意した」

 レイブンはその名を口の中で繰り返した。

「ヴァルグラント王政連合……」

 長い戦争の間、彼らはずっと「異界軍」と呼んできた。

 敵だったから、それで足りていた。

 どこの国の誰なのかを知る必要より、どこから攻撃してくるのかを知る方が重要だった。

 だが戦争を終えるなら、それでは足りない。

 国には名前がある。

 そこに住む人にも名前がある。

「ゲルハルトもそこの軍人ってことか」

「本人に聞いた方が早い」

「いるの?」

「外」

 レイブンが扉を見る。

「また勝手に来たのか?」

「今回は正式な通行申請済み」

「成長したな」

「聞こえているぞ、NoX」

 扉の向こうから流暢な声が返ってきた。

 レイブンの黒い猫耳がぴくりと動く。

 扉が開く。

「……お前」

 入ってきたゲルハルトは、数日前までとは比較にならないほど自然な発音で言った。

「おはよう、レイブン」

 レイブンは黙った。

 ゲルハルトが眉を寄せる。

「どうした?」

「気持ち悪い」

「なぜだ」

「急に喋れるようになりすぎだろ」

 横でHoundが吹き出した。

「俺も思った」

「お前は黙っていろ、Hound」

 Houndの笑いが止まった。

「……名前まで完全に覚えてる」

「お前は声が大きいから覚えやすい」

「NoX、こいつ嫌いになってきた」

「仲良くなってる証拠だろ」

「どこがだよ」

 ゲルハルトは肩をすくめた。

 数週間にも満たない期間で、彼の言語能力は異常なほど伸びている。

 理由の一つは思念伝達だった。

 単純に音だけを覚えているのではない。

 こちらの言葉を聞きながら、思念伝達によって意味や概念を同時に受け取ることで、音と意味の対応を急速に学習していた。

 逆にFENRIR側でも、異界軍――ヴァルグラント王政連合軍の言語を理解できる者が増えている。

 完全な翻訳技術ではない。

 誤解もある。

 個人差も大きい。

 それでも、互いの言葉を覚える速度は通常の外国語学習とは比較にならなかった。

 レイブンは椅子を示す。

「座れよ、ヴァルグラントの軍人」

「やっと我々を異界軍以外で呼んだな」

「長い」

「FENRIRも十分変わった名前だ」

「それは否定しない」

 ゲルハルトが座る。

 その瞬間、レイブンは奇妙な実感を覚えた。

 敵軍の士官を前にしているのではない。

 ヴァルグラント王政連合という国の軍人と話している。

 呼び方が変わっただけなのに、見え方まで変わっていた。

     ◇

 最終協定の署名は、三日後に行われた。

 場所として選ばれたのは、旧ヴァルナ一帯に築かれてきた巨大港湾地域だった。

 第一次異界大戦後から再建され、帝国と連邦共和国の境界にありながら、どちらか一国だけの軍港として扱われることを避けてきた場所。

 FENRIRの海上拠点。

 巨大造船施設。

 航空・輸送設備。

 国際物流区画。

 異界災害対処施設。

 そして、複数勢力が共同で利用する港湾基地。

 これまで「旧ヴァルナ」「自由都市」「港湾自由区域」と複数の呼び方が混在していた地域に、この日、初めて正式な名前が与えられた。

 港湾自由都市フェルガリア。

 その名が刻まれた新しい標識は、港を見下ろす行政庁舎前に設置されていた。

 帝国旗。

 連邦共和国旗。

 旧抵抗軍陣営を継承する諸勢力の旗。

 FENRIR旗。

 そしてヴァルグラント王政連合の旗。

 かつて同じ場所に並ぶなど想像できなかった旗が、海風を受けて揺れている。

 レイブンは式典会場の端からそれを見ていた。

 礼装ではない。

 現場任務からそのまま来たため、いつもの戦闘服に近い。

 隣にはエリシア。

 少し後ろにはWOLF PACKの仲間たち。

 別の場所ではルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕とSTYXの隊員たちも並んでいる。

「フェルガリア、か」

 レイブンが呟く。

「いい名前じゃない?」

 エリシアが答える。

「意味は?」

「複数言語から調整した造語らしいわ。自由港としての意味と、異なる者が集まる土地っていう意味を重ねたって」

「また難しいこと考えたな」

「あなたが名前を付けたら『港』で終わりそう」

「分かりやすいだろ」

「だから駄目なのよ」

 ルナが近づいてきた。

「兄様なら『大きい港』とかにしそうです」

「お前まで?」

「〈巨人〉って付けた人ですから」

「現場呼称だって言っただろ」

 エリシアとルナが同時に笑う。

 レイブンは反論を諦めた。

 その向こうではゲルハルトがヴァルグラント側代表団の一員として立っている。

 目が合った。

 ゲルハルトが軽く手を上げる。

 レイブンも返した。

 数日前までなら、その距離で互いに手を上げる意味は全く違っていただろう。

     ◇

 協定文書の正式名称は長かった。

 各国の法体系と言語差を吸収するため、何度も修正が加えられている。

 しかし内容の中心は明確だった。

 第二次異界大戦における組織的戦闘を終了する。

 ヴァルグラント王政連合は連邦共和国領から戦闘部隊を撤収し、連邦共和国側は撤収中の部隊へ軍事攻撃を行わない。

 帝国、連邦共和国、旧抵抗軍陣営、ヴァルグラント王政連合は、互いの領域に対する新たな軍事侵攻を行わない。

 異界門を一方的な軍事侵攻のために利用しない。

 捕虜および抑留者の所在を確認し、段階的な帰還を進める。

 戦闘によって故郷を失った民間人の帰還と生活再建を妨げない。

 戦争によって破壊された都市、道路、港湾、水路、医療施設などについて、可能な範囲で共同復興支援を行う。

 未知の門、異界災害、〈巨人〉のような第三の脅威については、必要な情報を相互に提供する。

 それは誰か一方が完全に勝者となり、もう一方が全てを差し出す文書ではなかった。

 双方に条件がある。

 双方に不満も残っている。

 失われた命について、一枚の紙が答えを出してくれるわけでもない。

 それでも、これ以上同じ理由で死者を増やさないという一点だけは共有できた。

 代表者たちが順番に署名していく。

 最後の署名が終わった時、会場は静かだった。

 誰もすぐに拍手しなかった。

 あまりにも長く戦いすぎていた。

 本当に終わったのか。

 まだ疑っている者がいる。

 レイブン自身もそうだった。

 やがて連邦共和国側の代表が立ち上がった。

 ヴァルグラント王政連合側の代表も立つ。

 二人が向き合う。

 しばらくして、手が差し出された。

 相手が握る。

 そこでようやく、小さな拍手が起こった。

 それは次第に広がった。

 派手な歓声ではない。

 泣いている者もいる。

 目を閉じている者もいる。

 レイブンは拍手をしながら、第一次異界大戦からここまでに失った顔を思い出していた。

 父ヴァルターの教え。

 負傷者。

 帰らなかった兵士。

 名前も知らないまま助けられなかった者。

 第二次異界大戦で崩壊した街。

 HOMECOMINGで取り戻した故郷。

 ベルガ。

 紫色の空。

 黒い川。

 ルナと二人で探した帰還路。

 全部が今ここへ繋がっていると美しくまとめるつもりはなかった。

 戦争はそんなに綺麗ではない。

 それでも、終わらせることには意味がある。

「兄様」

 ルナが小さく呼んだ。

「ん?」

「終わりましたね」

 レイブンは少し考えた。

 今度は否定しなかった。

「ああ」

 金色と黒のオッドアイが、並んだ旗を見る。

「終わった」

 第二次異界大戦は、正式に終戦を迎えた。

     ◇

 終戦後、最初に始まったのは祝賀ではなかった。

 復興だった。

 ヴァルグラント王政連合軍が撤収した地域へ、連邦共和国の行政要員が戻る。

 DVERGRが破壊された道路と橋梁の状態を確認し、BIFROSTが復興物資の輸送経路を組み直す。IDUNNは軍人だけではなく帰還住民の診療へ比重を移し、EINHERJARは避難民の帰還支援と治安維持を補助する。

 そして奇妙な光景が各地で見られるようになった。

 ヴァルグラントの工兵が、自分たちが戦闘で破壊した道路を修復している。

 連邦共和国の技術者が、その横で作業している。

 最初は互いに口数が少なかった。

 工具を借りるだけでも緊張した。

 しかし数日もすれば、言葉が通じなくても道具の名前から覚え始める。

 やがて悪態まで覚えた。

「平和になって最初に覚える外国語が悪口ってどうなんだ」

 レイブンが呟くと、Houndが肩をすくめた。

「兵士なんてどこの世界でもそんなもんだろ」

「否定できないのが嫌だな」

「ゲルハルトなんかもう完全にこっちの言葉喋るぞ」

「それなんだよ」

 レイブンは嫌な予感がした。

 その予感は、フェルガリアのFENRIR連絡庁舎へ戻った直後に的中した。

     ◇

「技術士官と言語通訳者を申請したい」

 ゲルハルトは流暢な共通語で言った。

 レイブンは机の向こうから彼を見た。

「嫌だ」

「まだ内容を説明していない」

「お前が俺のところに持ってくる話は大体面倒だ」

「偏見だ」

「数日でその言葉まで覚えたのか」

「Houndから」

「あとで殴る」

 部屋の端でHoundが首を振った。

「俺じゃねえよ!」

「聞こえてるぞ」

「だから俺じゃない!」

 ゲルハルトは構わず資料を机へ置いた。

「ヴァルグラント王政連合から、正式な技術交流要請だ」

 レイブンは資料を見る。

「俺は外交官じゃない」

「知っている」

「ならFENRIR上層部へ出せ」

「もう出した」

「じゃあ俺に持ってくるなよ」

「現場側の推薦が必要だ」

 レイブンは額を押さえた。

「何の技術だ」

「思念伝達」

 その一言で表情が変わった。

 部屋にいたCipherも資料へ目を向ける。

 ゲルハルトが続けた。

「我々の言語を、あなたたちは短期間で理解し始めた。逆も同じだ。原因の一つが思念伝達にあることは分かっている」

「それを解析する?」

「共同で」

 Cipherが口を挟む。

「目的は翻訳機?」

「それだけではない」

 ゲルハルトは自分の頭を指した。

「言葉だけではなく、位置、危険、方向、簡単な像。戦場で我々が使っていた思念伝達は、それを送る」

 レイブンとCipherが視線を交わす。

 レイブンとルナは、すでに異界でそれを経験している。

 言葉そのものではなく、意図や位置、危険、簡単な情景を伝える。

 完全な読心ではない。

 送り手が意図して形成した情報を、受け手が再構成する。

「軍事利用だけじゃないな」

 Cipherが言った。

 ゲルハルトが頷く。

「災害。救助。医療。言語が違う人との連絡」

「門の向こうでも使える可能性がある」

 レイブンが続ける。

「そうだ」

 ゲルハルトが資料を指す。

「だから技術士官が必要だ。それと通訳者」

「ヴァルグラント側から?」

「双方から」

「人数は?」

 ゲルハルトが答えた。

 レイブンは即座に顔をしかめた。

「多い」

「必要だ」

「施設は?」

「フェルガリア」

「やっぱりそこか」

「自由都市だろう?」

 ゲルハルトが平然と言う。

「自由と平和を作るための都市だと、今日発表した」

「早速使う気満々だな」

「平和は使わなければ意味がない」

 レイブンは言い返そうとして、止まった。

「……誰に教わった、その言い方」

「Valkyrie」

 レイブンがエリシアを見る。

 いつの間にか扉のところに立っていた彼女が微笑む。

「いいこと言うでしょう?」

「夫より敵だった奴を教育するなよ」

「もう敵じゃないわよ」

 その一言に、レイブンは黙った。

 確かにそうだった。

 ゲルハルトはもう敵軍士官ではない。

 少なくとも条約上は、互いに軍事侵攻を行わない相手国の軍人だ。

「……分かった」

 レイブンは資料を取った。

「現場推薦は出す。ただし研究内容は共同管理。思念伝達をそのまま人間の頭へ繋ぐような危ない実験は禁止。読心技術として扱うのも禁止だ」

「同意する」

「軍事利用だけを目的にしない」

「同意する」

「俺とルナを実験動物にするな」

 ゲルハルトが少し考えた。

「最後は保証できない」

「おい」

 Cipherが笑った。

「NoX、お前ら二人が一番まともな実体験持ってるからな」

「味方がいない」

 エリシアが肩を叩く。

「私がいるわ」

「助かった」

「でも検査には付き合ってね」

「味方がいない」

     ◇

 フェルガリアの技術区画に、最初の共同研究室が設置された。

 帝国。

 連邦共和国。

 旧抵抗軍系技術者。

 FENRIR。

 ヴァルグラント王政連合。

 そして異界技術との相互運用を研究してきた技術要員。

 戦争中なら、一つの部屋へ集めることなど考えられなかった顔ぶれだった。

 研究の中心に置かれたのは、紫空の世界で確認された思念伝達と、ヴァルグラント側が独自に運用してきた類似技術だった。

 ただし、目的は頭の中を読むことではない。

 位置。

 危険方向。

 味方識別。

 簡単な文字。

 地図。

 負傷状態。

 意図して共有した情報だけを、魔導信号として安全に送受信できないか。

 最初の試験装置は巨大だった。

 机一つを占領するほどの魔導解析器に複数のケーブルが伸び、ヴァルグラント製の思念媒体と、帝国・連邦双方の観測装置が無理やり接続されている。

「これを眼鏡くらいにしたい?」

 レイブンが呆れたように言う。

 Cipherが装置の向こうから答える。

「最終的には」

「何年かかるんだよ」

「知らん」

「潔いな」

 技術士官の一人が、簡易表示板へ小さな光点を映した。

 部屋の反対側にいる試験協力者が、意識的に自分の位置を伝えようとする。

 思念媒体が微弱に発光した。

 表示板に一つの点が現れる。

 ずれた。

「壁の中にいるぞ」

 レイブンが言う。

「誤差です」

「人一人分どころじゃないだろ」

「最初から完璧なら研究はいりません」

 ゲルハルトが横から笑う。

「NoX、厳しい」

「教官だからな」

「知っている」

 次の試験。

 今度は危険方向。

 表示板に矢印が現れる。

 反対方向だった。

「そっち行ったら死ぬぞ」

「符号反転してる!」

 技術者たちが装置へ集まる。

 レイブンは腕を組んだ。

「これを戦場で使うのはまだ百年早いな」

 Cipherが振り返る。

「だから今始めるんだよ」

 その言葉に、レイブンは黙った。

 確かにそうだった。

 最初から完成した技術などない。

 父ヴァルターから受け継いだ銃も、帝国の装備も、FENRIRの艦艇も、最初は誰かの不完全な試作だった。

 思念伝達も同じなのだろう。

 この日、研究班は計画へ仮の名称を与えた。

 人間や亜人の思考そのものを読む装置ではなく、使用者が共有すると決めた情報を魔導信号へ変換し、視覚情報として重ねる技術。

 その発展構想は、やがて一つの名前で呼ばれ始めた。

 Smart AR。

 まだ眼鏡型端末すら存在しない。

 シースルー・マギも、サーマル・マギ・トラッキングも、クロック・アジマス・シンクもない。

 戦術情報投影も味方位置共有も、紙の上に描かれた構想に近い。

 後にSmart-Visorへ繋がる機能群は、まだ一つとして完成していなかった。

 ただ、始まりだけはここにあった。

 敵だった者の言葉を理解するために使った技術を、今度は誰かと情報を共有するために使おうとしている。

 それが最初の一歩だった。

     ◇

 日が沈む頃、レイブンはフェルガリア港の岸壁に立っていた。

 隣にはエリシア。

 少し遅れてルナもやって来る。

 目の前には巨大な港湾施設が広がり、修理中の艦艇、復興物資を積んだ輸送船、各国の作業艇が同じ水域を行き交っている。

 遠くにはFENRIRの艦艇も見える。

 かつて帝国と連邦共和国の境界だった港。

 戦争のために使われた造船所。

 軍艦を送り出した海。

 その場所に新しい標識が立っていた。

 港湾自由都市フェルガリア。

「名前が付くと、違って見えますね」

 ルナが言った。

「昨日まで旧ヴァルナだったのにな」

「昨日まで敵だった人とも、今日は同じ研究室にいます」

 エリシアがレイブンを見る。

「嫌そうだったけど」

「ゲルハルトが馴染むの早すぎるんだよ」

「兄様に似てきたんじゃないですか?」

「やめてくれ」

 三人が笑う。

 その笑いが消えた後も、港の音は続いていた。

 クレーン。

 船。

 車両。

 人々の声。

 復旧作業の金属音。

 戦争中にも似た音はあった。

 しかし目的が違う。

 今は壊すための物資ではなく、直すための資材が運ばれている。

「父さんが見たら、何て言うかな」

 レイブンがふと口にした。

 ルナが少し考える。

「『未帰還は許さん』じゃないですか?」

「それ何にでも使えるな」

「お父様ですから」

 エリシアが微笑んだ。

「でも、喜ぶんじゃない?」

 レイブンは港を見る。

「そうかな」

「あなたたちが生きて帰ってきて、その先で戦争まで終わらせたんだから」

「俺が終わらせたわけじゃない」

「知ってる」

 エリシアは穏やかに答えた。

「だからいいのよ」

 レイブンはその意味を少し考えた。

 第二次異界大戦は、一人の英雄によって終わったのではない。

 連邦共和国だけでもない。

 帝国だけでもない。

 旧抵抗軍でも、FENRIRでもない。

 ヴァルグラント王政連合だけでもない。

 前線で撃たないことを選んだ兵士。

 負傷者を敵味方で分けなかった衛生兵。

 撤退する相手を追撃しなかった指揮官。

 言葉を覚えようとした者。

 自分たちの損失を抱えたまま、それでも次の戦争を始めないと決めた者。

 そうした選択が積み重なった結果だった。

 ルナが海の向こうを見る。

「でも、終わってないこともあります」

「ああ」

 海のさらに先には、紫色の空間異常が残っている。

 そこには別世界の石造都市に似た構造物が現れ、エルネと思われる思念まで届いている。

 〈巨人〉の起源も不明。

 海底物体も残っている。

 三人の不老不死の理由も分かっていない。

 戦争が終わったことで、ようやく向き合える問題が増えたとも言えた。

「兄様」

「何?」

「Smart AR、本当に完成すると思います?」

 レイブンは研究室で壁の中へ表示された味方位置を思い出した。

「今のままだと、味方を壁に埋める装置だな」

 ルナが笑う。

「そこからですか」

「最初はそんなもんだろ」

 エリシアがレイブンを見る。

「完成したら使う?」

「ちゃんと耳を塞がないなら」

 レイブンが黒い猫耳を動かした。

「そこ重要?」

「重要だよ。音が聞こえなくなる装備なんて猫系亜人に渡すな」

「じゃあ眼鏡型ね」

「視界も邪魔するなよ」

「注文が多い」

「現場の意見だ」

 ルナが笑いながら二人の会話を聞いている。

 まだ誰も知らない。

 どんな形になるのか。

 どこまで発展するのか。

 誰が最初に実用化するのか。

 ただ一つ確かなのは、その技術が戦争の最中に敵を見つけるために生まれたのではないということだった。

 始まりは、言葉の違う者同士が理解しようとしたことにある。

 レイブンはフェルガリアの灯りを見る。

 帝国側の区画。

 連邦側の施設。

 FENRIRの基地。

 民間港。

 ヴァルグラントから来た技術者たちが使用する共同研究区画。

 それらが一つの港の中に並び始めている。

 完全な平和ではない。

 過去も消えていない。

 互いの軍は存在し続ける。

 警戒も必要だろう。

 条約があるだけで人の感情まで変わるわけではない。

 それでも、今日からこの場所には名前がある。

 戦場でも旧港でもない。

 港湾自由都市フェルガリア。

 自由と平和を完成させた都市ではなく、それを作ろうとする者たちが最初の一歩を踏み出すための都市だった。

 レイブンは妻と妹の間で、海風に黒い髪を揺らした。

「帰ろうか」

「はい」

「ええ」

 三人は港を離れていく。

 その背後では、夜になっても復興作業の灯りが消えなかった。

 壊すためではなく、繋ぎ直すために働く者たちの光だった。

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