Season 7「停戦線」 #122
第122話「昨日の敵と見る海」
停戦線が生まれて二日目の朝、東部戦線では再び銃声のない夜明けを迎えた。
それは前日よりも静かだったが、緊張が薄れたからではない。むしろ連邦共和国軍も帝国軍もFENRIRも、向かい側にいる異界軍も、昨日交わした約束が本当に今日まで続くのかを確かめるように互いの動きを見ていた。
誰か一人が恐怖に負けて引金を引けば、数日かけて積み上げたものが数秒で崩れる。
だから兵士たちは武器を持ったまま、撃たないために神経を使っていた。
レイブン・S・クロウ〔無名〕も例外ではない。
前進指揮所の窓際に立つ彼の手元にはISG-42A3《RAVEN》があり、黒い猫耳は外の物音を拾い続けている。金色と黒のオッドアイが見つめているのは異界軍陣地ではなく、そのさらに東、海の方向だった。
夜間にHUGINNが検出した新たな空間反応は、夜が明けても消えていない。
問題は、その位置だった。
「海上?」
エリシア・L・クロウ〔Valkyrie〕が戦況図を覗き込む。
「正確には沿岸からさらに東。KRAKENの現在位置より外側だ」
Cipherが観測情報を更新する。
「既存の海上門とも位置が違う。反応の出方も完全には一致しない。今のところ新しい門と断定するのは早い」
「SKY LANCERからは?」
「高空からも確認済み。雲に局所的な歪みがある。ただし昨日の空側異常みたいに紫色の渦が見えてるわけじゃない」
レイブンは表示された複数の観測点を見る。
以前なら、この情報はFENRIRと連邦・帝国側だけで共有されていた。
今は違う。
「ゲルハルトにも送る」
前進指揮所にいた連邦軍士官がレイブンを見る。
「異界軍へか?」
「向こうの海上戦力にも影響する位置です。昨日、ゲルハルトは既存の紫色の門について『自分たちが作ったものではない』と言った」
「信用するのか?」
「確認します」
レイブンは即答した。
「信用できるかどうかと、情報を照合することは別です」
連邦軍士官はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「共有範囲を限定しろ。こちらの部隊配置までは渡さない」
「それで十分です」
Cipherが必要な観測情報だけを抽出する。
停戦とは、突然全てを見せ合うことではない。
知られて困るものまで差し出せば、それは信頼ではなく無防備だった。
しかし、同じ空間異常を双方が観測しているのなら、事実を突き合わせる価値はある。
「昨日の敵と情報交換か」
Houndが壁際から言った。
「嫌?」
「いや。昨日の敵が今日も敵かどうか分からないって、頭の切り替えが追いつかないだけだ」
「俺もだよ」
レイブンは外を見る。
「だから確認する」
◇
ゲルハルトが前進指揮所へ来たのは、それから一時間ほど後だった。
今回は昨日のように道路中央へ天幕を設けなかった。
代わりに停戦線上の旧検問施設を使用している。
双方の区域から同程度の距離にあり、出入口が二つあるため、どちらか一方の陣地へ招かれたという形にならない。
小さなことだった。
しかし、こういう小さな条件が今は重要だった。
ゲルハルトは二人の護衛とともに現れた。
レイブンもHoundとCipherを連れている。
エリシアはEINHERJARの避難民対応を続けながら、通信で会談へ参加する。
「NoX」
「おはよう」
ゲルハルトが少し考える。
「……おはよう」
Houndが感心したように眉を上げた。
「上達してるな」
「たくさん、聞く」
ゲルハルトが答えた。
「Hound、うるさい」
一瞬の沈黙のあと、レイブンが顔を背けた。
Houndは目を見開く。
「誰が教えた?」
Cipherが端末から目を上げない。
「少なくとも俺じゃない」
「NoX?」
「俺でもない」
ゲルハルトの護衛の一人が僅かに笑っていた。
「お前だろ」
意味は通じなくてもHoundが指差すと、護衛はさらに笑った。
数日前までなら想像できなかった光景だった。
それでもレイブンは、その僅かな変化に安心しすぎない。
「本題に入る」
戦況図へ東部海域を表示する。
「昨夜、ここで空間異常が出た」
ゲルハルトの表情が変わった。
Cipherが必要な範囲だけ情報を示す。
新しい反応。
既存の門とは異なる位置。
波形にも差異がある。
ゲルハルトは長く地図を見たあと、自分たちの言葉で護衛と話し始めた。
レイブンにはまだ単語の一部しか分からない。
海。
門。
違う。
古い。
その程度だった。
「古い?」
レイブンが聞き返す。
ゲルハルトがこちらを見る。
「古い……反応」
「知ってるのか?」
「知る、少し」
通訳と思念伝達による補助を加えながら、意味を確かめていく。
異界軍が第二次異界大戦で使用した門には、自分たちが意図的に開いたものが存在する。
しかし、全ての門が彼らによって作られたわけではなかった。
彼らが異世界間移動技術を研究する以前から、各地で一時的な空間異常が観測されていたという。
「自然現象?」
Cipherが尋ねる。
ゲルハルトは首を横へ振った。
「分からない。自然か、誰か作ったか……分からない」
レイブンとCipherが視線を交わす。
第一次異界大戦後から第二次異界大戦までの間、帝国・連邦・旧抵抗勢力の各地でも、ごく短時間の門らしき異常が記録されている。
それと一致するかはまだ分からない。
だが、異界軍側にも似た記録がある。
「お前たちは、自分たちが作った門と、それ以前から存在した異常を区別してた?」
「はい」
「どうやって?」
ゲルハルトは言葉を探した。
「開く……順番。魔力の……形。音」
「波形と形成過程が違う?」
Cipherが補う。
ゲルハルトは何度か説明を聞き、やがて強く頷いた。
「それ」
レイブンは東部海域の反応を見る。
「今回のは?」
「我々の門と……違う」
「紫色の門とも?」
ゲルハルトが少し迷った。
「似ている。でも、違う」
また同じ答えだった。
ベルガ。
紫空の世界。
海底物体。
東部に出現した複数の門。
そして今回の海上異常。
どれも部分的には似ている。
だが完全には一致しない。
「世界の間って、そんなに穴だらけなのかよ」
Houndがぼやく。
レイブンは返さなかった。
冗談として流せない可能性があった。
◇
東部海域では、KRAKENが異界軍艦隊との距離を維持しながら、新たな空間異常の観測へ入っていた。
エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕は艦橋で情報を受け取ると、思わず眉間を揉んだ。
「つまり、昨日まで撃ち合ってた連中から『あれは俺たちの門じゃない』って情報が来たわけか」
「はい」
「世の中、変わる時は一晩で変わるな」
参謀が苦笑する。
「信用しますか?」
「またそれか」
エリックは海図へ視線を落とした。
「信用する必要はない。向こうの観測とこっちの観測が一致するか確かめればいい」
レイブンとほぼ同じ答えだった。
「異界軍艦隊の動きは?」
「戦闘停止継続。艦隊の一部が東へセンサーを向けています」
「こっちじゃなく?」
「はい」
エリックは艦橋窓の向こうを見る。
遠方に異界軍艦隊がいる。
砲は沈黙している。
そのさらに向こう。
肉眼ではまだ何も見えない海域に、新しい空間反応がある。
「昨日までなら、向こうが何かやってると思っただろうな」
「今は?」
「今は向こうも困ってるように見える」
その時、観測員の声が上がった。
「東方空間反応、変化!」
「どう変わった?」
「移動しています」
エリックの表情が固まる。
「門が?」
「反応源そのものが西へ移動中!」
通常の門なら、空間上の特定地点に形成される。
少なくとも彼らがこれまで見てきたものはそうだった。
だが今回の反応は違う。
「速度は?」
数値が読み上げられる。
エリックは即座に判断した。
「全艦、警戒を上げろ。ただし異界軍艦隊へ砲を向けるな。東を見る」
「了解!」
KRAKENの艦艇が一斉に観測方向を変える。
奇妙なことに、異界軍艦隊もほぼ同時に同じ方向へ動いた。
二つの艦隊が、互いではなく同じ水平線を見る。
◇
高空から最初にその正体を捉えたのはSKY LANCERだった。
「Artemis、東方海域に目視異常!」
アメリア・ローゼン〔Artemis〕は報告を受け、機体を僅かに傾けた。
雲の切れ間。
海面の上を、紫色の線が移動している。
門ではない。
少なくとも、これまで見たような固定された亀裂には見えなかった。
細長い光が海上を這うように進み、その後方で海面そのものが不自然に揺らいでいる。
「高度は?」
『ほぼ海面です』
「生物反応は?」
『判別できません』
「近づきすぎないで。観測優先」
『了解』
異界軍側の飛行戦力も東へ向きを変えている。
こちらを狙っていない。
アメリアはその事実を確認してから、SKY LANCERを広く展開させた。
紫色の線は西へ進む。
KRAKENと異界軍艦隊の方向へ。
「地上へ共有。あれは固定された門じゃない可能性が高い」
『了解』
「それとKRAKENへ」
『はい』
「海面を見て。空だけじゃない」
◇
同じ頃、後方海域にいたルナ・S・クロウ〔夜〕も異変を捉えていた。
第一航路付近に残されていた海底物体の反応が、一斉に変化したのである。
「また東です!」
日本側観測員の声が飛ぶ。
ルナは海面を見ながら、送られてくる観測記録を確認する。
「違います」
「え?」
「東を向いてるんじゃない」
これまで紫色の光を東へ伸ばしていた海底物体が、ゆっくりと反応方向を変えている。
「何かを追ってます」
Drakeが眉を寄せる。
「移動してる反応を?」
「たぶん」
ルナは断定しなかった。
だが時間を重ねると、偶然とは考えにくくなる。
東方海域の空間反応が西へ移動する。
それに合わせて、海底物体の反応方向も変わる。
「兄様へ繋いでください」
「了解」
通信が開く。
『Nyx?』
「兄様。海底物体が反応してます」
『門に?』
「違います。たぶん、移動している何かに」
通信の向こうで沈黙があった。
『物体自体は動いてる?』
「今のところ大きな移動はありません。ただ、反応方向だけが追っています」
『触るなよ』
「触りません」
『近づくな』
「近づきません」
『絶対――』
「兄様」
『何?』
「昨日も同じ会話しました」
通信の向こうでエリシアの笑い声が聞こえた。
『レイブン、妹を信用してあげなさい』
『心配なんだよ』
「分かってます」
ルナは微笑んだ。
それから表情を戻す。
「でも、兄様」
『うん』
「この反応、あの紫空の世界で感じたものに少し近いです」
レイブンの声が低くなる。
『どの時?』
「エルネの石が起動した時です」
それだけで十分だった。
レイブンも同じ記憶を持っている。
『分かった。Cipherにも送って』
「もう送っています」
『早いな』
「誰の妹だと思ってるんですか」
今度はエリシアがはっきり笑った。
◇
午後になると、東部戦線では二回目の停戦協議が始まっていた。
しかし議題の半分は、もはや戦争そのものではなくなっていた。
東方海域を移動する空間異常。
それに反応する海底物体。
異界軍側にも残されていた古い空間異常の記録。
紫色の門。
避難民が来た世界。
〈巨人〉。
全てを同じ原因で説明する証拠はない。
だからこそ、双方の情報を混ぜるのではなく、並べて比較する必要があった。
「我々の記録、出す」
ゲルハルトが言った。
連邦側代表が驚いた。
「門の記録を?」
「古いもの」
「軍事機密では?」
ゲルハルトは言葉の意味を通訳してもらい、しばらく考えた。
「全部、出さない」
Houndが小さく笑う。
「そりゃそうだ」
ゲルハルトが続ける。
「あなたたちも、全部出さない」
「正解」
レイブンが答えた。
「なら、必要なところだけ交換する」
「それがいい」
少しずつ会話が成立していく。
完璧ではない。
時には意味を取り違え、何度も言い直す。
思念伝達を補助に使っても、軍事概念や抽象的な言葉までは簡単に伝わらない。
それでも、撃ち合っていた時より遥かに多くのことが分かり始めていた。
ゲルハルトがレイブンを見る。
「NoX」
「何?」
「なぜ……前、話さなかった?」
レイブンは一瞬、質問の意味を考えた。
「戦争が始まる前に、ってこと?」
「はい」
難しい質問だった。
「俺は戦争を始めた人間じゃない」
「私も」
「だから、分からない」
レイブンは正直に答えた。
「たぶん、話す前に相手を敵だと決めた奴がいたんだろ」
ゲルハルトは黙る。
「それから死人が出た」
レイブンは続けた。
「死人が出たら、その次はもっと話しにくくなる」
ゲルハルトが自分たちの言葉で短く何かを言った。
通訳が少し迷ってから訳す。
「『血は、次の言葉を遠くする』……だそうです」
レイブンはゲルハルトを見る。
「そっちにも似た言い方があるのか」
「昔から」
「嫌なところまで似てるな」
ゲルハルトが少し笑った。
◇
夕方、海上の異常反応が止まった。
消えたのではない。
KRAKENと異界軍艦隊の中間よりやや東側で、移動を止めた。
海面には紫色の細い光が残っている。
KRAKENも近づかない。
異界軍艦隊も近づかない。
双方が一定の距離を取ったまま観測する。
エリックは艦橋からそれを見ていた。
「これ、誰が調べるんだ?」
参謀が答えに困る。
「現時点では……」
「だよな」
異界軍のものではない。
少なくとも彼らはそう主張している。
連邦共和国のものでもない。
帝国のものでもない。
FENRIRのものでもない。
日本側のものでもない。
「所有者不明の怪しい穴が、ちょうど停戦中の二つの艦隊の真ん中で止まった」
「そうなります」
「性格悪いな」
「誰がです?」
「世界が」
エリックは息を吐いた。
「陸のNoXに伝えろ。こっちは近づかない。向こうも今のところ同じらしい」
◇
その報告を受けたレイブンは、停戦線の中央から東を見ていた。
隣にはエリシア。
少し離れた場所にはゲルハルトがいる。
三人とも、同じ方向を見ている。
「海で止まったらしい」
レイブンが言う。
ゲルハルトは通訳を介して理解した。
「危険?」
「分からない」
ゲルハルトが頷く。
「分からない。今、一番多い言葉」
「本当にな」
エリシアが腕を組む。
「でも、前よりはマシじゃない?」
「何が?」
「分からないことを、分からないって両方で言えるようになった」
レイブンは少し考えた。
確かにそうだった。
以前なら、異界軍が何かを知らないと主張しても欺瞞だと疑っただろう。
異界軍側もこちらの行動を敵対行為として解釈していたはずだ。
今は互いに疑いながらも、照合できる。
分からないものを前にした時、すぐ相手を原因と決めつけずに済む。
それだけでも大きな違いだった。
ゲルハルトが遠くの紫色の門を見る。
「NoX」
「うん?」
「戦争、終わったら」
そこまで言って言葉に詰まる。
「終わったら?」
ゲルハルトは少し考え、ようやく続けた。
「我々……敵ではない?」
レイブンは答えなかった。
簡単に「そうだ」と言うことはできる。
だが、それは今の彼には軽すぎた。
「分からない」
ゲルハルトが少し意外そうな顔をする。
「でも」
レイブンは続けた。
「敵じゃなくなる方法を話すことはできる」
ゲルハルトはゆっくり意味を理解した。
「それが……停戦?」
「停戦は、撃たないための話」
レイブンは道路の中央にある見えない線を見る。
「その次は、たぶん一緒に決めるんだろ」
エリシアが小さく微笑んだ。
ゲルハルトも頷く。
「一緒に」
その言葉はまだ少し不自然だった。
それでも通じた。
◇
夜。
東部戦線では三日目の無発砲時間が始まった。
兵士たちは武器を携行したまま交代で休息し、双方の監視所には灯りが残っている。
停戦線の中央には、昼間には存在しなかった小さな標識が置かれていた。
片面にはこちらの言葉。
反対側には異界軍の言葉。
書かれている意味は同じだった。
――無断で越えるな。必要があるなら、先に呼べ。
たったそれだけだった。
だが数日前なら、そこに必要だったのは警告板ではなく銃と塹壕だった。
レイブンは標識の前で立ち止まる。
向こう側から一人の異界軍兵士が歩いてきた。
昨日、負傷した仲間を探して境界を越えた兵士だった。
彼は線の手前で止まった。
「NoX」
「どうした?」
兵士は手に小さな金属容器を持っていた。
中身を示す。
飲み物らしい。
次にレイブンを指す。
「……飲む?」
レイブンは容器を見る。
「何それ」
兵士は説明しようとしたが、言葉が出てこない。
仕方なく自分で一口飲み、顔をしかめた。
レイブンは眉を上げた。
「まずいの?」
意味は分からないはずなのに、表情で伝わったらしい。
兵士が笑った。
Houndが後ろから現れる。
「酒だったりして」
「前線で?」
「異界軍なら分からんだろ」
異界軍兵士がHoundを見る。
「うるさい」
Houndの顔が固まった。
「だから誰が教えてんだよ!」
向こう側の監視所から笑い声が上がった。
こちら側でも兵士たちが笑う。
レイブンまで僅かに口元を緩めた。
停戦線は、まだ消えていない。
互いに武器を持っている。
紫色の門も残っている。
海には新しい空間異常があり、海底の未知の物体はそれを追うように反応している。
第二次異界大戦も、まだ正式には終わっていない。
それでも今夜、東部戦線で聞こえている最も大きな音は銃声ではなかった。
昨日まで敵だった兵士たちの笑い声だった。
レイブンは東の暗闇を見た。
そこには、まだ何があるのか分からない。
だからこそ、明日も調べなければならない。
ただし今度は、こちら側だけで見る必要はない。
同じ海を見ている者が、停戦線の向こうにもいるのだから。




