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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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120/189

Season 6「門の彼方へ」  #120

第120話「同じ敵を見た日」

 東部戦線で最初の銃声が響いた時、その銃口が異界軍へ向けられていなかったという事実を、誰もすぐには理解できなかった。

 ほんの数日前まで、連邦共和国東部で兵士たちが最も警戒していたのは異界軍だった。奪われた土地を取り戻し、海から再び押し寄せる敵を退け、空から侵入する魔獣を迎撃し、撤退していく敵地上部隊を見失わないように前線を押し出してきた。

 その結果として形成された新しい防衛線で、いま連邦共和国軍と帝国軍、FENRIR、そして異界軍が、同じ方向へ武器を向けている。

 同盟を結んだわけではない。

 停戦協定に署名したわけでもない。

 昨日までの死者が消えたわけでも、互いに奪ったものが戻ってきたわけでもない。

 ただ、紫色の門を越えて逃げてくる避難民の背後から現れた黒い怪物が、両方を等しく敵として認識していた。

 それだけだった。

 それだけで、東部戦線の意味は変わった。

     ◇

 巨大な黒い肢がこちら側の大地を踏んだ瞬間、湿った土が沈み込み、泥と砕石が周囲へ跳ね上がった。

 レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕の黒い猫耳が、地面から伝わる振動と避難民の悲鳴、その向こうから響く異界軍の怒号を同時に拾う。

 ISG-42A3《RAVEN》の銃床を肩へ安定させながら、レイブンは怪物そのものより先に周囲を見た。

 逃げ遅れた避難民がいる。

 右側にはEINHERJAR。

 後方ではSageとIDUNNが負傷者を受け入れ、BIFROSTの輸送車両が次々と西へ向かっている。

 左前方には異界軍。

 敵だった軍勢。

 いや、今も敵であることに変わりはない。

 その兵士たちもまた、自分たちの後方へ逃げ込んできた避難民を庇うように展開していた。

「Hawk、射線は?」

『中央は開いてる。ただし怪物の右側に避難民が残ってる』

「右へ撃ち込むな。Lynx、誘導できる?」

『行く』

「一人で深く入るな」

『分かってる』

 ミレイア・フェルン〔Lynx〕が遮蔽物を伝いながら前へ動き、取り残された避難民へ身振りで退避方向を示す。

 言葉は通じない。

 それでも、伏せろという動作と、こちらへ来いという手の動きは伝わった。

 怪物が頭部をこちら側へ押し出した。

 全貌が見える。

 人型に近い。

 だが人間とは呼べない。

 黒い外殻に覆われた巨大な身体は不自然なほど長い四肢を持ち、赤紫色の光が身体の裂け目に沿って脈打っている。頭部には人間の顔に相当する構造が見当たらず、複数の発光部が周囲を探るように動いていた。

 Houndが息を吐いた。

「でかいな」

「見れば分かる」

「名前は?」

「知らない」

「毎回『黒いでかい奴』じゃ通信で困るぞ」

 レイブンは《RAVEN》の照準を怪物へ重ねながら答えた。

「じゃあ仮称を決める」

「何にする?」

 怪物が身体を起こす。

 門の周囲にある建物の残骸より高い。

「〈巨人〉」

「そのままだな」

「分かりやすいだろ」

「反論できない」

 Cipherへ回線を繋ぐ。

「敵性大型存在を仮称〈巨人〉で統一。正式分類じゃない。現場呼称だ」

『了解。全軍へ共有する』

 異界軍側が何と呼んでいるのかは分からない。

 それで構わなかった。

 今必要なのは学術的な分類ではなく、同じものを見ている味方同士で認識を揃えることだった。

 巨人が腕を振り上げる。

 〔殺気看破(アタック・シールド)〕が鋭い警告を返した。

「伏せろ!」

 レイブンの声とほぼ同時に、巨人の腕が地面へ叩きつけられた。

 衝撃が大地を走った。

 土砂とコンクリート片が吹き上がり、前線を覆う。耳を打つ轟音の中でもレイブンは反射に視界を奪わせず、訓練で身につけた〔不転(ノー・ブリンク)〕によって瞬目を抑えながら、舞い上がる粉塵の向こうに巨体の位置を追い続けた。

 見えることと、安全に撃てることは別だった。

「Grizzly、まだ待て!」

「分かってる!」

 避難民がいる。

 異界軍兵士もいる。

 互いの射線が交差している。

 何より、巨人が何に耐え、何に反応するのか分からない。

 先に撃ったのは異界軍だった。

 魔法陣が複数展開され、光が巨人の胸部へ集中する。

 巨体が僅かによろめいた。

 レイブンはその反応を見逃さなかった。

「効いてる」

 Houndが答える。

「倒れてないぞ」

「効かないのと、効いても足りないのは違う」

 巨人が異界軍側へ向く。

 その瞬間、レイブンは理解した。

「今だ。中央だけ!」

 WOLF PACKの火力が重なった。

 《RAVEN》が肩へ反動を返し、機関部の作動音が轟音へ混じる。火薬の匂いと湿った土の臭いが鼻を刺し、巨人の外殻へ着弾した箇所から黒い破片が飛んだ。

 それでも倒れない。

 だが動きは止まった。

 異界軍側がその隙を利用し、避難民を引きずるように後方へ逃がす。

 レイブンは一瞬、その光景を見た。

「……同じことしてるな」

 Houndも見ていた。

「気に入らない?」

「いや」

 レイブンは次の射線を探した。

「助かる」

     ◇

 戦闘開始から二時間が過ぎる頃には、東部戦線には奇妙な境界が出来上がっていた。

 中央には門。

 そこから流れ込む避難民。

 西側には連邦共和国軍、帝国軍、FENRIR。

 東側には異界軍。

 そして、その間で暴れる〈巨人〉。

 双方は互いの陣地へ踏み込まなかった。

 通信もない。

 共同作戦計画もない。

 それでも、片方が撃っている時にはもう片方が避難民を動かし、巨人の注意が一方へ向けば反対側が攻撃するという流れが、誰に命じられるでもなく生まれ始めていた。

 レイブンはそれを協力とは呼ばなかった。

 偶然でもない。

 戦場で生き残ろうとする二つの軍が、同じ状況を見れば似た判断へ辿り着く。それだけのことだった。

 しかし、それまでの第二次異界大戦には存在しなかった光景だった。

 東部戦線は初めて、異界軍と戦う場所ではなくなった。

 異界軍と同じ敵を見て戦う場所になっていた。

     ◇

 夕方になると、門を越えてくる避難民の数が明らかに減り始めた。

 BIFROSTの輸送車列は何度も前線と後方を往復し、IDUNNの臨時救護区域には異なる世界から来た負傷者が並んでいる。EINHERJARは武器を手放してはいないものの、その多くが戦闘より避難誘導と警戒へ人員を割いていた。

 エリシアがレイブンのところへ戻ってきた時、その銀白色の髪には泥と粉塵が付着していた。

「第一救護区域、もう限界。第二へ移してる」

「重傷者は?」

「IDUNNが優先してる。言葉が通じないのが一番厄介ね」

「思念伝達は?」

「全員が使えるわけじゃないみたい」

 レイブンは門を見る。

 まだ人影はある。

 しかし最初のような奔流ではない。

「向こうにどれだけ残ってるんだろうな」

「行かないでよ」

「分かってる」

「あなたの場合、本当に分かってるか確認しないと怖いの」

「信用ないな」

「実績があるから」

 言い返せなかった。

 その時、避難民の集団の中から一人の人物が立ち上がった。

 Sageが止めようとする。

 だが、その人物はレイブンとエリシアの方を見た瞬間、動きを止めた。

 長い外套。

 泥に汚れた顔。

 片腕には包帯。

 レイブンは最初、誰なのか分からなかった。

 相手も驚いたように彼を見ている。

 そして視線がレイブンの黒い猫耳へ移り、次に金色と黒のオッドアイを確かめた。

「……まさか」

 声がした。

 レイブンの身体が硬直した。

 聞き間違いではない。

 この世界の言葉だった。

 訛りはある。

 発音も不自然だ。

 それでも意味が分かる。

 避難民がこちらの世界の言語を話している。

「あなた……レイブン?」

 Houndが即座に相手を見る。

 エリシアも目を細めた。

 レイブンは一歩だけ前へ出た。

「俺を知ってるのか?」

 人物の表情が変わった。

「本当に……帰れたのですね」

 その言葉で、レイブンの記憶が繋がった。

 紫色の空。

 黒い川。

 石造りの集落。

 思念伝達。

 あの世界で過ごした短い時間。

「お前……」

 名前を探す。

 しかし出てこない。

 相手はそれを責めなかった。

 疲れ切った顔で、むしろ僅かに笑った。

「私があなたを直接見たのは、ほんの少しだけです。アーシェたちの集落で」

 レイブンの表情が変わる。

「アーシェを知ってる?」

「はい」

「セイルは?」

「生きています」

 その返答を聞いた瞬間、レイブンの肩から僅かに力が抜けた。

 エリシアがその変化に気づいた。

「ルナを呼ぶ?」

「ああ」

 レイブンは通信を開いた。

「Nyx」

『兄様?』

「今どこ?」

『後方海域です。海底物体の監視を――』

「俺たちが向こうで会った人たちを知ってる奴が来た」

 通信の向こうが沈黙した。

『……え?』

「アーシェとセイルを知ってる」

『兄様』

 ルナの声色が変わった。

『その人と話させてください』

     ◇

 通信越しに姿を確認したルナは、しばらく言葉を失っていた。

 避難民の人物も、白い猫耳と青い瞳を見て、はっきりと反応した。

「白い猫の方……」

『ルナです』

「覚えています」

 ルナが息を呑む。

『どうして、こちらの言葉を?』

「あなたたちが残した言葉を、覚えた者がいます。思念で意味を知り、音を繰り返し、少しずつ……」

 流暢ではない理由も、それで説明できた。

 レイブンとルナが異界へ迷い込んだ際、こちらの言葉を完全に教えたわけではない。それでも思念伝達を介して意味と音が結びつき、その後も一部の者が学び続けたのだという。

 それが、この世界へ逃げ込んだ今、初めて橋になっている。

「向こうで何が起きた?」

 レイブンが尋ねる。

 人物の顔から笑みが消えた。

「〈黒いもの〉が来ました」

「巨人?」

「あなたたちは、そう呼んでいるのですか?」

「仮称だ」

「なら……巨人で構いません」

 彼は門を見る。

「最初は一体ではありませんでした」

 レイブンとエリシアが同時に表情を硬くする。

「どういう意味?」

「向こうには、まだいます」

 ルナの通信も静かになった。

「どれくらい?」

「分かりません」

 レイブンはそれ以上、数字を求めなかった。

 知らないものを無理に数えさせても意味はない。

「門は?」

「私たちが作ったものではありません」

 その言葉は、ティアから受け取った思念とも一致している。

「突然、世界の各地に現れました。最初は災いだと思いました。でも巨人が来た後、それしか逃げ道がなくなった」

「巨人は門を使える?」

「……はい」

 エリシアが門を見る。

「だから追ってきた」

「はい」

 レイブンは通信を切らず、Cipherへ情報を共有した。

「断定はまだしない。ただ、避難民側の証言では門は彼らの技術じゃない。巨人が門を越えられることは、今ここで確認済み」

『了解』

「アーシェたちは?」

 レイブンが改めて尋ねた。

 相手は少し俯いた。

「別の避難路へ向かいました。どこへ繋がったかは分かりません」

 生きている。

 だが、こちらへ来るとは限らない。

 レイブンはそれだけを受け止めた。

 ルナも同じだった。

『兄様』

「ああ」

『今は、ここに来た人たちを』

「分かってる」

 兄妹の答えは同じだった。

     ◇

 翌日になっても〈巨人〉は倒れなかった。

 黒い外殻は損傷している。

 赤紫色の光が走る箇所も減っている。

 それでも活動を続け、門周辺から離れようとしない。

 異界軍もまた戦闘を続けていた。

 奇妙なことに、互いの攻撃が重なるほど、戦い方には一定の秩序が生まれ始めていた。

 異界軍が巨人の注意を引けば、FENRIRと連邦軍が避難民を移す。

 こちらが圧力を加えれば、異界軍が負傷者を下げる。

 片方が攻撃を止めれば、もう片方も無理に前へ出ない。

 互いの言葉は分からない。

 だが、動きを見れば意図の一部は読めた。

 戦場で長く生きてきた者ほど、それを早く理解した。

 二日目の午後、レイブンが遮蔽物から顔を出した時、異界軍側の一人の指揮官と目が合った。

 以前なら迷わず敵として認識した距離だった。

 相手も武器を持っている。

 レイブンも《RAVEN》を持っている。

 だが、どちらも銃口を向けなかった。

 異界軍指揮官が巨人を指した。

 次に右側を示す。

 レイブンは少し考えた。

「右から動くってことか?」

 当然、返事はない。

 レイブンは自分を指し、左を示した。

 相手が頷いた。

 Houndが横から見ていた。

「通じた?」

「たぶん」

「間違ってたら?」

「その時は逃げる」

「雑だな」

「会話できないんだから仕方ないだろ」

 結果として、意図は合っていた。

 異界軍が右側から巨人へ圧力をかけ、WOLF PACKと連邦軍部隊が左側から動くことで、巨体を門の正面からずらすことに成功した。

 その隙に最後まで門付近へ取り残されていた避難民が後方へ移された。

 レイブンは撃ちながら思った。

 昨日まで敵だった。

 今も友軍ではない。

 それなのに、戦場ではこちらの意図が通じ始めている。

 それが妙に皮肉だった。

     ◇

 三日目。

 変化は言葉に現れた。

 避難民の中には、レイブンたちの世界の言語を多少理解する者が他にもいた。

 反対に、長時間の接触と思念伝達を通じて、Cipherや一部の通訳要員は異界側の言語に繰り返し現れる単語を拾い始めていた。

 最初に分かったのは単純な言葉だった。

 危険。

 下がれ。

 負傷。

 水。

 人。

 待て。

 そして、敵。

 異界軍側も同じだった。

 こちらが繰り返す「下がれ」「撃つな」「避難」「負傷者」といった言葉を覚え始める。

 最初の直接的なやり取りは、戦闘の最中に起きた。

 巨人が異界軍側へ腕を振り下ろそうとした時だった。

「右! 下がれ!」

 レイブンが叫ぶ。

 通じるとは思っていなかった。

 ところが異界軍指揮官がこちらを見た。

 一瞬遅れて意味を理解したらしく、周囲へ何かを叫ぶ。

 部隊が動いた。

 巨人の腕が空を切り、地面を叩く。

 異界軍指揮官が立ち上がる。

 今度は彼がこちらの言葉で叫んだ。

「……感謝する!」

 発音はひどかった。

 Houndが目を丸くした。

「今、ありがとうって言った?」

「感謝する、だな」

「そこ訂正する?」

「大事だろ」

 Houndが笑った。

「じゃあ後で文法教えてやれよ、教官」

「生き残ったらな」

 数分後、その異界軍指揮官が自分たちの言葉で何かを叫びながら左を指した。

 レイブンには一語だけ聞き取れた。

「……左?」

「お前も分かるのかよ」

「たぶん!」

 直後、巨人の身体が旋回した。

「伏せろ!」

 今度はWOLF PACKが異界軍の警告に助けられた。

 敵同士だった二つの軍は、ようやく互いの言葉を少しずつ拾い始めていた。

     ◇

 四日目の朝、東部戦線から避難民の姿がほとんど消えた。

 門そのものは開いている。

 しかし大規模な流入は止まった。

 こちら側へ到達できる者の多くがすでに逃げ終えたのか、それとも向こう側で別の事態が起きているのかは分からない。

 その代わり、〈巨人〉だけが残った。

 傷だらけになりながらも、まだ倒れない。

 FENRIRにも負傷者が出ていた。

 異界軍側にも倒れた兵士がいる。

 連邦軍も帝国軍も消耗している。

 それでも、奇妙なことに互いへ武器を向けようとする者はほとんどいなくなっていた。

 目の前に、もっと明確な敵がいる。

 数日間、互いに背中を撃たなかった。

 互いの警告で命を救われた者までいる。

 その事実は、命令書より強く兵士たちの感覚を変えていた。

 レイブンはそれを美談にはしなかった。

 戦争で死んだ者は戻らない。

 異界軍が連邦共和国へ侵攻した事実も消えない。

 こちらが異界軍兵士を殺した事実も同じだ。

 数日間の共同戦闘で全てを水に流せるほど、戦争は軽くない。

 だが、だからといって目の前で成立した現実まで否定する必要もなかった。

「NoX」

 異界軍側から声がした。

 レイブンが振り向く。

 あの指揮官だった。

 数日前より、こちらの発音が上手くなっている。

「ノックス」

「聞こえてる」

 相手は自分の胸を指した。

「ゲルハルト」

 レイブンの表情が僅かに変わった。

 目の前の男が、これまで断片的に報告されてきた名と同一人物なのか、まだ確認できない。

 だからレイブンはそこを勝手に繋げなかった。

「ゲルハルト」

 男が頷く。

「巨人……今日、倒す」

「随分急だな」

「分かる……少し」

「俺の言葉?」

「少し」

「俺もそっちは少しだ」

 ゲルハルトが笑った。

 敵の指揮官と笑い合う日が来るとは思っていなかった。

 Houndが少し離れた場所からその光景を見ている。

「NoX、友達作るの早くない?」

「違う」

「聞こえる」

 ゲルハルトがこちらの言葉で言った。

 Houndが口を閉じた。

「……理解速度まで速いな」

 レイブンは思わず笑った。

     ◇

 その日の午後。

 〈巨人〉との最後の戦闘が始まった。

 作戦会議らしい作戦会議は存在しなかった。

 双方の言語理解はまだ不完全で、複雑な計画を共有できる段階ではない。

 それでも数日間戦ったことで、互いの癖は分かり始めていた。

 異界軍が魔法で巨人の動きを鈍らせる。

 連邦軍と帝国軍が側面から圧力を加える。

 WOLF PACKは巨人の注意と避難路、味方の射線を見ながら動く。

 EINHERJARは負傷者を回収し、崩れかけた線を繋ぐ。

 後方ではIDUNNが双方を区別せず、運び込まれた重傷者から処置を始めていた。

 最初は異界軍兵士を受け入れることに戸惑った者もいた。

 しかしエリシアは一言だけ告げた。

「今ここへ運ばれてきた負傷者は、治療する」

 それで十分だった。

 巨人が咆哮する。

 四日間の損傷によって黒い外殻は各所で割れ、その下から赤紫色の光が漏れている。

 レイブンは《RAVEN》を構えながら、残弾と味方位置を意識する。

 撃ち続ければ勝てる相手ではない。

 数日間でそれは嫌というほど分かっている。

 巨人がこちらへ踏み込む。

 レイブンの〔殺気看破(アタック・シールド)〕が警告するより僅かに早く、異界軍側から声が飛んだ。

「NoX! 右!」

 ゲルハルトだった。

 レイブンは身体をずらす。

 巨人の腕が、先ほどまで立っていた場所を抉った。

 砕けた石と泥が背中へ当たる。

「助かった!」

「今度……返せ!」

「要求するのかよ!」

 Houndが笑いながら遮蔽物へ滑り込む。

「仲良しじゃねえか!」

「戦闘中だぞ!」

「だから言ってんだよ!」

 巨人が再び身体を起こす。

 その胸部で赤紫色の光が強く明滅した。

 Hawkから通信が飛ぶ。

『NoX、同じ場所だ! 昨日から外殻の閉じ方が遅い!』

「見えてる」

 レイブンは狙いを変えた。

 破壊できると断定したわけではない。

 だが数日間、双方が積み重ねた損傷がそこへ集中している。

「ゲルハルト!」

 レイブンが胸を指し、次に巨人を指す。

「中央!」

 ゲルハルトが意味を理解した。

 異界軍側へ叫ぶ。

 複数の魔法が巨人の足元へ集中し、巨体の姿勢が僅かに崩れる。

「Grizzly!」

「待ってた!」

 WOLF PACKが動く。

 連邦軍も帝国軍も、それに合わせる。

 銃声と魔法の炸裂音が重なり、地面から巻き上がった粉塵が戦場を覆った。耳鳴りの中でレイブンの猫耳は味方の声を拾い、《RAVEN》の作動音と反動を身体で受け止めながら、崩れていく外殻の向こうへ視線を固定する。

 巨人が腕を振り上げた。

 まだ動く。

「来るぞ!」

 ゲルハルトの声。

「分かってる!」

 今度はレイブンが叫んだ。

「左へ下がれ!」

 異界軍が動く。

 巨人の攻撃が空を切る。

 その瞬間、完全に射線が開いた。

「今だ!」

 どちらの軍が最初に叫んだのか、もう分からなかった。

 火器。

 魔法。

 異なる世界で生まれた武器。

 異なる軍事思想。

 異なる言語。

 数日前まで互いを殺すために使っていた力が、一つの方向へ集中する。

 巨人の胸部に走っていた赤紫色の光が乱れた。

 巨体が一歩下がる。

 さらに一歩。

 それでも倒れようとしない。

 レイブンは引金を引き続けることだけを考えなかった。

 周囲を見る。

 味方。

 異界軍。

 負傷者。

 退路。

 残弾。

 巨人の姿勢。

 そして門。

「撃ちすぎるな!」

 WOLF PACKへ声を飛ばす。

「倒れる!」

 巨人の上体が傾いた。

 異界軍側からも退避を告げる声が上がる。

 双方が射撃を止め、離れる。

 巨大な黒い身体が地面へ崩れ落ちた。

 轟音が東部戦線を揺らした。

 泥と粉塵が空へ舞い上がり、しばらく何も見えなくなる。

 誰もすぐには歓声を上げなかった。

 レイブンは《RAVEN》を構えたまま待つ。

 Houndも。

 ゲルハルトも。

 異界軍も。

 連邦軍も。

 帝国軍も。

 巨人は動かない。

 赤紫色の光が徐々に弱くなる。

 やがて完全に消えた。

 Hawkの声が通信に入る。

『動きなし』

「まだ近づくな」

 レイブンは慎重に答えた。

 数分。

 さらに待つ。

 それでも動かなかった。

 ようやくレイブンは銃口を下げた。

 向こう側では、ゲルハルトも同じように武器を下げていた。

 互いの視線が合う。

 その間には、倒れた〈巨人〉がいる。

 ゲルハルトが何か言おうとした。

 しかし言葉が見つからなかったらしい。

 レイブンも同じだった。

 勝った。

 そう言えばいいのかもしれない。

 だが、誰が誰に勝ったのか分からない。

 だから結局、どちらも何も言わなかった。

     ◇

 その日の夕方、東部戦線から銃声が消えた。

 門はまだ残っている。

 異界軍もいる。

 連邦共和国軍も帝国軍もFENRIRも、武装したまま互いの位置を維持している。

 それでも誰も最初の一発を撃とうとはしなかった。

 撃てなかったのではない。

 撃つ理由を、数日前までと同じようには感じられなくなっていた。

 四日間。

 互いの警告で命を救われた。

 同じ避難民を守った。

 同じ怪物から負傷者を運んだ。

 言葉を覚えた。

 名前まで知った。

 そして最後には、同じ敵を倒した。

 その直後に「では戦争を再開しよう」と武器を向け直せるほど、人間も亜人も単純ではなかった。

 最初に動いたのは異界軍だった。

 ゲルハルトが一人で前へ出た。

 武器は持っている。

 しかし銃口は地面へ向いている。

 連邦軍側に緊張が走ったが、レイブンは手で制した。

 自分も前へ出る。

 二人の距離が縮まる。

 まだ完全な会話はできない。

 ゲルハルトが慎重に言葉を選んだ。

「NoX」

「ああ」

「今日……もう、戦わない」

 レイブンは少しだけ眉を上げた。

「巨人と?」

 ゲルハルトが首を横へ振った。

「あなたたち、と」

 周囲が静かになる。

 レイブンはすぐに答えなかった。

 自分には第二次異界大戦そのものを終わらせる権限はない。

 ゲルハルトにも、全異界軍を代表できる権限があるのか分からない。

 だから安易に「終戦だ」とは言えない。

「俺も、今日は撃つ気はない」

 ゲルハルトはその言葉を理解しようとした。

「今日?」

「明日のことを、俺一人では決められない」

 レイブンは自分を指し、それから後方にいる連邦軍と帝国軍を示す。

「俺は全部の軍の王様じゃない」

 ゲルハルトはしばらく考えた。

 やがて意味が通じたらしい。

「私も……王ではない」

「だろうな」

「だが、伝える」

「俺も伝える」

 ゲルハルトが手を差し出そうとして、一度止めた。

 数日前まで敵だった。

 その躊躇をレイブンは理解した。

 だから自分から握手を求めることもしなかった。

 代わりに小さく頷く。

 ゲルハルトも頷いた。

 それだけだった。

 しかし、その日の東部戦線では、それで十分だった。

     ◇

 翌朝になっても、銃声は戻らなかった。

 正午になっても戻らない。

 異界軍は陣地を維持している。

 こちらも維持している。

 だが前線の中央では、双方の連絡要員が距離を取りながら情報交換を始めていた。

 最初に話し合われたのは領土ではなかった。

 捕虜でも賠償でもない。

 門だった。

 残っている避難民。

 負傷者。

 行方不明者。

 巨人の死骸。

 そして海と空で起きている異常。

 海上でも変化があった。

 KRAKENと異界軍艦隊は、門から海へ落ちた避難民をそれぞれ救助した後、再び距離を取った。

 しかし砲撃は再開されなかった。

 エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕は、敵艦隊が射撃してこないことを確認しても追撃を命じなかった。

「撃ってこないなら、今日は海を静かにしておこう」

 それが彼の判断だった。

 空でもSKY LANCERと異界軍航空戦力の間に同じ沈黙が生まれた。

 アメリア・ローゼン〔Artemis〕は警戒を解かなかったが、相手が救助活動を続けている間に攻撃することもなかった。

 後方海域では、ルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕が第一航路の監視を続けていた。

 海底物体の反応は、巨人が倒された後から少しずつ弱まっている。

 関連があるのかは分からない。

 だからルナはそれを「巨人を倒したから停止した」とは報告しなかった。

 ただ、時系列として記録した。

「兄様」

 夜になってから、ルナはレイブンへ通信した。

『そっちは?』

「静かだ」

『こちらもです』

「怖いくらいにな」

『平和って、最初はそう感じるものなのかもしれませんね』

「まだ平和じゃない」

『分かってます』

 レイブンは前線の外へ目を向けた。

 異界軍陣地にも灯りがある。

 こちらにもある。

 その間には、倒れた巨人の巨大な輪郭が暗闇に沈んでいる。

『兄様』

「ん?」

『アーシェたち、見つかるでしょうか』

 レイブンはすぐには答えなかった。

「分からない」

『はい』

「でも、門はまだある」

『はい』

「なら探す方法はある」

 ルナの声が少し柔らかくなった。

『帰ってきますかね』

「帰りたがってるなら、帰れる道を探す」

『私たちらしいですね』

「お前が始めたんだろ。帰りたい人を帰せる人になるって」

『覚えてたんですか』

「兄だからな」

 ルナが小さく笑った。

     ◇

 それから数日、東部戦線で大規模な戦闘は発生しなかった。

 最初は現場だけの暗黙の休戦だった。

 やがて双方の上級司令部へ報告が届く。

 異界軍側でも、連邦共和国側でも、帝国側でも、すぐに答えは出なかった。

 長すぎる戦争だった。

 失ったものが多すぎた。

 一度の共同戦闘だけで全てを許せるわけではない。

 それでも、戦い続ける理由を問い直すには十分だった。

 連邦共和国はすでに国土を回復している。

 異界軍もまた、東部から戦力を退かせていた。

 そして新たに開いた門は、これまでの敵味方という区分だけでは扱えない問題を持ち込んだ。

 避難民がいる。

 別世界がある。

 〈巨人〉が一体だけとは限らない。

 海底には門と似た反応を示す未知の物体が残っている。

 紫空の世界との繋がりも完全には解明されていない。

 互いを撃ち続けている間に、それら全てへ対処することは難しい。

 前線で始まった沈黙は、少しずつ後方へ伝わった。

 最初は数時間。

 次に一日。

 やがて数日。

 正式な終戦ではない。

 それでも第二次異界大戦は、確実に停戦と終戦協議へ向かう流れへ入り始めていた。

     ◇

 ある夕方、レイブンとエリシアは東部戦線の小高い丘に立っていた。

 空は久しぶりに晴れていた。

 紫色の門は遠くに残っている。

 以前より安定しているようにも見えるが、それが安全を意味するとは誰も考えていない。

 その手前では、異界軍兵士と連邦軍兵士が互いに距離を保ちながら巨人の死骸を調査していた。

 まだ肩を並べてはいない。

 だが撃ち合ってもいない。

「変な景色ね」

 エリシアが言った。

「ああ」

「少し前まで、あそこにいる人たちをどう押し返すか考えてたのに」

「向こうも同じだろうな」

 エリシアはレイブンの横顔を見る。

「終わると思う?」

 レイブンは答える前に少し考えた。

「終わらせる話は、できるようになったと思う」

「それだけ?」

「それが一番難しかった」

 エリシアは小さく笑った。

「あなたらしい答え」

「何て言えば満足なんだよ」

「『戦争は終わる』って格好よく言うとか」

「言った直後に撃たれたら恥ずかしいだろ」

「そこなの?」

「大事だぞ」

 二人の間に静かな笑いが生まれる。

 その時、後ろからHoundが歩いてきた。

「NoX」

「何?」

「連邦軍司令部から。異界軍側との正式な現地停戦協議、準備に入るってさ」

 レイブンは振り向いた。

「決まった?」

「まだ準備。正式決定は上がやる。ただ、向こうも応じる意思を示したらしい」

 エリシアが静かに息を吐く。

「そう」

 レイブンは再び東を見る。

 長かった。

 第一次異界大戦が終わっても、門は消えなかった。

 国と国の対立が残り、別の門が開き、第二次異界大戦が始まった。

 連邦共和国は国土の大半を失い、HOMECOMINGによって一つずつ取り戻した。

 ベルガで門が開き、自分とルナは別世界へ飛ばされた。

 帰ってきた時には、自分たちの身体まで変わっていた。

 そして今。

 戦争を終わらせるきっかけになったのは、敵を完全に打ち倒したことではない。

 同じ敵を見たことだった。

「NoX?」

 Houndが呼ぶ。

「聞いてる」

「また難しい顔してたぞ」

「考えてただけ」

「珍しい」

「お前、終戦しても訓練だけは続けるからな」

「まだ終戦してないのに戦後の嫌がらせ決めるなよ」

 エリシアが笑う。

 その笑い声の向こうから、別の声が聞こえた。

「NoX!」

 異界軍側だった。

 ゲルハルトが少し離れた場所からこちらを見ている。

 まだ発音は硬い。

 それでも数日前より明らかにこちらの言葉へ慣れていた。

「明日!」

「何?」

「話す!」

 ゲルハルトは自分たちとレイブンたちを交互に指し、それから武器を地面へ向けた。

「戦わないため!」

 レイブンはしばらく相手を見た。

 それから右手を上げた。

「分かった!」

 ゲルハルトも手を上げる。

 握手ではない。

 まだそこまで近づいてはいない。

 だが、それでよかった。

 戦争は、一瞬で平和へ変わるものではない。

 撃たない一時間を積み重ね、その一時間が一日になり、一日が数日になり、その間に初めて相手の言葉を覚える。

 名前を知る。

 負傷者を返す。

 避難民を守る。

 そしてようやく、武器ではなく言葉で次の日を決めようとする。

 レイブンは西の空へ沈み始めた夕日を見た。

 その光の下では、BIFROSTの車列が避難民を後方へ運び、IDUNNの救護拠点では異なる世界から来た者たちが治療を受けている。遠い海ではKRAKENが砲撃を止めた敵艦隊と距離を保ち、さらに高い空ではSKY LANCERが戦闘ではなく警戒のために飛び続けている。ルナとSTYXは、まだ閉じたままの航路と海底の未知を見張っていた。

 何も解決していない。

 門の正体も。

 巨人の起源も。

 避難民たちが来た世界の運命も。

 アーシェやセイルがどこへ向かったのかも。

 レイブン、エリシア、ルナがなぜ不老不死となったのかも。

 それでも、一つだけ変わった。

 東部戦線では、もう異界軍へ向けて銃声が響いていなかった。

 エリシアがそっとレイブンの手を取る。

「帰る?」

 レイブンは彼女の手を握り返した。

「ああ」

「明日また来るのに?」

「だから帰るんだろ」

 エリシアが微笑む。

 Houndが後ろから声を上げた。

「俺たちも帰っていいんだよな、教官?」

「帰れ。飯食って寝ろ」

「やっと人間らしい命令が出た」

「猫系亜人からな」

「細かいな」

 三人は丘を下り始めた。

 背後には、敵だった者たちがいる。

 前には帰還線が続いている。

 そのさらに先には、第二次異界大戦の終わりを話し合うための明日が待っていた。

 レイブンは一度だけ振り返った。

 紫色の門の向こうには、まだ知らない世界がある。

 これまで門は、戦争を運んできた。

 人を奪い、国境を壊し、異なる世界を戦場として繋いできた。

 けれど今回、その門を越えてきたのは軍隊だけではなかった。

 助けを求める人々が来た。

 そして、その人々を守ろうとしたことで、長く敵対してきた二つの軍が初めて同じ方向を見た。

 門が戦争を始めるものだと決まっているわけではない。

 ならば、その向こうへ何を繋ぐのかは、これから決めればいい。

「NoX?」

 先を歩くHoundが振り返る。

「今行く」

 レイブンは東へ背を向けた。

 第二次異界大戦は、まだ正式には終わっていない。

 それでも、戦場はすでに終戦へ向けて動き始めていた。

 そしてFENRIRにとって次に必要になるのは、敵陣を突破するための道ではない。

 異なる国、異なる軍、そして異なる世界の間に、それでも誰かが帰ってこられる道を残すことだった。

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