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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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119/189

Season 6「門の彼方へ」  #119

第119話「逃げてきた世界」

 門を越えてきた最初の避難民がSageたちの手によって後方へ運ばれてから、十分も経たないうちに、東部戦線の意味は完全に変わっていた。

 紫色の境界から現れる者たちは途切れなかった。

 老人の腕を左右から支える若者がいた。泥と血に汚れた布で幼い子供を胸へ抱き寄せた母親らしき人物がいた。片脚を負傷した者を背負いながら、それでも門の向こうを何度も振り返る者もいる。彼らの頭部には獣の耳を持つ者もいれば、人間種とほとんど変わらない者もおり、衣服も身体的特徴も統一されていなかった。

 少なくとも、一つの軍隊ではない。

 レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕はISG-42A3《RAVEN》を胸元で保持したまま、金色と黒のオッドアイで流れ込んでくる人々を見続けていた。

 引金へ指を急がせることはない。

 しかし武器を下ろし切ることもしない。

 門の向こうには、まだ黒い巨大な影がいる。

「Sage、最初の一人は?」

『外傷あり。衰弱もひどい。ただ、今すぐ生命に関わる状態ではなさそう』

「会話は?」

『音声言語はまだ無理。こっちの言葉を理解してる様子もない』

「思念伝達は?」

『反応はある。でも安定しない。本人が混乱しすぎてる』

 レイブンは門から現れた別の避難民へ視線を移した。

 その人物もこちら側へ到達した瞬間、膝から崩れ落ちている。

 エリシア・L・クロウ〔Valkyrie〕が率いるEINHERJARは、すでに戦闘部隊というより避難誘導部隊として動き始めていた。

「立ち止まらせないで!」

 エリシアの声が前線を通る。

「救護が必要な人は右側へ。それ以外は誘導員について後方へ移動させる。言葉が通じなくても指差しと動作で分かることはあるわ。怖がらせないように武器の向きにも気をつけて!」

 EINHERJARの隊員たちが応じる。

 そのさらに後方ではIDUNNが臨時救護区域を拡張し、BIFROSTが人員輸送に使える車両を集め始めていた。

 先ほどまで敵を迎え撃つために構築していた防衛線が、その形を保ったまま避難路へ変わっていく。

 レイブンはその光景を見てから通信を開いた。

「Cipher、流入人数は?」

『まだ正確じゃない。現在確認できてるだけで百を越えた。門の向こうにはもっといる』

「後方は受けられる?」

『今なら。ただ、この勢いが続いたら詰まる』

「DVERGRに通路拡張を頼め。BIFROSTは車両を回す。IDUNNには重傷者優先で」

『了解』

「それと連邦軍と帝国軍にも伝えてくれ。前線を下げるんじゃない。人を後ろへ流すために、今の位置を維持する」

『了解』

 通信を切ったところでHoundが横へ来た。

「NoX」

「何?」

「あっちも動いてる」

 レイブンが視線を向けた先には、異界軍の陣地がある。

 彼らも門から距離を取っている。

 しかし逃走しているわけではなかった。

 隊形を保ち、武器を門の方向へ向けている。

 そして不思議なことに、こちらへ銃火も魔法も飛んでこない。

「停戦した覚えはないんだけどな」

 Houndが呟く。

「向こうもないだろ」

「じゃあ何だ?」

「今だけ、撃ち合ってる場合じゃないってことかもしれない」

「信用する?」

「しない」

 レイブンは即答した。

「でも、撃ってこない相手をこっちから撃つ理由もない」

 その時だった。

 門の向こうから、再び低い音が響いた。

 空気ではなく地面を通して伝わってくるような振動に、レイブンの黒い猫耳が伏せられる。避難民たちは一斉に怯え、中にはその場へしゃがみ込む者までいた。

 門の向こうにいた黒い影が動いた。

 遠かった輪郭が、少しずつ大きくなる。

「Hawk」

『見てる』

「分かる?」

『生物っぽい。でも距離感がおかしい。門の向こうの地形が分からないから大きさも出せない』

「それでいい」

 レイブンは推測を事実に変えなかった。

「Lynx、左右を見てくれ。避難民に紛れて武装した奴が入ってないかだけ確認」

『了解。全員を敵扱いはしない』

「頼む」

 WOLF PACKが静かに役割を分けていく。

 Grizzlyは避難路と防衛線の間を見ながら、必要以上に前へ出ない。Hawkは遠距離から門の動きを監視し、Lynxは流入する人々の中に明確な脅威がないかを確認する。Houndはレイブンの近くで前線そのものを見ていた。

 NoX一人で全てを見る必要はない。

 それぞれが見たものを持ち寄ればいい。

 そのためのWOLF PACKだった。

     ◇

 最初の避難民との意思疎通が成立したのは、それから三十分ほど後だった。

 言語そのものを理解できたわけではない。

 Sageが落ち着かせ、エリシアが刺激を減らした環境を作り、Cipherが思念伝達に現れる反応を記録した結果、断片的な映像と感情を相互にやり取りできるようになったにすぎない。

 レイブンは救護区域へ入る前に《RAVEN》を背へ回した。

 武器を捨てるつもりはない。

 だが、銃口を負傷者へ向けたまま話を聞くつもりもなかった。

「NoX」

 Sageが小さく呼ぶ。

「無理はさせないで」

「分かってる」

「本当に?」

「お前まで疑うの?」

「教官時代のあなたを知ってるから」

「今日はそればっかりだな……」

 Sageは小さく笑ったが、すぐ患者へ意識を戻した。

 門から最初に現れた人物は毛布を肩へ掛けられ、水を少しずつ口にしている。

 近くで見ると若かった。

 レイブンより外見上は若く見える。

 性別もこちらの感覚だけで即断しにくい種族だった。

 頭部から伸びる長い耳は後方へ寝かされ、瞳孔が大きく開いている。

 レイブンは少し距離を取って座った。

「俺はレイブン」

 胸元を軽く指す。

「レイブン」

 相手は意味が分からないようだった。

 レイブンはもう一度自分を示した。

「レイブン」

 今度は反応があった。

 避難民が震える声で、似た音を返す。

「……レ……ヴァン」

「近い」

 Sageが横から呟く。

「そこ評価するところ?」

「緊張を解そうかと」

 避難民が二人を交互に見る。

 敵意はない。

 少なくとも〔殺気看破(アタック・シールド)〕には、攻撃へ結びつく明確な意思は感じられなかった。

 レイブンは自分の胸を指し、次に相手を指した。

 意味は通じたらしい。

 避難民は自分の胸へ手を当てる。

「……ティア」

「ティア?」

 相手が頷く。

 それが個人名なのか、別の意味なのかはまだ分からない。

 レイブンは勝手に確定しなかった。

「ティア」

 呼びかけると、相手はもう一度頷いた。

 そこから先は言葉ではなく、思念だった。

 レイブンは自分から無理に相手の意識へ入り込もうとはしない。

 この技術は読心ではない。

 向こうが意図して送り出したものを受け取る。

 紫空の世界で学んだ最低限の原則だった。

 ティアが目を閉じる。

 途端に、レイブンの意識へ景色が流れ込んだ。

 青い空。

 広い草原。

 巨大な都市。

 石造建築と、金属らしき構造物が混在している。

 水路。

 市場。

 笑っている人々。

 そこで映像が乱れた。

 空が暗くなる。

 遠方で巨大な何かが落ちる。

 都市を囲んでいた構造物が砕け、人々が走り出す。

 レイブンは無意識に拳を握った。

 次に見えたのは門だった。

 一つではない。

 街の各所に、不安定な光が現れている。

 人々がそこへ向かって逃げる。

 だが、どこへ繋がっているのか誰にも分からない。

 それでも残れば死ぬ。

 だから飛び込む。

 ティアの呼吸が荒くなった。

「止めよう」

 Sageが言う。

 レイブンは頷いた。

「もういい」

 意味が通じなくても声の調子は伝わったらしい。

 ティアが目を開ける。

 涙が流れていた。

「……門は避難用に作ったんじゃない」

 レイブンが呟く。

 Cipherが記録を確認する。

「そう見える。少なくともティアが知る範囲では、突然出現した可能性が高い」

「向こうの黒い奴は?」

「そこまではまだ」

 レイブンはティアを見た。

 聞きたい。

 だが、今ここで無理に聞けば壊れる。

「休ませよう」

 Sageが少し意外そうに彼を見る。

「何?」

「いや、教官時代ならもう一回聞いてたかなって」

「俺、どれだけ酷かったんだよ」

「かなり」

「帰ったら全員訓練な」

「そういうところ」

 ティアには会話の意味が分からない。

 それでも二人の空気が少し緩んだことだけは感じ取ったのか、強張っていた長い耳が僅かに起きた。

     ◇

 一方、海上の門では状況がさらに進んでいた。

「影、接近しています」

 KRAKEN旗艦の艦橋で報告が飛ぶ。

 エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕は双眼鏡越しに紫色の境界を見続けていた。

 巨大な影は、先ほどより明瞭になっている。

 だが船ではなかった。

「……生き物か?」

「可能性があります」

「でかいな」

 それ以上の評価はしない。

 距離も向こう側の地形も分からない以上、見た目だけで寸法を決める意味はない。

 その時、海面に別の変化が起きた。

 紫色の門から何かが飛び出した。

「接触警戒!」

 KRAKEN各艦が反応する。

 しかしエリックは即座に攻撃命令を出さなかった。

「待て。撃つな」

 門から現れたものは海へ落ちた。

 一つ。

 続いてもう一つ。

 さらに複数。

 艦橋の観測員が倍率を上げる。

「人です!」

「何?」

「人型生物多数、海面に落下!」

 エリックの表情が変わった。

 彼らは泳ごうとしている。

 だが波に呑まれる者もいる。

 門が海面から少し高い位置に形成されているため、通過した瞬間に海へ投げ出されているらしい。

「救難配置」

「敵艦隊が正面にいます!」

「見えてる」

 エリックは敵艦隊を確認した。

 異界軍も撃ってこない。

 それどころか、向こうの一部艦艇でも動きがある。

「……あいつらも拾う気か?」

 救助艇らしきものが敵側から動き始めていた。

 参謀がエリックを見る。

「どうします?」

「こっちはこっちで拾う」

「接触の可能性があります」

「分かってる。だから撃たれるまでは撃つな」

 敵味方の艦艇が同じ海域へ向かう。

 目的は互いを沈めることではない。

 門から海へ落ちた人々を拾うためだった。

「何なんだよ、この戦争は」

 エリックが呟く。

 誰も答えなかった。

     ◇

 空でも同じことが起きていた。

 紫色の渦から、青白い四翼の生物が再び現れる。

 今度は一体ではない。

 複数だった。

 その間に、小型の飛行生物らしき姿も混じっている。

 アメリア・ローゼン〔Artemis〕は機体を不用意に近づけず、SKY LANCERへ警戒を維持させた。

『Artemis、異界軍航空群が動きます』

「方向は?」

『門』

「攻撃?」

『判別中』

 異界軍の飛行魔獣が近づく。

 だが、青白い生物へ襲いかかることはなかった。

 その一体が高度を失った。

 四枚の翼のうち一枚が傷ついている。

 落下する。

「……助ける気?」

 異界軍側の大型飛行魔獣が、その下へ回り込んだ。

 落ちてきた生物を背で受け止める。

 アメリアはその光景を見て、息を吐いた。

「少なくとも今は、あいつらも同じこと考えてるらしいわね」

『敵なのに?』

「昨日まで敵だったからって、今日目の前で落ちる奴を必ず見殺しにしなきゃならない規則なんてないでしょ」

 アメリアはSKY LANCERへ命じた。

「救難優先。ただし異界軍側へ近づきすぎない。向こうの救助区域は向こうに任せる。こっちはこっちで落ちてくるものを拾う」

 空の戦線にも、奇妙な境界が生まれ始めていた。

 敵味方が協力しているわけではない。

 停戦協定もない。

 ただ互いに撃たず、それぞれの側で同じことをしている。

     ◇

 前線では避難民が三百人を越えた。

 レイブンはその数字を聞いた瞬間、門の前ではなく後方を見た。

「このままだと詰まる」

 エリシアも同じ判断だった。

「BIFROSTの第一便は出した。第二便も準備中。でもIDUNNの受け入れが先に限界へ来る」

「軽傷者と歩ける人を分けよう」

「もう始めてる」

「さすが」

「誰の妻だと思ってるの?」

「俺より優秀な人」

「よく分かってる」

 短いやり取りの間にも、避難民は増え続ける。

 その時、別の通信が入った。

『NoX、前方!』

 Hawkだった。

『門の奥の大型影が速くなった!』

 レイブンが振り向く。

 紫色の境界の向こう。

 逃げる人々の背後で、黒い影が動いている。

 先ほどまで遠かった輪郭が急速に大きくなる。

 避難民たちが一斉に騒ぎ始めた。

 思念伝達を使えない者からも恐怖が伝わるほどだった。

「全員、配置へ」

 レイブンの声が変わる。

 Houndがすぐ横へ入り、Grizzlyが射線を確認する。Lynxは避難民の流れを邪魔しない位置へ移り、Hawkは観測を続ける。

 Sageは戦闘線へ戻らなかった。

 彼女には負傷者がいる。

 それでいい。

「EINHERJARは避難継続」

 エリシアが頷く。

「WOLF PACKだけで受ける気?」

「連邦軍も帝国軍もいる」

「なら私たちもいる」

「避難民は?」

「私が全部撃つなんて言った?」

 エリシアは通信を開いた。

「EINHERJAR、救護と誘導を継続しながら前方警戒。避難路は止めない」

 レイブンは何も言わず、僅かに笑った。

「了解、Valkyrie」

「了解、NoX」

 紫色の門が激しく揺れた。

 黒い影の一部が境界へ触れる。

 初めて、その姿の一端が見えた。

 黒い外殻。

 地面を抉るほど太い肢。

 身体の各所を走る赤紫色の光。

 頭部らしき部分はまだ向こう側にある。

 避難民の一人が悲鳴を上げた。

 その恐怖に反応するように、レイブンの〔殺気看破(アタック・シールド)〕が鋭く警告を返す。

 今までの避難民とは違う。

 明確な攻撃性。

 こちらへ向けられている。

「……これは分かりやすいな」

 Houndが《RAVEN》の銃口の先を見る。

「敵?」

「少なくとも、あれは俺たちを攻撃する気だ」

 レイブンは呼吸を整えた。

 門の周囲では人々がまだ逃げている。

 無闇に撃てば避難民を巻き込む。

 だから待つ。

 撃てる瞬間まで。

 守れる位置で。

 黒い巨体がさらに境界を越える。

 地面が沈み、泥が跳ね上がった。

 異界軍側でも武器が一斉にその存在へ向けられる。

 レイブンはその動きを視界の端で確認した。

 昨日まで殺し合っていた相手。

 今日も味方になったわけではない。

 それでも今、銃口だけは同じ方向を向いている。

 門の向こうから重い咆哮が響いた。

 空気が震え、レイブンの猫耳へ痛いほどの圧力が届く。

 避難民が身を縮める。

 レイブンは瞬きを反射に任せず、訓練によって身につけた〔不転(ノー・ブリンク)〕で視界を維持しながら、巨体の動きと避難民の位置、味方の射線を重ねていく。

 今撃てば人がいる。

 まだだ。

 黒い巨体が一歩進む。

 避難民が左右へ流れる。

 射線が少しずつ開いていく。

「Hound」

「見えてる」

「Grizzly」

「いつでも」

「Hawk」

『門の左右、まだ避難民あり。中央は開き始めた』

「了解」

 レイブンは引金へ指を添えた。

 息を吐く。

 敵を倒すためではない。

 後ろへ走っている人々を帰すために撃つ。

 それは父ヴァルターから教えられ、第一次異界大戦から何度も繰り返してきた戦い方だった。

 黒い怪物が境界を完全に越えようと身体を押し出す。

 その瞬間、中央の避難路から最後の数人が転がるように離れた。

 Hawkの声が飛ぶ。

『中央、射線開いた!』

 レイブンの金色と黒のオッドアイが、巨大な影を捉える。

「WOLF PACK」

 彼の声は静かだった。

「接敵(コンタクト)」

 同じ瞬間、異界軍側からも戦闘開始を告げる声が上がった。

 昨日まで互いへ向いていた火器と魔法が、初めて同じ敵へ向けられる。

 停戦ではない。

 同盟でもない。

 ただ一つの門と、そこから逃げてきた人々を挟んで、二つの敵対勢力が同じ結論へ辿り着いただけだった。

 逃げてきた者たちを、ここで殺させない。

 紫色の門の前で、新たな戦闘が始まった。

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